V 熟成か腐敗かの分水嶺【グレイ】
V 熟成か腐敗かの分水嶺【グレイ】
――人間は歳を重ねるごとに、しばらく同じ考えに縛られるようになっていく。裏を返せば、幼いほど移り気で発想の切り替えが早く、それまでの枠組みに囚われないということになる。
「セプトも、今日は学校が楽しかったらしい。昨日と違って、話すときの声のトーンが高かった」
「きっと、メイが壁を壊してくれたからね」
蒼い月明かりと、揺らめくランプの灯りだけが照らす中で、グレイとフィアは、ソファーで寛ぎながら会話を交わしている。二人の手元には、湯気立つマグカップが握られている。窓の外からは、ゲッゲッという鳴き声やホッホッという地鳴きが、申し訳程度に聞こえてくる。
――俺も、早く今の環境に馴染まないとな。
グレイは、マグカップの中身を一口啜ると、フィアに向かって何気なく問い掛ける。
「新しい職場は、どうだった」
フィアは、マグカップの液面を覗き込みながら、何かを思い出すように答える。
「そうねぇ。楽な仕事ではないのは確かだけど、何とか続けていけそうな気がしてる。――グレイのほうは、どうなの」
フィアが顔を上げ、グレイのほうを見て言うと、グレイは片目をキュッと瞑り、こめかみ辺りに手を添えながら言う。
「こっちも、そこそこ大変だな。形式に合った書類を作成したり、書架を整理したり、古典資料の問い合わせに応じたり。書いたり、立ったり、持ち上げたり、推し量ったりで、頭も身体もフル回転させてる」
「そこそこどころか、結構、忙しいじゃない。朝な夕な、気楽に好き放題してた身には、堪えるんじゃなくて」
フィアが意地悪そうに訊くと、グレイも皮肉を返す。
「どこぞの歌姫さまと違って、上級学校で古典教養を修めてますからね。この程度では、音を上げません」
「言ってくれるわね。どんなに職場で辛い目に遭っても、一切取り合わないわよ」
フィアはマグカップの中身を一口含んでから、語尾を上げて言った。
――よくもまぁ、真綿で首を絞めるような嫌がらせを、平然と思いつくものだな。
「言い過ぎました、すみません。さすがに、落ち込んでるときは、なぐさめてくれ」
グレイが謝ると、フィアは、クスッと小さく笑いをこぼしながら、わざと尊大な態度で言う。
「そこまで言うなら、許しましょう」
――偉そうだな。言いだしっぺは、フィアのほうだろうに。まっ、拗れるから言わないけど。
グレイは、一口でマグカップの中身を飲み切ってローテーブルに置いてから、晴れやかに言う。
「まぁ、何だな。就労か就学の実績が半年以上あって、なおかつ、凶悪犯罪に手を染めなかった場合は、この国での永住権が与えられることになってるみたいだから、多少の不満は我慢して、信用を勝ち取ろうじゃないか」
「そうね。職歴を積めば、もっと割りの良い仕事に就けることでもある」
フィアはグレイに同意すると、マグカップの中身を飲み干してローテーブルに置き、グレイの肩に凭れかかりながら、ほんのり甘えたような口調で訊く。
「不思議なんだけど。仕事中にウンザリして手を休めようとすると、ふとメイやセプトの顔が浮かぶの。グレイは、そういうこと無い」
グレイは、フィアの肩に手を添えながら言う。
「俺の場合は、フィアの顔が浮かぶけ、どおっ」
フィアは、グレイの脇腹に肘鉄を食らわせると、照れと怒りが綯い交ぜになった調子で言う。
「この、人誑しっ」
――その人誑しに惚れたのは、どこの誰だよ。
グレイは、肩に添えた手を下ろして脇腹を押さえつつ、話題を逸らす。
「ある程度育った人間の世話を焼くことは、いきなり赤ん坊の面倒を看るより良いかもな。初心者には、種から芽吹かせるより、苗から育てるくらいでちょうど良い」
「メイたちの話ね。でも、グレイ。世話を焼くのと、一から育てるのは違うわ」
フィアが何気なく答えると、グレイも何気なく続けて問う。
「一から育てたいか」
「あと半年経って、落ち着いたらね。――セプトたちがちゃんと寝てるか、確かめてくるわ」
そう言うと、フィアはソファーから立ち上がり、マグカップを持って部屋をあとにする。
――半年も我慢できるかな。
グレイは、懐から紙箱を取り出し、中の一本を口に銜えて引き抜くと、紙箱を懐に仕舞い、銜えている筒状のものを指でつまんで引っ張る。すると、包装紙の一部がピリッと破れ、中から砂糖菓子が顔を出す。グレイは、口に残った包装紙の一部を砂糖菓子を持たない手の掌に吐き出して握ると、反対の手の砂糖菓子を口に銜える。
――厄介なものだよ。悪い気はしないけど。




