第二十一話 ただ、斬る
咄嗟に離した腕から血を流し、アンマリーは世羅から距離を取る。
確認するように右腕に視線を落とせば、薄っすらと紙で指を切った時のような、浅い傷が出来ていた。
「ほう。貴様如きが、我に傷を付けるか」
感心と共に驚愕する。
余裕はあったが、慢心していた訳ではない。油断していた訳でもない。
にも関わらず、斬撃を避けきる事が出来なかった。噴出した異常な力に気を取られていた、という事情を差し置いても、その一撃は充分に称賛に値する。
「死を前にした、生命の本能。火事場の馬鹿力というやつか。大したものだが、それでどうする? 少しだけ寿命が延びたに過ぎんぞ」
試すように問い掛けながら、アンマリーは地に突き立つメイスへと手を翳す。
途端、空気に溶けるように姿を消したメイスが、彼女の手元に現れる。アンマリーにとってこのメイスは身体の一部も同然。意思一つで消し去る事も、手元に顕す事も出来るのだ。
得物を払い、彼女は子羊から変貌した子犬を見る。思っていたのとは違い、世羅は漸く手に入れた酸素に喜ぶこともなく、何処か醒めた目で此方をじっと見詰め刀を構えていた。
全身からは、静かに研ぎ澄まされた剣気。その質に、先程までの彼女とは違うと判断する。
「どうやら、少しはましな心になったらしいな。先程までの貴様にあった迷いや恐怖がまるで見えん。これなら魂の質も、より上がっているか」
「…………」
「だんまりか。構わんぞ? どうせこの会話もただの余興。答える必要などありはしない。貴様はただ、私に挑み――その魂を捧げれば良い」
驕りではなく、純粋な強者として世羅を見下し、アンマリーはメイスを握る腕に力を籠める。
瞬間、戦意に反応し世羅がゆらりと駆けだした。何処までも自然な踏み込みで、何処までも自然な体捌きで。
その静から動への変化といえば、正に流水の如く。あまりの滑らかさに、アンマリーでさえ一瞬、彼女が動いた事に気付かなかった程だ。
そのまま正面から斬りつけてくる世羅の刀を、アンマリーは素早くメイスを掲げ防御する。甲高い金属音が、公園に波紋のように響き渡った。
「やるな、貴様。まるで別人だ。身体から余計な力の一切が抜けている、斬撃の鋭さも先程までの比では無い。此方が本来の力か?」
「…………」
「ふふ、人間としては悪く無い。だがやはり、天使を――我を相手にするには力不足だっ」
強引なメイス捌きで、押し付けられる刃を押し返す。
その強大な力に抗う事無く、世羅は受け流すようにゆらりと後方に身を躍らせた。衝撃を綺麗に逃がし、柳のように身体を揺らすと、一気に背後に回りこむ。
やはり自然で、継ぎ目の分かり難い彼女の動きを今度はしっかりと目で追って、アンマリーは回転と共にメイスを振るう。
ブゥンと豪快な音を鳴らして、鈍器は空しく空を叩いた。地に顎が着きそうなほど身を低くした世羅が、暴威が過ぎ去るのを待ち、刀と共に跳び上がる。
「甘いぞ、人間!」
自身に迫る昇撃に、アンマリーは振るったメイスの軌道を変更、地に落として支点とする。
腕に力を入れ、強引に身体を動かした。刀の範囲から浮くように抜け出した彼女は、ふわりと着地すると未だ空中に居る世羅へと狙いを定める。
お返しとばかりに、突き上げられるメイス。その先端に、世羅の両足が華麗に落ちた。
「ほうっ。剣士というより曲芸士だな、貴様」
攻撃の衝撃により、世羅の身体が高く空中に舞い上がる。
だがダメージは無い。またも完全に受け流し、むしろ浮力として利用して、攻撃を捌ききったのだ。
くるりとバク宙し着地する彼女に、アンマリーの頬がにやりと緩む。
「見事見事。それで? 次は何を見せてくれるのだ? 火の輪潜りが、それとも空中ブランコか?」
「…………」
露骨な挑発の言葉に、しかし世羅の心は揺るがない。
真っ白な世界に、一本の剣。それが今の彼女の心の内だ。世界は何処までも澄み渡り、意識はぼやけ、なのに何故か敵の一挙手一投足がはっきり見える。
振るう剣や体捌きは、まるで普段の師との特訓――いや、それ以上に冴え渡る。自身の全てを意識的に支配下に置いたような、不可思議な状態。
(これが。剣の領域……?)
