03-02:○お姉ちゃん
第三話「作れば壊れる自然の原理」
section02「お姉ちゃん」
「お姉ちゃん。もう疲れたよ・・・。もう休もうよ・・・。」
「ダメよ。早くここを抜け出さないと危ないわ。月が出ると湖水が流れこんでくるから、それまでになんとか小丘に上らないと・・・。もうちょっとだから、がんばって。」
延々と果てしなく続く湿地帯。
自分達の背丈よりも大きいシダ系植物の群れ中を潜り抜けながら、二人の男女がとぼとぼと歩いている。
べしょべしょと嫌な音を立てながら、一歩一歩、歩くたびに、二人は疲れきったように大きく息をついた。
すでに日は落ち、時間と共に二人を包みだした黒いカーテンに、周囲の景色どころか、足元さえも覚束無い。
周囲は全く人気のない寂しい国境沿いだ。
すでに街からは遠く離れ、そして目指す街もまた果てしなく遠い。
どうか、私達が無事にランベルクまでたどり着けます様に・・・。
そして、どうか、私達の幸せな暮らしが待っています様に・・・。
時々、後ろをついて歩く少年の事をしばしば気にかけながら、彼女はひたすら祈りを捧げていた。
彼女が気にかける少年の姿は惨めなもので、穴のあいた靴にボロボロのGパン。汚れきった上着に泥まみれのスカーフ。
歩くたびに靴の穴から泥が入り込むようで、気持ち悪さが我慢できなくなると、しばしば立ち止まって靴の泥を掃き捨てるのだった。
少年の事を心配する彼女もまた、酷い身形をしており、短く切り落とした緑色の髪の毛はボサボサに乱れ、もはや身を覆う事も出来なくなったボロボロの衣服を隠すために、汚いマントを1枚羽織っているだけ。
そして、必死に逃げるように歩き続ける二人の姿は、まるでヴェパール(強制労働奴隷の事)のようだった。
ベしゃっ!!
突然、彼女の後ろの方で、泥の中に何かが突っ込んだような音がした。
彼女が後ろを振り返ると、少年が沼地に足を取られ、泥の中へと倒れてしまったようだった。
すぐさま彼女は駆け寄ると、少年のことを気遣うのだが、少年の両目はパッチリ開いており、特にどこかを傷めた様子も無かった。
しかし、少年はどこか不貞腐れた表情で、彼女の方に視線を向けようとしない。
それは彼女に対する、ささやかな反抗の意思の表れだったのだろうか。
気遣う彼女を他所に、少年は泥の中で蹲ったまま、じっと動かなかった。
そんな少年を叱り付けるでもなく、彼女はドロドロになった少年の顔を拭いてやるために、自分のボロボロのマントを少年に差し出した。
少年はじっとその差し出されたマントを見つめていたのだが、ふと、彼女の可愛い手から、じっとりと薄黒い血が滲み出しているのに気がついた。
少年の前を歩く彼女は、何重にも折り重なったシダ植物をかき分けて歩かねばならず、それは、その植物の棘に切り刻まれた痕のようだった。
少年がシダの棘に傷つけられないように、必死にかき分けた優しさの証。
「ほら、キシノダの間からケユキの木が見える。ケユキが立つところまでは湖水が届かないはずだから、あそこまで行こう。」
その言葉に少年はむっくりと立ちあがり、身にまとった泥を振り落とすと、差し出されたマントでゴシゴシと顔を拭った。
そのマントは、とても汚いものではあったが、少年にとってみれば、それはどうでも良いことだった。
少年は彼女の両手をやさしく握り締めると、自分の分も切り刻まれた彼女の思いに感謝するようにゆっくりと擦る。
そして、少年が彼女の瞳を見つめて、ニッコリと微笑んで見せると、彼女はいきなり少年に抱きついた。
「お・・・お姉ちゃん。」
突然の彼女の行動に、少年は多少たじろんだが、彼女の体が小刻みに震えているのを感じると、無為にそれを振りほどくことはしなかった。
そして少年は、彼女の暖かな温もりの中に包まれながらも、どこか自分自身に対して、やるせないような、ふがいなさを感じていた。
少年はまだ10歳になったばかり。自分で自分の身を守る事もできないただの子供だ。
それでも尚、身長が高くて、しっかり者の彼女に頼りきっていた自分が、無性に恥ずかしかった。
「ねえ、おんぶしてあげようか。」
と、彼女が言うと。
「いいよ、自分で歩けるもん。」
と、少年が返す。
普段から「おんぶしてあげる」と言うと無邪気に喜んでいた少年は、不思議そうな目線で見つめる彼女を他所に、トコトコと一人で先を歩き始める。
何か少年の機嫌を損ねる様なことをしてしまったのだろうか・・・。
彼女は少し不安そうな表情で、もう一度少年に言った。
「ねえ、おんぶしてあげるってば。」
すると、少年は、彼女の方へと振り返って「ニッコリ」微笑んでこう言った。
「僕、もう10歳になったんだよ。自分で、自分一人で歩けるもん。今度は僕が前を行く番だよ。」
そう言って、一生懸命にシダ植物をかき分け始める少年。
目の前には少年の作った道が次第に長く長く出来上がっていった。
彼女はじっと立ち尽くしたまま、そんな少年の後姿を見つめながら思う。
いつからこんなに逞しくなったのだろう。
小さな両手で、必死にシダ植物をかき分ける少年の姿はいつもより大きく見えた。
今度は彼女が少年の後ろをついて歩く番である。
どこか嬉しそうな。でも少し何か物悲しいような。
そんな不思議な表情で少年を見つめていた彼女が、ふと、棘に切り刻まれた自分の両手に視線を落とす。
すると、先ほどまでなんとも無かったはずの両手が、だんだんと痛み出してきた。
滲み出した血をマントで拭いながら、赤くはれ上がった自分の手を擦りながら。
彼女はとうとう、泣き出してしまった。
ううん。痛いからじゃないの。
彼女は、もし少年が振り返った時の言い訳を、必死に心の中で反芻して、ぽろぽろと落ち行く涙を必死で堪えようとした。
勇ましく前を突き進む、愛しき少年の後を歩きながら。
ケユキの木の立つところまでもう少し・・・。
私達の幸せまでもう少し・・・。