06-36:○貴方を殺す為に生きてきたというのに[3]
※変更内容を後書きに移しました。
第六話:「死に化粧」
section36「貴方を殺す為に生きてきたというのに」
ドッ!!
一つ一つの場面を緩やかに繋ぎ止めていた意識の中で、五体に繋がる全ての感覚に纏わり付いていた重たい鎖が、奏で上げられた鈍い音と共に、一斉に細切れになって四散して行くのが解った。
それは何か強靭な素材で作り上げられた重たい鎖であり、瞬間的に沸き起した己の思考とは相反する、目には見えない拘束具に違いなかったが、自由を奪われた意識が鬱陶しさを訴えかける中にあっても、不思議と嫌な臭いを感じさせないものだった。
生物が生物として感じる本能的意志を、人が人として感じる理性的意志によって絡め取り、今ある自分を忠実に体現して見せた彼女の行動は、全く疑いようもなく、感情によって揺り動かされる人間の姿を、如実に描き出している様にも見受けられた。
そこにいたのは、たった一人の人間。たった一人の女性。
暖かな温もりさえ感じる強固な心の鎖に縛り上げられ、無数の殺人術を教え込まれた身体を、少しも動かす事が出来なくなってしまった女性が一人、そこにいただけだった。
沸き起こる感情の全てを押し殺し、目の前に現れた敵のみを、ただ本能の赴くままに縊り殺してきた嘗ての彼女は、もういなかった。
冷酷で残忍な戦闘マシーンとして、帝国中に悪名を轟かせていた嘗ての彼女は、もう何処にいなかった。
「ローゼイト・サーペント」は、もう既に死んでいたのだ。
身体を通して聞き及んだ現実と言う鈍い鐘の音に促され、掻き消えた鎖の喪失感に苛まれながらも、開放感に満ち溢れた彼女の意識が、次第に取り戻した視野の中に彼の姿を捉え見る。
そして、お互いに見つめ合う事が出来る程に接近した彼の表情を、じっと食い入るように見つめたまま、彼女は本能が感じるがままの想いを詰め込んだ言葉を小さく呟いた。
ノイン・・・。
・・・が、しかし、アリミアが発したつもりのその言葉は、全く空気の震えを生み出す事が出来ず、僅かに動いた唇だけが、彼女の想いを描き出して終わった。
アリミアはふと、ノインを捉えていたはずの銃口、伸ばした右手に握り締めた短銃の先が、既に彼の顔の右側に逸れ、遥か遠くまで行き過ぎている事に気が付いた。
そして、全く感覚のなくなった右手が次第に垂れ落ちて行き、しっかりと握っていたはずの短銃が、力なく掌から零れ落ちていく様を目の当たりにした。
アリミアは再び、目の前にあるノインの表情へと視線を戻し、相も変わらず鋭い殺気に満ちた彼の瞳をマジマジと覗き込むと、微かに視線を逸らした彼の瞳の挙動に合わせて、自分の右胸に宛がわれた彼の右手へと視線を落とす。
・・・!!
