07-11:○光を無くした影達の集い[2]@
※挿入絵は過去に描いた古い絵を使用しています。小説内容と若干細部が異なります。
第七話:「光を無くした影達の集い」
section11「光を無くした影達の集い」
(セニフ)
「あのさ・・・。」
やがて、彼女達二人の間で静態していた空気が、新たなる展開を切望するセニフの小さな呟きを振るわせたのだが、この時、彼女がようやく搾り出した言葉は、全くその先へと進む導とは成り得ない短さのまま途切れてしまった。
そして、一体何から話したらいいのか解らないと言った素振りで、太腿付近へと据え置いた両手でGパンをグッと強く握り締めると、挙動不審に右往左往させていた視線をテーブルの上に落としてしまう。
ジャネットは、そんなセニフの振る舞いを横目で窺い見つつ、新たに差し出されたブランデーグラスを片手に、じっとセニフの次なる言葉を待っていたのだが、その後、口元で何回グラスを傾けようと、セニフが口を開く気配は感じられなかった。
すると、やはり自分の方から折れてやるしか無いと悟ったジャネットが、静かに口を開いてセニフの背中を後押ししてやる。
(ジャネット)
「酷い顔してるわ。セニフ。」
(セニフ)
「そ・・・。そんな事ないよ・・・。」
そんな事ない訳が無い・・・と、怪訝な表情を浮かべたジャネットは、テーブルの上にグラスを無造作に置き放ち、大きく吸い込んだタバコの煙をあらぬ方向へと強く吐き散らして見せた。
そして、吸い終わったタバコを灰皿へと押し付け、徐にセニフの方へと体勢を翻すと、何処か釈然としない態度のまま、再び黙り込んでしまったセニフに、少し苛立った様相を強く滲ませた、刺々(とげとげ)しい視線を突き刺してやった。
(ジャネット)
「アリミアの事なんでしょ?言いたい事があるなら、はっきり言いなさいよ。一人で黙り込んでたって、解らないじゃないの。」
ジャネットは、それは少し冷たい言い草だ・・・とは解っていながらも、彼女自身、自分の心の中に空いた深い穴蔵の底に落ち込んで、身動きが取れなくなってしまった過去の経験から、今のセニフには、外部からある程度強い揺さ振りをかけてやった方が良いと、そう思った。
勿論、自分自身が心に負った深い傷と、セニフが心に負っ深い傷とが、全く同じ物であるはずも無いのだが、それでも、たった一人でその状況から立ち直る事が、如何に困難で苦しい事なのか、彼女は既に知っていたのだ。
するとセニフは、小さな身体を小刻みに震わせながら、恐る恐るジャネットの顔を見上げると、ようやく意を決したように、彼女の思いに答えて見せるかのように、か細い声を必死に吐き連ねていった。
(セニフ)
「あのさ・・・。」
(ジャネット)
「うん。」
ジャネットは、優しく前後を接続する頷きを発した。
(セニフ)
「あのさ。こういう時、どうしたらいいのか解んない・・・。どうしたらいいのか・・・。ほんと、悲しいし・・・、寂しいし・・・。でも、それだけじゃなくって、すごく、すごく、・・・苦しいし・・・。そして、悔しいし・・・、情けないし・・・。やっぱりあの時・・・。・・・。やっぱり・・・。そうだよね・・・。もう・・・、どうしたらいいんだろ・・・、私・・・。どうしたら・・・。ぅっ・・・。ぅっ・・・。」
赤さの残る大きな瞳に溢れんばかりの涙を湧き上がらせながら、必死に今の自分の心の内をジャネットに明かそうとして見せるセニフだったが、振るえる声色で紡ぎ出された言葉は、全く持って不明瞭でいて、且つ、意味不明だった。
しかし、再び下を俯く様に項垂れてしまったセニフが、Gパンの太腿付近へとポタポタと涙を零し落とす度に、ズキズキと痛いぐらいにセニフの想いが伝わって来る様で、ジャネットはやがて、そんなセニフの姿を見ていられなくなってしまった。
(ジャネット)
「飲みなさいよセニフ。飲むんでしょ。」
(セニフ)
「あ・・・。・・・うん。」
