07-08:○燃えないゴミ
第七話:「光を無くした影達の集い」
section8「燃えないゴミ」
はっきりと目を見開いても、何も見えない真っ暗な闇の中で、意図的に切り捨てた身体の全てを、纏わり付く黒い靄の中へと放り投げる。
ねっとりとした生温い気配に包み込まれた、黒い靄の中へと。
波打つ様に聞こえ来る気持ちの悪い吐息が渦巻く、黒い靄の中へと。
それは、全てを飲み込み、全てを掻き消してくれる、全く持って都合の良い逃げ場所であり、痛々しくも切り刻まれてしまった心の傷跡を癒す為の、辛く悲しい思い出の数々を忘れ去る為の、一番手っ取り早い禍々(まがまが)しき掃き溜めだった。
寒々とした虚空の只中で、前も後ろも、右も左も解らぬままに、彷徨い続ける事しか出来なかった惨めな心は、妬ましい思いを強く募らせる事になろうとも、中身を抜かれた人形の様な身体を餌に、おぼろげなる意識の釣り糸を、その黒い靄の中へと垂れ下ろす他無かった。
そして、身体と全く同じ形をした卑しき心の全てが、釣り糸を辿って流れ来る悪魔的快楽によって、完全に麻痺してしまうのを、ただ只管に待ち焦がれる・・・。
それはまさに、麻薬のような傷薬。
こうしていれば、しばらくの間は、辛い思いを忘れていられる。
こうしていれば、しばらくの間は、何も考えずにいられる。
本来であれば、心も含めた自分の全てを、その黒い靄の中へと放り込みたかった。
こんな消え入りそうなか細い意識の釣り糸越しではなく、直接触れ合う事で感じる暖かな安らぎを求め、堪え難き幸福感に満ち溢れた深い深い悦びの深海へと、自分の全てを沈め入れたかった。
そうする事で、深い傷を負わされた心の痛みが、少しは和らぐと解っていたから。
そうする事で、心の奥底に溜まった真っ黒な重石が、少しは軽くなると解っていたから。
でも、やっぱり、それは出来なかった。それだけは出来なかった。
何故なら、その黒い靄の中の住人は、人の心を優しく食して満足するような愛くるしい小動物などではなく、物理的肉欲を満たしたいが為に、死肉すら貪る凶暴な魔獣なのだから。
勿論、そんな事は、初めから解っていた事だった。
「あんっ・・・。はぁっ・・・。はあっ・・・。」
やがて、時折激しく跳ねる様に切なさを弾けさせる身体の衝動が、意識の虚空に稲光にも似た虹の閃光を鋭く迸らせると、意図せずも硬く強張った身体の各所に、容赦なく次々と突き刺さって行く。
そして、その傷跡から漏れ出した真っ赤な恍惚の雫を、薄ら暗いガラス素材で拵えた心の器へと注ぎ入れ、じっと静かに溢れかえるのを待ちながら、もっと・・・もっと・・・もっと・・・と、身を捩るよ様にして搾り出した卑しき言霊を、何回も、何十回も、脳裏に反芻させる。
持てる意識の全てを身体中に張り巡らせ、決して一滴も零れ落とさぬようにして。
決して他の何物も視界に取り入れぬよう、その事だけに意識の全てを集中させて。
「あっ・・・。あっ・・・。あんっ・・・。」
徐々に水嵩を増し行く欲望の雫が、作り上げた小さな心の器の中で、細かなうねりを生じさせる度に、次第に下腹部から突き上げる快楽の小波が、より大きな荒波を紡ぎ出して、押し寄せて来るのが解る。
背筋を辿って首筋、後頭部付近へと到達した電気的衝撃波が、心躍るような刺激的閃光を弾けさせる度に、堪え難き性的興奮に塗れた身体の全てが、じわじわと剥き出しの神経を尖らせて行くのが解る。
