第十九話 絶望と剣気
最初にターゲットにされたのは、芦名藤吾であった。
リエラが倒された事に呆けている暇も無い。天使の目が己に向いた途端、彼は本能的に全速力で後退した。
元より速度に定評のある彼の全速だ。風のように軽く動いた身体は、瞬き一つの間に数十メートルの距離を移動して、
「人にしては速いな。我のような天使にとっては、並以下といった所だが」
背後からの評価に、そんな馬鹿なと身を強張らせた。
目を離していなかったにも関わらず、初動がまるで見えなかった。それこそ忽然と、気付いた時にはアンマリーの姿は消えていて、唐突に背後に気配が現れたのだ。
(まさか、瞬間移動――!? レストから聞いた大悪魔のような力を、こいつも持っていたのか!?)
振り返り際、槍を薙ぎ払う。
その時視界の端に捉えたとある痕跡に、藤吾は己の予想が間違っている事を確信した。
見えたのだ、アンマリーの足元に。薄黒く擦れたような、急ブレーキを掛けた車が残すタイヤ痕のような跡が。
(瞬間移動じゃない。ただ何処までも速く、移動したんだ――)
認識した時にはもう遅い。
速さに自信のある己よりも速い相手に、反射的な横払いが意味を成す訳もなく。
後の先で軽く弾かれて、メイスから離れた左手が貫手の形を作るのを、彼は今際の際のように加速した時間の中で恐怖と共に見詰めていた。
「そろそろ、本格的に刈り取るか」
「ぉ、あっ……」
胸の真ん中を貫いて、白く細い手刀が綺麗に背に突き出した。
己を貫通する他人の腕に、藤吾が苦悶の声を上げる。蚊の鳴くように小さな、それしか出せないという瀕死の声。
容赦なく、引き抜かれる手刀。瞳から色を失くし、少年の身体がゆっくりと崩れ落ちていく。
「ふっ。やはり、美しい輝きだ」
倒れる藤吾に目もくれず、アンマリーは手刀によって抜き出した、白い輝きを恍惚の面持ちで見詰める。
手の平に容易く収まるその小さな輝きは、魂だ。芦名藤吾という少年の、命そのもの。
抜かれれば当然死ぬ。生命体にとっての最重要パーツであり――天使にとっての、食料。
「まず一つ。次は……」
「っ! 障壁を――」
目線を向けられた綾香が魔力を巡らせるよりも早く。
彼女の横へ消えるように移動したアンマリーが、無造作にメイスを振るう。
細くたおやかな脚に、間接が一つ増えた。
「あ、ぁぁあああああ!?」
「これで、二つだ」
血を流し倒れる綾香に振り下ろされる手刀。
再び胸の真ん中を貫いて、天使は魂を奪い取る。
手の平に浮かぶ二つの輝きを笑みと共に見詰めるアンマリー。その背に、数多の光弾が殺到した。
「温い攻撃だ。それとも、次はお前が死にたいのか?」
「よくも、皆さんをっ……!」
憎悪さえ籠もった瞳で睨むニーラだが、背の魔法陣から放つ攻撃は、傷一つ与える事が出来ていない。
全て、アンマリーの圧倒的な力の前に無力化されているのだ。一撃一撃の威力に欠ける彼女では、アンマリーの防御を抜くことは不可能だった。
無力な子羊に、薄っすらと天使が嗤う。
「お前の魂は、特に美味そうだ。最後にしようと思っていたが……良いだろう。先に刈り取ってやるっ」
爆音と共に地が爆ぜ、アンマリーが跳び出す。
圧倒的な速度は、やはりニーラの迎撃を許さない。辛うじて目だけが動きを追う中、彼女の胸部へと手刀が迫り、
「下がっていろっ!」
貫く直前、巨大な戦斧が行く手を阻んだ。
「く、何という重さだっ……!」
「邪魔をするか。ならば、貴様から頂くとしよう」
あまりの力に歯を食いしばる荘厳に、アンマリーは容赦なく右手のメイスを叩き付ける。
メギャリと嫌な音を鳴らして、肩部が大きく陥没した。歯を食いしばり痛みに耐える荘厳だが、身体はあまりに隙だらけだ。
「これで、三つ」
その隙を逃す事無く、矛先を変えた手刀が彼の身体を一気に貫く。
更に引き抜いたその手で放った裏拳で、主の手から零れ落ちた巨斧をニーラへと弾き飛ばすと、影に隠れるように接近する。
障壁を張り、真機を弾き飛ばすニーラだが、追随するアンマリーまでは防げなかった。メイスの一撃で障壁を割り、彼女は左手を瞬時に突き出す。
「四つだ。くく、容易いな」
「ぁ……ぁ……」
小さな体が、灰色の地面に倒れ付す。
月光に照らされたアンマリーの左手には、四つの輝き。全ては、僅か三十秒にも満たない間の出来事である。
それらを……あまりに絶望的な光景を目にし。世羅は、総身を余す所なく震わせた。
「随分と、怯えているな?」
「っ、あ……ば、化け物が……!」