師から教わった話を思い出し、世羅はゆっくりと刀を構えた。
師、曰く、斬る事を突き詰めようとすると自然とその領域に至るらしい。剣の事だけが頭に残り、剣の為だけの肉体へと変化する。
極みと言うにはまだ足りない。だが確かに、これまでよりも一段上の――此処は正に、剣の領域。
目指していた領域の一つに到達した事を自覚して、しかし世羅に喜びは無い。
喜ぶ分のリソースさえ、剣を振るうことに回されているのだ。故にどれだけの強敵が相手だろうと、彼女の心が揺るぐことは無い。揺らぐ分さえ剣に回しているのだから。
そしてそんな細波さえ経たない心が、剣を更に冴えさせる。何処までも、何処までも――師の剣に近づくほどに。
(そうだ、余計な考えは要らない。負けるかもしれないとか、勝てるかもしれないとか。死ぬかもしれない、とか。そんな事を考えている余裕があるのなら)
「ただ、斬る」
微かに唇を動かして、世羅は踏み込んだ。
刀を振るうに最も適した形で、相手を斬るに最も適した場所へ。
相手の懐で、左の腰溜めに刀を構え、身体を縮みこませバネとする。狙いは首。一撃必殺。
「――」
バネが弾けた。
神速の刃が首筋へと迫り、直前で防がれる。
「良い狙いだ! 殺しへの躊躇いも無くなったらしいな!」
返しのメイスを、柳の如き動きで避けた。風圧が髪を揺らし、余波だけで肌がじくりと痛む。
だが痛みさえも白濁の世界に消えて、世羅は刀を振り上げた。
鋭い袈裟切り。胸の真ん中を通る斬撃を、アンマリーがバックステップでひらりとかわす。流れるように繋ぎ連撃、無数の斬閃で追撃を掛ける。
「数を増しても、結果は同じだぞ」
空に走る線が、メイスの一振りで砕け散る。
お返しとばかりに振るわれたメイスによる連撃を、薄紙一枚の差でかわしきり、世羅は反撃……しようとして、横っ飛び。
直後、轟音と共にメイスが脚に掠り、鮮血が飛び散った。
「身のこなしは大したものだ。剣の技量も、見れるものはある。だが、根本的な力が足りていない。宝の持ち腐れというやつだ」
余裕綽々に、アンマリーは次々と攻勢を掛けていく。
確かに世羅の心は澄み渡り、これまでのぎこちなさは消滅して、剣は研ぎ澄まされ技量が上がった。
だがそれだけでは強者とは成り得ない。幾ら技があっても、活かす為の身体能力がなければ、遥か高みの敵には届かないのだ。
特に世羅の場合、その身体能力は天然の才能に依存している。所謂超人という分類に属するが、だからこそ心による瞬間的な覚醒――能力の向上が望めない。
魔法使いの場合は、往々にして有り得るのだ。魔力の扱い、魔法の構築には心の状態が大きく関わる。いや、魔法以外でもそうだろう。心の状態が悪ければ力をまともに発揮出来ず、逆に心の状態が上がれば普段以上の力が発揮出来たり、殻が剥けて飛躍的に成長したりする。
そして魔法使いの場合、魔法の腕の向上は、そのまま身体能力の向上にも繋がっていく。身体強化の魔法の効力もまた、上昇するからである。
だが、世羅にそれは無い。幾ら心が研ぎ澄まされ、技量が上がっても、根本的な身体能力が劇的に向上する事はありえないのだ。
基礎的な能力が足りていない以上、どれだけ腕で補っても限界は来る。まして世羅の剣の腕はまだまだ師に――剣の極みには遠いのだから、尚更だった。
「さあ。もう一段、ギアを上げていくぞっ」
アンマリーの攻撃が加速し、暴虐さを増していく。
それでも世羅の心に焦りは無く、恐怖も無いが、捌きは追いつかない。全身全霊の剣を繰り返し、綱渡りのような回避を繰り返し、怪我ばかりが増えていく。
皮膚が剥がれた。肉が抉れた。メイスが掠り、余波だけで吹き飛ばされ、無様に地を転がった。
だが次の瞬間には、世羅は刀を振るっているのだ。痛みに顔を歪めることもなく、真っ直ぐに敵を――『斬るべき対象』だけを見詰めて。
