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Loyal Tomboy  作者: EN
第六話「死に化粧」
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06-34:○貴方を殺す為に生きてきたというのに[1]

第六話:「死に化粧」

section34「貴方を殺す為に生きてきたというのに」


頬をでるように過ぎ去る涼やかな風は、ほのかに心地よい初夏の香りがした。


それは、心の中でかたくなに閉ざしてきた闇の扉を、そっと優しく開け放つような。


嫌な思い出の全てにふたをし、楽しかった思い出だけを、強く際立たせるような。


柄にもなく、心浮き立つような毎日を過ごしたあの夏の日を、冷め切った脳裏にふっと思い出させるような。


そんな、懐かしい感覚をくすぐる、甘く切ない夜風だった。


(アリミア)

「・・・確かに、私も貴方の存在を忘れていた訳じゃないし、その可能性も少なからず考慮しとくべきだったわ。もしかして、私がオクラホマに着いてからずっと監視していた・・・って事なのかしら。」


差し込む光の全てを掻き消す、真っ黒な闇のもやに包まれていた私の心を、頭上に広がる新月の夜空になぞらえるなら、心に強く焼き付けられたそれらの記憶は、無数にちりばめられた星々のまたたきに等しいものだ。


どんなに深い悲しみを持ってしても。


どんなに激しい怒りを持ってしても。


どんなに強い憎しみを持ってしても。


それは決して消える事の無い、永遠の輝きを放ち続ける暖かな光だったのだ。


(アリミア)

「もし、そうなら・・・。いえ・・・。いいわ。何も聞かない。貴方とこうして、再び出会う事が出来たんだから。私はね。・・・ずっとずっと、貴方に会いたいって、そう思ってたの。本当に、会いたかったわ・・・。」


それは唯一、私に優しげな温かみを与えてくれる、かけがえの無い光。


必死に手を伸ばそうとも、決して掴み取る事は出来ないが、それでも私と言う人間を形成するに至った、重要な思い出の数々なのだ。


時が経つと共に、次第にその強さは押し止められ、いつの日か、それ以上の強い光によって、その存在が有耶無耶うやむやにされていた事は確かだが、今更ながらに立ち返った負たる感情が、

非常に強い軋轢あつれきを生み出している事が、私の中では、いささか驚きを禁じえなかった。


(アリミア)

「でもいいの?こんな簡単に、私の目の前に姿を現すなんて・・・。私はね・・・。私は・・・。」


彼は何も言わず、ただ黙って、私の目の前に佇んでいるだけだった。


私が最後に見た、無機質で能面のような作り物の表情をそのままに携えて、私の目の前に佇んでいるだけだった。


ほぼ五年ぶりとなる再会に、何ら少しも感動する様子もなく、次第に語尾を震わせていった私の言葉に、全く関心を寄せる素振りも無く、ただ黙って、私の目の前に佇んでいるだけだった。


彼は私に、身悶えする程、胸が高鳴る切ない瞬間を与えてくれた人物。


彼は私に、決して忘れ去る事の出来ない、楽しい時間を与えてくれた人物。


そして、組織を裏切り、私を裏切り、私を残酷な地獄の底へと叩き落した張本人。


それが、シュバルツ・ノインと言う男。



(アリミア)

「貴方を殺す為に!!生きてきたというのに!!」


右手に握り締めた短銃を前へと突き出し、目の前に佇む男に向けて、激しく沸き起こる強い怒気を込めた言葉のブレッドを撃ち放つと、アリミアの中で、冷たく凍り付いていた心の秒針が、静かに時を刻み始めた。


それまで、何度も何度も自問自答を繰り返し、ね繰り回す度に次第に黒ずんでいった、数々の想いを胸に。


一つ潰しては二つ増えると言った、永遠に細胞分裂を繰り返していた数々の疑念を、再び心の奥底から引きり出して。


緩やかな風が吹き抜ける、延べ十二階建てのビルの屋上で、おおよそ十歩分程度の歩幅を置いて対峙した彼の姿は、五年前とほぼ変わらぬ風貌を保ち、全く微動だにしない屈強な身体からは、相も変わらず濃密なオーラが滲み出ているようにも感じる。


深い紺色こんいろの軍服に身を包み、上から防弾チョッキのような物を羽織っていた彼は、突き付けられた銃口に、何ら少しも動揺する様子を見せず、全く精気の無い機械的な視線を、彼女へと据え付けたままだった。


