第四話 月夜の戦闘
揺れる夕陽に目蓋を照らされ。そっと、少女は目を覚ます。
背中から感じる小刻みな振動が、まどろみから意識を強制的に引き上げた。
上半身を起こし、黒銀の双眸で以って周囲を見回し……窓から見えた高速で過ぎ去る景色に、どうやら列車に乗っているらしい、と理解する。
「私は……どうして……?」
まだ寝ぼけた頭で、現状に繋がる過去を思い出そうと記憶に飛び込む。
誘いに乗り、海に来て。半ば強制的に水着を着せられ、ビーチバレーで勝負して……。
「それで、どうなったんだ?」
そこから先の記憶が、どうにも曖昧だった。
一体どうしたらこんな、列車の中だというのにホテルの一室のような広々とした個室で寝ている事に繋がるのか、その間がすっぽりと記憶から抜け落ちている。
怪我をしている、訳ではない。監禁されている、訳でもない。
何が起こっているのか、それが理解出来ず――世羅・ヴォルミット・クーリエは、得も知れぬ不快感に顔を歪めた。
「おや。起きたのかい?」
「っ、手前……!」
と、戸惑う彼女の意識を引き付ける、暢気な声。
プシュ、と空気の抜けるような音と共に開いた扉から現れたのは、魔導の極致にして打倒するべき敵、レスト・リヴェルスタであった。
彼は手に持っていたジュースの缶を此方に投げ渡すと、近くの椅子に腰掛ける。同時、虚空から取り出したティーセットをテーブルの上に置き、紅茶の準備をし始めた。
その余りに唯我独尊な態度と行動に、混乱していた頭が落ち着きを取り戻す。幸い危機的状況ではないようだし、癪だが、本当に癪だが、何があったのかこの男に訊ねるとしよう。
「おい、レスト・リヴェルスタ」
「ん、何かな? もしかして、グレープジュースは嫌いだったかい?」
「別に嫌いじゃない。それより、此処は何処だ? 何で私はこんな場所で寝ていた?」
率直に問えば、彼は数瞬動きを止めた後、呆れた顔に成り。
「覚えていないのかい? それはまた、随分はしゃいでいたらしい」
「はしゃいでいた? おい、どういう事だ。はぐらかしてないで、早く教えろ!」
「別に、はぐらかしてはいないのだが……。まあ覚えていないというのなら、教えてあげよう」
紅茶で唇を湿らせて、彼は続けた。
「君は、リエラと散々勝負をした挙句疲労で倒れて、気を失っていたんだよ。時間ももう夕方に差し掛かっていたんでね、特別にこの列車に部屋を取って寝かせておいたんだ。他の皆も、全員隣の部屋に居る」
「疲労で倒れて……? そういえば、そんな記憶があるような、無いような……」
「最後の方は、立つ事も出来ない程消耗していたからね。記憶が曖昧になるのも無理は無いさ」
薄っすらと思い出す。スイカ割りにビーチフラッグ、遠泳に至るまで、あらゆる競技で競い合い……結局決着が付かなくて、共に力尽き砂浜に倒れこんだのだ。
自分の介抱を倒すべき敵にされた、という事実に思わず顔を歪める。そして、気付いた。
「そういや、服が戻って……ま、まさかっ!」
この男に、着替えさせられたのか――!?