そして自分には、セニフに対して何ら気の利いた言葉を投げかけてやる事が出来ないのだと、そう思い付いたジャネットは、静かに自分のグラスを口元に宛がいながら、セニフにも飲むよう優しく促しをかけた。
お酒を飲んで、全てが洗い流される訳ではない。
辛く悲しい過去の記憶が消え去る訳でもない。
ただ単に、一時的に気分を高揚させる事によって、まどろみの中に意識を沈め入れる事によって、しばらくの間、それを自分の傍らへと退けて置く事が出来るだけ。
お酒のアルコール分に陶酔した意識が、温和な偽りの世界観の中で凍結され、時間の流れを早く感じ取れる様になるだけ。
やがてセニフは、ジャネットが差し出した薄ピンク色のハンカチを受け取ると、一生懸命に鼻をすすりながら丁寧に目元を拭き、高ぶった気持ちを静かに落ち着けるよう、ゆっくりと深く、大きな深呼吸を繰り返した。
そして、最後に両目を瞑ったまま天井を見上げ、一際大きな吐息を長く緩めに吐き上げて見せると、徐に目の前のブランデーグラスを左手で掴み取り、一気に口の中へと流し込んだ。
(セニフ)
「ふぅー。」
おおよそ十六歳とは思えぬ豪快さを醸し出して、グラスの三分の二程度のブランデーを一気に飲み干して見せたセニフは、焼ける様な強い熱さを喉元に感じながらも、何処か心地良さげな表情を浮かび上がらせ、静かにグラスをテーブルの上へと置いた。
口の中で溶け行く柔らかな舌触りと、鼻元に残る甘く切ない優美な香りとが、まるで微温湯の様な暖かさを持って、彼女の意識へと纏わり付くと、深々と抉り取られた心の傷跡が、じんわりと癒される様な錯覚を覚える。
しかしそれが、ほんの一時的なものでしかない事は、セニフも既に解っていた事であり、彼女は「せめて」との思いを強く込め入れ、右手を胸元にそっと据え置くと、アルコール分に煽り立てられた意識が、まともに会話できるぐらいの自分を、奮い立たせてくれる事を強く願い、ギュッと下唇をかみ締めた。
ジャネットは、そんなセニフの行動をじっと横目で窺い見つつ、この子も必死なのよね・・・と言う思いを沸き起こすと、やがて、しばらく口元に宛がわれたままとなっていた、ブランデーグラスを静かにテーブルの上へと置き、その代わりとばかりに手にした一本のタバコを口元に銜え入れた。
そして、次第に落ち着きを取り戻し始めたセニフと、不意にチラリと視線を交わし合うと、ゆっくりとカウンター席の正面へと向き直り、優しげな語り口調で口を開いた。
(ジャネット)
「そうね。・・・まずは泣く。泣いて、泣いて、泣きまくる。涙が出なくなるまで、必死に泣きまくる。」
右手に持ったジッポの蓋を、意味なくカチカチと開いたり、閉じたりしながら、ジャネットは、真っ先に思い付いた回答をセニフに示し出して見せた。
勿論それが、ジャネット自身、それまで何度も何度も繰り返してきた行動であろう事は、セニフにも直ぐに解った事だ。
(セニフ)
「でも・・・。それでも・・・。辛さが消えなかったら?」
(ジャネット)
「うん。そうね。・・・そしたら何か・・・、なんでも良い、何かに没頭すると良いわ。辛い事を考える暇がないぐらいにね。」
残酷な現実に打ちのめされないように、悲しい記憶に切り刻まれないように、負たる思考のスパイラルから抜け出す為に、必死になって別の何かに意識を没頭させる。
それは確かに、辛い思いが薄らいで行くまでの、一時的麻酔薬としては有効的な手段である。
しかし、これだけ深い傷を負った心の至る所から、大量の血飛沫が立ち上っていると言うのに、それを全く無視したままに、何か別の事を考える事などできるのだろうか。
別の何かに意識を没頭させるにしても、何かをしようと言う気持ちさえ沸き起こらない中にあって、セニフは何処か、釈然としない様な表情浮かべて、ジャネットに視線を差し向けた。
そして、再び持ち上げたブランデーグラスに、チビリと口を付けた後で、セニフは不意に沸き起こった一つの疑問を投げかける。
(セニフ)
「・・・。・・・ジャネットは、何に没頭したの?」