しかし、恐ろしい程の快楽の波間を目の当たりにして、ドクドクと脈打つ胸の鼓動が、より強い高鳴りを奏で出す中で、火照り行く身体とは相反した心の静けさが、不意に彼女の意識を途切れさせてしまった。
それは、最初から心を切り離していたからなのだろうか。
完全に自由を奪われた操り人形の様に、弄ばれる厭らしき身体を、まるで他人事のように見つめながら、何処か急に冷え行く隙間風を感じて取った心の陰影が、纏わり付く黒い靄の中に、白々とした客観的自分の存在を作り上げて行く。
それは、快楽の深遠へと溺れたいが一身で胸をときめかせていた、強欲で卑猥なる心とは全く別物の、鋭く尖った無数の棘を何重にも纏って、近づく者へと容赦なく突き付けていた弱々しき臆病なる心とは全く別物の、暖かな優しさに包まれた、清楚でいて可憐なる真っ白な華だった。
それは、いつ何時であれ、誰にでも優しく、誰にでも素直で、本当の意味での純粋さを抱き持った、透き通るような心の持ち主であり、自分自身が常に憧れとしてきた理想の存在・・・。
そうだ・・・。私、こう言う人間になりたかったんだ・・・。
見渡す限りの真っ黒な世界に、虹の様な波紋を広げる不思議な土台を足場として、眩いばかりの燐光を放つ、真っ白な華の風体を見て取りながら、情けなくも感嘆にも似た大きな溜息を吐き零してしまうと、それまで無理矢理に押し込めてきた熱い涙が、静かに心の外壁を伝い流れ落ちた。
それは一体、何処から流れ出した涙なのか解らない。
だけど、心の全てが泣いている様な感じがする・・・。
絶え間なく突き上げるおどろおどろしき快楽の波間に、激しく両肩を上下させながら、じっと見つめた瞳の奥底に、真っ白な華のイメージが焼き込まれると、やがてそれは、鏡に映し出したかの様な自分自身の姿へと徐々に変貌を遂げていく。
それは、真っ白でいて綺麗なる輝き纏った自分自身の心の一部。
それは、暖かな思いやりの油膜を纏った自分自身の心の一部。
絶えず暖かな微笑みを浮かべる、優しげでいて人当たりの良い温厚な女性。
そう。確かに私にも、こんな一面があったっけ・・・。
こんな自分になろうなろうって、いつもいつも思ってたっけ・・・。
優しく笑った笑顔。自分で見ても、一番可愛い表情だと思っている。
私はいつも、こんな笑顔を浮かべていたかったんだ。
そして、周りの人達にも、笑顔を分け与えてあげられる様な、そんな優しい人間に、私はなりたかったんだ・・・。
しかし、そんな美しき女性の姿形に、じっと見惚れていた嘗ての自分は、不意にこちら側を向いた真っ白な華の軽蔑的視線によって、無残にも粉々に打ち砕かれてしまった。
そして、直ぐ傍らで惨めにもみだらな姿を曝け出す今の自分を省みて、快楽に溺れる事でしか自分を守る事が出来なかった今の自分を省みて、絶望的な悲壮感に溢れかえってしまった心の中に、痛烈な言葉を響かせるのだ。
ありえない。こんなのただの売女。
糞みたいな醜い身体をひけらかして、何の努力も無しに、欲しい物だけ得ようなんて、ほんと欲深で恥知らずな女。
見るに耐えないいかがわしい姿だわ。
救いようが無い変態女の分際で、清楚で可憐な女性になりたかったなんて、よくもまあ恥ずかしげもなく言えたものね。
笑うにも笑えない腹立たしい冗談だわ。
腐敗臭すら漂う汚らしい死体の分際で、決して手が届くはずも無い、可憐なる華の外面だけを見つめて、未練がましくも涙を零して見せるなんて、全く同情する価値も無いはしたない行為そのものよ。
今、貴方が垂れ流している涙は、もはや悲しみの雫なんかじゃない。
それは自分でも解っている事でしょ?