その直後、アリミアは、ノインの右手に握られた鋭利なナイフが、自分の右胸奥深くへと突き刺さっている様を見て取った。
(アリミア)
「!!ぅっ!!・・・ぐっ!!」
そして、唐突に襲い掛かってきた激しい右胸の痛みに悶え、苦悶の表情を浮かべたアリミアが、苦しそうな呻き声を発する。
アリミアの右胸へと突き立てられたそのナイフは、その身の丈の半分以上を、彼女の体内へと埋め込んだ状態にあり、じわりじわりと傷口から滲み出した鮮血が、徐々に真っ赤なスーツドレスをどす黒く染め上げていくのが解った。
結局アリミアは、ノインへと突き付けた短銃のトリガーを引く事が出来なかった。
そして、ノインが振り下ろした鋭いナイフを、小気味良くかわして見せる事も出来なかった。
唐突に呼び覚まされた数々の記憶と、心に宿した彼への強い想いに取り憑かれ、彼女はただ、短銃の照準越しに浮かび上がる、ノインの表情を見つめる事しか出来なかったのだ。
しかしこの時、何故?・・・と言う疑問が、彼女の頭には浮かんでこず、妙に納得感のある感情を沸き起こしてしまった彼女は、直ぐに震える左手でノインの右手へと掴みかかると、弱々しい力ながらも、即座にナイフを引き抜こうとした。
するとノインは、直ぐに彼女の懇願を聞き入れるかの様にして、彼女の右胸からナイフを一気に引き抜いた。
(アリミア)
「あぅっ!!」
全身を駆け巡る程の強烈な痛みに身を捩られて、上体を少し屈めるようにして蹲ったアリミアは、左手で右胸の傷口を強く押さえ付けると、ガクガクと力の入らなくなった両足を必死に震わせ、少しづつ後退りを始めた。
しかし、より勢いを増して噴出し始めた真っ赤な鮮血が、彼女の意志に反して、容赦なくボタボタと屋上床に滴り落ちて行き、一歩、二歩と後退する度に、まるで重石のような倦怠感が、次々と彼女の身体に重く圧し掛かっていく。
やがてアリミアは、塔屋小屋の壁際まで到達した直後、背中を壁に打ち付けた衝撃によって、力なく両膝を挫き折られると、まるで何かの力で上から押し潰されるかのようにして、ずるずるとその場にへたれ込んでしまった。
焼けるように疼く胸の痛みから、荒ぶる鼓動は全く収まる気配を見せず、ドッと顔中に滲み出した汗が、激しく肩を上下させる彼女の頬を静かに伝い落ちていく。
休みなく苦しそうな吐息を漏らし続けるアリミアは、噴出した大量の血と共に次第に遠のき行く意識を、必死に心の中で強く握り締めると、ゆっくりと頭を擡げ、重さを増した瞼を見開いた。
小刻みにうつろう瞳の先で捉えた世界には、たった一人の男が立ち尽くしていた。
それは嘗て彼女の仲間だった男。
彼女の良きパートナーであり、心の拠り所にもなった男。
そして、組織を裏切った男でもあり、彼女を凄惨な地獄へと突き落とした男。
激しい殺意を抱いて、絶対にこの手で殺してやるのだと、心に誓った男。
(アリミア)
「ご・・・五年間の・・・ブラン・・・うっ!!ゴホッ!!ゴホッ!!」
五年間のブランクは、やっぱり大きかったようね・・・。
この時、アリミアが発したかった言葉は、こんな他愛の無い文面だったが、唐突に沸き起こった激しい吐き気によって、どす黒い血反吐を吐き出したアリミアには、その言葉を最後まで言いきる事が出来なかった。
本当はそれ以上に、もっと言いたい言葉が、山ほど存在していたはずなのだが、彼女はシュバルツ・ノインと言う男を前にして、常に平静さを保つ強い自分の姿を、崩して見せたくなかったのかもしれない。
アリミアはやがて、右胸へと押し当てていた左手を引き剥がし、掌に付着した大量の血痕へとチラリと視線を宛がうと、まるで他人事の様に素っ気無い態度を保ったまま、再び左手を右胸に押し当てた。
そして、酷く湿り気を帯びた溜め息を一つ吐き出してみせると、鉛の様に重たくなった上体を引き起こし、塔屋小屋の壁に凭れ掛かる様にして、ゆっくりと満天の星空を仰ぎ見た。
