野分峰
たいふーがくるぞおー
くるぞおー
ぞおー
おー
ぉ
台風おじさんが峰中を走り回っていったすぐあとに《五月雨式の不調和は日常における迂闊さの表われ》が天気予報どおりの慢性的な雨脚でじくじくと峰に留まってから通過していった。
気だるげに窓を打っていた雨が止み、引き際を見失っていた風が去り、静寂、静寂、静けさの底から響きはじめた心音に突き動かされ、もぐり込んでいた布団からはい出し、窓にかかっていたカーテンを開ける。
立ち眩みを誘発する光が一斉にガラスを透過して眼球に集約する。それをまぶたで遮断する。外方に分けられた光は下まつげをかいくぐって頬へと流れ、内方の光は直進して眼底を満たす。外では感傷的な涙滴が肌を伝い落ち、内はその真意を顕微するようにして視神経を潜行する。それらは咽喉の薄い皮膚を隔て異極のように寄り合わさり、ふたたび巡り合う時までそこにいる。
窓を開けると室内にたまっていた湿気が外に逃げていく。それは山頂の鋭利な冷気に運ばれ、台風が一過した快晴に解き放たれ、乾いた空に溶け込んで、青のひときわ明るい端欠けの一部になった。ぼく自身も一晩こもっていた所為で身体の節々が凝り固まっていた。軽く伸びをして緊張した部位をほぐし、玄関で靴をつっかけて外に出た。
台風のあと、老体にまとう厚着のように立ち込める霧を巻き取られた峰は、普段は思惑を持って隠している所々を、克明に、明確に、確固とした個物として眼前に此れ見よがしに突きつけて、観測者の戸惑いなど気に掛ける装いも窺わせることなく、石底の滲んだ黒ずみや、そこから生え荒ぶ名付けようのない草花の、その表層に伝う結晶質の水滴を、幾方にも分散させて作り出した細かいスペクトルで気圏の塵を見目鮮やかに結んだかと思えば、呼吸の鼻を抜ける温度に幾許かの余地を与え、その微熱にこちらが平静を取り戻す前兆を見せるや否や、澄み切らせた塵の断面に啓明を閃かせ、それをおもむろに手向けるようにして目元に寄越すのだった。
潜水をする前の無意識に触れる呼吸をしてその景観を授かると、水晶体の曇りが拭われ、そこへ六角に研ぎ澄まされた塵が無数のレンズとなって降りそそぎ、広大無辺の乱反射を渡り、拡張された視野は二〇〇風里周辺の稜線を撫でることもでき、雲を掴め、指先に鳥が止まり、太陽は手のひらを転がった。皮膚に焼きつかないよう摘み上げて距離を取り、ビー玉を覗き込む姿勢で眼球だけを近づける。球体のなかの山々は押し寄せる熱波に白転し、素描のような繊細な影が触媒にした記憶のとおりに立ち並んでかろうじて原型を保ち、質量を増す一方の光にその鋭敏な輪郭で抵抗を試みるが、茫漠と広がる光は容赦なく影を齧り、幾何学模様の歯型をつけて咀嚼していった。
連綿と続く山脈が途絶え
薄明のかげろいは熱りにまぎれ
その底意を失い
崩落した地層にうずもれる
胚胎の音無につつまれて
まどろみかなた
静かに時をうつ
それでもとおく
遠くから
きこえ
聞こえてくる声
こえが
未だ山峰を保持している
ぉ
ーお
ーおぞ
ーおぞるく
ーおぞるくがーふいた