彼は全く耳が聞こえない、言葉も話せない聾唖ろうあの戦士である事は、彼女も良く知る事実だが、それでも彼には、人の口の動きで会話を読み取る読唇術の心得があり、彼女の放った言葉の意味を理解できていないはずは無かった。


そして、恐ろしい程に濃密な殺意を漂わせて、銃口をかざした彼女の想いを、少しも読み取る事が出来ない愚鈍なる人物ではなかったし、無機質な能面を被る表情の裏側には、確かに人間らしい心の揺り動きが存在した事は、彼女が一番良く知っている事だった。



しかしこの時、彼は全く動こうとしなかった。


かつての良きパートナーであった彼女を前にして。


自身の裏切り行為によって、凄惨せいさんな過去を刻み込まれるに至った彼女を前にして。


激しい怒りと強い殺意を抱いて、自分に銃口を突き付ける彼女を前にして。


彼は、全く動く気配すら見せなかったのだ。


それはまるで、射撃訓練場でよく目にする、人型の標的を連想させる雰囲気をかもし出しており、じっと動かぬ彼の視線が、彼女に撃てと訴えかけている様でもあった。



短銃のトリガーへと宛がった人差し指に、僅かにでも力を込めれば彼は死ぬ。


シュバルツ・ノインと言う、裏切り者を殺す事が出来る。


そう。人差し指に力を込めさえすれば・・・。



両者の間に据えられた短銃を挟んで、複雑に絡み合った二人の視線は、非常に強い引力と斥力せきりょくとを有して、引き合う様にも、反発し合う様にも見え、お互いの身体から乖離かいりした思念だけが、相手に何かを伝えようと必死にもがいている様にも感じられる。


今更、彼に何を伝えても仕方が無い。・・・と言う事は、彼女自身、それとなく解っていたつもりだったが、それでも彼女は、しばし訪れた沈黙の時間を、ただ無為なる思惟しいに費やすばかりであった。


それは、あまりにも突然に振って沸いた思わぬ出来事から、混乱した彼女の思考が、正しき道筋を選び出す事に苦慮していたからなのだろうが、それでも彼女は、少なからず心の何処かで、彼からの返事を期待していたのかも知れいない。


結局その間、彼女が短銃のトリガーを引く事はなかった。



やがて、そんな静寂さをかもし出す二人の元に、一際強い夜風が吹き付けると、それまで空港管制施設屋上部に立ち込めていた温和な空気が、鋭い刃物を持って切り裂かれたような狂騒を奏で始めた。



強い夜風によって舞い上げられたアリミアの紅い髪の毛が、結え上げられた旋毛付近を軸に、綺麗な踊りを披露し始めると、それまで石像の様に動かなかったノインの左手が、ゆっくりと左耳付近に装着したインカムへと伸ばされる。


そして、先ほどと全く変わらぬ視線をアリミアへと突き付けたまま、静かにインカムを取り外すと、全く何を仕出かす様子もなく、無造作に足元へと放り投げた。


一瞬、不思議な挙動を垣間見せたノインに対し、非常に強い警戒心を抱いたアリミアは、即座に短銃を握り締める右手に力を入れ、彼の行動を抑止する威圧感を彼へと叩き付ける。


しかしはやり、彼の不思議な振る舞いが気になったのであろうか、彼女はほぼ条件反射的に、放り投げられたインカムへと視線を流してしまった。


(アリミア)

「・・・うっ!!?」


すると、その刹那せつなの瞬間に合わせて、放り投げられたインカムから激しい閃光が放たれた。


それは恐らく、事前にインカムの中に仕込まれた、閃光弾のような物が発火した為だと推測されるが、彼女がそれと気付いた時には、既に彼女の視力は強い光によって奪い取られてしまっていた。



まずい!