細く見開いた瞼の向こう側には、雲ひとつ無い綺麗な星空が広がっていた。
それは、真っ黒なシーツ上を舞台として描き出された無数の星々が、それぞれに抱き持った思いを表現するかのように、艶やかに瞬き続ける透き通った世界。
明るく煌びやかに輝く星もあれば、薄ぼんやりとして存在を確認する事さえ難しい星もある。
一箇所に密集して星団を形成する星もあれば、虚空の中でたった一つ孤立している星もある。
それはまさに、この汚れきった世界の中で、混沌とした世界の中で、不安定な世界の中で、必死に生きようとする人々の思いを具象化したような、そんな人間模様を描き出しているようにも見受けられた。
私は、どの星なのだろう・・・。
周囲で瞬く星々の思いなど気にも留めず、それを頭から踏み潰すように、一際強い光を吐き付けるあの星だろうか・・・。
それとも、周囲から完全に隔離されたかのように、隅の方で薄ボンヤリと瞬いているあの星だろうか・・・。
(アリミア)
「うぅっ!!・・・・・・カハッ!!」
これはもう、助からないわね・・・。
・・・などと言う、冷静な自己分析結果が脳裏を掠め、死に際に瀕した自分の姿を理解したつもりになったが、彼女は不思議と、死に対する恐怖心を感じていなかった。
激しい混乱を見せた直前までの様相とは打って変り、ようやく穏やかな凪を示し始めた心の波模に、彼女は静かに両目を瞑り、最後の思いを連ね出していった。
諜報部に所属して、あの男・・・ユァンラオの素性を暴き出し、私達の前から完全に排除するつもりだった。
それがこのザマか・・・。
あの男を排除するどころか、その素性すら暴く事が出来ず、挙句の果てには、裏切り者であるノインに殺される事になるなんて・・・。
私もよくよく間抜けな女よね・・・。
非情に徹し、殺戮に殺戮を重ねてきた「ローゼイト・サーペント」は、もう私の中に存在していなかった。
いえ、そんな過去の自分を捨て去ったのは、他でもない自分自身。
今までそれに気付かなかったなんて、嘘よね。
人を傷つける事、人を殺す事に酷く臆病になった私は、それまで持っていた生きる為の手段を、自分から投げ捨てた。
投げ捨てざるを得なかったと言うのが、本当の所かしら・・・。
過去の私は、ローゼイト・サーペントは、あの時、リトバリエジで死んだの。
今の私は、アリミア・パウ・シュトロインと言う一人の人間。
偶然にも助けられた命を運命に委ね、新しき人生を歩み出した一人の女性。
勿論、閉鎖的空間の中で育てられた私にとって、それは決して簡単な事ではなかった。
皆が言う極一般的な日常生活と言っても、どうやって生きて行けばいいのか解らなかったし、何より、どうやって自分を振舞えば、どうやって人と接すればいいのかが解らなかった。
負ける事は即死を意味する過酷な世界で生きて来た私は、他人に自分の弱さを曝け出してしまう事に脅え、触れれば直ぐに切れる鋭いナイフを全身に纏っていた。
・・・と言うのは建前で、本当は他人との触れ合いから、相手の事を深く知ってしまう事に、恐怖していたのかもしれない。
チームTomboyの皆と出合った頃、私は頑なに自分の世界へと塞ぎ込み、決して誰も寄せ付けない、氷のような冷たい雰囲気を醸し出していた。
絶対に誰にも近寄られたくなかった。
自分を知られる事よりも、相手を知る事の方が怖かった。
でも、そんな冷え切った私の心を、暖かく融かしてくれたのが、セニフ、貴方だった。
勿論、他の皆もそうだけど、私は貴方に随分と救われた気がするの。
貴方も出合った当初は、全く誰とも関わり合いたく無い的な、冷え切った目をしていたわ。
それは私と同じで、生きる為の目的を見失った目だった。
私は当時、貴方の醸し出す雰囲気の中に、自分と同じような匂いを感じていたけれど、全く関わり合うつもりも無かったし、恐らくは貴方もそうなんだろうって、逆に都合が良いとさえ思っていた。