逆行する声を耳にし、太陽から目を離す。熱を浴びた身体から体温を放つようにして大きく伸びをし、二、三度腰を左右に捻って観測所に戻る。居室にあるテレビに電源を入れ、天気予報を確認する。赤いセーターに白いロングスカートのお天気お姉さんが、化粧気のない顔に笑みを浮かべながら「あすも台風、あさっても台風、もうぜっこうの台風日和ですっ!」と明るく述べて一礼した。ぼくはリモコンを手に取ってチャンネルを変える。また違うテレビ局の天気予報のお姉さんは、先ほどのお姉さんとは対照的な外見で、勝利を確信したメイクと胸元まで開いた紺色のブラウスからブラをぶらぶらさせ、度々下着が顔をのぞかせるスカート姿で、「明日の台風は強く拳を握りしめながらおじさんのあとを追っています」と厳かな口調でそう言った。その後もいくつかの天気予報を視聴してからテレビを消し、静寂、静寂、静かになった部屋で、せめぎ合う無形のものたちを脳溝で慎重に濾し、選り分け、組み替え、引き繋ぎ、抜粋、剥奪、洗練し、吐き出した。
《その直情によって径を変える無軌道な掌握》
無造作に散らばった紙を引き寄せ、それを丁寧に書きつける。そして気象庁に電話をかけ、次の台風がこの名であることを伝えた途端、疲労が勢いよく頭で弾け、現実との連結が切断され、ばらばらと、ばらばら、ばら、崩れるようにして眠りに就いた。
閉じられたまぶたが目蓋のくらやみの暗闇をはけいに歪め、ゆがんだ波形のその波打ち際で砂丘の海星が斜睨みする窓辺へ掲げた五指で掴もうとしたことば、言葉は海面に映る星光のみが注目され、一灯もない海底の目視できない深層は無意味とされ、その多くは泡とともに人々の意識から消え去り、海上の大気に紛れ、苦し紛れの演説は舌打ちにも至らない些末な溜息、恒常的な未明を這いずり、時折軋る轢断に胸を打たれても憐憫は侮辱にも劣る否定で、ただ、臆して何も発しないことこそが何よりの拒絶にあたるのなら、ぼくはそこ目掛けて発熱性の礫を投じ、いくらかの気流を生じさせ、それが、すべての生が閉じ切るまでに保障されている表現を巻き込んで、やがて、
たいふーがくるぞおー
くるぞおー
ぞおー
おー
ぉ
その声で目覚めると、台風おじさんが心配げな顔でぼくの口内をのぞき込んでいた。
にいちゃん、ほら、もうたいっふ、くっから、まどしめんと、ほっほら、あ、ああ! たったっ、たいふーがくるぞおー
くるぞおー
ぞおー
おー
ぉ
それから間もなくして、《その直情によって径を変える無軌道な掌握》が峰を訪れた。
前回の台風とは比較にならないほど荒々しく、何より台風おじさんへの執着は一段と強く、ぐりんぐりんに握りしめた渦巻を何度も扉に打ちつけながら、
おら、出てこんかい!
こんなかにおるんだろうが!
おら! おら!
とおじさんを探して観測所の外壁を小一時間叩いて回り、それでも進展がないと打って変わって
ねぇ、おじさぁん、
あたしさびしいの、
ねぇ、ねぇったら、
おじさぁんぁあんぁああああぁああああ
と色っぽい声で誘い出そうとしたが、効き目がないとわかると
ウァアンァアアアア! ァアァアアアアア!
猛り狂ったサイレンのように唸り始めて壁を無茶苦茶に叩きのめした。
とうの台風おじさんはというと、台風の物音を気にもしないで、
たいふーがきたぞおーぉ
きたぞおーお
ぞおーおぞ
おーおぞたき
ぉーおぞたきがーふいた
一人やまびこを楽しんでいた。
いちばん迷惑を被っているのは他でもないぼく自身で、室内外から物音にやまびこに責め苛まれ、それらを押し返すのにとにかく必死に体内を言葉で満たさなければならなかったが、いくら言葉を言葉にしようとしてもうるさくて集中できず、言葉は言葉にならなくて言葉を失った。
(沈黙、沈黙)
たいふーがきたぞおー
きたぞおー
ぞおー
おー
ぉ
ウァアンァアアアア!
ァアァアアアアア!
ねぇ、おじさぁん
おじさぁんぁあんぁああああぁああああ
(沈黙、黙)
ウァアンァアアアア!