しかしこの時、唐突にほんの一瞬だけ、セニフが投げかけた言葉に、ピクリと反応を見せたジャネットが、見た目には解らぬ程の暗い影を落として、完全にその動きを止めてしまった。
セニフは、二人の間に流れ始めた異様な雰囲気の存在を感じ取ると、多少うろたえた様子で正面へと向き直り、変に誤魔化しを入れる様にして、ブランデーグラスに口を付けた。
勿論セニフも、当然それと気付いていながらにして、ジャネットにそう問いかけた訳ではなく、次なる答えを欲して止まない心に、素直に順じただけなのだが、それは余りに、ジャネットに対して失礼な質問だったと言わざるを得なかった。
最終的に、セニフがそれと気付く事は無かったが、あの忌まわしきBP事件が発生してからまだ一ヶ月、ジャネットが最愛の弟であるマリオを失ってから、まだ一ヶ月しか経っていないのだと言う事を考慮すれば、それを「どうやって乗り越えたのか」とも取れる発言を、彼女に投げかけて良いはずも無かった。
ジャネットは、やっぱり、そう見えるのかしら・・・と思いはしたが、セニフの失言に対して特に何を言うでもなく、口に銜えたままになっていたタバコに火を付けた。
そして、ゆっくりと大きく深呼吸をする様にして、大量の煙を吸い込んで見せると、静かに両目を閉じて口を開いた。
(ジャネット)
「SEX・・・。」
(セニフ)
「ブフッ!!」
セニフはこの時、唐突に放たれたジャネットの卑猥なる言葉に、思わず口に含んでいたブランデーの全てを吐き出してしまった。
(セニフ)
「ジャ・・・ジャ・・・ジャ・・・ジャネット。」
そして、あたふたとうろたえる大きな瞳を更に大きく見開いて、ジャネットの横顔を覗き込むと、全く返す言葉も見つからないと言った様相のまま、何度も何度もつんのめりながら、彼女の名前を呼んだ。
それまで、優しくて清楚なお姉さんと言うイメージを形作っていたセニフにとって、それはまさに、頭上からいきなり爆弾を投下されたに等しい衝撃的発言だった。
セニフはその後、あからさまに落ち着きを無くした心の動揺を、ほとんど隠しきれない様子で、しばし、可愛いらしき挙動不審者を演じる事になってしまったのだが、やがて程なくして、自身の仕出かした悲しき惨劇に気付くと、テーブルの上に置いてあった白い布巾を手に取り、その後処理に託けて、バツの悪い思いを紛らわしにかかった。
しかし、そんなセニフの慌てふためき様を見て、クスクスと笑い声を上げていたジャネットは、何処か少し意地悪な思いを滲ませた笑みを浮かべて、セニフにからかいの言葉を投げかけるのだ。
(ジャネット)
「あーらやだ。赤くなってやんの。可っ愛いんだから。」
(セニフ)
「ち・・・違うよ!・・・これは、お酒のせいだよ!」
微笑ましい程に初々(ういうい)しい反応を持って、真っ向から否定しにかかるセニフだが、ほんのりと赤く染まった頬の火照りは、ジャネットの仕掛けた悪戯心によって、更なる赤味を増して行き、意に反して急激に熱せられた意識の高鳴りが、更に彼女を慌てさせる。
ジャネットは、ふーん。そうなの・・・と、白々しくも疑心に塗れた細目を浴びせかけ、ゆっくりとタバコの煙を吸い込んで見せると、意図的に作り出した不思議な間を持って、セニフの羞恥心を煽り立てた。
そして、恥ずかしそうに俯いてしまったセニフの表情を、下からマジマジと覗き込む様に身を寄せると、にやりと歪めた可愛らしき笑みと共に、更なる追い討ちをかけて行った。
(ジャネット)
「うっふふ。無理して誤魔化して見せたって駄目よ。まだまだ子供だと思ってたのに、貴女も結構いけないおませさんなのね。一体何を想像しちゃたのかしら?」
(セニフ)
「えっ!?違っ!・・・違うって!ジャネット!変に誤解しないでよ!これは・・・、その・・・、違うんだって!」
(ジャネット)
「えっへへー。いいじゃない。いいじゃない。セニフ。別に悪い事じゃないでしょ?考えれば貴女だって、もう年頃の女の子なんだし、エッチな事の一つや二つ、考えてたっておかしくないものねー。」
(セニフ)
「そんな事!・・・そんな事考えてないもん!・・・そんな事・・・。」