今、貴方が垂れ流している涙は、快楽に溺れる悦びの雫よ。
ほら、見てみなさい。
「ああぁっ!・・・あんっ!・・・ぁあぁっ!・・・はぁっ!」
自らが放つ痛々しい言葉の鏃が、ぐっと硬く閉じた心の瞼を貫通して、容赦なく心の深遠部を切り裂いていく中で、思わず薄っすらと両目を見開いてしまった彼女は、目の前でゆさゆさと揺れ動く黒い塊の蠢きを見て取ると、直ぐに狂おしく迫り来る快楽のうねりへと、再び意識を埋没させた。
既に大きな穴の空いた彼女の心には、立ち込めた黒い靄の他は何も無い、がらんどうとした虚空の世界が広がっていただけであり、幾ら鋭い言葉の鏃を持ってしても、彼女の心を揺り動かす事はできなかった。
やがて、心の中に広がる黒い靄の中へと掻き消えて行った言葉の余韻を、酷く浮付いた脳裏に何度も何度も反芻させながら、再びギュッと強く両目を瞑った彼女は、何処か妙に冷え切った感覚の中で、卑猥なる躍動を生み出す自分自身の姿へと視線を据え付ける。
そして、そのいやらしき醜態が醸し出す、淫靡な香りに釣られる様にして、ゆっくりと一歩一歩、快楽に満ち溢れた地獄の様な秘境へと歩を進めて行った。
私は厭らしい女。そんな事は解ってる。
私は浅ましい女。そんな事は解ってる。
でも、目の前に現れた真っ白でいて可憐なる華のイメージは、確かに私の心の中に存在していた、優しく温和な人柄を形作ったもの。
いつもいつも心の奥底で思い描いていた、私が最も理想とする愛おしい自分の姿そのもの。
私が必死になって追い求めていたものは、自分自身の心の中に確かに存在していたんだ。
勿論それは、私一人だけでは決して気付く事が出来なかったし、私一人だけでは、決して辿り着く事が出来なかった。
私は、貴方が差し出した暖かな手の温もりに触れられる事で、貴方と言うかけがえの無い存在に包み込まれる事で、心の中に残った微かな希望の火種を、ようやく守り通す事が出来ていたんだ。
ほんと、弱いお姉ちゃんだよね。
ほんと、情けないお姉ちゃんだよね。
こんなお姉ちゃんの姿、貴方には絶対に見られたくない。
貴方だけには絶対に見られたくない。
絶対に・・・。絶対に・・・。
見られたくなかったのに・・・。
「あぁっ・・・。はぁんっ・・・。はぁんっ・・・。あぁんっ・・・。」
でも・・・。でも・・・。私・・・。寒くて寒くて仕方が無かったの。
心の奥底から凍り付く様な寒さで、身体の全てが引き裂かれそうになるほど苦しくて、頭から毛布を何枚被っても、必死に身を丸めて手足を擦っても、全然寒さが和らいでくれなかったの。
貴方に守られる事で暖かな光を宿していた心の種火も、唐突に振り落ちた残酷な現実によって、無残にも踏み潰されてしまったし、私はもう、自分一人だけでは暖を取る事も出来ない、死人の様な無機的な存在に成り下がってしまったの。
貴方と言う暖かな存在を失い、自分の心の中の暖かさを失い、新たなる別の何かを見出す事も出来ない真っ暗な闇の中で、私はもう、自分自身の手で自分自身の身体に火を放つ事しか出来なかった。
まるでゴミ屑の様に自分の身体を放り出して、足の先から手の先に至るまで、厭らしき欲望と言う油を塗りたくって、燃やしてしまう事以外に、暖まる方法を見つける事ができなかったの。
でも、本当に燃やしたいと思っていたのは自分の心。
本当に暖めたいと思っていたのは自分の心。