たいふーがきたぞおー
きたぞおー
ぞおー
おー
ぉ
(黙)
ねぇ、ねぇったら
おじさぁんぁあんぁああああぁああああ
ウァアンァアアアア!
出てこんかい!
出てこんかい!
出てこんかい!
ウァアンァアアアア!
出てこんかい!
ぉ
ーお
ーおぞ
ーおぞたき
ーおぞたきがーふいた
ウァアンァアアアア!
出て、
こんのかいぃ!
台風が去り、台風おじさんが走り去り、あとにひとりぼくが残り、まだ雨露の乾かない窓を開け放ち、テレビをつける。
映し出された画面には気象予報士の森田さんが満面の笑顔で天気図の横に立ち、指し棒を使って示した日本地図の周りにはいくつもの白い渦があり、森田さんはそのなかでも目玉の大きい台風を指し棒で突きながら
「さぁみなさん、
これから台風がどんっどん来ますよーっ
覚悟してくださいねーっ」
と軽快に言って空を仰ぎみて、豹変、「たっ、たっ」と口をパクパクさせながら顔を真っ青にしてカメラの外に飛び出して、
たいふーがくるぞおー
くるぞおー
ぞおー
おー
ぉ
ぼくは慌てて気象庁に電話をかける。呼び出し音が鳴っている間に頭をフル回転させ
「はい、こちら気象庁です。お名前をうかがってもよろしいですか?」
「あ、あのーそのー」と、まったく思いつけなくてしどろもどろになりながらも
《スーサイド狂言は本日も陰気陰気にお説教》
を強引に絞り出して告げてから、ひと息つく間もなく《スーサイド狂言は本日も陰気陰気にお説教》がやって来る。
その名のとおりネチネチと精神面を責める雨の降り方で、なるべく俯いて辛抱強く耐え忍んでいると、その態度が気に食わないのか合間合間に壁を叩いて突発的な暴風を立てる。
あのねぇ
きみはねぇ
そうやってねぇ
黙っていればねぇ
いいとねぇ
思ってねぇ
いるのかねぇ
!
わたしのねぇ
名前だってねぇ
そんなねぇ
いい加減にねぇ
つけてねぇ
ほしくないねぇ
!
それにねぇ
わたしはねぇ
陰気なんかじゃねぇ
ないからねぇ
ただでさえ粘ついた唾液をよく噛んで増粘させたような、しつこいを通り越して執念深いと言わざるを得ない雨は壁面をなめくじのように這い回る。何か反応を返してしまうとますます調子に乗ってくると思い、息をこらして根気強く耐えていると、
たいふーがくるぞおー
くるぞおー
ぞおー
おー
ぉ
まだ《スーサイド狂言は本日も陰気陰気にお説教》が去ってもいないというのに次の知らせがきて、ぼくは大慌てで気象庁に電話をかけ、考える時間もなかったのでパッと頭に浮かんだ《もりたっ》を叫ぶようにして伝えた。
しばらくすると、外から微かに聞き取れる小音が、がりがりと棒で壁を引っかく雨が降り出す。それを聞いた《スーサイド狂言は本日も陰気陰気にお説教》はねっちょりとした雨音を一時的に弱めたが、その雨があとからやって来た《もりたっ》だと分かると威圧するような音を随所に立て
あのねぇ!
きみはねぇ!
遅れてねぇ!
来たっていうのにねぇ!
!!
わたしにねぇ!
謝罪のねぇ!
ひとつもねぇ!
ないのかねぇ!
!!!
《もりたっ》は《もりたっ》で《スーサイド狂言は本日も陰気陰気にお説教》のことを気にかける素ぶりもなく
さぁみなさん、
これから台風がどんっどん来ますよーっ
覚悟してくださいねーっ
その毒気を抜かれる朗らか口調に《スーサイド狂言は本日も陰気陰気にお説教》もたじろいで次第に雨風を弱めていったが、忘れたころに壁を強く叩き、注意を引くことは止めなかった。
!
