二条綾香と秘密の部屋
二条綾香にとって、レスト・リヴェルスタとは何か。
もし彼女がそう訊かれれば、きっと躊躇いも無くこう答えるのだろう。
世界で最も愛する、何より大切な男性です、と。
かつてある女性の謀略により虐めにあっていた綾香は、彼によって救われた。
それ以降、半ば以上に依存し、彼に付き纏うようになった綾香だが……レストは、そんな彼女を快く受け入れた。どころか(傍からは分かりにくかったが)積極的に支えになった程である。
何故彼がそんな行動を取ったかといえば八割方気まぐれなのでそこは気にしないとして、友人と成り、弟子と成り、一層彼と親密になった綾香は、何処までも深く彼にのめりこんだ。
それは最早完全な依存状態であり、皆に意見を求めれば賛否両論飛び交うとは思うのだが、そんな事は当人にとっては関係ないもので。きっと彼女に注意を呼び掛けても、だからどうしたのです、と冷静に返される事だろう。
綾香は自分がレストを愛し、依存している事を自覚している。そしてその状態を何の問題も無いと、純粋に良しとしている。
まあ要するに、何が言いたいのかというと。
「い~~え! 師匠こそ、ナインテイカーの中で最も素晴らしく、偉大な人物です!」
彼を語る綾香は(レストを除いて)誰にも止められない程熱く、盲目的だという事だ。
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『九式研究部』という部活を、皆さんはご存知であろうか。
多数の部が存在する第一魔導総合学園であるが、その中でもこの部活は、相当に特殊な部類に属するだろう。
部員数三百十二名。活動場所、第八部活棟地下一階。主な活動内容――研究、議論。
此処まで聞けば至極まっとうな部活動である。が、問題はその研究対象と、実際の議論内容。
彼等の活動は当人達以外の誰が見ても、まっとうな『部活動』とは言えないものであったのだ。
百聞は一見にしかず。今回は、この九式研究部の実態に迫ってみよう。
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ごくり。二条綾香は思わず生唾を飲み込み、緊張に背筋を強張らせた。
薄暗い廊下に立つ彼女の前には、何の変哲も無い一枚の扉。そして横にずらりと続く大きな窓。
平凡な、皆が普段授業を受けている教室と特に変わらない構造のこの部屋こそが、彼女の所属する部活。九式研究部に与えられた部室である。
きっと初めて此処に来た人は、まず不気味さを覚える事だろう。電灯がちかちかと点灯する廊下は勿論の事、窓には全て漆黒の暗幕が下りており、中の様子が全く以って窺えない。
おまけに閉められていても分かる程の熱気が、扉の端から溢れているのだ。まっとうな常識を持つ者ならばまず近づかない。そんな、異常空間。
だが同時にその室内は、一部の者達にとっては踏み入られずにはいられない、戦場でもあった。お互いの誇りを賭けた、譲れぬ戦場。
そして二条綾香もまた。その戦場に命を賭ける者なのだ。
「――失礼します」
がらりと凡庸な音を立てて、綾香は扉を開き中へと踏み入った。
複数の蠟燭に灯るか細い火によって照らされた前時代的な室内を見渡せば、円形に並べられた机の列がまず目に入る。
その数七十七。当然ながらそんな物を正円に並べるなど、普通の教室ならば出来ないだろうが、そこはこの部活。改造の施された室内は、外観からは想像もつかない程、広く広くスペースを取られていた。
「やあ。来たか、二条部員」
そんな円卓の座に一つだけ、高くなっているものがある。机を積み、椅子も積み、二段にしたその席には真っ黒なローブで頭から足まで被った人物が、厳かに座していた。
彼こそこの部の部長。三年AF組所属、トットン・ハーマ。誰もその素顔を見た事のない、霧のようなテイカーである。
「もうすぐ始まる。かけたまえ」
「はい。お言葉に甘えて」
トットンの促しに従い、綾香は円卓の一角に腰を下ろす。
何時もの定位置から、再度周囲を見回した。既に席の半分以上は埋まっており、更に一部の席の後ろには主に従う従者のように無言で佇む者まで居る始末。
