04-22:○心に巣食う見えない枷[4]@
※挿入絵は過去に描いた古い絵を使用しています。小説内容と若干細部が異なります。
第四話:「涙の理由+」
section22「心に巣食う見えない枷」
(シルジーク)
「うあっ!!・・・っつ・・・。・・・おい!!・・・・・・。」
小さな身体の全体重を預けるように、目の前の金髪の少年へと身体を預けたセニフは、作業服の上から両手を後ろに回し、力の限りシルの身体を引き寄せる。
そして、シルの顔を見上げるでもなく、ほのかに汗ばんだ彼の胸元に顔を埋めて、懐かしく心地よい瞬間に再び相見える事を望んで、過ぎ去りし過去の日々を引き寄せようと、彼女は必死に両手に力を込めた。
セニフ・ソンロと言う一人の少女の居場所を求めて。
他の何処にも行き場所の無い少女の帰る家を求めて。
ようやく手にした心安らぐ、あの日々を求めて。
彼女は普段通りの自分を演じて見せる事で、自分に対するシルの態度が、嘗ての「彼」であることを求めたのだ。
着込んだパイロットスーツの装甲版により、全身で彼の温もりを感じる事はできなかったのだが、それでも久しぶりに漂う彼の匂いと、頬に当たる暖かさとが、じんわりとセニフの心の縁を指でなぞる。
このまま、一言も言葉を交わさないままでも良い。
閉じた瞳の奥底に、あの時の安らぎを思い浮かべて、包み込まれるような暖かさの中、ずっと眠ったままで居られたのなら・・・。
(セニフ)
「私さ・・・。」
(シルジーク)
「・・・・・・・・・ん?」
パイロットスーツの重さが加味されているからだろうか、普段よりも重たく感じるセニフの身体を抱きかかえながら、シルは彼女の発した小さな一言に、喉の奥ほどで軽く音を奏で出した。
いつもの彼であれば、この稚拙なセニフの抱きつき攻撃に、表立って表情を歪めて嫌悪感を示す所だが、もはや成す術のなかった彼にとっては、それは有難い救いの振る舞いだったのかもしれない。
場合によっては、彼女に完全無視を突き通される可能性が、無い訳では無なかったからである。
(ルワシー)
「おおおっ?なんだぁ。こんな人目につくところでお熱いこってまぁよ。今度は金髪の色男君に泣きついてかぁ。チビ餓鬼の癖になかなか隅に置けねぇじゃねぇか。ええ?」
そんな時、セニフの後ろから大きな身体を揺さぶるように、歩み寄ってきた一人の大男が、珍しいものを見るかのような眼差しで、二人にからかいの言葉を投げつけた。
そして、完全に無視を決め込んだセニフを他所に、面識のない金髪の少年の表情をマジマジと覗き込むと、しばし二人を交互に見やる様に視線を往復させた後、セニフの右肩を人差し指でチョイチョイと小突いて見せた。
(セニフ)
「・・・んんっ!・・・うるさいんだよデブ!あっちいけ!シッシッ!」
(ルワシー)
「うっほぉ。怖ぇ顔して睨み付けちゃってよ。ちったぁいつもの馬鹿さ加減が戻ってきたんじゃねぇのか?折角、生きて戻って来れたんだからよ。人生楽しく行こうぜ。なぁセニフ。」
俯いたままにして長い赤い髪の毛の隙間から睨み付けたセニフの視線に、ルワシーは少しばかり肩を窄めると、大きな顔に満面の笑みを浮かべた。
そして、去り際に馬鹿力を持ってして、シルの左肩を叩いた彼は、それ以上二人に絡むことなくあっさりと立ち去るのだ。
どうやら彼は彼で、セニフのことを気にかける一人なのだという事は、シルにもほのかに感じて取れたのだが、それならばもう少し気の利いた言葉の一つでもかけてやれないものなのかと、シルは少し不満そうな視線をその後姿にぶつけてやった。
しかし、彼が望むセニフとの会話を、意図もあっさりと実現して見せた大男の態度は、決して上辺に何かを着飾るようなものでもなく、極々自然に有り触れたものであり、どんな言葉から切り出すにしろ、最初からセニフが拒絶反応を見せるような言葉を、選ぶ事など出来ようはずもないシルは、彼に習って当たり障りのない言葉から投げかけてみる事にした。