視線を向けられ、弾かれたように刀を握り直す。
じっとりと汗が滲む。ただ正対しているだけなのに、異常な威圧感で視界が歪んだ。
(こんな事、師匠以来だ。これが、あいつの本気。本当の力――)
此処に来て、漸く理解出来た。戦ってはいけなかったのだと。挑んではいけなかったのだと。
例え封印が解かれ、島が壊滅しても良い。共に死ぬ事になっても良い。
「こいつとだけは、戦うべきじゃなかった……!」
「ふふ。どうやら、少しは正しく理解出来たらしい。自分達の愚かさをな」
無意識に世羅が漏らした本音を、アンマリーはせせら笑う。
彼女にしてみれば当然の常識だった。自分達天使に人間が戦いを挑むなど、それこそ一部の『ナインテイカー《イレギュラー》』以外は無謀の極み。世界の法則として間違った事なのだ。
故に、この結末も決まっていた事で。料理を美味しくしようと少々遊びはしたが、全ては彼女の予定通りの結果であった。
「さて、ではお前の魂も貰おうか。他に比べれば少々劣るが、それでも充分な上物だ。楽しみだな」
「っ! き、え――」
消えたように、世羅には見えた。実際にはただ、何処までも速いだけだが。
先の四人の光景がフラッシュバックし、本能が恐れ腰を抜かす。尻餅を着いた世羅の直上を、細い腕が鋭く通過した。
「情けない姿だな。しかし、我と相対した人間の反応としては、正しいが」
「ふ、うっ……あっ……」
カタカタと、無意識に歯を打ち合わせながら後ずさる世羅。
完全に被捕食者と化した彼女に、アンマリーはわざとゆっくり近づくと、伸ばした左手で華奢な首をわし掴む。
世羅が、苦悶の声を上げた。
「ぐっ……。く、そっ……」
「悲しいか? 恐ろしいか? 安心しろ。お前は、お前達はただ死ぬのでは無い。この我の一部となる事が出来るのだ。人間にしては、上等な最後だろう?」
「だ、だれ、が……そんな……」
呼吸も録に出来ず、反論の言葉は擦れて消えた。
徐々に意識が遠ざかっていく。視界には白色が増えていき、身体の感覚も薄れて行った。
セピア色の視界の中で、天使がメイスを地に突き立てる。
離された右手が、貫手の姿を模った。
「これで最後だ。抜き取った魂は、封印を解いた後でゆっくりと頂くとしよう」
「……ぅ……ぇ……」
ヒューヒューと呼吸とも言えぬ風切音だけを鳴らし、世羅の目から色が消えていく。
身体にはもう抵抗する気力はなく、だらりと弛緩していた。辛うじて残る意識が、振りかぶられる手刀を寸での所で追っている。
上昇が停止。下降の動きへと移り、アンマリーの手刀が振るわれようとした、正にその時。
「むっ!? 何だ、この馬鹿でかい力は!?」
驚愕と共に、右腕は静止した。
アンマリーが首だけで振り返る。見えるのは変わらぬ公園の草木のみだが、その視線の先には確かに今感じた何かがある。
強者を自負し、リエラ達を圧倒したアンマリーをして『馬鹿でかい』と形容する、とんでもない力の発生源が。
「……消えた? 今のは一体」
発生は一瞬。消えるのもまた一瞬。
すっかり感じ取れなくなってしまった力に、アンマリーは首を傾げる。
この場所からは大分遠いが、発生源は間違いなく島の内部だった。そしてそれは、一瞬だったがあまりにも大きい。それこそ、自身が総毛だつ程の異常な力。
「まさか、第一位――『永天』が動き出したのか? いや、ありえん。奴がそう簡単に動く訳が無い。それに今感じた力は、あれはそう。まるで――」
「剣、気……」
同じく、薄れる意識の中で力を感じていた世羅が、掠れ声で呟く。
覚えがあった。その力に。良く知っていた。その力を。
(あれ、は……あの、力、は……)
揺れる意識の中に、ぽつりと一滴、水が落ちる。
それは瞬く間に波紋を広げ、彼女の脳内に一つの言葉を浮かばせた。
『下らない考えは、全て捨てろ。それは、剣を鈍らせる』
浮かんだ言葉は契機となり、次々と過去を思い起こさせる。
今まで受けてきた教えの全て。今まで培ってきた自分の全て。
そして――今まで見てきた、師の剣の全てを。
「わ、たし、は……」
ピクリと、世羅の右手が動き出す。
どんなに意識が揺らいでも、決して刀を手放さなかった右腕。その動きに、未だ疑問に囚われたアンマリーは気付かない。
「私、は……」
剣先が、天を突く。その段階になって漸く、アンマリーは子羊の変貌に気が付いた。
「貴様……!?」
「私は、ただ――」
そうして引き絞られた手刀よりも早く。
剣は、振り下ろされる。
「斬るっ!」
銀閃が、儚く月夜を彩った。




