08-32:○丘の上に佇む一本の木
第八話:「懐かしき新転地」
section32「丘の上に佇む一本の木」
真っ白な朝靄の中に包み込まれた静かなる小丘の上で、周囲に群生する無数の雑草群を静かに掻き分けながら、前へ前へと歩み進む。
ほのかなる緩斜面を延々と形作るその獣道的狭道は、見た目的に、それ程険しきイメージを受け得ない代物で、只管に登り上がる事を強要され続ける以外には、何の苦も無く歩き経れる古びた廃道だった。
時折流れ来る清涼なる微風によって、大々的に運び撒かれる草花達の青臭い香りも、細波の様に心地良い葉音を一斉に奏で出すその聞き心地も、確かに嘗て感じ得た記憶の中に残り有る思い出の一部・・・、朝靄の向こう側に薄っすらと垣間見て取れる壮麗な山々の姿も、まるで時が止まったかの様な安息感を味わい得れる穏やかな様相も、確かに嘗て見た記憶の中に残り有る思い出の一部だった。
そして、ようやく辿り着いた最後の大きな右曲りのカーブを登り進み、その先に大きな木が一本だけ立ち聳えているはず・・・と、そう思い付いた彼は、濃密な白霧の向こう側から次第に浮き見えてくる黒い影の形様に意識を注力した。
それは、長きに渡り、この地の移ろい行き様を、じっとその場で見て取って来たであろう非常に年老いた古木・・・、力強くどっしりとし構えた重厚なる樹幹と、不規則に生え伸びる幻想的な枝葉振りとが非常に印象的な、孤高の喬木であった。
彼はやがて、この場へと至り経るまでの道中でかき集めてきた、十数本程度の草花達に一度だけ視線を移し、宛がい落とすと、もう少し赤色の花を集め加えるべきだったか?・・・と、不意にそう思い付き、徐に周囲の景色へと視線を流し回した。
・・・が、しかし、特にこれと言って目立った赤色の草花を見付ける事が出来なかった彼は、仕方なしとばかりに、道端に咲き乱れていた薄ピンク色の草花を二、三本摘み取り、左手に持った花束の中に加え入れた。
そして、徐に何かを思い返す様な遠い目を静かに浮かべ上げながら、一つだけ軽い溜息を吐き付けて見せると、再び大きな一本木の方へと向かって足を振り出して行った。
一歩一歩、前へ前へと歩み進む度に、次々と脳裏でめくり進められる過去の記憶帳は、確かに真っ白でいて穏やかな幸せ色で書き綴られた、心地よい思い出群によって大半が占められていた。
物心付いた頃より幼年期を経て、少年期の終わりへと至り差し掛かるまでは、確かに暖かな光で満ち溢れた平和的世界観がずらりと敷き並べ置かれ、何とも微笑ましき演劇が毎日の様に披露され続けていた。
そして、恐らくはそんな日々が永遠に続き流れ行くのだろうと、浅はかにも、そう安易に考えていた過去の自分の姿を、内なる心の眼で不意に見捉えてしまった彼は、思わず眉を強く顰め歪め、徐に下唇を強く噛みしめた。
・・・その日は突然にやって来た。
いや、実際には、それよりも以前から、ずっと燻り溜まっていた数々の問題が、まるで堰を切ったかの様に一気に溢れだし、全てを飲み込む濁流となって押し寄せた日・・・。
それが、丁度・・・5年前の今日と言う日。
白濁とした汚れ無き真白の紙面上に、今日も一日幸せでしたと、ほのぼのとした心の絵日記を描き出し、暖かなベッドの上で深い眠りの淵へと誘われ落ちた後・・・、長短不揃いな時計の針が最頂点部を経過し、僅かに右手側方向へと傾きかけた頃、それは突然にやって来た・・・。
彼の心の中に日々積み重ねられ行く過去の記憶帳を、一遍の長編小説と擬えて捉え得るなら、その序章部を彩る慎ましき純白の物語は、完全にそこで終わり潰えてしまったと言えよう。
そして彼は今、その次のページより始まる新たなる物語の中を歩いている・・・。
今自分が何処に居るのかと言う事を確かめる様に、しっかりと大地を踏み締めながら、一歩一歩、前へ前へと向かって歩いている・・・。
・・・と、ここで、不意に何か不穏なる気配を察し感じて取った彼が、徐にその場で足を止め、静かに周囲の様相を窺い見渡す様な仕草をほのかに奏で出した。
そして、僅かに体を沈め身構える体勢へと、ゆっくりと移行し行く素振りを見せながら、俄かに擡げ上がった色濃い警戒心の糸を、徐々にピリリと強く張り詰めさせて行く・・・。