(シルジーク)
「そういやセニフ。お前さ。バスターマンティスのスタンボム食らったんだろ?身体の方は大丈夫なのか?」
(セニフ)
「え・・・?あ・・・。・・・うん。大丈夫。・・・うん。なんとも無いよ。ちょっと髪の毛がガビガビになっちゃったけどね。」
(シルジーク)
「俺も聞いた話でしか知らないけど、そんなバケモノ相手に良く無事に帰って来れたもんだ。大丈夫だと言っても、変な後遺症が残る事もあるらしいから、一応直ぐに精密検査受けに行けよ。」
(セニフ)
「うん。ありがと。」
(シルジーク)
「トゥマルクは乗った感じどうだった?かなり前評判悪い機体だっただろあれ。」
(セニフ)
「う〜ん・・・。そんなに酷いって感じはしなかったかな。リベツーなんかより機体軽いし、旋回性も加速性も悪くはないよ。ただちょっと、火器使用後の反動耐性が弱いのが難点かな。重装だとやっぱ、振り回されるかも。」
(シルジーク)
「そっか。本当は記録したデータを参考に、セニフ用にパーソナルデータ調整したかったんだけどな。ほら、お前の設定ってかなり特殊だしさ。」
(セニフ)
「私の機体・・・。真っ黒焦げで放置してきちゃったしね・・・。」
(シルジーク)
「贅沢言うな。死んで帰ってこれなかった人だって大勢居るんだ。身一つでも生きて帰ってこれ事に感謝しないとな。」
(セニフ)
「・・・そだね。」
シルの腰へと巻きつけた両手をスルリと振りほどき、少しだけ距離を置いたセニフとの間で、ありきたりな言葉のやり取りがなされる。
それは、それまで必死に悩んできた自分が阿呆らしくなるほど、スムーズな会話の流れであり、今までに二人が交わしてきた、普段通りの日常会話と大差ないものだったのだが、シルはどこか心の奥に眠る異様な違和感を拭いきれないでいた。
抱く思いを大きな風呂敷で覆い隠したままに、自分の内面を押し殺してやり取りされる上辺だけの関係。
その場を楽にやり過ごすためだけに押し出された、友好的感情を相手の目の前に差し出して、表層上の痛んだ傷を舐め合うだけの、実り無い他人行儀な友情の証。
仲間である彼女の為に、必死になって自分に出来る事を見出そうと思案した結果がこの様か・・・。
(セニフ)
「シルはお仕事これからなんだよね。夜遅くまでかかるのかな。頑張ってね。シル。」
(シルジーク)
「ん・・・?・・・ああ。」
実際に彼がその会話の中で、安堵感に浸ることが出来たのは、ほんの最初の出足部分だけであり、もはや流れ去った過去の時間を取り戻す事など不可能である状況下で、彼は否が応にも前へ進まなければならなかったのである。
勿論、抱きつく事で昔通りの上辺だけの関係を求めたセニフの行為を、頭ごなしに否定するつもりは無い。
彼女自身、絶対に表に出したくない思いを胸に、何とかしてお互いの拗れた関係を改善しようと、必死の思いで試みた結果なのだと言う事は、シルにも解っていた。
しかし彼は、そんな彼女の思いを察しながらも、彼女の為に何もしてやれない自分自身が嫌だったのだ。
そして、彼女がどれだけ重大な過去を背負っているのだとしても、どれだけ自分達が役に立たないチンケな人間なのだと解っていても、仲間として彼女に苦しみを打ち明けて欲しかったのである。
確かに解決へと漕ぎ着ける良き案を示してやる事は出来ないかもしれない。
結局、ありきたりな慰めの言葉をかけてやる事しか出来ないのかもしれない。
でも、それでも。悩みや辛さの一部さえも打ち明けらない関係の中に、どの面下げて仲間などと嘯く事が出来ようものか。
俺達は赤の他人じゃない。2年間もの間、一緒に過ごして来た仲間達だ。
他に帰る場所も無く、頼れる人間も居ない自分達が、唯一仲間と呼ぶ事の出来る人間達なのだ。
俺も。セニフも。アリミアも。ジャネットも。サフォークも。そしてマリオも。
皆仲間のはずだろう?