顔を真っ赤に染めながら、反射的に自分の身を掻き抱いた。意味など無いのに、つい毛布を掴み取り、身体を覆い隠してしまう。
まるで蓑虫のようになった世羅に、レストは一瞬何をしているのか、と疑問を抱き。
「ああ、それなら心配いらないよ。君の着替えは私の従者が行った。勿論女性のね」
「……本当か?」
「本当だよ。こんな事で嘘などつかない」
隙間から顔だけ出した彼女に、そう断言。
暫くいぶかしむような目で見ていた世羅だったが、本当だと信じたのか、布団を払いのけるとぶすっとした表情で彼と向かい合った。
そのまま、ジュースを一口。
「礼は言わねーからな」
「構わないさ。海に連れて来た者として、当然の責任だ」
それっきり、会話は途切れた。
数分、揺れる列車の奏でる音だけが、夕焼けに染まる世界を微かに彩る。
やがて。沈黙を破ったのは、少女の方だった。
「……これで、お前は私と戦うんだな?」
「そうだね。そういう約束だ」
「なら、学園に戻ったら直ぐに戦え。誤魔化しは無しだ」
「良いのかい? 散々リエラと争った後だろう?」
ただでさえ、勝ち目の薄い戦いだ。万全の状態で挑まなくて良いのだろうか?
「問題ない。寝たら回復した」
「なる程。流石は彼の弟子、という事か」
くすくすと笑う彼に、小さく舌打ち。近くに立て掛けてあった愛刀を手に取り、ぎゅっと握り締める。
(いよいよ、か。……勝ち目は、無いかもしれねぇ。けど今更退けない。やるしか、ないんだ)
覚悟を決める少女の顔を。沈みかけた夕陽だけが、明るく照らしていた。
~~~~~~
一行が学園に戻ってきた頃には、すっかり日も落ち、辺りは真っ暗になっていた。
雲掛かった月だけが頼りの、薄暗い夜道。それをたった二人で歩いて行く。
「お仲間は連れなくて良いのかよ?」
「子供ではないんだ、一人で十分さ。君も、自身が敗北する所など見られたくはあるまい?」
ちっ、と世羅は顔を逸らし舌打った。
戦えば絶対に自分が勝つ。レストの言葉はそんな自信に満ち溢れており、そして恐らくはそれが間違いではないだろう事を、彼女は知っている。
レスト・リヴェルスタに勝つという事は、師に勝つ事とほぼ比肩する程に難しい。そして世羅は、自分が師を越える事は当面――どころか下手をすれば一生無いであろう事を、良く理解していた。
(正直言えば、恐ろしい。当たり前だ、負けると分かっている勝負に自ら挑む、これ以上の恐怖がそうそうあるか?)
まして相手は圧倒的強者。手も脚も出ず無様に敗北を喫した時、また立ち上がれるのか……はっきり言って自信は無い。
やはり、止めておくべきか――そんな弱い考えが頭に浮かび、世羅の歩調が遅くなる。
視線の先には、延々と続く灰色の夜道。まるで自身の未来を暗示しているかのようなその暗さに、無意識の内に唇を噛む。
手に持った刀がやけに重い。何時もならば目を奪われるはずの夜桜すら、まるで意識に入らない。
だから、だろう。立ち止まっていたレストに気付かず、その背中にぶつかってしまったのは。
「っ、おい? 何止まって――「いやはや」っ!?」
答えたのは、老獪な翁のような声だった。
明らかに目の前の青年のものではない。驚き、思わず周囲を見渡して。
「美しいものですな、この学園は。特にこの花……桜と言いましたか、これは素晴らしい。太陽だけではなく、月にも映える」
居た。立ち並ぶ桜木の一本、その頂点に、まるで全てを見下ろすように。
薄茶色の帽子と、薄茶色のコートを身に付けて。老人が一人、立っていた。
覚えの無い人物だ。最もこの無駄に広い学園の事、自身の知らぬ教師や用務員が居た所で不思議では無いが、
「誰だ、手前……」
世羅は違うと断じた。あの男は決して学園の関係者では無い、と。
纏う雰囲気が異常だったのだ。表の、陽の当たる場所からは程遠い。それこそ薄暗いスラムの奥底から這い出てきたかのような本能的嫌悪感が、翁の全身からは放たれていた。
こんな人間がこの学園に居るものか。陽の当たる場所に、居るものか。
理屈ではなく本能で、世羅はそう判断した。己の考えは間違っていない、とも。
人に慣れていない猫のように警戒を露にする少女に、翁が笑う。
「いやはや、これはまた嫌われたようで。まだまともに会話もしていないのですが……困ったものです」
孫を見るような微笑ましい笑みだった。
なのに、背筋を悪寒が走るような、おぞましく不気味な笑みだった。
やはり違う。この男は――敵だ!