アリミアは咄嗟とっさに、右手に持った短銃のトリガーを引き放ち、直前までノインの姿を捉えていた射線上に一発の弾丸を発射する。


しかし、あたかも彼女の動きを見透かしたかのように、絶妙のタイミングで身体を逸らしたノインは、難なくこれをかわし、更に、電光石火と呼ぶに相応ふさわしい動きで、アリミアとの距離を一瞬にして詰めると、勢い良く振り上げた右足によって、アリミアが右手に持つ短銃を弾き飛ばした。


(アリミア)

「あ!!」


突然、濃密な攻撃的意識を前面へと押し出し、攻勢に転じたノインに圧倒されつつも、アリミアは即座にノインとの距離を取ろうと、素早く後方へと仰け反る。


勿論彼女は、彼が狙った獲物を簡単に見逃すような相手では無い事は解っていた。


その直後、軍用ブーツの足音が一つと、何か金属製の長物を引き抜く音が一つ鳴り響く。


アリミアは、遠い過去の記憶の中から、彼の攻撃パターンに関する情報を呼び覚ますと、何も見えない真っ白な視界の中に、彼の行動をつぶさに描き出し、直ぐに後ろ腰にくくり付けたナイフシースから、右手で軍用ナイフを逆手に引き抜いた。


そして、ほぼ間違いなく首元を一閃するように振り抜かれるであろう彼の刃軌道に対し、当たり負けしないよう左手を右手首付近へと付け添えると、力一杯握り締めた軍用ナイフを縦に突き立て、防御姿勢を取った。



ガキン!



すると、アリミアが予想した通りの軌跡を描いて繰り出されたノインのナイフが、アリミアの突き立てたナイフと激しく交錯し、甲高い金属音が周囲に吐き散らされた。


お互いに刃の根元同士を噛み合わせ、いびつな十字型を形成した二つの得物は、両者の抱く激しい攻撃的意識を代弁だいべんするかのように、ギリギリと気味の悪い引っ掻き音を奏でるだけで、全く動こうとしない。


一瞬にして相手を死に至らしめる、凝縮された殺意を込めた刃を眼前で交えながら、相手の次なる行動に対して細心の注意を払うよう身構えていた二人は、その後、しばしの間、単なる意地の張り合いにも見える、鍔迫つばぜり合いを演じる事となった。


アリミアとノイン。両者が共に良きパートナーとしてチームを組んでいた頃、高い格闘戦技術に物を言わせて、最前線へと突入する役割を担っていたのはノインの方だった。


アリミアはもっぱら、彼の行動を援護する役割と、彼の行動によってあぶり出された敵兵を狙撃する役割を担い、彼とチームを組むようになってからは、ほとんど敵兵との格闘戦を演じる必要がなくなってしまった。


勿論、アリミア自身、決して他者には負けない格闘戦能力を有している自負はあったが、常に彼の行動を背後からつぶさに観察してきたからだろうか、彼女は接近戦と言う土俵上においては、絶対的に彼の方が有利である事を内心で認めていた。


唯一つ、彼女の側に有って彼の側に無い利を指し示すなら、それは彼女の方がより多く、彼の行動を観察する事が出来ていたと言う点だけであろう。


この時、ノインが即座に追撃の構えを見せなかったのも、そう言った彼女の分析力を高く評価していたからであり、難なく初撃を受け止めて見せた彼女に対して、強い警戒心を沸き起こしてしまったからでもあった。



やがて、次第に薄ボンヤリと視力を取り戻しつつある瞳の先に、嘗てのパートナーであるノインの表情を捕らえ見たアリミアは、激しく殺気をみなぎらせる一対の目と視線を交錯させると、沸々と浮かび上がる疑念の一つ一つを、静かに呟き出していった。


(アリミア)

「貴方は、何の為に戦っているの?」


太い眉毛の下、堀の深い目元に浮かぶ鋭い眼光は、確かにアリミアの視線に絡み付いていた。


それは普段彼が見せる冷め切った虚無な眼差しではなく。


次第に心を通わせて行ったあの頃の、穏やかで優しげな眼差しでもない。


それは完全に敵として相手を捕らえた鋭い眼差し。


身体全体から滲み出る殺気を、くびり倒す相手へと突き付けた眼差しだった。


(アリミア)

「貴方は何故、私を助けたの?」


五年もの間、心の中に形作った彼の虚像に、只管ひたすらそう問いかけてきた質問を、今度は見据えた視線の先にある、本物の彼自身に吐き付ける。


その答えとなる本心を、彼から示される事が無いのだとしても。


結局はその答えに、自分自身、納得する事は無いであろう事を暗に予感しながらも、アリミアは彼に問いかけられずにはいられなかったのだ。


(アリミア)

「そして、貴方は何故、再び私の前に現れた!!」


右手にズシリと圧し掛かるノインの存在を、確かにその肌身で感じ取りながら、最後にそう言って強い怒気を吐き付けたアリミアは、僅かに身をよじってノインの力を左側に軽くいなした。


