第二十七話 例え馬鹿と言われても
「目が、覚めたかい?」
ゆっくりと浮上する意識と共に目を開けた綾香に掛けられた第一声が、それだった。
はっきりしない頭でも、誰の声なのか一発で分かる。間違うはずがない、誰よりも愛する人の声なのだから。
やがてぼやけていた焦点が合えば、そこには己を見下ろす師の姿が。
「師匠……」
「無理しない方が良い。今は、横になっているべきだよ」
急いで身体を起こそうとした綾香を、レストはそっと抑え元に戻す。
後頭部に感じる感触に、綾香はやっと自身が膝枕されていることに気付いて顔を僅かに赤らめた。
幸せな状況だ。世界の誰より大切な、師匠に膝枕されている。いつもなら満面の笑顔で胸を高鳴らせ、危ない妄想に浸ってもおかしくない状況だ。
なのに、何故か今は気が落ちていた。心が、避けようの無い痛みに呻いていた。
「師匠、私は……」
「覚えているだろう? 何があったのか、全て」
忘れる訳が無い。傷を抉られ、それによって出来た隙を突かれ、無様にも敗北を喫したのだ。
絶対に彼女を優勝させないと、あの決意はなんだったのか。容易く心を掻き乱され敗北するなど、師匠に合わせる顔が無い。
後悔の念に押し潰され、思わず目を伏せる綾香。そんな弟子の様子を一瞥し、しかしレストは慰めの言葉を掛けることも無く、ただモニターに視線を戻す。
「私は……「綾香」」
何を言おうとしたのか、自分でも良く分からないままに謝罪の言葉を吐き出そうとして、けれど師にそれを遮られ目蓋を上げる。
目に入った師匠は此方を見ることもなく、じっと前を見詰めていた。最早今の自分には、視線を向ける価値も無いのか――そう負の意識に捉われかけた綾香の思考を遮ったのは、やはりレストで。
「君は目を開けているべきだ。何故なら君のために、戦っている男が居るのだから」
「え……?」
呆けた声と共に目を向けたモニターの中では、良く見知った少年が、一人の少女へと戦いを挑んでいた――。
~~~~~~
突き、払い、また突いた。何度も何度も、諦めず、しつこく。
力の半分を奪われて尚、藤吾は戦い続けていた。絶対的強者に対し懸命に抗う彼の身体はすでに幾多の剣閃によってぼろぼろにされていたが、それでも瞳に宿る光に衰えは無い。
消耗していく体力を、気力で補い槍を振るう。迫る双剣による連撃を、手足を動かし何とか捌く。
戦況は、決して芳しくは無かった。それどころか最悪に近い。魔力をも奪われているせいで、此方の魔力は残り少なく、相手のそれはまだまだ潤沢だ。このままでは、時間切れで負けることになるだろう。
本来であれば機構解放は多大な魔力消費を伴うはずであり、時間が経つほど副会長は不利になるはずなのだが、どうやら彼女のそれは相当に特殊であるらしい。感じ取る限り、魔力の消費は通常時よりも少し上、といった所のようだ。
上がらない出力、弱まった身体能力。それら全てに苦しめられながら、それでも戦う藤吾。
そんな彼に、礼菜は双眸を細め密かに毒づく。
(ど~にも、しぶといですねぇ)
正直、こんなにも手間が掛かるとは思っていなかった。機構解放を使えば、すぐにでも決着は付くと、そう考えていたのだ。
まるでゴキブリのようにしぶとく食いついてくる少年に、無性に苛立ちが積もっていく。とはいえそれで行動に支障を出す程愚かでは無い、あくまで今の自分がするべきは確実に獲物を追い詰める事。
(あまり急ぐ必要は無いみたいですしねぇ)
理由は知らないが、どうも後続はまだ追いついてきていないようだ。
どの道追い抜かれた所で追い抜き返す自信はあるが、来ないのならばそれに越した事は無い。よりじっくりと、慎重に獲物を狩る事が出来る。
既に勝ちの決まった勝負だ、リスクは最小限に抑え、賭けには出ない。可能な限りの安全を確保した上で、愚かな反逆者に鉄槌を下す。
それが、九条礼菜という少女の戦い方。じわりじわりと獲物を追い詰める――蛇のような本性だった。
「どうしましたぁ藤吾くん、随分息が上がってますねぇ。今にも溺れ死んでしまいそうな位、苦しそうですよぉ」
「…………」
「だんまりですかぁ。それともぉ、もう喋る体力も無いんですか?」
再三の問い掛けにも、藤吾は何も答えない。ただ黙ってひたすらに、槍を振るい、攻撃を捌き、目の前の敵を倒す勝機を探り続けている。
(そんなものぉ、見つかるはず無いんですけどねぇ)