心と身体を切り離した状態で、身体だけを真っ赤な業火の中に埋め入れた所で、結局は少しも暖かくないんだって事、それも解っていたつもりだった。
冷え切った心に火を付ける為には、もっともっと別の他人の強い想いが必要なんだって事、それも解っていたつもりだった。
でもね・・・。それでも、意識を伝って沸き起こる興奮が、少しは寒さを忘れさせてくれるんだ。
「あんっ・・・。あはぁん・・・。」
貴方に代わる存在なんて、他にいないから。
「あんっ・・・。はぁっ・・・。あぁっ・・・。」
こうする以外に、寒さを掻き消す事が出来ないんだ。私・・・。
「あっ!・・・あううっ・・・ぅっ!・・・・・・っはぁ!」
やがて、吐き出された悦びの嗚咽すら、掻き消し始める頃合を向かえ、次第に薄れ行く意識の中に、ぼやけた新たなる世界への扉が見え始める。
もう少し・・・。もう少し・・・。まだ足りない・・・。もう少し・・・。
「あうっ!!・・・・・・っぅうぅぅ・・・。」
しかし次の瞬間、思いがけずも唐突に握り潰された左胸の激痛によって、彼女は無残にも半場強引に現実世界へと引きずり戻される事となってしまった。
ようやく見え始めた甘美なる異世界への扉を前にして、ようやく手の届きかけた精神的楽園への扉を前にして、彼女の中でそれまで積み上げられてきた快楽の階段が、脆くも儚く一気に打ち砕かれてしまったのだ。
険しく表情を歪め、目の前の黒い塊から延びる右手へと徐に掴み掛かった彼女は、なんて意地悪な奴!・・・などと、その顔に唾を履きかけてやりたい思いを強く滲ませながら、暗がりに浮かぶ不気味な薄ら笑いを睨み付けた。
左胸へと食い付いた右手は、決して暖かな温もりを与えてくれる様な感触を有しておらず、あからさまに悪意を強く込め入れた、嫌がらせ的意図しか感じ得ないものだったが、必死になってその右手を振り解こうと身を捩る度に、快楽に満ち溢れた身体の全てが、おんおんと悦びの雄叫びを上げているのが解った。
意図せぬ焦らしに鬱陶しい不快感を覚えつつも、それによって欲望を満たし入れる心の器が無理矢理押し広げられたのも事実。
強引に外された抑制のタガが、彼女の心の中で一気に弾け飛んだ。
「あぁっ・・・!ああぁっ・・・!あああぁっ・・・!」
もはや自分でも、どうなってしまうのか全く予測できぬ程に、巨大化してしまった心の器をじっと見つめながら、滝の様に流れ落ちる快楽の湯水を、少しも堰き止める事が出来ない自分の姿に、彼女は愕然とする。
いいのよ。これで・・・。これでいいの・・・。
次第に荒さを増し行く呼吸の合間に、渇いた喉元を微かに潤す様に生唾を飲み込み、恐ろしくも速いスピードで水嵩を増し行く自分の厭らしさに、激しく両肩を上下させながら、ときめく胸の鼓動が快感に打ち震える。
一度は小さく萎んでしまった浅黒い風船も、今や大量に溜め入れた快楽の水面に揺さぶられて、次第に赤々とした光沢を纏って大きな膨らみを形成し、岩の様に重かった彼女の心に、まるで翼が生えたかの様な身軽さを与えていく。
これなら届く・・・。きっと届く・・・。
全身から流れ来る甘く切ない快楽の突き上げを、心の全てでしっかりと受け止めて、何もかも忘れ去る、何もかも掻き消す事の出来る、天国の様な心安らぐ温和な世界へと続く階段を、ただ只管に駆け上って行く。
そして、時折喉元に詰まる吐息を荒々しく吐き出しながら、零れ落ちそうになる程十分に満たされた快楽の雫を熱く熱く滾らせながら、震え上がる身体の悲鳴を天へと向けて高らかに奏で上げる。