そして、ノインの持つナイフを自分のナイフで巻き込むように制し、瞬間的に到来した彼の左手拳を、クロスした左手で上手く逸らして見せると、即座に彼の側頭部を狙うように、大きく右足を振り上げた。


お互いにナイフを振りかざしての格闘戦において、大きな隙を生み出してしまうハイキックを繰り出すなど、まさに自殺行為とも取れる大胆な攻撃であるが、近接格闘戦専門で慣らした実力者ノインを前にして、恒常的こうじょうてき戦い方に終始した所で、勝機を見出す事など出来るはずも無い。


アリミアはこの時、非常に危険な道筋を辿り経る事になろうとも、常に相手の先を取るように、勇気を持って、より攻撃的に戦う事で、近接戦闘におけるノインの優位性を潰そうと考えたのだ。


しかし、当然の如くアリミアの反撃を警戒していたノインは、彼女の攻撃を完全に見切ったかように、髪の毛をかする程度で回避して見せると、ナイフを持った右手を素早く彼女の元から引き剥がした。


そして、攻撃直後で体勢を崩したアリミアへと攻撃的視線をくくり付け、徐に左手でアリミアが着た真っ赤なスーツドレスの右肩付近へと掴みかかると、逆手にナイフを握り締めた右手を、大きく後ろに振りかぶった。


・・・が、次の瞬間、打ち放ったハイキックの勢いを保ちつつ、着地した右足を軸にアリミアが体勢を更にひねり込むと、掴み取られた衣服を引き千切らんばかりの勢いで、連撃となる左後ろ回し蹴りを繰り出した。


これには流石のノインも完全に虚を突かれた様子で、彼は慌てて真っ赤なスーツドレスごと、強引に彼女の身体を引き寄せようとするのだが、彼女の衣服は右肩繋ぎ目部分からビリビリと破れてしまい、その挙句、彼は彼女の攻撃をかわすタイミングまで逸してしまう事になる。


しかし、やはりと言うべきか、即座に衣服を放り出した左手で、難なくこれをガードして見せた彼は、少しも体勢を崩す事無く、逆にこれを跳ね返して見せると、ギラリと光る鋭い眼光を僅かに大きく見開いて、ナイフを握り締めた右手を思いっきり水平方向へと掻き込んだ。


すると、何かしらの手応えを感じると共に、彼の視界に無数の真っ赤な糸屑いとくずが弾け飛び、緩やかな風にあおられて、綺麗な夜空へと舞い上がった。


それは言うまでも無く、嘗て「ローゼイト・サーペント」とあだ名され、帝国憲兵隊から恐れられた、アリミアと言う人物を象徴する真紅の長い髪の毛であり、ノインの攻撃をかわす為、しゃがみ込んだ彼女の動きに、旋毛付近で結え上げられた髪の毛が付いて来れず、振りかざされた鋭い刃によって、根元から切り裂かれてしまったのだ。


ノインは、それと気付いた瞬間、自分がアリミアの次なる攻撃を、ひねり潰す事が出来ない体勢に有る事を察し、直ぐに防御体制へと移行せざるを得なかった。


しかしこの時、次なる攻撃の手番を入手したアリミアは、これ以上自分に取って、不利となる舞台での戦闘を押し続けるつもりはなく、彼女はすぐさま彼の元から逃げ去るようにして、とある方向へと駆け出していた。


それは、先ほどノインによって蹴り飛ばされてしまった短銃が転がり落ちていた場所・・・。


アリミアは、ノインと激しい格闘戦を繰り広げながらも、飛ばされた短銃の所在を探り当てる行為をおこたっていなかったのだ。


やがて、転がるように短銃へと飛びついたアリミアは、一転した勢いを持ってノインの方に向き直り、即座に短銃のトリガーを引く。



ブシュ!!