「何が嫌われた、だ。好かれようとしている奴が、同じ高さにも立たずに話し掛けてくるものかよ!」
「これは手厳しい。しかし確かに、おっしゃる通りだ」
此方の言葉を聞き入れたのだろうか。帽子を押さえ、翁が樹上から飛び降りる。
着地の寸前、重力を無視するようにふわりと浮いて。虫の羽音にも劣る軽やかな音と共に、彼は夜道に降り立った。
反射的に一歩退く。そうして刀の柄に手を掛ける世羅だったが、抜き放つよりも早く、レストに手で制される。
「何のつもりだっ? お前だって分かるだろ、あいつは……やばいっ」
「危険な男であるというのは、理解しているよ。けれど話も聞かず、いきなり斬り掛かる事もないだろう?」
何を悠長な事を、と叫びたかった。
だが同時に、自分よりも遥か高みに居る強者の意見を完全に無視する事も、また出来なかった。
渋々抜きかけた手を止める世羅に下がっているよう忠告し、レストは一歩、前に出る。
「さて。こうして話し合いの場を作った訳だが……まずは此方から、名乗るべきかな?」
「いえいえ、結構ですとも。貴方の事は良く知っていますからな、レスト・リヴェルスタ殿?」
名を言われ。けれどレストは、動じない。
「では、そちらに名乗って貰おうか。一方的に知られているというのは、フェアじゃないだろう?」
「一理ありますな。では、改めまして。私の名はモーゲルラッハ、家名など持ち合わせておりませぬ、ただのモーゲルラッハです」
恭しく頭を下げ、翁は自身の名を名乗る。
上げられた顔には実に友好的な、優しい笑みが浮かんでいた。
とても信用には至らぬ、悪魔のように妖しい笑みが。
「モーゲルラッハ、か。聞いた事のある名だ、最も私の知るそれと君が同一とは限らないが」
「こんな寂れた名前をご存知とは、いやはや、何とも博識で。流石は世に名高き『魔導戦将』、といった所ですかな?」
「心にも無い世辞はいらないよ。それで? 部外者がこの学園に、一体何の用なんだい?」
切り込まれた問い。唐突な核心への直進。
だが翁も然る者、泰然自若に受け止めて、ゆっくりと答えを返す。
「それなのですがね。実は貴方に……いえ、正確に言えば貴方達ナインテイカーに、お願いがあって来たのです」
「願い、ね……。聞くだけは、聞いてみようか」
「ありがとう御座います。それで、お願いですが……貴方達にこの世界から、出て行ってもらいたいのですよ」
レストの目が僅かに細まった。背後の世羅も、驚きに目を見開いている。
「それはまた、穏やかな要求ではないね」
「重々承知ですとも。しかしですな、はっきりと申し上げますと……邪魔なのです。貴方達の、存在が」
空気が張り詰める。半ば蚊帳の外に置かれている世羅でさえ、息の詰まるような苦しさを感じる程に。
それは、レストから発せられているある種の力場が原因だ。敵対者へと向ける、明確な威圧感。
けれどそれにも、モーゲルラッハはうろたえない。ゆらりと柳のように受け止め、流し、被った帽子のずれを直す。
「何も、死んで欲しいと言っているのではありません。私達が目的を達しようとした場合、貴方達は必ず立ちはだかる障害となる。そう分かっているからこそ、少しだけ席を外して欲しいと、そうお願いしているのですよ」
表面状だけは真摯に見える態度で、翁は小さく頭を下げる。
その言葉の端を拾って、レストは薄く笑みを浮かべた。
「私『達』ということは、君は単独犯では無いという事か。そして私にとって良く無い『何か』を、起こそうとしていると」
「いやはや、これは失言でしたかな。まあ、知られて困る事でもありませんが」