でもある時、貴方は急に人が変わった様に明るくなったわよね。
あれは、ビアホフが突然いなくなった日の翌日ぐらい・・・、同性だからと言って、私と一緒に二人部屋で暮らす事になった、その日からかしら。
今にして思えば、そう言う事だったの・・・って思えるけど、あの時私は、本当に驚いたわ。
それまでの貴方がまるで嘘だったかの様に、ずけずけと人の世界に勝手に入り込んできて、屈託の無い笑みを浮かべながら、明るく話しかけて来る・・・。
私は正直、そんな貴方の存在が、凄く鬱陶しくて、直ぐにでもその部屋を飛び出したい、何処か別の世界に一人で逃げ出してやりたい気持ちになった。
でも、その日の夜、貴方はベットの中で一人、静かに泣いていたわよね。
私、気付いてたわ。
それまで、常に一緒に行動していたビアホフがいなくなって、挙句の果てに、私みたいな冷たい女と二人きりで暮らす事になったんですもの。
貴方は、本当に不安だったんでしょうね。
貴方は見るからにか弱い少女だった。
私とは違って、たった一人では何も出来ない、力なきか弱い少女だった。
その場所が嫌だからといって、私みたいに別の世界に逃げ出してやろうなんて、思う事すら出来なかったのよね。
それから、明るくて無邪気な女の子を演じるようになった貴方は、次第にチームの皆からも親しまれるようになって行ったけど、突然自分を変えるなんて簡単なことじゃなかったと思うし、それだけ貴方が必死に生きようとしているのが解った。
何も出来ないか弱い身でありながらも、必死に皆に取り入る事で、自分が生きて行く為の居場所を作ろうと頑張っていた。
私はね・・・なんて言うか、貴方のその姿に、凄く心打たれたの。
弱々しくも、必死に生きようとしている貴方のその姿にね。
私はその時、ふっと、あのお婆さんの事を思い出してしまったわ。
力無いばかりに、何ら抵抗する事すら出来ずに、無残にも縊り殺されてしまったあのお婆さんの事を・・・。
私は、そんな貴方の事を守ってやりたいと思った。
私は初めて、自分自身ではなく、他人の事を守ってやりたいと思ったの。
私が貴方の事を守りたいと思うようになったのは、その時からかしら。
そしてその思いは、貴方の事をより深く知る度に、私の中で更に強さを増して行くのが解った。
私は貴方と、何の気兼ねもなく話し合うようになった。
私は貴方と、何ら他愛の無い事でも楽しく笑い合うようになった。
時には激しく罵り合ったりもして、貴方を泣かせてしまった事もあったわね。
私にとって、何の目的もなくただ傍らに居る貴方の存在が、いつしか不思議と違和感を覚えない存在に、逆に居ない方が違和感を覚えるような、そんな特別な存在になっていたの。
それまで、たった一人で生きて来た私にとって、こんなにも他人の事を多く知る事はなかったし、こんなにも自分の事を多く知らしめる事は無かった。
私の中では、ただ只管に楽しい日々が続く世界。
それが、チームTomboyで過ごした日々だった。
私は、こんなにも人と話す事が出来るんだ。
私は、こんなにも楽しく笑う事が出来るんだ。
私は、こんなにも嬉しいと思う事が出来るんだ。
私にとっては、毎日が驚きの連続だった。
自分と言う人間を知る為には、自分自身を映し出す、他人と言う鏡的存在が絶対に必要なの。
たった一人で自分を省みた所で、狭き視野から見渡せる範囲は、極僅かなものでしかない。
自分の奏で出す態度、表情、言動は、相手の態度、表情、言動となって返り、それを見て取る事で初めて、新たなる自分の心の揺り動きを感じる事が出来る。
そして、それを繰り返す事によって積み重ねられる自分の姿が、本当の自分と言う人間を築き上げて行く。
勿論、相対する他人の性格によっては、構築される自分の姿が変わってしまうのかもしれないけど、私は貴方と言う鏡を通して作り上げた自分の姿に、結構満足しているわ。