(セニフ)
「・・・・・・シル。・・・。」
その後二人の間に訪れた長い沈黙の時は、何も突然に彼らに襲い掛かったわけではない。
寧ろ、訪れるべくして訪れた、本当の思いが滲み出した気まずい瞬間の始まりでもあった。
視線を逸らしたまま、黙り込んでしまったシルの雰囲気に、セニフもやがて、落ち込んだ様子で表情を歪めてしまう。
やっぱり・・・。そんなに都合のいい話なんて・・・。無いよね・・・。
左手で顔の半分を覆い、小さく息を吐き出したセニフもまた、シルの思いを理解していないわけではなかった。
無理やり引き出される事になったとは言え、絶対に曝け出してはいけないはずの自分の過去を知られてしまった以上、セニフにとって彼は、危険な人間の一人となってしまったのだ。
自分は何処にも行く当てなど有りはしない。
自分ひとりの力で進むべき道を切り開く能力も無ければ、進む方向さえも見出す事が出来ないでいる。
今自分の居るこの状況こそが、彼女にとっての唯一の安らぎであり、本当の事を言ってしまえば、その状況を破壊してしまいかねない、自分の過去を知る人間達には、二度と会いたくないのだという気持ちが有った。
しかし、たった一人、真っ暗な深遠の底でのた打ち回り、やがて訪れるであろう見えない脅威に脅え、眠れない夜を過ごす日々など彼女が望んでいるはずも無い。
出来る事なら自分の全てを曝け出し、彼の思いに答えるように、必死に助けを請うて甘えたい。
心の奥底から安らげる瞬間を求めて、本当の意味で彼の思いの全てに抱きつきたい。そう思っていた。
しかしセニフは、ギュッと下唇を噛み締めて身体を小さく震えさせると、今度は大きな溜め息を一つ付いてみせる。
そして、ゆっくりと大きな建物の天井を見上げるように、両目を瞑ったまま天を仰いだ。
一番自分が強く望む思いは、一番自分強く拒む思い。
求めれば求めるほどに自分の手の内からは遠ざかるような蜃気楼を見据えて、一体、自分は何処へと行くのだろうか。
(シルジーク)
「セニフ。・・・俺達は仲間だよな。」
(セニフ)
「・・・。・・・うん。」
(シルジーク)
「俺なんか口下手で、うまく何かを言ってやることなんか出来ないしさ。何の頼りにもならない人間だけどさ・・・。」
(セニフ)
「そ・・・。そんな事無いよ。・・・。そんなこと・・・。」
(シルジーク)
「少しぐらい。ほんの少しぐらいは、何かの役に立てるかもしれないじゃないか。」
(セニフ)
「・・・うん。」
(シルジーク)
「俺もさ。未だに信じられないし、信じたくも無いけど、あのホテルでの一件から今日までの間にさ、こんなに周囲の状況が変わるなんて、思っても見なかったんだ。」
(セニフ)
「・・・。」
(シルジーク)
「本当に信じたくないんだよ。解るだろ?」
(セニフ)
「・・・・・・。・・・うん。」
(シルジーク)
「でもさ。セニフ。・・・。どう言ったらいいか解んないけど・・・。一人で悩むのはもうやめろよな。少しぐらい、周りの迷惑を考えずに頼ってみたらどうだ?」
(セニフ)
「・・・。」
(シルジーク)
「セニフ。怒らないで聞いてくれよ。」
(セニフ)
「・・・うん。」
(シルジーク)
「確かに。確かにだぜ。俺だって凄い難問というか、手に負えないって言うか・・・。・・・。うん。ほんと正直に言えば、頼られても困るぐらい、大変な問題だと思ってる。でもさ。だからといって、ほっとけないじゃないか。・・・。あ〜っと。ほっといてよって言うなよ。お前が迷惑でも、俺は出来るだけの事はしてやりたいと思っているし、アリミアだってそう思っているのさ。」
(セニフ)
「・・・。・・・どうしてそこでアリミアが出てくるの・・・。」
(シルジーク)
「俺一人だけじゃ、どうしてやる事も出来ないだろうって思ったからさ。俺はアリミアの助けも借りたいんだ。確かにあいつも変に頑固な所があるし、嫌な部分もいっぱいある。でも、決して悪い奴じゃないって事は、お前にも解るよな。俺さ。あの後少しアリミアと話をしたんだ。あいつが昔どんな事をしてきたのか、俺も詳しくは解らないけどさ。本当に色々とお前の事心配してたよ。」
(セニフ)
「・・・・・・・・・。」
(シルジーク)
「アリミアから聞いて、お前が怒る理由も何となく理解したつもりだし、俺がこんな事言うのも、余計なお世話かもしれないけどさ。セニフはもう、本当にアリミアの事が嫌いになったのか?」
(セニフ)