全く反省していない顔で翁が言う。
そうして、改めて腰を折り曲げた。
「では、改めまして。レスト・リヴェルスタ殿、どうかこの世界からほんの少しの間だけ、出て行っては貰えませんか」
「結論から言おう。――断る」
一切の迷い無き断言だった。翁の顔が、悲しみに染まる。
「いやはや、連れない事で。理由をお聞かせ願っても?」
「ふむ、理由か。色々あるが、そうだね。一番の理由は――」
理由は? と訊き返すモーゲルラッハへと、
「君程度の存在に私が配慮しなければならない。その事実が、気に入らない」
冗談などでは無い、何時も通りの平淡な表情でそう答えた。
翁の目が一瞬開かれる。が、直ぐに帽子を押さえたかと思うと、その陰でくすくすと忍び笑い。
「いやはや、これは。全く以って強者らしいというか……自分勝手に過ぎる理由だ」
「そうだ、私はそういう人間だ。そして、だからこそ――」
その瞬間、世羅は確かに見た。十数メートルの距離を置いて立つ翁、その頭上に現れた、眩く輝く魔法陣を。
「君のような愚者のお喋りに、何時までも付き合っているつもりもない」
光が、大地を貫いた。ちっぽけな老人を一人、押し潰して。
極光から感じる力に思わず身震いする。自身が受ければ、間違いなく一撃で勝負が付く程の力の総量。
それをああも簡単に、前動作さえほとんど見せず撃ち放った目の前の青年に、改めて戦慄を抱く。こんな男に自分は挑もうとしていたのか、と。
「やった、のか……?」
上がる白煙を見ながら、呆然と世羅は呟いた。
――この時、もし藤吾がこの場に居たら。きっとこう叫んでいただろう。
それはやってないフラグだ、と。
「いやはや、いきなり砲撃魔法とは。物騒なものですな」
「っ! 後ろ!?」
素早く振り向き、離してしまっていた刀の柄に手を掛ける。
案の定、と言うべきか。そこには老人が居た。傷一つ、服の綻び一つない、前見たままの老人が。
「避けた、のか? 嘘だろ、まるで見えなかった……」
「瞬間転移、か」
横から漏れた呟きに首だけを動かせば、ゆっくりと振り向くレストと目が合った。
しっかりと振り向ききった彼が、続ける。
「大した発動速度だ。タイムラグは恐らく、ほぼ零と言って良い」
「いやはや、一発で見抜かれるとは。眼力か、感性か。何にしろ厄介ですなぁ」
漸く、世羅は先程何が起こったのか、その全容を理解した。
レストが砲撃魔法を放つと同時、あの翁は何らかの力を使って自分達の背後へと瞬間移動したのだ。
当然、その軌跡を目で追えるはずがない。しかも発動は速攻、もしこれで制限がないのなら、厄介を通り越して凶悪に過ぎる力である。
そして往々にして現実とは、嫌な想像程当たるもの。
「ご明察の通り、瞬間的に他の場所へと転移する――それが、私の持つ能力です。固有に備わった能力ですので貴方方の使う魔法のように、魔力を消費する事もありません。発動は自由で、無限です」
「そ、そんな無茶苦茶な能力があってたまるかっ」
「そう言われましても、真実ですから。これ以上の言いようは――「なる程」」
翁の言葉を遮り、レストが納得したように軽く頷く。
二人の注目を集めながら、彼は続けた。
「モーゲルラッハ。やはり、私の知るそれと同一だったか」
「ど、どういう事だよ? お前、あいつについて何か知ってるのか!?」
世羅は、捲くし立てるように問うた。
今は少しでもあの得体の知れない老人に関する情報が欲しかったのだ。
「ふむ。クーリエ、君は魔界について知っているかい?」