(ジャネット)
「あら。そんな事って、どんな事よ?」
(セニフ)
「えっ?・・・あ。・・・えっと。・・・・・・うー。」
(ジャネット)
「ほらほら。考えちゃってる。うっふふ。セニフもさ、ほら、そろそろしたいなーなんて、そう思う年頃なんじゃないの?・・・例えばさー。シルと一緒に、ベッドの中でー・・・、とか。」
(セニフ)
「うわーーっ!!やめて!!やめて!!やめてよジャネット!!そんな事無い!!・・・そんな事無いって!」
(ジャネット)
「あっはははははは。可っ愛いー。」
やがて、茹蛸のように真っ赤に染め上がった表情を僅かに俯けながら、滑稽な慌て振りを披露するセニフの姿を見遣り、ジャネットは、自然と沸き起こる可笑しさを食い止める事が出来なくなってしまった。
そして、少し意地悪しすぎかしら・・・とは思いつつも、一人満足気な気分でゆっくりとタバコをふかして見せると、ほとんど嫌がらせに近い好奇的視線を携えたままにして、セニフににっこりと優しげな微笑を投げかけて、こう続けるのだ。
(ジャネット)
「ねぇねぇセニフ。本当の所はどうなってるのよ。シルとはうまく行ってるの?あの子、ああ見えて女の子の扱いが苦手なタイプっぽいし、いざって言う時、結構尻込みしちゃうんじゃないかって、私はそう思ってるのよね。貴女のあからさまな引っ付きアタックも、そう悪くは無いと思うんだけどさ、ああ言うタイプは、一度ソッポ向いてやった方がいいんじゃないかって・・・。・・・あれ?・・・セニフ。どうしたの?」
しかしその直後、不意にかち合った視線越しに、一瞬だけ驚きの色合いを滲ませたセニフの表情を見て取ったジャネットは、その後、次第に暗い影を落として俯いてしまったセニフの様子を気に掛け、優しげな口調に甲高い色合いを交えて問いかけた。
(セニフ)
「いや・・・。えっと・・・。」
セニフはその後、再び小さく篭る様な声色でそう切り返し、怪訝な表情を携えたまま、ゆっくりとカウンターテーブル席へと腰を下した。
そして、まずい、やりすぎたかな・・・と言った、不安げな表情を浮かべるジャネットのそわ付きを感じ取りながらも、じっと目の前のブランデーグラスに視線を据え付け、キュッと軽く下唇を噛んだ。
セニフはこの時、ジャネットと交わした短いやり取りの中で、ようやく彼女の中に、とあるものを見つける事が出来た自分に気が付いた。
それは、触れれば切れるナイフの様な鋭いオーラを、あからさまにひけらかしていたジャネットの姿ではなく、嘗ての優しいお姉さんと言った、温和で柔らかな彼女の雰囲気だった。
(セニフ)
「えっと・・・。ほら・・・。久しぶりだったからさ・・・。うん。久しぶりだったから・・・。ジャネットの笑った顔、見たの・・・。」
小さな身体を更に小さく窄める様にして、次第に下を俯いて行ったセニフは、長い赤い髪の毛でその表情を隠したまま、静かにそう言葉を連ね出した。
嘗てのセニフにとって、それは至極当然とも言える、ジャネットの雰囲気に間違いなかったが、それでもその声色には、本当にそれが本物なのかどうかを確かめるような、そんな戸惑いが込められていた風でもあった。
ジャネットは、そんなセニフの姿をじっと横目で窺いつつも、終始無言を突き通し、何の気なしに右手に持ったタバコを口元へと運ぶ。
(セニフ)
「なんかさ・・・。ちょっと、別人みたいだったから・・・。ちょっと怖かったんだ。ジャネットに話しかけるの・・・。なんか・・・、なんて言うか・・・、ジャネットが、何処か遠くに行ってしまったような、そんな気がして・・・。怖かったんだ・・・私。」
セニフは、恐る恐るながらもそう静かに呟き出し、僅かに頭を傾けて、ジャネットの顔色をチラリと窺い見たのだが、自分へと宛がわれていたその瞳の中に、不思議と不気味な素っ気無さが滲み出している事に気が付くと、直ぐにカウンターテーブルの上へと視線を落とした。
ジャネットは、大きく深い溜息をゆっくりと吐き出し、正面に向き直した視線を何処に宛がうでも無く、じっと遠くの方へと据え付ける。
