N 種蒔きで揉める二人は【ヤヨイ】
N 種蒔きで揉める二人は【ヤヨイ】
「ご覧、キサラギ。ルーベンスの絵だよ」
「昇天させるな。しかも、それだと犬のほうじゃないか」
「そうか、貴様は地獄堕ちをお望みか」
「帰れ、悪魔」
宿に戻ったヤヨイとキサラギは、壁際で丁々発止のやりとりをしている。傍目には、ヤヨイのほうが優勢に見える。
「何でよ。協力しなさい」
ヤヨイは両腕を挙げながら、壁際に立っているキサラギを両手を頭の上で押さえつけて言う。キサラギは、捕らえられた宇宙人状態から脱出しようと必死で腕を捩りながら言う。、
「嫌だね。俺は、筆を折ったんだ。今更、絵を描かせようとするな」
――キサラギには、経済的事情で、芸術家路線を諦めた過去がある。才能が有っても、それを開花させられない人間はごまんといるだろうけど、人相や情景を写真のように記憶できる特技を、ここで利用しない手は無いに決まってる。
「首を縦に振れば良いの。さぁ、似顔絵を描きなさい」
「描いてたまるか。まったく。このノリは、締め切り直前と一緒だな。昔の恥ずかしい写真をエスエヌエスにばらまくと脅して、同人原稿を手伝わせやがって。なっ、チェリー先生。――ウブッ」
――チェリーというのは、私の古のペンネーム。私だって、漫画は描けるのよ。ビーたちがエルする作品だけど。
ヤヨイはキサラギの両手を片手でまとめて持つと、空いた手でキサラギの鼻と口を塞きながら言う。
「シャラップ。もういっぺん、その名を口にしてみなさい。舌を引き抜いて、二度と喋れないようにしてやるわ。――あぁっ」
キサラギはヤヨイの腕を振りほどき、ゼーハーと荒く呼吸をしながら言う。
「まったく。悪魔じゃなくて、閻魔女王だったか」
「誰が閻魔よ。嘘をつくと鼻が伸びるようになってしまえ」
「何を。だったらヤヨイは、鯨に食われてしまえ」
「何ですって」
キサラギとヤヨイが再び喧嘩腰で揉み合っていると、そこへ紙袋を抱えたラサルがドアを開けて姿を現し、二人の様子を見ながら言う。
「オッと。帰ってくるのが少しばかり早かったようだね。いやはや。仲良く戯れているところを邪魔する気は、毛頭ないんだ。僕のことは気にせず、どうか続きを」
ヤヨイは、胸倉を掴まんとして伸ばしかけたまま行き場を失った腕をそっと下ろし、テーブルの上に広げた地図を片付けながら言う。
「お騒がせしました。ちょっとした意見の相違があったものですから」
「おやおや、それは面白い。妥協点は見付かったかね」
テーブルの上に紙袋を置きながらラサルが物見高い様子で言うと、言葉に窮するヤヨイに代わり、キサラギが答える。
「俺が折れることにしました。一枚だけ描いてやるから、それで勘弁しろ」
そう言うと、キサラギはペンとインク壺を手元に引き寄せ、テーブルの上にメモを置いてサラサラと描き始める。
――面倒くさがりだけに、より面倒なことになるのを避けたわね。助かった。




