10-28:○西から昇る太陽
第十話:「微笑みは闇の中で、闇の向こうで」
section28「西から昇る太陽」
素晴らしき晴天に恵まれた真夏の夕暮れ時、遥か西方の山の向こう側へと静かに沈み行く綺麗な夕日を眺め見ながら、少年は、鮮やかに咲き乱れる無数の紫陽花によって彩られた大きな庭園の中を歩いていた。
北方側に見下ろせるメヌシア湾から吹き付ける潮風の香しさも、何処となく心地良き涼やかな肌触りを纏い始め、次第に点き増え行く艶やかな港町の明かりに釣られ呼応するかの様に、夜を真の生業とする蟲達の歌声が力強く響き渡り始める時頃。
一日を分け隔てる静か緩やかな時の移ろい様の中に、確かに解り取れる変化の有り様をしっかと感じて見て取りながら、少年はふと、北側の空奥にポツリと現れ出た煌びやかな一番星へと視線を移し替え、徐に足を止めた。
そして、自身を取り巻く自然味溢れるコク深き空気を大きく吸っては吐くと言った仕草を二、三度、小さく奏で出し見せた後、唐突に吹き荒れた強い潮風に煽り付けられ、一斉にざわざわと色めき踊り始めた植物達の蠢き様を静かにぐるり見て取ると、思わずにやけ付いてしまった己の笑み顔をやんわりと誤魔化し隠す様にそっと下を俯き、その真意なる思いの片鱗を小さく呟き出した。
「西に沈んだ太陽が、また再び西から昇ったら、世界は一体どうなってしまうんだろうな・・・。」
「はい?」
「・・・ううん。いや、独り言だよ。独り言。あっはは。」
少年はその後、背後部に付き従っていた厳つい大柄な中年男性からの怪訝なる問い掛けに対し、あからさまにおどけた様子で簡単それを煙に巻き散らして見せると、徐に軽く左手を翳し付けて「ここで待て」なる合図を送り遣り、再び古びた石畳の上を一人で歩き出した。
未だあどけなさを残した幼い顔貌に綺麗な翡翠色の髪の毛が特徴的なその少年の行く道先には、割と雑な感じに手入れされたレッドロビンの鮮やかな赤色の垣根に囲まれた古風な石製のガゼボがあり、その四方八方を取り囲む様に引き仕切られた蟲除け用の白いレースのカーテン壁の向こう側に、豪勢な揺り椅子に座り何処ぞかを見据えて物思いに耽る白髪の老人の姿があった。
老人の服装は見るからに威厳漂う高貴峻厳なる煌びやかな軍服で、小脇に置かれた丸テーブルの上に並ぶ真白のティーセットもまた、眩いばかりの気品さを溢れさせる高価高質な秀逸品であり、非常に簡素な薄緑色のYシャツ一枚に地味な紺のスラックスを履いただけと言う少年の姿は、明らかに場違い的な様相を如実に醸し出している様だったが、徐に不敵な笑みを形作り浮かべ上げ見せた少年は、全くその事に気後れする様子を垣間見せず、静かに老人の元へと歩み寄って行った。
「大分涼しくなってまいりましたね。そろそろお屋敷の方へとお戻りになられませんか?」
「・・・大海が沈む。あれ程の青さを見せていた綺麗な広がりが、徐々に徐々に夜と言う闇の中へと沈んで行く。」
「こう言った穏やかな物事の移ろい様はお嫌いですか?」
「昔はの。儂も若い頃はそれなりにせっかちな方じゃったからな。何事に対しても激変を持って望みたい志向が強かった。だが、歳を取り、物事の有り様を様々な角度から見て取れる様になり、ようやく微温湯の中にも己の身の置き所を作れる様になった。」
「何を仰います。私などから見ても、まだまだ十分にお若いですよ。」
「むっふっふ。確かに、同じく時を刻んだ者同士の中では比較的若い部類に入るであろうよ。己の中に沸き立つ思いの強さも以前と変わらぬ熱さを保ったままじゃ。だが、やはり、若い頃に比べると、己の傍らを過ぎ行く時の流れが頗る早い様に感じてしまう。」
「・・・各方面における戦局が何れも膠着状態にあるのは、その為なのですか?」
「むっふっふ。相変わらず手厳しいのう。儂としては、それなりに強力に事を推し進めているつもりなんじゃが。」