そして、何処か変に纏わり付いた心の鬱陶しさを紛らわせるように、大きくタバコの煙を吸い込むと、白い煙を勢い良く吐き付けながら、「別に。私は何も変わっていないわよ。」と、静かな口調で言い放った。
そう。私は何も変わっていない。
今の私も私自身。昔の私も私自身。
素っ気無く人を突き放すような態度を滲み出す私も私自身。
優しく人当たりの良い雰囲気を纏った私も私自身。
(セニフ)
「ううん・・・。変わった・・・。変わっちゃった・・・。」
(ジャネット)
「変わってない。」
誰しも皆、黒く淀んだ汚らしい心を内に秘めているもの。
誰しも皆、そんな自分をひた隠しにして人と接しているもの。
誰しも皆、本音と建前をうまく使い分けて、狡賢く生きているもの。
表と裏、その両者が完全に一致した聖者の様な人間なんて、この世には存在しない。
いるはずも無い。それは私も同じ。そして貴女だって同じはず。
(セニフ)
「変わったよぉ・・・。」
(ジャネット)
「変わってない。」
貴女は単に、私の白い部分を見ていただけ。
貴女は単に、私の白い部分に触れていただけ。
私の黒い部分を見る事も無く、私の黒い部分に触れる事も無く、ただ私の白い部分の眩さに目が眩んでいただけ。
本当の私の姿、私の心の白い部分と黒い部分、表と裏、その全てを知っているのはマリオだけなの。
私の事なんて何も知らない癖に、私の事、勝手に白い人間だって決め付けないでよ!
私の事なんて何も知らない癖に、あの冷血女みたいに、知った風な口きかないで!
(ジャネット)
「私は何も変わって無いわよ!!」
直後、グラスに残されていたブランデーを一気に飲み干したジャネットは、空いたグラスを少し強めにカウンターテーブルに叩き付けると、あからさまにそれと解る怒気を強く滲ませて、そう言い放った。
セニフは一瞬、驚いた様に上半身をビクリと跳ね動かし、項垂れた頭を更に前へとのめり倒すと、酷く脅えた様子で小さな両肩を小刻みに震わせる。
しかし、込み上げる涙を必死に堪える様に、二、三、小さく鼻をすすって見せたセニフは、太腿の上に置かれた両手にグッと力を強く込め入れると、唐突に顔を上げて、ジャネットの方へと向き直った。
(セニフ)
「違う!・・・やっぱりおかしい!・・・こんなのジャネットじゃない!」
(ジャネット)
「別におかしくなんかないわ。私は私よ。」
(セニフ)
「ううん、違う・・・。私の知っているジャネットは、もっともっと、優しくて・・・、暖かくて・・・、こんな・・・、こんな冷たい態度を取るような人じゃなかった。マリオが死んで・・・、ジャネットが酷く落ち込む気持ちも、解らなくは無いけど、アリミアと喧嘩してからのジャネット、やっぱり変だよ・・・。」
(ジャネット)
「あの女は関係ない!!私は元々こう言う人間だったのよ!!私の事、何も知らない癖に、勝手な事言わないで!!気分が悪くなるわ!!・・・それから今後、私の前で、あの女の話はしないでくれる!?私・・・、あの女、大っ嫌いなの!!」
(セニフ)
「そ・・・、そんな・・・。そんな言い方って無い!!幾ら喧嘩してたからって・・・、そんなの冷たいよ!!・・・酷いよ!!アリミアは・・・、アリミアは・・・、アリミアは死んじゃったんだよ!?ジャネット!!」
(ジャネット)
「そんな事、・・・もうとっくに知ってるわよ。」
セニフはこの時、余りに素っ気無くそう切り替えしたジャネットの態度に、しばし唖然とした表情を浮かべてその動きを止めた。
そして、程なくして零れ落ちた涙と共に、僅かに顔を横に背けると、違う・・・、違う・・・、と心の中で強く否定する思いを反芻させた。
(セニフ)
「違う・・・。やっぱり違う・・・。おかしいよ・・・。変だよ・・・。ジャネット・・・。アリミアとジャネットって、・・・そんな程度の仲だったの?・・・今まで一緒に、二年間も一緒に暮らして、楽しい事だって、一杯あったじゃない・・・。皆で楽しく、笑ったりしたじゃない・・・。それなのに・・・、アリミアの事、そんな風に言うなんて・・・、絶対におかしい・・・。絶対におかしいよ!!ジャネット!!・・・昔のジャネットなら泣いてたよ!!絶対に泣いてた!!ねぇそうでしょジャネット!?違うの!?ねぇ!!」