銃口の先にくくり付けたサイレンサーが、まるで炭酸飲料水の蓋を開け放ったような、気の抜けた音を奏でだし、アリミアの鋭い殺意を凝縮させた弾丸を、一つ発射した。


しかし、そんなアリミアの行動を、ノインが黙って見過ごすはずも無く、彼女が駆け出すとほぼ同時に、退避行動へと移り進んでいたノインは、屋上に積み上げられた資材置き場へと向かって走り出すと、アリミアが銃を構えたその瞬間、勢い良くその裏側へと飛び込み、寸での所でこの弾丸をかわした。



ちっ・・・。



アリミアはその直後、彼の身体を僅かにかすめ飛んで行った弾丸を見据え、無念さを込めた舌打ちを吐き出してしまったのだが、それも束の間、直ぐに彼と同じように退避行動へと移ると、背後にそびえ立つ貯水タンクの裏側へと向かって走り出した。


この時点で、アリミアは、ノインが最も得意とする近接格闘戦から、自身が最も得意とする遠距離射撃戦へと、戦いの局面を切り替える事に成功した訳だが、それでも、自分だけが身を曝した状態で、射撃戦へと移行できるはずも無い。


ノインが有する射撃能力は、アリミアが有するそれより、やや劣っていた事は事実だが、それでも、一般的評価基準に当てめれば、確実に凄腕の部類に入る優秀なものであり、彼女はまず、射撃戦へと突入する以前に、直ぐにでも身を隠す遮蔽物を獲得せねばならなかった。



パン!パン!



すると次の瞬間、思いもよらず早いタイミングで攻勢に転じたノインが、資材置き場の陰から短銃を突き出し、施設屋上南側を疾走するアリミア目掛けて、素早く二発の弾丸を発射した。


物陰に飛び込んだ体勢から即座に攻撃を繰り出すその速さは、目指す貯水タンク裏側まで、まだ少し距離を残していた彼女にとって、全く予期せぬ出来事であり、この時ばかりはしもの彼女も、運に身を委ねる他無かった。


しかし、半場祈るような気持ちで体勢を低く保ち、全く躊躇ちゅうちょする事無く全速力で貯水タンクまで駆け抜けた事と、最後には防水加工された屋上床を滑るように頭から飛び込んだ事が幸いし、彼女はこの攻撃を何とかやり過ごす事に成功した。


繰り出された弾丸は、一発が彼女の背中を掠めて、施設屋上南側の手摺てすり壁へと突き刺さり、もう一発は、彼女が滑り込んだ貯水タンクの外壁へとぶち当たった。



彼女は直ぐに上体を起こし、貯水タンクに背中を宛がうようにして寄りかかると、貯水タンクから漏れ始めた水の音を、無意識の内に聞き流しながら、チラリと資材置き場へと視線を宛がった。


そして、引き裂かれたスーツドレスの状態を気に掛けるでもなく、切り刻まれて短くなったボサボサの髪の毛を気に掛けるでもなく、徐に右手に持った短銃のマガジンを引き抜くと、残りの弾数を確認した上で、再び勢い良くグリップの中に収めた。


作戦行動中は、常に頭の中で残弾数をカウントする事を教え込まれていたアリミアにとって、このように直接残弾数を確認するなど滅多に見せない行為なのだが、全く予想だにしなかったノインとの遭遇戦に、彼女もそれだけ気が動転していたと言う事なのだろう。


やがて彼女は、ここでようやく、荒ぶる吐息を整えるように深呼吸してみせると、短銃のスライドを引いて初弾を装填し、視界をふさぐように垂れる前髪を掻き揚げた。


そして、耳元で髪を押さえ付けていたヘアピンへと親指が触れた瞬間、まるで時が凍り付いたかのように静止し、じっと何も無い暗がりの中を見つめたまま、小さな声で呟いた。


(アリミア)

「何の為に戦っている・・・か。」


今現在、彼女が身に着けているヘアピンは、それまで彼女が好んで身に付けていた、紅いヘアピンではない。


オクラホマ都市潜入工作任務において、偽りの秘書官を演じる事になったアリミアの為に、それなりに着飾らないとね、と言って、マキュリアーニが用意してくれた、非常に高価で気品溢れるヘアピンだ。


ノインからプレゼントされた紅いヘアピンは、ランベルク基地を出立する直前、アリミアがわざと目立つように、セニフの部屋の机の上に置いて来たのだった。


それは、突然ランベルク基地内で、男に襲われてしまったセニフの為に、最後の救出者の存在を指し示す事を意図したものであり、アリミアは、自身の代名詞とも言える紅いヘアピンを置き放つ事によって、セニフに少しでも安心感を与えようとしたのだった。


本来であれば、セニフに直接、事の顛末てんまつを説明してやるのが、一番望ましい形だったのだろうが、アリミアはその時、セニフを眠りの淵から呼び覚ます事をしなかった。


出立まで、もう余り時間が無いと言う自身の都合にかこけて、アリミアは、自分が最も望んでいたセニフとの会話を黙過もっかしたのだ。


勿論、アリミアはその時、少なからず、セニフと会話をしたいと言う気持ちに駆られてしまったのだが、それでも極短時間の内に済ます程度の会話の中で、強い反感を抱くセニフとまともに対話する自信がなかった。