「まるで剣鬼だな。鬼か、天使と戦うにはある意味相応しい存在だな」
神力の槍を投げ飛ばしながら、アンマリーは呟いた。
一直線に飛来する投擲物を真っ二つに切り裂いて、世羅が駆ける。再び飛来した二度目の投槍を斜め前方に身を投げ出す事でかわし、手をアスファルトの地面に着いて素早く体制を立て直す。
止まる事無く接近し、逆胴。反応したアンマリーが盾としたメイスに当たる直前で、刀を止めて大きく引き寄せる。
身体は自然と半身になり、鋭い切っ先が天使の額を真っ直ぐ見詰めた。
「突きかっ。笑止!」
右脚の踏み込みと共に放たれた閃光のような刃を、アンマリーは横から思い切り殴りつける。
予想外の力に容易く起動は変更され、刃は顔の横を虚しく通過した。だが諦める事無く、世羅は手首を返し刃をアンマリーの顔へと向けると、そのまま横薙ぎに払い斬り付ける。
「小細工など我には通じん。いい加減気付いたらどうだ?」
迫る白刃を大きくスウェーバックしてやり過ごし、反動で頭突きを放つアンマリー。
額と額がぶつかり合う。だが、頑強さ――根本的な力で優るアンマリーにダメージは無く、世羅だけが一方的に吹き飛ばされる。
地を転がり、しかし素早く体制を立て直し再び刀を構える少女に、天使が冷ややかな目を向ける。
「そろそろ、飽いたな。主の復活の前の余興と思い付き合っていたが、いい加減時間も勿体無い。かと言って、無駄にしぶとい貴様を魂を壊さぬようにと手加減して倒すのは、少々手間が掛かりそうだ」
彼女が喋る間にも、世羅は駆け出し剣を振るう。
それ等を僅かな身のこなしだけで避けながら、アンマリーは左手に神力を集めた。
剣撃の隙間に、強引にメイスを一振り。世羅を弾き飛ばして距離を開け、左手を大きく振りかぶる。
「仕方が無い、貴様の魂は諦めるとしよう。これで存在ごと――消え去るが良いっ!」
ニーラ達の裂撃魔法。リエラのアグナダイバー。
それ等を容易く凌駕する威力を持った投槍が、神速の領域で放たれた。
一秒と待たず、世羅の目の前には光の槍。視界を埋める神々しい輝きを、転がるように辛うじて回避する。
掠った左肩が大きく抉れ、鮮血が吹き出た。だがやはり痛みに顔を歪める事も無く、世羅は大きな攻撃によって隙を晒したアンマリーへと急いで距離を詰めようとして、
「貴様等の攻撃のように甘くはないぞ。我の一撃はな」
見詰めるアンマリーの瞳に映った光景に、咄嗟に脚を止め振り返った。
投槍が、反転していた。鋭角なVの字を描くように進路を変更し、軌道を調整し、獲物を捉えようと飛翔する。
避けられない、と世羅は真っ白な世界で自答した。
今の自分は、咄嗟に脚を止めた、不出来な状態である。先程は何時でもどのようにでも動けるよう体制を整えていたからこそ避けられたが、それでも辛うじて。ならば今の状態で避けられる訳が無い。
死が見える。剣の為に全てを使う冷静で冷酷な思考だからこそ、彼女の脳は当然のように、自分は死ぬと結論を出した。投槍の着弾まで僅か、一度だけならば剣を振るう機会もあるが、それで防げるものでもない。
(今の私の技では、斬るは不可能――)
思い、だからどうしたと、彼女は刀を振るおうとし。
明確に迫った死にほんの少し揺らぐような、未熟で不完全な剣の領域だからこそ、思い出す。
かつて見た一刀。この体制からでも放てる、起死回生の一打。
「極みの、一」
無意識に呟いて、世羅は刀を引き絞った。
それは過去、一度だけ見せてもらった師の奥義。彼が全てを掛けて生み出した、十の極み、その一つ。
剣の基礎の基礎……斬撃に、斬る事にのみ特化したその技の名は。
「――『斬』」
神槍と神斬がぶつかり合い。
閃光が、美しく散った。