「・・・。」
(シルジーク)
「あんまりアリミアの事を冷たく責めないでやれよ。セニフ。あいつだって、好きでそこに居たわけじゃない。それに多分、実際の犯人があいつじゃないって事は、お前にも解っている事だろ?本当にあいつが犯人なら、絶対に自分がやりましたって白状しているはずだしな。そう思わないか?」
(セニフ)
「でも・・・。」
(シルジーク)
「でも結局、お前が幾ら拒絶しても、幾ら嫌がっても、あいつはお前の為に必死に頑張ってくれると思うぞ。俺だって、色々お前の相談に乗ってやりたいって思ってるんだ。俺ってさ。今まで余り我儘言わない方だっただろ?たまには俺の我儘を聞いてくれよセニフ。少しだけでもいい。言える部分だけでもいい。お前と少し話がしたいんだ。」
(セニフ)
「・・・。・・・。」
あの日、あの時以来、心の奥底に何層にも折り重なった募る思いの丈を、包み隠すことなく真っ直ぐに解き放って見せたシルの視線が、真っ黒な霧の中を漂い続けていたセニフの元へと手を差し伸べる。
暖かく、柔らかでいて、包み込まれるほど優しいその手は、それまでたった一人ぼっちで歩まねばならなかった真っ暗な一本道に、一筋の光を差し込ませるのに十分な程、煌びやかに輝く綺麗な思いだった。
セニフはふと、自分の意思ではどうしようもないほどに込み上げる思いに、泣きたくなるほどの嬉しさを表現して、思いっきり笑って見せようとしたのだが、やがて潤んだ瞳から零れ落ちた涙と共に、彼からゆっくりと視線を断ち切ったのだ。
本当に。本当に嬉しい。本当に泣きたくなるほど嬉しい。
こんな自分の為に、必死になって考えて、一生懸命私に思いを伝えてくれたんだ。
嬉しくないはずがない。
でも・・・。でもね・・・。だからこそ・・・。
だからこそ。そんなシルを巻き込むわけには行かないんだよ。
(シルジーク)
「セニフ・・・。」
(セニフ)
「・・・。」
その後、俯いたまま、じっと動かなくなってしまったセニフの姿を、悲しげな表情で見つめていたシルが、差し出した右手を申し訳なさ気に、ゆっくりと下ろした。
うまく表現できたかどうか自分でも解らない。自分の思いが彼女の心に届いたのかも解らない。
それでも彼は、自分の心の内がすっきりと晴れ渡るまで、必死に募る思いを彼女へとぶつけやったのだ。
その上で彼女が彼の思いを拒絶して見せるのであれば、もはや彼にそれ以上の事を出来るはずもなかった。
じめじめとした生ぬるい空気に包まれながら、更にそれをも包み込むほどの淀んだ雰囲気に取り込まれ、ただ立ち尽くす事しか出来なくなった二人の姿を、直ぐ脇へと横付けされた大型トレーラーのヘッドライトが照らし出す。
そして、それまでは聞こえもしなかった周囲の雑音が、俄かに二人の意識へと襲い掛かると、虚脱心に引かれた己の身の重さを思い知るのだ。
お互いが取った距離は、決して遠いものではない。しかし、お互いの思いが通い合うほど近いものでもなかった。
手を伸ばせば直ぐにでも掴み取れそうな位置まで近づきながらにして、どうしても掴み取る事の出来なかった彼女の思い。
シルは大きな空間を作り出す建物の内部に視線を泳がせると、ゆっくりと長い溜め息を付いた。
(ジャネット)
「何こんなところでイチャついてんのよ。邪魔よ。邪魔。」
ふと、そんな時、眩いほどに照り付けるヘッドライトの向こう側から、久しぶりに聞く女性の声が聞こえてきた。
それは、抹茶色の癖毛と優しげな瞳が特徴的な長身の女性であり、とても優しい性格の持ち主であったはずなのだが、この時二人へと投げつけた低い声色には、寧ろ痛々しい棘が多数、鏤められていた。
その声に驚いたような表情で振り返ったセニフは、一瞬、彼女に何かを語りかけようと口を開いて見せたのだが、それも、彼女の纏う異様な雰囲気に圧され、かき消すように静かに喉の奥へと言葉を飲み込んでしまった。
タバコを銜えたままの口元には、べっとりと厚い口紅が塗られ、耳元には真紅に煌くイヤリングがぶら下げられている。
そこにはもはや、セニフの知る清楚で可愛らしかったはずの友人の姿はなく、全くの別人へと変貌してしまった女性が立っていたのである。
そして、彼女はチラリとセニフに冷たい視線をぶつけた後、何事もなかったかのように目を瞑り、真っ白な煙を周囲に吐き出して、唖然とする二人の目の前を素っ気無く通り過ぎたのだ。