「あああああぁぁぁぁぁっ・・・・・・!!」
やがて、身体の重たさ全てから開放された彼女の心が、濃密な白霧を切り裂いて天高く舞い上がったのを期に、彼女はようやく待ち望んでいた眩い楽園の陽光を目の当たりにする。
そこは真っ白でいて他には何も無い暖かな広がり。
見渡す限りの白さに包み込まれた眩いばかりの果てしない広がり。
性的興奮の絶頂へと至った者のみに与えられた、極上の悦びに満ちた快楽の最終地。
そこはただ、それまで只管に積み上げてきた快楽の余韻に浸る事だけが許された、完全個人の密室であり、何を見る必要も無い、何を考える必要も無い、と言うより、何を見る事も許されない、何を考える事も許されない、全く持って不条理だが、非常に居心地の良い幸福感に満ち溢れた新世界だった。
そして、白い白い空間の全てに心の全てを溶かし入れて、自分自身の存在すら感じ得ない、とろけるような無たる境地の只中で、ずっとずっと・・・こうしていたい・・・と、永遠なる漂いに強い強い願いを込め入れる。
しかしそれは、ほんの一瞬の出来事で終わりを迎えてしまう儚き世界だった。
不意に沸き起こした思いとは裏腹に、周囲に立ち込める真っ白な濃霧が、一瞬にして目の前から掻き消えてしまうと、暗い暗い闇の中で灰の様に燃え尽きてしまった身体の中へと、無理矢理に心が引き落とされてしまう。
今だ止む事の無い快楽の余波に打ち拉がれた身体が、彼女の脳裏に激しい倦怠感を、次々と擦り付けて来る中で、咽ぶ様に漏らし続ける絶え間ない嗚咽が、彼女の意識の耳朶を打つ。
震える両手でベッドのシーツをギュッと強く握り締め、しばらくの間、じっと静かに身を丸め込むようにして、その波が収まるのを耐え忍んでいた彼女は、やがて、ああ・・・、戻ってきてしまった・・・と言う無念なる思いと共に、そっと見開いた視線の先に、何も無い真っ暗な部屋の天井を見据えた。
それまでねっとりと身体に纏わり付いていた、猥りがわしい陰湿な黒い塊も、今はもう完全に何処かへと姿を掻き消した様子で、ただ一人、薄ら寒い雰囲気の中に放置されていた彼女は、徐に額へと右手を宛がって静かに両目を瞑ると、次第に収まり行く吐息を溜息へと書き換えて、無言なる呟きを心の中に吐き出してしまった。
男って、皆こうなのかしら・・・。
その後、ゆっくりと身体を捻るようにして上体を起こした彼女は、ベッドの脇に備え付けられていたテーブルスタンドへと手を伸ばすと、真っ暗な部屋の中に優しげな灯火を宿し入れる為のスイッチを押し、戻すその手で直ぐその脇に置いてあったティッシュを何枚か摘み取った。
そして、ある程度簡単に後始末を済ませた後で、不意にベッドの上で大の字になって寝そべる大男へと視線を宛がうと、唐突に沸き起こった大きな溜息をもう一度吐き捨てて、ゆっくりとテーブルの上に置いてあったタバコを手に取った。
欲望に任せてあんなにも荒々しく食らい付いて来た癖に、事一つ終えると、こうも簡単に無頓着になれるなんて、なんとも都合の良い性格してるわね。
ほんと、呆れちゃうわ。
でもまあ、その方が私も気が楽でいいんだけどね。
やがて彼女は、口元に銜え入れた一本のタバコに、手際よく右手でジッポの炎を振り翳すと、ほんの数回程の吸引と共に真っ白な煙を周囲に吐き散らした。
そして、オレンジ色の光沢に照らし出された綺麗な脚を、ゆっくりと交差させて組み合わせると、その上に左手で艶やかな衝立を拵え、更にまたその上にどっかりと頭を乗せ加えて、何処か気の無い視線を部屋中に巡らせた。