のうのうと立ち込める色濃い朝靄のベールに囲い覆われた小狭き世界観の只中において、周囲の景観にひっそりと溶け込み入った、ほんの僅かなる違和感をしっかと探り捉え得る事は、そうそう容易な事では無い。・・・のだが、予め、そう言った事態に遭遇するかもしれない・・・と、事前に思案を巡らせていた彼にとっては、それ程難しいものでも無かった。
そして、加えて言うなら、彼にとってそれは、それ程憂慮すべき事態でも何でも無かった。
この時、彼が垣間見せた防衛行動は、言ってしまえば単なる条件反射的過剰反応・・・、数パーセント未満の確率でしか発生し得ないであろう由々しき事態に、彼の中に存在する兵士たるや本能が勝手に備え動いてしまっただけで、彼には反撃する意思など毛頭無かった。
やがて彼は、激しく昂り鳴った心の緊張感を静かに緩め解く様にして、大きな吐息をゆっくりと吐き出して見せると、後ろ腰付近に取り付けた短銃のホルスター部へと、極自然に這い延びて行った右手から徐に力を抜き下ろし、恐らくは背後から投げかけられるであろう、何の面白味も無いありきたりな言葉を待った。
「動くな。そのままゆっくりと両手を上げろ。」
すると、その直後、彼の予想に全く反し得ない陳腐なセリフが、彼の背後より投げかけられた。
それは、あからさまにドスを利かせ敷いた荒々しき女性の声色で、少しでも動けば命の保証はない・・・的な威圧感を、無理矢理に押し付け強いる意図が如実に窺い取れるものだった。
しかし、ほぼ間違いなく、過去に聞いた事のある声色だと、そう確信を得て、僅かに口元を緩め歪めて見せた彼にとっては、何ら意味無き空恫喝にしかならなかった。
勿論、恐らくは自分の背中に、銃口の先か刃物の先かを突き向けられているであろう事を察し取っていた彼は、素直に彼女の指示に従う素振りを見せながら、ゆっくりと両手を上げ行くのである。
「何者だ?何の用があってここに来た?」
「何者だ?・・・とは随分な御挨拶だな。何の用で来たかは、お前も良く解っている事だろ?」
「・・・どう言う意味だ。」
「ほら。こう言う意味だよ。こういう意味。」
そして、完全に敵愾心剥き出したる強い姿勢を少しも解き解さない彼女の態度に、多少呆れた様子の声色を軽く吐き返してやりながら、彼は頭の上へと振り上げた左手を小さくフルフルと振り翳して見せた。
彼の左手には、自らが集め作り拵えた、ささやかな花束が握られていた。
「お前・・・。まさか・・・。」
「この俺に簡単に気取られるなんて、お前も随分と腕が落ちたな。それとも、俺のカンが、より冴える様になってきた・・・って事なのかな。」
やがて、彼はゆっくりと踵を返して、彼女の方へと向き直った。
彼の背後に佇んでいた女性は、紛れも無く、彼が事前に予想していた通りの人物その人で、外に大きく跳ねだした紺色の癖毛と、割と優しげに感じられる細長の半目が特徴的な大人の女性だった。
漆黒色の軍服に身を包み、淀みなく短銃を構え据えるその立ち姿からは、明らかに、その道の技能に著しく長けた人物であろう事が窺い取れ、上背の無さを補って余りある程の威圧感・・・、猛者的気配が、彼女の周囲にしっかと漂い付いて離れない様子だった。
「久しぶりだな。フェーン。」
「・・・サルム。・・・サルムなのか?本当にサルムザークなのか?」
しかし、振り返った彼の顔を直視した彼女は、徐に声色を変え、思わず何度も彼の名を呼んだ。
そして、急激に冷え固まり行った攻撃的意識の刃先と共に、右手に持ち構えた短銃を静かに振り下ろすと、脳裏に渦巻く戸惑いを強引に振り払うかの様にして、直ぐに彼の元へと駆け寄って行った。
彼女もまた、彼の事を知っていたのだ。
「ああ・・・。サルム・・・。お前、本当によく無事で・・・。」
「うおおっ・・・と!・・・おい!抱きつくなって!俺はもう子供じゃないんだぞ!」
「良いじゃないか。久しぶりの再会って事で許してくれよ。・・・本当にもう、凄く心配していたんだからな。」
つい先程まで、鬼の形相たる鋭い眼光を携えて睨みを利かせていたはずの彼女の表情は、もはや、久しぶりに再会を果たした我が子を向かえ入れる母親の様な柔和さに満ち溢れ、その眼元には、薄っすらと涙が浮かび上がっている様子だった。