「そうでしょうか?」
「大きな力を振るえば少なからずその余波が自身へと返る。その余波の強さを度外視してかかる事はできんのじゃ。」
「多少の損害は覚悟の上かと思っていましたが・・・、今はまだ、その余波を弱める事に勤めるべきだとお考えなのですか?」
「後は振るい方と振るうタイミングよの。一戦して一勝をただ繰り返せばそれで良いと言う訳ではない。」
老人はそう言うと、自らの口周りに蓄えた髭をゆっくりと左手で擦りなぞり降ろしながら、丸テーブルの上に置き放たれたテーカップへと右手を伸ばし、飲みかけの緑茶を一口、二口啜り飲んだ後で、再び揺り椅子の背凭れに深々と背を凭掛けさせた。
そして、北方側の夜空にじわりじわりと浮かび上がり見えて来た星々へと徐に細めた視線を静かに据え付けつつ、不意に、得も言われぬ不気味な笑み顔を作り拵え見せると、丸テーブルを挟んで対面側にあった小さな椅子の上へと腰を下ろす少年の所作が成し終わり切るのをしばし待ち、再び口を開き始めた。
「押して不味ければ引くのもまた良し。小細工を弄するのもまた良しじゃ。要は如何にして楽に勝つか。大軍を擁して尚、創意工夫を凝らし尽くす余地は十分にある。」
「なんだか愉しそうですね。」
「むっふっふ。人と人との戦いの中に定石などありはしないからの。気質的に将たりえる者ならば、己の血潮の滾りを抑え切れまいて。・・・のう?」
「私などに同意を求められましても・・・。」
「人が持つ器の大きさや形、深さや色は皆異なるからの。好む好まざる、合う合わないは往々(おうおう)にしてあるじゃろ。だが、実際の得手不得手なるがそのまま合致するかと言えばそうではない。どうじゃ?一度儂の軍を二、三、指揮してみる気は無いか?」
「いえ、必要な時に、必要な分だけをお貸し願えれば十分です。それ以上何を望みましょうか。」
「ふーむ。大きな軍服も着ている内に身の丈に合ってくると言うものじゃが・・・、まあ、よいか。」
その後、しばしの間、静かのどやかな沈黙の一時を挟み過ごした二人は、遥か遠方より不意に流れ響き聞こえ来た複数のジェット戦闘機の飛行音に意識を揺り動かされ、ほぼほぼ夜気付いた北側の星空へと向けてゆっくりと視線を差し向け上げた。
そして、綺麗な5つのダイアモンド型の編隊を組みつつ、物々しき様相で真東方向へと飛び去って行く赤色光点の揺り動き様をじっと眺め見ながら、唐突に吹き付け来た涼やかな海風の運びにそっと目を細め、ほのかに乱し崩された頭髪の形様を静かに纏め直し上げる・・・と言った同様の所作をほぼ同時に繰り出し合うと、程好い暇を適度に空け放った後で、再び会話を再開させた。
「第7艦隊は、もう北上を開始したのですね。」
「うむ。第2、第3艦隊も同日にな。」
「・・・中将はなんと仰られていました?」
「さての。恭順の意を示すならば、それはそれで良し。歯向かうのならば叩き潰すまでよ。」
「彼の性格からして、そう簡単には靡かないでしょうね。」
「そうじゃな。あれだけの素養を持った人物が、惜しい事じゃ。・・・だがしかし、これでようやくムルアート諸国の内戦も終わる。」
「ですが、本当によろしいのですか?これまで行ってきた支援の全てが水の泡になってしまいますが。」
「なに。投資した分の成果はもう既に十分に得られたよ。もはやムルア海近海における海戦で我が軍に敵う者は無い。」
「後はビナギティア艦隊がどう動くかですね。」
「うむ。・・・しかし、まあ、奴等とてアイスクリストフを捨てて掛かる策を取る事は出来ぬのじゃ。何れ近い内に奴等の方から先に姿を現すじゃろ。」
「そうなれば我々としては楽ですね。」
「うむ。」
「では、今一番の懸念事項は、何であるとお考えなのですか。」