しかし、兵士達の仮部屋でしかないその小狭い空間には、特にこれと言って目を引くような物が置かれている訳でもなく、無造作に脱ぎ捨てられた彼女の衣服だけが、閑散とした部屋の床面に、唯一の無意味な装飾を施していただけだった。
彼女はふと、右手に持ったタバコから伸びる、静かな煙の立ち昇りへと視線を移し変えると、特に何をするでもなく、じっとその煙が織り成す綺麗な踊りに意識を集中させた。
くねくねと妖美なうねりを見せつけるその揺れ動きは、時折解れてはまた再び絡み合うと言った、全く飽きの来ない不規則な揺らめきを奏で出しており、彼女はしばらくの間、その不思議なる煙の幻想的ダンスへと見入ってしまった。
「タバコ。いつから吸い始めた?」
すると突然、彼女の背後から全く予想だにしなかった男の言葉が発せられた。
彼女は思わず驚いた表情を浮かべ、直ぐに男の方を振り返ったのだが、その男の視線が天井へと括り付けられたまま、全く自分の方へと向けられる気配が感じられない事に気が付くと、不意に陰りを落とした薄ら暗い表情を醸し出して、素っ気無くタバコの煙を吸い込んで見せた。
「私の事なんか少しも興味ない癖に、そんなつまらない事聞かないでよ。」
そして、何処か苛付いた態度をほのかに滲ませて、吐き出した白い煙と共にそう言い放って見せた彼女は、徐にベッドの上から重たい身体をすっくと立ち上がらせると、床上に散乱した自分の衣服を一つ一つ拾い上げながら、テーブルに置いてあった小さな時計にチラリと視線を宛がった。
まだ十時半前か。部屋に戻ってシャワーを浴びるぐらいなら、まだ大丈夫な時間よね。
「私、作戦会議の前に、一度部屋に戻ってシャワー浴びてくるわ。」
その言葉に対する返答は無い。
彼女自身、それも解っていた事だ。
彼女は吸いかけのタバコを、これまたテーブルの上に置いてあった灰皿へとグリグリと押し付けると、男の無粋な態度を問い質すでもなく、やがて、集め終えた衣類をいそいそと着込み始めた。
そして、ようやく全ての衣服を纏い終えた後で、少しばかり乱れた抹茶色の癖毛へと何回か手櫛を通して見せると、最後にタバコとジッポを左胸のポケットへと押し込んで、もう一度男の方へ視線を宛がった。
特にお互いがお互いに惹かれあって結ばれた関係ではない。
お互いがお互いに求めた物同士を補い合う為の上辺だけの関係。
勿論、それ自体が悪い事だとは思っていない。
結局それは、自分自身が望んだ事で、そして貴方自身が望んだ事。
誰にも迷惑のかからない、二人だけの乱れた関係。
貴方もそれでいいんでしょ?
彼女はその後、心の中に浮かべた男への問い掛けに対し、不気味な薄ら笑いを浮かべて見せた男の態度を、その返答として受け止めると、再び呆れ返った様な深い溜息を吐き出した。
そして、直ぐさま素っ気無く部屋の出口がある方向へと意識を逃がすと、重たい気だるさに包み込まれた身体を引き摺る様にして、全く無言のままその部屋を後にした。
彼女がほぼ毎日の様に足を運び入れてしまうこの薄暗い二人だけの密室は、確かに彼女の心に纏わり付く凍える様な寒さを、一時的に忘れさせてくれる効果があった。
しかし、それは決して悪い事ではないのだ・・・と強く強く自分自身に言い聞かせる反面、彼女の心の奥底には、非常に重々しい罪悪感がどっぷりと溜まり込んでいる様だった。