明らかに異様な空間だった。邪神召還の儀式と言われれば、きっと大半の人が信じてしまうだろう。
「今日はあんまり集まらないっぽいねー、人」
と、これからの戦いに向けて神経を研ぎ澄ませていた綾香は、ふと掛かった声に顔を上げる。
そのまま隣の席へと視線をずらせば、にっと笑う快活な少女と目が合った。
「そうですね。突然の召集でしたし、都合の付かない人も多いのでしょう」
「でもさー、代役くらい立てれば良いのにっ、て思わない? 綾香ちゃん」
彼女の名は鷺宮ランドルイス。レスト第一の綾香にとっては数少ない、レストとは関係の無い友人だ。
この部活に入ってからの付き合いではあるが、明るく人付き合いの良い彼女の性格のおかげで、師が居ないにも関わらず随分と良好な関係を築けていた。
短めの翠髪を揺らし、始まりの時を今か今かと疼き待つ彼女に、そっと微笑んで返す。
「今回の召集はあまり重要度が高くないと、そう知らせには書いてありましたから。数が集まらない事は、部長も了承済みでしょう」
「ちょっと寂しい会議になりそうだね。つまんなーい」
「ルイスさん、会議は楽しいつまらないの問題では無いですよ。――互いの熱と熱をぶつけ合う。それが、九式研究部の会議です」
そう、これから始まるのは遊びでは無い。戦争なのだ。
今はこうして朗らかに団欒している彼女も、会議が始まれば敵となる。己等が愛をぶつけ合う、不倶戴天の怨敵に。
最も、だからといって彼女との仲が悪くなる、という事は無い。議論の本質はあくまでも互いの愛を示す事であり、相手を打ちのめす事ではないのだから。
やがて。数分の時が経ち、幾つかの空席が追加で埋まった頃。机を一叩き、衆目の注意を集めた部長が大きく両腕を広げ立ち上がる。
「さて、諸君! これ以上は待っても無駄だろう。そろそろ何故今日諸氏をこの場に集めたのか、その理由を話そうと思う」
ぴん、と場の空気が張り詰めた。先程まで雑談に溢れていた室内が、水を打ったような静寂に包まれる。
己を見詰める、百十二の聴衆へと順番に視線を巡らせて。トットンは大きく息を吸い込んだ。
「――諸君等は、先日の高天試験を見ていただろうか。或いは参加した者もいるかもしれない。まあ、それに関してはどちらでも良い。最悪全く見向きもしていなかったとしても、どうという話では無い」
厳粛な声音に、皆の気が引き締まる。
一人の例外も無く己の話に耳を傾けている事をしっかりと確認してから、彼は続けた。
「今回重要なのは。あの試験に我らが研究対象であるナインテイカーが二人も参加した、という事だ。この事項の重要性は、此処総学に在籍する皆ならば良く理解している事と思う」
ナインテイカーの九人は、そのほとんどが高天試験のような学校行事には積極的に参加しない。
理由はそれぞれであるから置いておくとして、要するに先日の高天試験は中々にレアなケースであった、という事なのだ。
「しかもだ。ただ参加するだけではなく、ぶつかり合い、戦った。分かるか、諸君。闘争を繰り広げたのだ、衆目の前で、ナインテイカー同士が!」
無意識の内に荒くなっていた語気に気付き、トットンは首を振ると頭を一度冷却させた。
クリアになった思考で話すべき内容を改めて吟味しながら、言葉を繋ぐ。
「実際の戦闘内容はほとんど見る事が出来なかったが……それは些細な事。あの二人の激突を切欠に、学園の裏で密かに『ナインテイカーに関する議論』が再燃しているのだ」
ざわり、一同が俄かに騒がしさを増す。
ナインテイカーはその圧倒的な力から、一般の生徒の話題に上がる事もままあった。だがそれもあくまでも既に議論され尽くした上での、下らない雑談のようなもの。
長らく(表面的には)大きな動きの無かった彼等について活発な議論を交わす者など、そのファンクラブの人間位のものだったのである。
だがあの激突で少々、状況が変わった。改めて目にした力の一旦。ナインテイカー同士の勝負という、ほとんど耳にしたことすらない奇異な現象。