「うーむ。そーうじゃのう・・・。強いて言えば、多大な労力をかけ形作った己優位な盤面をいきなりひっくり返される事かの。勿論、多少の振動では小揺るぎもせぬ程に強固に作り上げたつもりではあるが、全く予期すら出来ぬ神々の雷にも耐え得るかと言ったらそうではない。」
「・・・ではもし仮に、神々の雷なるものが振り落ちたら、その時はどうなさるのです?諦めるのですか?」
「諦める?いやいや、諦めはせんよ。高く険しい山じゃが、人の力で度々登られて来た山じゃ。儂自身、そうなった上でも登り切る自信は十分にあるよ。ただ、もう一度最初から登り直せる程の余裕があるかと言ったらそうではない。儂はおぬしと違って、そう若くは無いのだからな。恐らくは、当初の予定には無かった、より困難な悪路を突き進む事になるじゃろ。」
「より困難な悪路をですか・・・。」
「そして、山頂から見える景色も、さぞ最悪のものになるじゃろうて。」
「・・・それでも尚、」
「それでも尚じゃ。これは儂の曾祖父が残した遺言でもあり、我等ストラントーゼ家と言う家元に生まれついた者達の定めでもある。それぞれが抱く思いはそれぞれにあるじゃろうが、儂と言う人間をここまでの高みへと押し上げたのも、それに準じようと言う自身の強い思いがあったからに他ならん。儂にとってそれは、もはや絶対的に必要欠くべからざる重要な心の種火なのじゃよ。おぬしにとてあるじゃろ?自らを突き動かす道標たり得る心の種火が。」
「はい。あります。」
「むっふっふ。お互い、そう簡単には死ねぬわな。山頂からの眺めを見ぬ内はの。」
「そうですね。」
二人が見据える視線の先に広がり見えて来た数多の星座図は、何れも全く同じ形様、同じ色彩、同じ瞬き様をした煌びやかな自然の景色であったが、心の眼で見据え捉えたお互いのその景色は、形も大きさも全く異なる、高さも色合いも全く異なる別ものなのだと言う事を、少年は知っていた。
そして、お互いが垣間見るその景色の中に聳え浮かぶ山の頂へと続く長い道のりが、全く別の方角へと向けてのび向かっているのだと言う事も・・・。
少年はふと、丸テーブルを挟んで向こう側に座る老人の横顔へと視線をチラリと宛がい付けると、静かに緑茶を啜り飲むそのゆったりとした所作を静かに見取り遣りながら、一体、どっちの道がより闇めいているのだろうか・・・などと言う詮無い思考を脳裏に渦巻かせ上げてしまった。
「さてと、では儂はそろそろ屋敷へと戻るかの。この後、可愛い従伯叔母が尋ねてくる事になっておるのでな。」
「皇太后様がこちらにお見えになられるのですか?」
「うむ。久しぶりに食事でもと、約束を取り付けてあったのじゃ。」
「最近は余り、体調の方が芳しくないと聞いておりましたが、良くなられたのですね。」
「一時期に比べれば大分な。あの娘も相当に頭の切れる優秀な人物だったんじゃが・・・・・・、可哀想な娘じゃ。」
やがて、非常に短い二人だけのささやかなる会合に終わりを告げる言葉を発し出した老人が、自らが使用した茶器道具一式をそのままに、徐に揺り椅子からのそりと腰を持ち上げ立たせると、少年もすぐさま自らの席を立ち、ガゼボの柱内にかけ置かれていた老人のマントを手に取った。
そして、そのマントを老人の背へと纏い羽織らせる作業をつつがなく執り行い遣った後で、不意に老人が見せ示した全く他意無き優しげな笑みを見て、少年もまた、屈託の無い無邪気な笑み顔を形作って答え返してやる。
本当に・・・、当の本人が知ったら、激しく激怒するだろうと思いますよ。
自らが示し現した柔和的な態度とは裏腹に、心の奥底から沸いて出た言葉を脳裏の只中だけにそっと呟き出した少年は、自分の前より踵を返し回してゆっくりと立ち去り行く老人の後姿をじっと眺め見ていた。
老人の姿が、綺麗な紫陽花によって形作られる道壁の向こう側へと消え去るまで、ずっと・・・。