「あ、ああ、一応授業で習ったからな。悪魔だの魔の眷属だの、物騒な奴等が住んでる世界の事だろ? 私達が今居るこの世界とは、少し位相のずれた場所に存在しているとか」
「その通り。かつては欲に塗れた人間が、魔界から悪魔を呼び出す、何て事も度々あったそうだ。そして呼び出された中でも特に強力な力を持つ者達は世界に破壊や混乱を齎し、記憶だけでなく記録にも深く記される事となった」
「まさか……あいつが、その?」
「そうだ。十六世紀中頃、イタリアの片田舎で呼び出され……そこからの百年で三十万人に及ぶ人間を殺し尽くした、人類の仇敵。『公爵』の異名を持つ、最上級悪魔。それこそが『モーゲルラッハ』だ」
想像以上の情報を前に、世羅は絶句した。
三十万もの人間を殺した、最上級悪魔。そんなもの伝説上の存在と言っても過言ではない程、異常極まる存在だ。少なくとも世羅はこれまで会った事など無いし、これからの人生でも会う予定などなかった。そう、この時までは。
「そ、そんなとんでもない悪魔が、どうして教科書に載ってないんだよ? テイカーどころか、一般の学校で習ったっておかしくないだろうに」
「とうの昔に、討伐されたと思われていたからね。下手に情報を残すと、それを頼りに強力な悪魔の召還方法を嗅ぎつけられる恐れがあった。だから力を持つ悪魔の情報は、全て特級の閲覧制限が掛けられているんだ」
ましてそれが、モーゲルラッハ程の悪魔ともなれば尚の事。居たという情報を残すことすら、危険と判断されたのだ。下手をすれば悪魔復活の儀式を執り行おう、などとトチ狂った考えを持つ者さえ出かねないのだから。
「私は一応、彼について書かれた書物も読んだことがあるが……そこにはこう書かれていたよ。『痕跡さえ残さず百里の距離を瞬時に踏破し、数多の町を灼熱の業火で地獄に落とした、真なる悪魔。如何なる攻撃も彼の翁を捉える事叶わず、人の悲鳴を至上の糧とする、唾棄すべき悪鬼』と」
「いやはや、恥ずかしいものですな。他者からの評を聞くというのは」
気恥ずかしそうに顎を擦りながら、モーゲルラッハは己が懐に手を入れた。
そうして取り出した煙管を口に咥えると、トン、と帽子の唾を一叩き。瞬時に煙管に火を灯す。
煙を燻らせる彼は、実に自然体で……己の正体がばれた事など、毛程も気に掛けていないようだった。
「私と相対しておきながら、その余裕。少々驕りが過ぎるんじゃないのかい?」
「いえいえ、まさか。驕ってなどおりませんよ。ただ――相性が良い、とは思っていますがね」
ふっ、とモーゲルラッハが煙を吐き出す。
直後。その煙を、極光が撃ち抜いた。
「いやはや、怖い怖い」
だが、その時には既にモーゲルラッハの姿はそこには無い。
ほんの二メートル、瞬間転移で横にずれる。それだけで必殺の光砲は敢え無く空を切らされたのだ。
「この程度で、終わるとでも?」
レストの背に展開されている魔法陣が輝きを増し、更なる砲撃を撃ち放つ。
しかも今度は一発では無い。対象周辺を破壊し尽くすように十発近い光砲が、休む間も無く連射されたのだ。
尋常な使い手ならば跡形もなく消し飛ぶ火力。だがそれすら、あの悪魔の前では意味を成さない。
「レスト・リヴェルスタ殿。貴方は、確かにお強い」
気付けばまた、後ろに居た。
再び翁目掛けて砲撃が放たれるが、空間転移を使いこなす彼には掠りもしない。
展開される魔法陣の数が倍に増え、そのまた倍に増え、更に倍に増えても。前後左右、そして地に空と、周囲の空間を自由自在に移動出来るモーゲルラッハ相手には、唯の一発も有効打には成り得なかった。