再び顔を持ち上げ、ジャネットの右手へと掴み掛かり、必死にそう訴えかけるセニフの表情は、もはや流れ落ちる大量の涙でぐしゃぐしゃだった。
じっとジャネットへと据え付けられたその瞳は、何処かへと姿を消してしまった、嘗ての優しきジャネットの姿を探し求めているかの様でもあり、セニフは、小刻みに震える小さな身体を、込み上げる嗚咽で何度と無くしゃくり上げながらも、挫けそうになる想いを必死に奮い立たせ、真っ直ぐに、真っ直ぐに、ジャネットの心へと突き刺していった。
しかし、不意に鬱陶しさを覚えたジャネットは、悶々(もんもん)と苛立った意識を、手元に置いてあった灰皿へと逃がすと、吸い終わったタバコをじりじりと押し付けながら、強引に紛らわせる。
そして、大きく吐き出した溜息の後に、全く間髪を置かず手に取した新たなるタバコを口に銜え入れると、手際良く右手に持ったジッポで火を灯しながら、真っ先に思い付いたままの言葉を口にした。
(ジャネット)
「私の涙はね、もう・・・。」
・・・出なくなったの。
しかし、そう途中まで言いかけて、思わずその語尾の部分を飲み込んだジャネットは、唐突に驚いた表情を浮かべたまま凝り固まってしまった。
そして、強引に喉元で堰き止めたその言葉を、真っ黒な壁で四方を覆われた薄ら寒い心の中に仕舞い込み、木霊の様に飛び交う言葉の余韻を、酷く打ち拉がれた意識の手先で追い回した。
それはまるで、真っ暗な部屋の中で、突然眩い照明を焚き付けられた様な、突然深い眠りの淵から叩き起こされた時の様な、一瞬の忘却の白霧に囚われた意識が、周囲の状況を中々把握できずに、もがき苦しむ物憂い感覚に似ている。
ゆらゆらと揺らめくジッポの炎へと釘付けられた彼女の視線は、全く動く気配すら見せず、口元に銜えたタバコの先端部では、燻った様に点火し損ねた種火が、「パスッ」と言う音と共に、虚しい煙を上げた。
・・・私の涙は出なくなったの・・・。
それは嘗て、私自身に対して言い放たれた冷酷な言葉。
全身の血液が沸き立つ程に、怒りを覚えた言葉。
忘れたくても忘れられない、思い出す度に腸が煮えくり返る程の、忌々(いまいま)しき言葉。
それは勿論、私自身、その意味を取り違う事も、言い間違う事も無いはずの、自分とは対極にあるはずの言葉。
それなのに・・・、それなのに・・・。
何をどう間違ったのか・・・、まさか私自身が、そんな言葉を吐き出そうとするなんて・・・。
しかも、あの時とほとんど同じ様な状況で、あの女とほとんど同じ立場で・・・。
そんな・・・、ありえない・・・。
ジャネットは直後、酷くうろたえた様子で瞳を小刻みにバタつかせながら、目の前に放置されていたブランデーグラスへと視線を取り付かせると、ぐらつく意識の拠り所として、必死にそれを凝視した。
空っぽになったブランデーグラスの中では、唯一残された氷の破片が二、三、今尚、煌びやかな光を放っており、暖かな外気によって融け出した雫を、止め処なく滴り落としている様子が、遠目からでもはっきりと見て取る事が出来た。
胸の奥深く、心の淵へと突き刺さった現実と言う鋭利な鏃を氷に見立て、そこから解け出す雫を涙と称するなら、それを取り巻く思いの強さは、外気の温度に等しいと言える。
セニフから浴びせ掛けられた鋭い言葉の鏃に対し、何ら少しも動ずる素振りを見せない彼女の心は、確かに完全に冷え切っていた。
心の淵へと深々と突き刺さった言葉の痛みに悶えるでもなく、その傷口を少しも癒そうとしない彼女の心は、確かに完全に冷え切っていた。
それは勿論、それまで胸の奥に突き刺さっていた痛々しい過去の記憶を、必死に融かそうとして、持てる熱気を使い果たしてしまったから。