!!
!!!
そしてまた、
たいふーがくるぞおー
それが響き終わる前に
たいふーがくるぞおー
さらにもうひとつ
たいふーがくるぞおー
反響は合唱のようにまとまって
くるぞおー
くるぞおー ぞおー
くるぞおー ぞおー
ぞおー おー
おー
おー ぉ
ぉ
ぉ
次から次へと立て続けにやってくる知らせに苛立ちながら乱暴な手つきで電話を掴んだが、唐突に自分のしていることに嫌気が差し、手に取った電話をそのまま窓に向かってぶん投げた。
さぁみなさん、
これから台風がどんっどん来ますよーっ
電話はくるりくるりと天地を入れ替えながら窓ガラスに衝突し、落下した。
あすも台風
あさっても台風
その際に繋がってしまったのか「はい、こちら気象庁です。お名前をうかがってもよろしいですか?」と聞こえきたが、ぼくは布団を頭からかぶってその声を、それ以外もすべて遮断しようとしたが、
明日の台風は強く拳を握りしめながら
(音は止まない)
はい、こちら気象庁です
もうぜっこうの台風日和ですっ!
おじさんのあとを追っています
ねぇ、
ねぇったら
おじさぁんぁあんぁああああぁああああ
(布団のなかに溜まる自らの体温に浸り)
ウァアンァアアアア!
ウァアンァアアアア!
覚悟してくださいねーっ
出てこんかい!
(誰に頼まれたわけでもないのに)
出てこんかい!
さぁみなさん、
覚悟してくださいねーっ
ねぇ、
強く拳を握りしめながら
ねぇったら
お名前をうかがってもよろしいですか?
はい、こちら気象庁です
ウァアンァアアアア!
おじさんのあとを追っています
覚悟してくださいねーっ
(吹き寄る風を身勝手に汲み取り)
あすも
あさっても
あとを追っています
おじさんのあとを追っています
どんっどん来ますよーっ
(恥じらいもなく解釈を与えることの傲慢さに)
おじさぁんぁあんぁああああぁああああ
(憤り)
おじさぁんぁあんぁああああぁああああ
さぁみなさん、
(自分はいったい何様なのだ)
ウァアンァアアアア!
ウァアンァアアアア!
はい!
はい!
はい!
(そんなこと言える立場にあるのか)
気象庁です
おじさんの気象庁です
もうぜっこうの気象庁です
うかがってもよろしいですか?
(口にしたものがすべて返ってくる)
覚悟をうかがってもよろしいですか?
あすも
あさっても
覚悟を握りしめながら
うかがってもよろしいですか?
(ああ、くだらない、くだらない)
はい!
(暗闇で繰り返しそう唱え続けたが)
はい!!
(でも)
はい!!!
(それでもぼくは)
(死に急ぐその鬼気迫る呼吸や)
(とにかく走りたかった夜の希求的な吐息)
(どうにもならない境遇への怒りまかせの罵声)
(無理してひねり出す温度のない笑い声も)
(泣くに泣けず飲み込んだ小さな息も)
(大気にまじる)
(それらすべての息吹を知ってしまったから)
(書きつけて)
(形にしてやらなければならないと思ったのだ)
ぉ
ーお
ーおぞ
すべての台風が過ぎ去ると
それまでの喧騒が嘘だったかのように静まり返り
その静寂の奥底で
ぼくは観測所から出て
大きく脈を打つ
瞑目
吐息、吐息
一呼吸で回帰する
目を凝らしても決して見えない
水脈の鼓動は刻一刻と時をきざみ
耳を澄ませても聞き取れない
風威は飛鳥だけが知る
だからといって
それを知ろうとしないやつが
なにを書いても空疎だ
大風に研かれた空気に
はなつひかり
研ぎ澄ませ
こらし
すませ
とぎ
すませ
たいふーが
たいふーが
たいふーが
文章の視覚的な密度、文意としての密度、両者の流動性の観測、また可能であれば分散系の様態を確認。