私にとって、自分と言う人間を知る為の鏡、かけがえの無い半身とも言うべきなのかしら、そう言った自分自身を知る事のできる鏡的存在が、セニフ、貴方だった。
そして嘗ては、それがノインだった。それは認めるわ。
私はね、一度、失ってしまったからなのかもしれないけど、貴方を絶対に失いたくなかった。
いつまでもいつまでも、一緒に暮らして行ければ、楽しい日々が続けば良いなと、そう願っていた。
でも・・・。結局それは、私自身の手で、壊してしまう事になるのよね・・・。
自分の身勝手な思いだけを一方的に突き通して、皆の事を考えている振りをしながら、実は少しも考えていなかった。
壊れたものをまた作り直す事が、いちから作り始める事より大変な事だなんて、知っているつもりでも知らなかった。
自分だけが悪者になれば良い・・・。そう思って・・・。
「貴方の言っている事は矛盾しているわ!!全然、貴方がやっている事と正反対じゃない!!そんな子供だましの論法で私を丸めこめるとでも思っているの!!自分の事だけが可愛いなんて、平気で言っておきながら!!今度は私の為にですって!!よくもぬけぬけと言えたもんだわ!!この矛盾人間!!」
ほんと、そうよね。
貴方にとってのマリオは、私にとってのセニフ、ノインと同じ存在。
そんな事、解っていた。
自分の事だけが可愛いと言っておきながら、貴方の事を思い遣るような態度をして見せたのは、結局、私自身、またあの楽しかった日々を取り戻したかったから。
貴方はそれを解っていたのよね。
貴方はそんな私の態度が、許せなかったのよね。
ごめんなさい。本当にごめんなさい。ジャネット。
「まだまだ色々と私から聞き出そうってわけ?もっと私の事を知りたそうな目をしているよアリミア。もっともっと!!私を事を暴いて楽しみたいんでしょ!?私を暴いてどうするの!?殺すの!?それとも帝国貴族にでも売り飛ばすの!?あの髭男みたいにさ!!あのロイロマールの連中みたいにさ!!何が知りたいの!?私がどうしてこんな所に居るかって事!?それとも私がどうやって生き延びたのかって事!?私がお父様をどうやって殺したかなんて事まで聞きたいの!?」
私は貴方の事を色々と知りたかった。
貴方の為にって、口先だけでは取り繕いながら、私は貴方の事を暴いて楽しみたかっただけなのかもしれない。
そんなつもりは無かった・・・と言うのは、余りにも図々(ずうずう)しいわよね。
でも私は、本当に心の底から貴方の事を知りたかった。
そして、私の事も知って欲しかった。
お互いに心を解き放って、持っている悩みや不安を含め、思いの全てを曝け出すような、そんな会話がしたかった。
貴方の迷惑を顧みず、それをする事で、貴方が更に傷付いてしまう事が解っていながらも、私は貴方と会話がしたかった。
ほんと、自分勝手過ぎるわよね。
ごめんなさい。本当にごめんなさい。セニフ。
でも、二人とも・・・いえ、シルも、サフォークも、マリオも、そして、その他の皆も、私と言う人間を作り上げる事に携わった人達全てに、私は感謝しているわ。
これまで出合った人達全てに、私はありがとうって言いたい。
それが出来ずに死んでしまうのは少し癪だけど、結局、生きている内は、私はそんな言葉を言えやしないだろうし、仕方無いわよね・・・。
でも、今の私は、素直に皆にありがとうって言えるわ。
私は、そんな人間になる事が出来たんだ。
こんなに嬉しい事は無い・・・。
あぁ・・・ギャロップ。私、貴方との約束、守れそうにも無いわ・・・。
貴方の言葉、嬉しかった・・・本当に・・・。
そして・・・ノイン。最後に貴方と会えて、本当に嬉しかった・・・。
貴方を殺す為に生きて来た・・・って言ったけど、私には貴方を殺す事は出来ない。
・・・それは、解っていた。
でも、それで良い。・・・それで良い・・・と思う。
もし最後に一つ、何かを願うとしたら、心に残った疑問を少し、ほんの少しでもいいから、解いておきたかったな・・・。
(ノイン)