共に過ごしたこれまでの日常、そして抜かりなき情報収集の結果、礼菜は藤吾の得手・不得手についてそれこそ本人以上に熟知している。
魔導真機を使える事には驚いたが、だからといって本人の根本的な資質が変わる訳では無い。一部例外はあるものの、遠距離戦の苦手なテイカーは真機に目覚めても遠距離は苦手なままなのだ。
その点、藤吾は典型的な近接型であり、それしか出来ない人間でもある。彼に扱える程度の遠距離攻撃など、自分にとっては無いも同然。
だから、絶対に藤吾は礼菜に勝てない。それこそが彼女の中の決定事項であり――だからこそ、価値観を異にする藤吾の考えは全く違う。
(勝ち目が無い。なら、今からでも創れば良い。今の俺じゃ無理でも、一秒後の俺なら、十秒後の俺なら、勝ち目を持っているかもしれない。それが、人間同士の戦いってもんだろ)
――なあ、副会長。
意識のほとんどを戦いに向けながら、それでも僅かに残った脳の容量を使い、藤吾は内心礼菜へと語りかけた。
或いはそれは、哀れみだったのかもしれない。どんな未来にだってあるはずの、可能性という光を忘れてしまった彼女への。
「ふふ、お喋りしてくれないのなら仕方ありません。その分ダンスを激しくしましょうかぁ!」
双剣による剣舞が一層激しさを増す。次々と翻る剣は、藤吾の身体に果てなく傷を刻んでいく。
わざとかと思える程致命傷から離れた傷から鮮血をとめどなく流しながら、それでも藤吾の動きは鈍らない。
体力なんて、とうに限界を迎えていた。肺の空気は入った傍から消えて行き、視界は色を失う程に酷使され続けている。
それでも、闘志は衰えを知らないように最高潮のままで、諦めは辞書から消えたように浮かんでこない。芦名藤吾十七年の歴史の中で、間違いなく最高と言える心の状態。
けれど現実はあまりに非情で。心の力だけで、全ては覆らない。
「遅いんですよぉ~」
「がっ……!」
対応の遅れた微かな隙を突かれ、礼菜の蹴りが胸部に容赦なく突き刺さる。
大の男を十数メートルは余裕で吹き飛ばすその威力は、生半可な相手であれば十分勝負を決めるに足るものであった。
「でもぉ、藤吾くんはやっぱり立ち上がるんですね~」
歯を食いしばり立ち上がる少年に、礼菜はつい溜息。
幾ら此方の機構解放が魔力消費の少ない特殊型とはいっても、普段と比べれば消耗は早い。いい加減決着をつけなければ、この後の戦いに支障が出てしまいそうだ。
(猶予は後十分といった所でしょうかぁ。まあ、この調子ならもう三分も持たなさそうですが)
魔力も、体力も底が見え、気力だけは十分な少年は、はっきり言ってあやつり人形に近しい。気力という糸で無理矢理体を動かしている以上、徐々にその動きはぎこちなくなり、鍛えられた技術も発揮出来なくなって来ている。
押せば倒れる。正にそれを体現したような状況。それでも戦う彼を、もし外から他人が見れば感動の一つも覚えるのだろうが――生憎と、礼菜にそんな無駄な感傷は存在しない。
(無駄に傷つき、抗う事にぃ意味などありません。そんな時間と体力があるのなら、次の戦いに向けて備えた方がよっぽど建設的ですぅ)
別段、命の懸かった闘争では無いのだ。勝てないのならばそれを潔く認めて、さっさと退散すれば良い。
友の為という名目があるらしいが、それとて必ずしも今果たさなければならないものでも無いはずだ。何年後でも良い、最終的に勝利を得て雪辱を果たせばそれで良いだろうに。
「刹那的な生き方。実に男の子らしいですがぁ……そういうの、嫌いです。正直ぃ、虫唾が走ります」
くるり、両手の双剣を回すと握り直し、一際大きな魔力を籠める。
それは、明らかな意思表示。貴方を今から倒しますよ、という宣告だ。
けれどそんな舐めた行為にいきり立つ余裕すら、今の藤吾には存在しない。肩で大きく息をして、鮮血混じりの汗を垂れ流す彼は、立っている事ですらあまりに困難な状態だった。
けれど、諦めない。疲労でぼやける思考の中で、それでも勝利を信じて頭を働かせ続けて――
だからこそ。そんな彼へと、天啓は舞い降りる。
「もしか、したら」
掠れた声で呟いた。
頭に浮かんだ最善手。か細く脆い、勝利への道。それはあまりに真っ直ぐで、あまりに無謀に思えたが、見つけたからには実行せずには居られない。
何故なら。芦名藤吾は『何時か』ではなく、今。この時に、九条礼菜に勝ちたいのだから――。