間断なく放たれ続ける破壊の奔流を避けながら、翁は再度煙を一吹き。
「ですが、その戦闘方法は数多の砲撃魔法による飽和攻撃に限られます。数と火力を兼ね備えたそれはまさに圧倒的な暴力ですが、しかし。そんな無双の力にも、相性は存在するものです」
遂には空間を埋め尽くす程の魔法陣が描かれて、迸る光砲の数は百を超えた。
だがそれでも、翁の帽子一つ飛ばすことすら叶わない。
「実際、私と貴方は相性が良い。どれだけ多くの砲撃を放とうとも、どれだけの威力を秘めていようとも、当たらなければ意味はありません。至近からの攻撃ならまだしも、遠距離からの攻撃ならば、瞬間転移が可能な私が避けられないはずが無いのですから」
「そうかい。なら、これでどうかな?」
足元に魔法陣。大きい、直径数十メートルはある。
レストを中心に展開されたそれが光を放てば、桜並木が刹那の間だけ昼へと変わる。
否、そう錯覚する程の光が、天に向かって立ち昇ったのだ。
「周囲すべてを巻き込む範囲魔法。これなら逃げ場は――「いやはや」」
光が消えた、コンマ一秒後。背後……それこそ煙管にくべられた煙草の匂いさえ分かる程至近から、声は聞こえた。
咄嗟に振り向くより早く。レストと世羅、二人の間を薄茶色の影か駆け抜ける。
「これで仕留められると思っているのならば、少々私を舐めすぎですな」
鮮血が散った。他でもない――レストの頬から。
小枝にでも擦ったかのような、小さな傷。だがそれは確かに、敵によって付けられた『傷』だった。
「一度範囲外まで転移した後、また転移して戻ってくれば良い話。実に簡単な対処法です」
ずれた帽子を細かく直し。白い肌に伝わる赤に、翁が満足げに踵を返す。
「いやはや、挨拶はこれで済みましたかな。では、私はそろそろお暇するとしましょう」
「逃がすと、思うかい?」
堂々と背を向けるモーゲルラッハに、レストの力が急激に高まっていく。
彼を中心に、空間が歪む。身体から闇より深き漆黒が、薄っすらと滲み出していた。
「おや、貴方の『世界』を展開する気ですかな? だとすれば、止めておいた方がよろしいかと。私を包むその僅かな間に、瞬間転移で範囲外まで逃げさせてもらいますので。無駄に力を消耗するだけですよ」
「…………」
「ふふ、そう睨まないで頂きたい。貴方が周囲の事を考え、力をセーブしている事は重々承知しています。如何せん砲撃戦特化の貴方がこんな所で本気を出せば、学園もそこに住む人々も到底無事では済みませんからな。だからこそ、私は貴方の世界に囚われる訳にはいかないのです」
煙管を一吸い。翁は語る。
「それが、最も安全な戦い方ですからな。加えて言えば、今は前哨戦。まだ命を賭けて戦う段階ではありません。貴方との決着は、場を整えた後できっちりと付けるとしましょう」
まあ、戦わずに済むのが一番ですがね。
そう言って、モーゲルラッハは歩き出す。道から外れ、闇の中へと溶け込むように。
「しかし残念です。この分では、全ての交渉は失敗に終わりそうですな――」
その姿が消える直前。落胆した呟きが、耳に届いた気がした。
「……やれやれ。面倒な敵が現れたものだ」
それから数瞬。翁の撤退に合わせるように、レストの力が静まっていく。
力の全てを身の内に納めた彼は、破壊し尽くされた桜並木から目を逸らし、変わらぬ月夜に息を吐く。
「これが、学園長の言っていた厄介事か。……丁度良いチャンスかもしれないな」
後半は、傍に立つ世羅の耳でも聞き取る事は出来なかった――。