「何故・・・。帰って来た・・・。」
その時、次第に薄れ行く意識の中で、唐突に舞い降りた思わぬ雫が、鏡の様に澄んだ心の水面に大きな波紋を呼び起こした。
それは、はっきりと聞き取れたわけではない、微かに聞こえた程度の人の声。
アリミアはハッとした表情を浮かべ、闇の底へと沈みつつあった意識を必死に浮き上がらせると、その虚ろな視線をノインへと宛がった。
それは、死に際にあって、そう「聞きたかった」彼女の想いが、意識上にその言葉を作り上げただけなのかもしれない。
アリミアは、もはや全く痛みすら感じなくなった右胸から、重さすら失った左手を振り落とすと、必死に上体を前へと傾け、幻のように発せられた彼の言葉を、何度も脳裏に反芻させた。
(ノイン)
「この俺を・・・。何の躊躇も無く・・・。殺せるようなら・・・。また、再び・・・。」
しかし、アリミアが凝視した視線の先で、ゆっくりと動き出したノインの唇が、次なる言葉を確かな肉声として奏で上げる。
それは、初めて聞く彼の声色。初めて聞く彼の思い。
それまで、全く一言も発する事が出来なかった聾唖の戦士が、初めてアリミアに対し、言葉を投げかけたのだった。
それは元々喋れる事を隠し通していたのか、それとも後天的に手術、あるいは訓練されたものなのか、直ぐには判断がつかなかったが、アリミアにとってそれは、どうでも良いことだった。
アリミアは、どす黒い血反吐を垂れ流す口元を僅かに開け放ち、唖然とした表情のままノインの姿を、ノインの表情を必死に見つめた。
するとやがて、彼の瞳から滲み出した大量の雫が、一斉に堰を切ったかの様に彼の頬を伝い、零れ落ちていった。
(ノイン)
「しかし・・・。お前は殺せなかった・・・。」
アリミアは解っていた。
そう。解っていた。
アリミアは自分の中で、恐らくはそうでは無いのかと言う答えを、既に察していた。
しかし、アリミアは、その答えへと辿り付く自分を想い必死に差し止めると、重たい扉の内側へと仕舞い込んで、自分では決して開ける事の出来ない鍵で、硬く施錠していたのだった。
本当にそうである事を確定付ける心の鍵が、齎されるその時まで。
キン。
今ここに、彼女の心の中に、微かな金属音を響かせて、舞い落ちた一つの鍵が、彼女の心の重たい扉を、静かに開け放っていくのが解った。
緩やかに流れ行く心地の良い夜風に、切り刻まれた紅い短髪をなびかせながら、ノインの姿を見つめるアリミアの瞳に、枯れ果てたはずの涙が、薄っすらと染み出していくのが解った。
決して十分にコミュニケーションを取れたとは言い切れない二人。
決して恋人同士であるとは言い切れない二人。
相手を殺す事でしか生き延びる術を知らなかった二人。
数多くの他人の命を踏み拉いて生きて来た二人。
そんな二人が、最後の最後に、お互いに抱く想いをぶつけ合う。
アリミアは必死に、自分の想いを込めた最後の言葉を吐き出そうとした。
・・・が、それも適わず、それならせめてと言う思いで、必死に唇を動かそうとした。
・・・が、それすらも適わず、僅かに口元を緩めて、ノインに小さな笑みを投げ返してやる事しか出来なかった。
そして、ゆっくりと閉じた目元から、一筋の涙を零れさせると、やがてアリミアは、静かに頭を傾けていった。
綺麗な化粧を施した清楚で可愛らしい女性。
真っ赤なドレススーツに身を包み、真っ赤な鮮血に塗れた可愛らしい女性。
瞑る瞼から零れ落ちた涙が、まるで宝石の様に彼女を彩り、僅かに浮かんだ微笑が、彼女の美しさに更なる華を添える。
掻き消えた命と引き換えに、その時彼女が手にしたもの。
それは恐らく彼女にとって、命よりも価値のある、素晴らしきものであったに違いなかった。
作者的に非常にテンポが悪いと感じたので、ノインの第一声が発せられた後の一文を変更しました。
前よりは良くなったと思います。
文章、ニュアンスが変わっただけで、内容には影響ありません。