「ふふ。さあどうしますか藤吾くん、まだ無駄な足掻きを続けますかぁ? それともいっそ、玉砕覚悟で向かってきてみるとか。案外、一発位なら当たるかもしれませんよぉ」
当たった所で、勝利には程遠いですがぁ。そう言外に含ませて、翼のように両腕を広げて構えを取る礼菜に、目の端だけで笑みを浮かべる。
「……? どうしたんですかぁ。いよいよ、心がおかしくなってしまいましたかぁ?」
「いや。ただ……俺は、見つけたよ」
訝しげな彼女に、一言。
「俺の勝つ、未来を」
今度こそはっきりと笑って、藤吾は勢い良く空へと飛び立っていった。
半分の力を奪われて尚風のように速いその機動は、ぐんぐんと二人の距離を引き離していく。けれどそれは所詮、不利な距離からより不利な距離へと移行しただけで、何一つ現状を覆すものでは無い。
「もしかしてぇ、『其が半生我に有り』の射程範囲内から出るつもりですかぁ? そんな事をすれば、貴方の苦手な射撃戦になってしまいますよぉ」
遠距離戦では、藤吾に勝ち目は無い。これは互いの間にある絶対認識だ。
礼菜は勿論、藤吾もまた当然そう思っていて……では何故、彼は距離を置いたのか。
「はっ……。身体が、軽い。何だか随分と久しぶりな気がするな」
遂に『其が半生我に有り』の効果圏内から脱出した藤吾は、大きく身を躍らせ振り返ると、そのまま地を見下ろし滞空する。
まるで長時間籠もったサウナから出た時のような、清々しい気分だった。体力も魔力も限界近くだというのに、あの圧力から解放されただけで心はこんなにも楽になるものなのか。
いや、或いはそれは、たった一つのやるべき事を見つけられたおかげなのかもしれない。
単純馬鹿な己にとっては、ごちゃごちゃと考えて戦うよりも、愚直に一つに拘る方がよっぽどやりやすい。
「距離良し、向き良し、狙い良し」
数百メートル先、地上から此方を見上げる豆粒のような人影に、かろうじて焦点を合わせる。わざわざ近づいて来ないのは、恐らく此方の出方を窺っている為だろう。
「けど今は、その慎重さが命取りだぜ」
もし距離を詰められていれば、自分はまた容易くあの力場の中に捕らえられていただろう。そうなればきっと、勝ちの目は無かった。
彼女の安全主義が齎した刹那の隙。それこそが絶望的な戦況を覆す、一筋の光明。
「ふー…………。――っ!」
深呼吸一つ、決意を固めた藤吾の全身から、ありったけの魔力が噴出する。
二撃目を用意する余裕など無いし、そのつもりも無かった。一撃、あの副会長を倒すにはそれだけで良い。それ以上は、どの道望めない。
「何をするつもりなんでしょうかぁ。もしかしてぇ、真機と同様に砲撃が出来る事を隠していた、とか? だとしたら一つ、教えておいて上げなければいけませんね。『其が半生我に有り』は、単に相手の力を奪うだけではなく、レーダーのような役割もあるんですよぉ。ですから何処から砲撃を撃ち込んでも、私には直ぐに分かってしまうんですぅ」
ましてその距離では、避けるのも簡単ですしぃ。そう魔法に乗せてわざわざ伝えてくる彼女に、そうかいと一言吐き捨てる。
だったらそれごと、貫けば良い話なのだから。
「いくぜ、相棒。――『機構解放』!!」
瞬間、緑風の槍が形を変える。
パズルのようにばらばらになり、幾十ものパーツに分かれた真機は、藤吾の周囲に散らばると彼を包むように巨大な槍の形を取った。
同時、吹き寄せる風。透き通るような緑色のそれがパーツの間に満ちていき、空隙を埋めれば……そこにあったのは、藤吾を核とした一つの戦槍。
この、全長五メートルにも及ぶ力の集合体こそが、鋪至神槍の真なる姿。他の全てを捨て、たった一つに賭けた正に究極の突撃形態である。
空に浮かぶ翡翠色の輝きに、礼菜の目が釘付けになる。そして理解した、彼はやはり砲撃など使えない、狙いは何処までも愚直で真っ直ぐな突撃なのだと。
「呆れを通り越して、失笑が漏れてしまいそうですよぉ。私の話を聞いていなかったんですかぁ? 何処から攻めてきても、領域に入った瞬間分かってしまうんですよぉ。そもそも、突撃して来るという事は力の半分を奪われるという事です。それでどうやって私を倒すつもりなんですかぁ?」
彼女の言うとおり、砲撃ではなく本人が直接近づく突撃では、『其の半生我に有り』の影響をもろに受ける事になる。幾ら機構解放を使ったとしても、結局力で上回られるのでは意味が無い。