出来ればもっと、セニフとゆっくり話し合える機会がもたらされるその時まで、彼女を刺激しないようにしておきたかったのだ。


セニフを救い出した人物が自分であると、彼女に事実を伝える方法として、アリミアが書置きなどの簡易的な手法でなく、紅いヘアピンを置き放つ事を選んだのも、実の所は、次にセニフと再び出会う理由をこじつける為でもあった。



あの紅いヘアピン。今頃はセニフが持っているのだろうか。


それとも、もう既に、捨てられてしまったのだろうか。



やがてアリミアは、頭上に広がる綺麗な新月の星空を見上げ、優しく吹き抜ける夜風の香りに意識を漂わせると、ゆっくりと大きく息を吸い込み、静かに両目を瞑った。



嘗ての私は、裏切り者であるノインを殺す為だけに生きていた。


それ以外に、何ら生きる目的などなかった。


深い悲しみに明け暮れ。激しい怒りに震え。強い憎しみを抱いて。


ノインを殺す事だけを考えて生きていた。


でも、それはやがて、自分の心の中で、小さくしぼんでいくのが解った。


時を経る毎に、心の中で膨れ上がる様々な疑念によって、ノインと言う人物に対する様々な想いによって、次第に塗り潰されて行くのが解った。



ノインに対する激しい怒りの念。これはまだ、私の心の中に存在していた。


ノインに対する強い憎しみの念。これもまだ、私の心の中に存在していた。


でも、それでも、今の私は、裏切り者であるノインを殺す事以上に、何故、彼が私を助けたのか、何故、今更私の目の前に姿を現したのかと言う、疑問に対する答えを欲して止まない。


少しでも、私の心のジグソーパズルを埋めるような、絡み合った無数の糸を解き解すような、そんな鍵となる答えが欲しい。


何でも良い。一言だけで良い。


私の疑問に答えて。


「お願いだから!!何か喋ってよ!!」




ひんやりとした貯水タンクに凭れ掛かりながら、静かに目を見開いたアリミアは、目の前に広がる綺麗な星空をじっと眺め、しばし全ての事象を忘れ去ったかの様な表情を浮かべた。


そして、たった一つ、降り落ちた流れ星に視線を宛がうと、儚くも消え去った光の筋道に、新たなる願いを込め始めた。



お互いに殺すか殺されるかの過酷な世界に身を投じながら、敵として現れたノインとの会話を望むなんて、なんとも都合の良い馬鹿な考えだ。


私は、トゥアム共和国の人間として、帝国に攻撃を加える兵士の一人。


一方ノインは、帝国の人間として、帝国を守る立場にある兵士の一人。


そんな二人が戦場で出会ったのなら、お互いに殺し合う以外に、他に選択肢は無いだろう。


話し合いで全てが解決するのならば、世の中に戦争が起こるはずがない。


最終的手段である戦争へと投じられた兵士には、もはや話し合う余地など残されていないのだ。



ノインを殺す。


これはもはや、私にとって生きる為の最低限の条件。


中途半端な逃亡を試みた所で、ノインがそれを見過ごすはずも無い。


私の心の中で、裏切り者であるノインを殺したい気持ちが、弱々しく薄れてしまった事は確かだ。


しかし、それでも、私は今、生き延びたい気持ちで一杯だ。


そう。生き延びて、再びセニフと出会う為に。


生き延びて、再びセニフと話をする為に。


これが私の生きる目的だ。



やがてアリミアは、右手で短銃のグリップを強く握り締めると、不意に恐ろしい程の殺気を両眼に宿らせ、再び資材置き場へと視線を宛がった。



今の私は、裏切り者であるノインを殺す事を、目的として生きているのではない。


目の前に立ち塞がった敵を排除し、再びセニフと出会う事を目的として生きているのだ。


その為に、私はノインを殺すのだ。



「貴方を殺す為に!!生きてきたというのに!!」



自身が吐き付けたその言葉を、静かに脳裏に反芻はんすうさせて。


アリミアは、心の中に凝縮した強い意思の中に、激しく燃え盛る業火ごうかの種火を放り投げた。


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