それらは、一般生徒に対しナインテイカーへの興味を再燃させた。いや一般生徒だけでは無い、元から熱かったファンの間での議論をも、更に激しくさせたのだ。
「今はまだ、目立つほどのものでは無い。だが徐々に、徐々に、種火が炎に変わってきていることは事実なのだ。もしこれが一過性のものだというのならば、それはそれで構わない。だが、そうではなく……渦を巻くように、議論が激しさを増して行ったのなら。或いは高天試験の時のように、燻る火種に油を注ぐような事態が起こったのならっ」
再度、息が荒くなってきている事を自覚しながらそれでもトットンは止まらない。否、止められない。
だん、と両手で机を思い切り叩き、叫ぶように。
「その時っ。議論の先端を走るのは、我々九式研究部を置いて他に無い! そうは思わないか、諸君!」
空白は一瞬。彼の意見を聞いた誰もが同意するように頷き、賛同の眼差しを彼へと注ぐ。
それらを満足げに受け止めて、トットン。
「その時に備える為に。我々はより深く熱く、議論を交わさなければならないっ。異論はあるか!?」
答えは、万雷の拍手であった。
部長を含め、この場に居る百十三名、全ての心が一つになる。
――そうだ。自分達は九式研究部。ナインテイカーの研究・議論に関しては何人の追随も許さぬ、絶対的な先行者。
ならば流れに乗っただけの一般生徒などに、負ける訳にはいかぬのだ。彼等が議論する全てを『私達はとっくの昔に終えましたよ?』と素知らぬ顔で言える程に、深く話し合わなければならぬのだ。
部長が何故今回、自分たちを招集したのか。その理由、心を理解した皆が、覚悟の宿った眼差しで彼を見据える。
集中する強靭な視線の雨に――けれど怯まず、全く同じ質と強さを持ってトットンは返す。
それは正にこの部の長として相応しき、頂点に立つ男の貫禄だった。
「今回の招集はあくまで、決意表明のようなものだ。詳しい話や議論は今後、定例集会の時に行っていく。だからこそ無理には集めなかったが……出来る事ならば、此処に居ない知人・友人のメンバーに対し、一言伝えておいて貰えるとありがたい」
また、皆が頷く。
「まだ未来の見えぬ今、焦って行動するつもりは無い。だが何時その時が来ても良いように、総員心の構えだけはしておくように。良いな!?」
「「「「「了解!!」」」」」
暗幕を触れずに引き裂く、それ程の声量だった。
百を超える人間の思いが一つとなった時……魔法など使わずとも、非常識な現象を巻き起こす。これぞ正にその証明。
廊下からの明かりを受け、少しだけ明度を上げた室内で、部長はゆっくりと席に着く。
「では、本日は解散……といきたい所だが、その前に。何時もの定例報告だけ聞いておこう。――ナンバー1!!」
「はっ!」
トットンの呼びかけに応じて、一人の男が立ち上がる。
彼は古臭い丸メガネをくいと上げ、実に落ち着いた冷静な声音で、
「学内ランキング第一位『永天』様についてですが……此処最近は、特に目立った動きはありません。何時も通り、学園の屋上で日向ぼっこを満喫する生活を送っております」
「夏休みに入ってもか?」
「は。多少は姿を眩ます事もありますが、基本的には」
「そうか。よし、次!」
「はい」
丸メガネの男が座ると同時、今度はお嬢様然とした少女がトットンの呼びかけに応じ立ち上がる。
彼女が付ける腕章には、『ナンバー2』の文字が刻まれていた。
「第二位、『鏡鎖時空』様は夏休みに入ってからずっと、学園長の頼みで島の外に出ていますの。流石に外部の事となると、それ以上は……」
「そうか。分かった、では次、ナンバー3!」
「おうっ!」
先程まで話していた少女が座ると同時、立ち上がる大男。
彼はその筋肉を服がはち切れんばかりに隆起させ、己の敬愛するナインテイカーについて語り出す。
「第三位、『暴君』先生はじゃのう、顧問をしておる部活の指導で忙しいようじゃ。どうやら大会が近いらしい」
「なる程。それでは、次は……」
「わたし、だね~!」
はいっ! と元気良く手を挙げ立ち上がったのは、綾香の隣に腰掛ける少女。鷺宮ランドルイスであった。