心の中に新たなる熱を生み出す、源となるべき志、目標、希望と言ったものを、いまだ全く見出す事が出来ていなかったから。
他人との物理的干渉から来る、一時的な温もりだけ切望して、他人との論理的干渉から来る、真なる暖かさを拒み続けていたから。
仲間の死。二年も一緒に暮らしたチームメイトの死。
親友と呼べる程の心の通い合いは無かったかもしれないが、それでも友人と呼べる程の楽しき遣り取りを幾つも重ね経て来た仲間の死。
アリミアが死んだと言う事実を前にして、全く涙が一滴も零れ落ちてこないのは、今だ彼女の心の中で、アリミアに対する激しい怒りの念が、グズグズと燻っているから・・・と言うのも、あながち嘘では無いのだろうが、マリオの死と言う、もはやこれ以上無い深い悲しみを知ってしまった心が、その他の悲観的事象に、何ら揺り動かされなくなってしまったのも事実だった。
打ちのめされ、這い上がる度に人は強くなる。
それは人の身体についてのみ言える事ではなく、人の心に関しても同じ事・・・。
精神的に強くなった・・・と言われれば、それは正しくその通りなのかもしれないが、精神的に不感症になった・・・と言われれば、それもまた正しくその通りでもあり、ジャネットはふと「この冷血女・・・」と、心の中で自分の事をそう吐き捨ててやった。
そして、暖かな温もりを失った心の冷気に、じっと意識を曝し漬けたまま、脳裏に思い描いたアリミアと言う人間像に、自分自身の姿を重ね合わせると、そっと宛がった内なる視線を持って、彼女を作り上げるに至った様々な出来事を連想してしまった・・・。
私は、アリミアと言う人間、アリミアという人間の性格が嫌い。大っ嫌い。
それはそれで良いと思う。無理して自分を曲げて考える必要なんて無いと思う。
でも・・・、それでも・・・、なんとなく・・・、アリミアと言う人間が、少し解ったような気がする・・・。
(ジャネット)
「ふー。」
やがて、吸い損ねたタバコを灰皿の中へと放り投げ、左手で軽く前髪をクシャクシャと掻き乱して見せたジャネットは、まるでタバコの煙を吐き出す様に溜息を付き、目には見えない心のモヤモヤを周囲へと撒き散らした。
そして、徐にカウンターテーブルの奥の方に置かれていたアイスペールへと右手を伸ばし、静かに手元まで引き寄せると、自分のグラスとセニフのグラスに、手掴みで取った氷を二、三、放り込んだ。
(ジャネット)
「ねぇ。セニフ。」
静かに心を落ち着けるように、そうセニフの名前を呼んだジャネットは、その後、手にしたブランデーボトルを、ゆっくりと二人の空いたグラスへと傾けながら、チラリとセニフの方へと視線を流す。
(ジャネット)
「何で私の名前に、ミドルネームが付いてるか解る?」
セニフはじっと、下を俯いたままの体勢で、身体を小さく窄めていたのだが、涙に濡れた目元を軽く拭い去った後で、静かにジャネットと視線を交錯させると、「解らないよ」とだけ小さく返事を返した。
ジャネットの表情を見る限り、先ほど急激に熱を帯び爆発した怒気は、完全に何処かへと掻き消えてしまったらしく、セニフの前にグラスを差し出す素振りも、静かなる所作だった。
(ジャネット)
「私とマリオの違い。」
ジャネットは、持ち上げたブランデーグラスを目の前でクルリと回し、カラン・・・と言う綺麗な氷の音色を一つ響き渡らせると、ブランデーにチビリと口を付けた後で、静かにそう呟いた。
それは、決して誰にも言うつもりの無かった過去の話。
自分とマリオだけが知っていれば、それでよかった過去の話。
勿論、それをセニフに話して聞かせた所で、何がどう変わると思った訳では無い。
しかし、ほろ酔い加減にまどろんだ意識が、不意に静けさを取り戻した心の水面に、何処か居心地の悪いむず痒さの様なものを、感じてしまったからなのかも知れない。
ジャネットは、薄暗い店内に流れるしっとりとした音楽が、次の曲へと切り替わるタイミングを見計らって、再びブランデーを口に含み入れると、周囲にふんわりと漂い始めた甘美な香りに誘われる様にして、少しだけ昔の話を語り始めた。