見た目的には、それ程歳が離れている様にも受け感じられない二人だが、彼の元へと辿り着くや否や、強引に彼の身体を引き寄せ、しっかと抱き付いて放さない的行為を、無理矢理に押し強いて見せる彼女の態度からは、明らかに上から目線的なかぐわしさが感じられた。
言うまでも無く、一目見ただけで彼の事をサルムザークだと「見分けた」彼女の眼力は、二人の仲が、単なる知り合い程度に納まり得ない、親密な関係である事を窺わせる良い証拠だった。
やがて、一頻り彼の事を愛で回し済ませた彼女は、最後に軽く彼の右頬付近で空キスを打ちかまし、静かに体を放して彼の姿をじっと見遣った。
小洒落た黒のネクタイを添え下げた白いワイシャツの上に、薄手の黒いジャケットを羽織り、薄黒いGパンと白いスニーカーを履いた彼の服装は、一見して、何処にでも居そうな一般的若者たる、ラフな印象を拭い切れない組み合わせであった。・・・が、ある程度、白と黒とで纏め上げられたその様相は、明らかに意図してそうしたのであろう雰囲気が良く良く感じられた。
「・・・大分背が伸びたな。サルム。今年でもう19歳か。お前ももう、立派な大人だな。」
「お前にしごき倒されて泣きべそかいてた、あの頃とは違うさ。」
「・・・でも、お前・・・、一体、今の今まで何処でどうしてたんだ?ずっとトゥアム共和国に居たのか?」
「ああ。ずっとトゥアム共和国に居た。」
「それで・・・、今は?」
「今もだ。」
その後、少しだけ驚いた様な表情を浮かべ上げた彼女の顔色をチラリと見遣った彼は、肩の辺りに優しく取り掴まった彼女の両手を静かに振り下ろしてやると、彼女には解らない程度の軽い溜息を小さく吐き出して見せ、ゆっくりと踵を返した。
そして、当初の目的地である巨木の根元付近へと足を向け、再び静かに歩き始める・・・。
「何故だ?何故帰って来ない?・・・お前を縛るものは、もう何も無いはずだ。リンデネンゼ家も・・・。オットトネス家も・・・。」
「・・・そうだな。確かに今の俺を縛るものは何もない。無くなった・・・。」
「だったら何故?」
「・・・多少の恩義がある。・・・と言えば、少しは納得してもらえるか?」
「ふざけるな。お前が本当の事を言っているかどうかなんて直ぐに解る。」
「ま・・・。そうだろうな。」
「誰かに強制されている・・・、脅されている・・・って事なのか?」
「いや、そうじゃない。これは俺の意思だ。俺は今、自分自身の意思でトゥアム共和国に居る。何ものにも縛られない、完全なる自由意思・・・って奴さ。」
「・・・自由意思・・・ってまさか、お前・・・、そのままトゥアム共和国軍に入隊したんじゃ・・・。」
「まさかと言う程に驚く様な事でもないだろ。俺はトゥアム共和国軍の士官学校に籍を置いていたんだ。」
「でも、だからと言って・・・。」
「俺がトゥアム共和国の為に、命を賭して戦ってやる義理は無い・・・か?確かにそれは、その通りだ・・・。」
やがて、程なくして辿り着いた老木の根元付近で、静かに足を括り止めた彼は、木の幹の直ぐ小脇部に据え置かれていた一つの大きな石の上に視線を落とし付けると、左手に集め持った花束を、そっとその上に置いた。
そして、空きとなった左手をそっと胸の真中心部に宛がい置き、徐に姿勢を正し直すと、ゆっくりと両目を瞑り閉じて、僅かに頭を前へと垂れ下げさせた。
全く人気の無い物寂しげな丘の上・・・。
だが、そこは、彼にとって、誰も居ない場所では無かった。
たった一本の喬木のみが映え生える殺風景な丘の上・・・。
だが、そこは、彼にとって、何も無い場所では無かった。
言うまでも無く、彼の背後部で静かに佇んでいた彼女にとっても、それは同じ事であった。
「今の俺にとってトゥアム共和国は、言ってしまえば単なる道具・・・。目的を達成する為に、非常に都合が良いと踏んだ共闘者、利害関係者、それ以上でもそれ以下でもない。そこに愛国心や正義心があるかと問われれば、答えは完全にNOだ。俺がトゥアム共和国軍に入ったのは、自分自身の思いを成し叶える為なんだ。」
「・・・復讐か?」
直後、辺り一面へと強く吹き付けた涼やかな朝風が、二人の身体を、二人の心を、強く激しく揺さ振り付けた。
彼女は彼の思いを深く知っていた。
そして、その思いに同調したい気持ちに強く駆り立てられている自分自身の心の揺り動きも察し取っていた。