「えーと、第四位『無現』さんは。夏休みの課題に苦労して、第七位さんに縋りついていたみたいだよー。後は、特別変わったことは無いんじゃないかな」
「そうか、ご苦労。次っ!」
「…………」
報告を終え席に着いた鷺宮に変わるように、すっと一人の少女が無言で立ち上がる。
何故かナース服を着た彼女は、小さくその唇を動かして。
「……第五位。『限位超越』。入院、継続」
「ううむ、そうか。早く良くなると良いのだが……次!」
「は、はいっ!」
慌てた様子で、新たな少女が立ち上がる。眼鏡を掛けた内気そうな少女だ。
「第六位、『真昇華』さんは……何時もと、変わりません。街をふらふらとうろついています」
「まあ、予想通りか。では。次」
「はい」
迷い無く流麗な所作で、大和撫子と形容するに相応しい少女が立ち上がる。
そう――他の誰でもない、二条綾香が。
「師匠……いえ、第七位『魔導戦将』ですが。従者に魔法を教えたり、街に買い物に出たりと、夏休みを満喫しているようです。それから先程ありましたが、第四位さんに勉強を教えたりも。私も少しですが一緒に教えてもらいました。ふふ」
「えー、綾香ちゃんずるい! どうせなら私も誘ってよ~!」
隣で頬を膨らませる友人に苦笑いで返し、綾香は着席した。
本当ならば、師の素晴らしさについても語りたかったが……今はその時ではない。場を弁える心位は、これでも持っているつもりだ。
「よし、次。ナンバー8!」
「ちっ、私か。面倒臭ぇ」
がしがしと薄茶色の頭を掻きながら、不良染みた少女が席を立つ。
不満そうな態度を隠しもせず……けれど、結局は語り出す。
「第八位、『極剣』は……剣の稽古をしてるよ。何時だってそうだ、あの人は」
「そうか、まあそうだろうな。では、最後!」
「僕ですね。ふふ……」
ゆらり、幽鬼のような所作で立ち上がったのは、目が隠れるほどに前髪を伸ばした少年だった。
先程まで弄っていたスマホを裏返しに机に置き、にやりと笑って言う。
「第九位……『速狂士』こと、博士はですね。昨日も今日も、そして明日も、研究の毎日ですよ。そして何より……変わらず、可愛らしい。へふ、へへ」
「うむ。これで全員の報告が終わった訳だが……特に大きな変化は無し、か。当たり前といえば当たり前だろうが」
全てを聞き終えた部長はそう言って、鷹揚に頷いた。
そも、ナインテイカーは九人全てが過去・現在・未来に置いて比類なき程に飛び抜けた、異常極まる強者達の集まりだ。彼等にとって大半の物事は、欠伸と共に解決できるような些事に過ぎない。
まして今は特に問題のある訳でもない平常時、彼等の行動に大きな変化が起こるほうが異常であった。最もそれすら実はブラフで、本当は自分達の及ばぬ遥か高みで変化が起こっているのかもしれないが――。
「それすら理解出来るよう。研鑽を積むのが我らが役目、か」
一人ごち。トットンはやおら席から立ち上がると、腕を広げる。
「では、諸君。これにて今回の会議は終了、自由時間だ。思う存分、己が研究対象のナインテイカーについて議論を交わすと良い。――解散っ!」
大声で宣言し。途端、薄暗い室内を熱気が満たし、休日の街頭かと思える程急速に騒がしさが増す。
ある者は同好の士と。ある者は対象を異となす者と。それぞれが己の『熱』を持って、語り合い始めたのだ。
当然、それは二条綾香も例外ではない。
「――ですから、師匠はその魔法の腕だけではなく、器もまた貧相な一宇宙になど収まらない程に深く大きく……――……この前、魔法を教えてもらった時などは……――……しかも、私だけではなくニーラさんやリエラさんに対しても……」
隣の席に座る友人へと、一気呵成に捲くし立てていく。
それを聞く鷺宮は、困った顔をする……ことなく、此方は此方でまた、自分の研究対象であるナインテイカーについて隙を突いて猛弁する始末。
同士ばかりが集まったこの場所に、彼等彼女等を止める者は誰もいない。何処までも、何処までも、時計の針も気に掛けず、壮大な議論は深けていく。
百十三名、一人の欠落も無く。様子を見に来た顧問の教師が止めるまで、彼等の議論は続いたそうな――。




