K 八百比丘尼と人魚姫【シワス】
K 八百比丘尼と人魚姫【シワス】
――遠くから、潮風に運ばれて船の汽笛が聞こえる。船は港を出たらしい。
「この店は静かだね、マスター」
シワスは、カウンターに肘を突き、底のほうに僅かに琥珀色の液体が残ったオールド・ファッションド・グラスの淵を三つ指で持ちながら言った。狭い酒場の店内には、他の客の姿は見えない。栗毛を整髪料で撫で付けてオールバックにした紳士が、マドラーなどの金属製カテラリーを布巾で拭きながら言う。
「船が出たあとですから。もう一杯、いかがですか」
「いや、もう結構だよ。顔に出ないけど、これで結構、酒精が回ってるからね。これ以上飲んだら、千鳥足になる」
「そうですか。では、お水を用意しましょう」
そう言うと、紳士は棚からグラスを取ってカウンターに置き、水差しの水を注ぐと、そのままシワスの前に滑らせるように差し出す。
「ありがとう」
シワスは手にしていたグラスを置き、差し出されたグラスの水を一息に飲み干すと、手の甲で口を拭ってから、陶酔した様子で語りだす。
「マスター。話半分で聞き流してくれて良いんだけどさ」
「そうして法螺話風に冗談めかして語る場合は、多くは実体験に基づく身の上話です。たとえ、どんなに途方も無い話でも、茶化さずに謹聴いたしますし、決して他言しませんから、安心してお話ください」
紳士は布巾でカウンターを拭くと、その上に両腕を載せ、シワスに柔和な笑みを向ける。
――こんな寂れた店の割りに、意外と他人を見る目は確かなようだ。
シワスは、何かを思い出すように静かに目を伏せると、自分語りを続ける。
「旅の途中に立ち寄った港町で、親切そうな青年に夕食に誘われたことがあってさ。新鮮そうな魚の切り身を出されたんだ。場所柄、サーモンか何かだと思ってたらふく食べたんだけど」
「食べてはマズイものだったのですね」
「あぁ。人魚の肉だったんだ。それから俺は、不老を悟られないために、世界中を渡り歩いてるんだ。長居すると、ボロが出るからね。怪我は自然治癒されるし病気に感染することもないときては、怪しむなというほうが無理だろう」
「はぁ。なかなか、難儀なものですね」
紳士が同情すると、シワスは自嘲気味に薄く笑いながら言う。
「自分で酸素を作れる訳じゃないから、裸一貫で荒れ狂う海に投げ出されたら、泡を吐きながら藻屑になるし、噴火口に飛び込めば、跡形も無く溶けるだろうけど、そんな勇気も無くてさ。ちょっとマスターに聴きたいんだけども、良いかな」
そう言うとシワスは、上着のポケットから銀貨を一枚出してカウンターに置き、マスターのほうに指で押す。マスターは、それを手で押し戻しながら言う。
「酒代はいただいておりますし、チップなら結構ですよ。貴重な路銀ですから、大事になさい」
シワスは、銀貨をポケットに仕舞いながら言う。
「そうか。それじゃあ、遠慮なく聞かせてもらうけどさ。珍しい色眼鏡を掛けた、栗毛の男を見なかったか。山高帽を被って、二重回しを着てることが多いらしいんだけど」
シワスが言ったあと、紳士は一瞬中空を見上げてから、シワスのほうを見て言う。
「あぁ、そういえば、喫茶時間のお客さまが、たしか、そのようなことを言ってました。汽車でここへ来る途中に、そのような格好の挙動不審な人物が下車したのを見たとか、何とか」
それを聞いたシワスは、パーッと表情を明るくしながら、興奮気味にバンと立ち上がり、紳士へ詰め寄って訊く。
「それは、どこの駅なんだ」
紳士は、シワスのただならぬ迫力に気圧されながらも、落ち着き払って答える。
「ユスタ民主連邦の中央駅ですよ。ここからエンリ公国方面に向かう夜汽車に乗った途中にある駅ですから、急げば、昼過ぎには着くと思いますよ。――オッと」
「ありがとう、マスター」
シワスは、両腕をカウンターの向こう側へ伸ばし、紳士の両手を掴んでブンブンと上下に振ると、挨拶もそこそこにバックパックを肩に担ぎ、カウベルを鳴らしながらドアを開け、店の外へ駆け出す。
――ようやく見つけたぞ。今度は、逃がさないからな。