胸の辺りで左手拳をギュッと握り締めるセニフは、かつての優しさを求めて視線を追走させるのだが、周囲を寄せ付けないほどにピリピリとしたオーラを放つ彼女の態度に、一向にその瞳が彼女を映し出す事が出来ないでいる。
マリオが死んで以来、ジャネットが暗く落ち込んでいたことは、勿論セニフも知っている事だ。
しかし。あのジャネットが。あんなに優しかったはずのジャネットが。
まさかこんなにも変貌してしまうなど、彼女は全く予想していなかったのだ。
すれ違い様にセニフの元へと届けられた香りは、とても心地のよい香水の匂いだったのだが、セニフはどこか、その匂いと共に心の中に吹き荒れた冷たい風に、両腕を組むように握り締めたまま、身を竦めてしまった。
そして、そんな侘しさが充満した心の奥底を、暖める暇も与えられない内に、彼女は再び冷や水に曝される様な悪寒に全身を凍りつかせる事になるのだ。
ジャネットの後ろに続くように姿を現した大男が、ゆったりとした足取りで二人の傍へと歩み寄ってきた。
真っ黒な髪の毛をオールバックに揃え、顎に疎らに生えた無精髭を擦りながら、汚らしい笑みを浮かべるその男は、あのBP事件を引き起こした張本人。
ユァンラオ・ジャンワンだ。
彼ら二人にとって、もはや彼を称する言葉は「危険人物」以外にありえず、その大きな体躯を見つけるや否や、すぐさま心の中で緊急警報を打ち鳴らして、警戒する姿勢を取らざるを得なかった。
しかし、そんな二人の姿を交互に見やりながら、不気味な笑みを浮かべて見せたユァンラオは、鼻先で軽く息を打ち鳴らして見せると、特に何かを仕出かす様子もなく、先を歩くジャネットの後ろに付いて歩くのだ。
(セニフ)
「ジャ・・・。ジャネット!!」
この奇妙な組み合わせの二人に対し、激しい不安感を禁じえなかったセニフが、思わず彼女の名前を呼んだ。
人を殺める事に何ら罪悪感も感じる事もなく、自分の思い通りに事を進めるためには、平気で仲間をも売り飛ばす卑劣で残忍な男。
帝国貴族達の思惑をすら手玉に取り、国家間の戦争をも引き起こす要因を作り出した危険極まりない男。
そんな危険な男が、事もあろうかかつての仲間と行動を共にしているのだ。
彼女としても、そんな事実を知る由もないジャネットに対して、何かしらの警告を発したかったのだろう。
しかしこの時、不意に突きつけられたユァンラオの鋭利な視線の先に、どす黒い殺意を含んだ刃を見出してしまったセニフは、その後、全く一言も発する事が出来なくなってしまった。
そしてジャネットは、そんなセニフの思いを他所に、かったるそうな表情のまま振り返ると、暗く淀んだ瞳で小柄な少女の姿を睨み付けるのだ。
(ジャネット)
「何よ。早いとこシャワー浴びたいの。邪魔しないでくれる?」
温和な雰囲気を全く感じさせないほど冷たく、思いやりの欠片すら見出す事の出来ない一言がセニフの心へと突き刺さる。
じっとりと体に纏わり付く蒸し暑い湿気すら、極寒の地へと放り込まれたような凍てつく寒さに震え上がり、まるで肌を通して骨まで凍えさせてしまうようだ。
やがて全く動かなくなってしまった手足へと圧し掛かる重たい影に、地中奥深くへと引きずり込まれる様な気だるさを覚えながら、力なく肩を落とすようにセニフの視線が足元へと零れ落ちた。
ジャネットは、そんなセニフの事を気にかける様子もなく視線を逸らすと、タバコの煙を周囲に吐き散らしながら、スタスタと二人の元を後にした。
そして、軽いイザコザの最中に、何ら楽しみを見出せなかったユァンラオもまた、つまらなそうな表情で二人を見やった後で、彼女の後に続いて歩き出すのだ。
残された二人は、少しの距離を置いたまま、お互いに視線を交わすことなく佇んでいた。佇んでいる事しか出来なかった。
先を見ず、今を見て、過去を捨て去った人間達が、甘い空想の最中だけに抱いた希望の光を求めて、必死に身を寄り添って作り上げた幻想的世界。
それは、一度崩れ去れば二度とその手に戻る事がない、所詮は砂に水を含めた程度で築き上げた、ただの泥細工だったのだろうか。
セニフは、ゆっくりと頭を擡げ、大きな溜め息を肩で付いてみせると、一人黙ってとぼとぼと歩き始めた。
(シルジーク)
「セニフ!俺が言った事、少し考えてくれよな!待っているからな!」
シルは、そんな彼女の後姿に向かって、再び思いを乗せるように大声を張り上げる。
しかし、全く精気を失った彼女は、その言葉に反応を見せることなく、やがてゆっくりと彼の前から姿を消して行った。