しかし、彼女は、そう強く問いかからざるを得なかった。
「・・・そう。それもある。」
「無茶だ!たった一人で何が出来る!」
「確かに無茶かもしれない。無理かもしれない。だが俺は心に強く誓ったんだ。あの日、あの時、この場所でな。」
「・・・復讐心に取り憑かれて戦い狂う悲劇のヒーローなんて役、お前には不似合だよ。第一そんな事をして、死んだティフィーナ様が喜ぶとでも思っているのか?」
「・・・生きている者達、これから生まれて来る者達の為、・・・でもある。」
「何?」
「生まれながらにして持ち得た貴族階級たる特権を、弱者を貪り食らう為に只管に振るい翳す悪漢共の悪しき横行は、帝国と言う腐りきった温床が存在する限り、絶対に無くならない・・・。帝国貴族を名乗る者が存在する限り、絶対に治らない不治の病なんだ。その事は、お前も良く解っている事だろう?幾ら名の通った名医であっても、帝国貴族の肩書を持った輩達では、絶対に完治させる事は出来ない。帝国と言う枠組みを含めて、帝国貴族と言う組織を、完全に滅し排す以外に、何ら手立ては無いんだ。」
「それをお前がやろうと言うのか?自惚れるのもいい加減にしろ。」
「別に自惚れてなんかいやしないさ。俺は、今の自分がどの程度の人間なのかを良く理解している。今の俺には力が無い。力が足りていない。それは事実だ。・・・だが、同じ方向を向いて歩く輩達の力を利用する事は出来る。」
「利用するだと!?それは単に利用されているだけだ!!」
「確かにそうかもしれない・・・。が、同時に、それで良いとも思っている。」
「・・・必要が無くなれば直ぐに切り捨てる。それが奴等のやり方だ。その事はお前も良く解っているはずだ。」
「勿論、解っている。・・・だが、俺一人の力だけでは絶対に成し得ない望み事だと解っている以上、奴等の力を利用する以外に手立ては無い。・・・この俺を利用したいと言うのなら、好き放題に利用させてやるさ。その分、こちらも十分に奴等を利用してやれば良いだけの事だ。」
やがて、二人が佇む小丘の上に、より一層強い横風が断続的に吹き当たり付ける様になると、周囲に立ち込めた濃密な朝靄の幕が次第に晴れ散り行き、眼下に見下ろせる風景の中に、徐々に不気味な廃屋群が姿を現し出し始めた。
そこは、二人にとって、絶対に忘れ去る事の出来ない思い出の地・・・、真っ白でいて暖かな光に満ち溢れた魅惑の楽園たるや世界観を形作っていた場所だった。
そして、真っ黒でいて禍々(まがまが)しき煉獄の炎に、無情にも無理矢理に焼き捨てられてしまった場所・・・でもあった。
「・・・なあサルム。私は、お前の気持ちが全く解らない訳じゃない。・・・でも、どうしても、お前が誤った道筋を歩み進んでいる様な気がしてならないんだ。お前は本当に、自分が正しい道筋を歩いていると言う自信があるのか?」
「正しいかどうかなんて、誰にも解らない事さ。ただ、敢えて言うなら、今のお前よりはずっと良い道筋を歩いていると思う。」
「何?」
「お前が着ているその軍服・・・。ストラントーゼ軍の物だな。結局はお前も、目先の利に囚われて節操なく尻尾を振る、ただの犬だったって事か?元鞘に収まり戻った・・・と言えば、多少は聞こえが良いが・・・。」
「ゲイリー様は他の奴等とは違う!一緒にするな!」
「・・・まあいい。今の俺とお前は敵同士だ。戦場で相見えれば、殺し合いをしなければならない兵士同士だ。この期に及んで、お互いの立場を口で非難し合っても無意味なだけだろう。お互いに信じた道筋を、ただ只管に歩み進むのみだ。・・・そうだろ?」
その後、彼は静かに踵を返して、後ろに佇み立つ彼女の表情を静かに見遣ると、何処となく物憂げに陰り入った顔色をほのかに浮かび上がらせ、素っ気なく、元来た道をそのままに辿り戻る様に歩き始めた。
そして最後に、「・・・正直に言うと、俺はお前とは戦いたく無いな・・・。」と、そう一言だけ彼女に言い残し、彼はゆっくりとその場を後にした。
彼女は不意に、「私だってそうだ。」と、そう言い返しそうになったが、その時は何も言わず、ただ黙って彼の消え行く後ろ姿をじっと見遣っていた。
嘗ての教え子たる彼の背中が、長きに渡り苦楽を共に過ごし経て来た仲間の背中が、完全に見えなくなるその瞬間まで、彼女はずっとその場に佇んでいた。