「それが間違いだってんだよ」
呟きは、風に阻まれて届かない。最も届いた所で、礼菜には彼の考えている事は理解出来なかっただろうが。
何故ならそれはあまりに単純で、優秀な彼女にとっては馬鹿に過ぎる選択肢であったのだから。そんな選択肢を選ぶ訳が無い、どころかそもそも意識の中に上がってこない程に。
藤吾の身体の内で、魔力が激しく胎動する。限界に近しい魔力を精一杯に搾り出し、ただ一度の突撃の為に注ぎ込む。
「あんたの力は確かに凄いさ。近づけば終わり、そんな領域を百メートル以上に渡って展開する。長距離での戦闘手段を持たない俺のような人間からすれば、反則にも程がある」
礼菜へと語りかけ、しかし同時にそれは独り言でもあった。言葉を届ける為の魔力的・魔法的余裕すら最早無く、あったとしてもひたすらに解放された真機へと注いでいるからだ。
風の渦巻きが一層激しくなり、限られた槍の中で暴風となって荒れ狂う。小型の台風をそのまま圧縮したような力の凝縮、しかしまだ、まだ足りない。
「けど。それで奪えるのは結局、俺自身の魔力や力だけ。領域外において、既に加速された速度までは、落とせない」
それは、果て無き防戦の中で見つけた、一筋の可能性だった。
気付いたのだ。確かに力を奪われた事で速度も落ちている、しかし減じられたなりに力を籠めれば、相応の速度は返って来るのだと。
もし彼女の力がそれこそあらゆる――単純な速度をも――半減させるものならば、これはおかしい。五十の力を奪われ、残り五十の力で地を蹴った場合、そこから得られる速度は五十。しかし彼女の領域がそうして発揮される速度をも半減させるというのなら、結果として速度は二十五まで減じていなければならない。
だが、現実はそうではない。詰まり彼女の領域は、此方の根本的な『力』を半減させる事は出来ても、既に確立した速度や力を減じさせる事は出来ないのだ。
「だからこそ、あんたは遠距離の得意な相手に交渉を持ちかけたんだ。領域の外から魔法で撃たれた場合、その攻撃の力を半減させる事は出来ないから。初めにあんた自身が説明してくれた通り、領域の中に居る『敵自身』から直接力を奪う事しか、出来ないから」
集う風の中で両腕を広げ、前傾姿勢。豆粒のように見える標的へと穂先を微調整し、その間も振り絞る魔力は止まらない、止めやしない。
もう無理だ、と身体が悲鳴を上げて――それを、気力でねじ伏せる。
「だったら話は簡単だ。領域の外でひたすらに加速して、突っ込めば良い。近づいた瞬間俺は力の半分を失うが、そんなもん関係ない。必要なのはあんたを一撃でぶちのめせる、速さだけ」
これを副会長が聞いたら、きっと笑うだろう。
どんなに加速した所で、領域の外縁から礼菜までは、数百メートルの距離がある。しかも彼女は領域に入った時点で相手の存在を察知できるのだ、ひたすらに速さを求め、半ば制御を捨てた一直線の突撃など当たる訳が無い。
そう。だから藤吾は、こう考える。
「避けられない為には、どうしたら良いか。確実に当てる為には、どうしたら良いか。結論は存外呆気なく出たさ、難しい事は無い。反射より速く、あんたの下まで到達すれば良い。それだけだったんだ」
これを副会長が聞いたらきっと、はぁ? と首を傾げるだろう。
けれども藤吾は、こう考える。
「結局反射だって、神経を通じて体を動かす。電気信号の伝達によって、身体が動いてるんだ。なら……雷よりも速く動ければ、反射で身体が動くよりも先に、あんたを貫ける。避ける事が不可能な、必殺の一撃が出来上がる」
馬鹿の理論だ、とレストは笑うだろう。
馬鹿の理論だ、とリエラは呆れるだろう。
馬鹿の理論だ、と礼菜は蔑むだろう。
それでも。藤吾は、こう考える――
「風じゃ雷は超えられない? 馬鹿言っちゃいけないぜ。物理的に不可能な、そんな常識を超えるのが魔法って力だろう。そして俺は、そんな『魔法』を使うテイカーだ。ならっ!」
力は臨界を迎えた。後は意志一つ、それだけで槍は動き出す。
準備は万全、実現出来るかは己次第。けれど信じる、だから信じる、自分自身を――これまで培ってきた、全てを!
「超えられない、道理はねええええええええ!!」
そうして。何処までも自由な男と槍は、一陣の風と成った――。




