第二十二話 覚醒
冷たい床の感触を頬に受け、芦名藤吾は沈んだ意識を取り戻す。
ぼやける視界、判然としない思考。揺れる意識は未だ不安定で、しかし心の何処かが無理矢理にでも起き上がれと叫んでいる。
「っ、ぁ……うっ」
力の入らぬ腕を支えにし、体を起こし。首と腹部に走った痛みに、顔を歪める。
慌てて確認するも、きちんと首は繋がっているし、腹に傷も無い。
じゃあどうして――そう考えた所で、ようやく藤吾は思い出す。気を失うその前に、何があったのか。何を聞き、何を見てしまったのかを。
そもそも藤吾がその道を見つけたのは、偶然でもあり必然でもあった。愛しい副会長と合流する為に苦労しながらもコースを踏破していた彼は、その途中で壁に空いているあまりに怪しい穴を発見してしまったのだ。
覗き込めば、先は分から無いものの細長い道が続いている。近道か、罠か、それともまた別の何かか。何れにしろ、あまりに怪しいと言わざるを得ないだろう。
特に入り口に仕掛けられた隠蔽と遮断の結界、これがまた怪しい。やけに精密で強力で、その割りに何故か自分は影響を受けなくて――。
そこで、思い至った。この見覚えのある結界の行使者が誰であるのか。そして、何故自分がこの結界の影響を受けないのか。
――これは副会長、いや礼菜さんのものだ――
気付けば後は早かった。この先に愛する人が居ると確信した藤吾は、迷う事無く穴に入り、道を進んだ。
一応罠に警戒しながらも、早足に走ればすぐに奥まで辿り着いて、そして。
対峙する綾香と礼菜の姿を、目にした。
咄嗟だった。小部屋に飛び込もうとしていた脚を止め、入り口横に張り付くように隠れたのは。
自分でもなんでそんなことをしたのか良く分からなかったが、恐らくは此処最近ずっと二人の確執に心を痛めてきた者として、条件反射であの間に飛び込むことを拒絶したに違いない。
こうなる可能性は考慮していたが、何とも間の悪い。そう頭を抱えながら割って入るチャンスを窺っていた藤吾は、そこで聞くことになる。
二人の会話――即ち礼菜の本性と、彼女が綾香にしたことを。
衝撃的だった。あまりに現実離れし過ぎていた。少なくとも、これまで藤吾が見て聞いて、信じてきた九条礼菜という存在からは。
完全に、何も考えられなくなって。ただ頭の中で、意味も無いような無駄な議論が飛び交って。ぐるぐると回る思考の中、耳に入り込んで来た打撃音と呻き声に、咄嗟に飛び出して。
そうして相対した彼女の手で。自分は、切り捨てられたのだ。
「お、俺……俺、は」
わなわなと、両手が震える。脳裏に焼きついた礼菜の言葉に、瞳に、心が怯える。
これは、夢なんだと思った。夢なんだと、思いたかった。けれどあのいつもと変わらないように見えて冷たい視線が、今も首と腹部に感じる痛みが、夢では無いと訴えてくる。
夢であろうとあんな礼菜を想像出来る程、自分は可笑しな性癖では無い。まごうことなく、あれは現実で。ならば、ならば、ならば――
「っ、そうだ、綾香!」
急いで振り向く。そうだ、副会長のことがあまりにショックで脳から抜け落ちていたが、彼女は副会長に打ちのめされて倒れていたはず。
記憶通り、綾香はそこに居た。何も変わらず床に横たわり、意識も無く。
「綾、香」
痛みとショックで力の入らぬ足を懸命に動かして、藤吾は一歩一歩地を踏み締める。
悲痛で弱弱しいその顔に、友人を心配する色を浮かばせながら、震える身体で綾香の下へ。
何度も何度も、転びそうになった。体力はまだあるはずだし、血を失ったわけでもない。
けれど心が受けた衝撃が、あまりにも大きくて。幾度も躓き胃の中のものを吐きかけながら、それでも藤吾はただ歩く。
「っあ」
そうして後一歩、という所でバランスを崩して、地に膝を着いてしまった。落ちた視線のすぐ先には、傷つき倒れる綾香の姿。
それは尚強く、それこそ再び気を失ってしまいそうな程強く、藤吾の心に非情な現実を叩きつけ――
「倒れるのかい? 今、此処で」
影が差した。聞き覚えのある、声だった。
「レ、スト?」
ゆっくりと顔を上げる。そこに居たのは正に思った通り、この学園に入って以来の奇妙な親友。
その静かで平淡な瞳で此方を見下ろし。綾香を挟み、彼――レスト・リヴェルスタは立っていた。
「また、手酷くやられたものだ。君も、綾香も」
己の足元に転がる弟子へと視線を移し、レストは言う。そこには怒りも、悲しみも、憎しみも、喜びも見えず、何処までも平淡な声色で。親友を自負する藤吾にも、今の彼の心境は測れない。
「レス、ト。聞いてくれ、礼菜さんが……いや、綾香が……いや、礼菜さん、が?」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。思考も心も纏まらず、言うべきことが定まらない。一体自分は何を伝えたいのか、何をしたいのか。
そんな親と逸れた幼子のような藤吾にも、レストは同情を示さない。語る声音はただ、平淡。
「藤吾」
「っ、え、あ」
「今、君がすべきこと。それは実に単純だ」
真っ直ぐ、突き刺さるような強い視線で。
「現実を受け止めろ。目を逸らさずに、不都合な現実の、全てを」
「う、あ……」
逸らすことは、叶わなかった。親友の目と言葉は、深く心に捩じ込まれる程己を貫いて。
大して出来の良くない脳みそには、二度と見たくもない現実がフラッシュバック。途端、藤吾は頭を抱えその場に蹲る。
「あぁぁ……あああぁああああ」
痛みを堪えるように、呻いた。臓腑の奥から搾り出すように、呻いた。
苦しむ親友を、レストはじっと冷淡な瞳で見下ろして。
「ぁ」
ぴたり。唐突に、呻きが止まる。そのままじっと、動かない。
遂に精神が限界を迎え、停止したか――普通の人間ならば、そう思うだろう。だがレストは違った。彼の、藤吾の親友である、レストだけは。
それから何秒か――気付けば震えの止まっていた両手を、藤吾は俯き見続けていた。
最早何も無い、全てを零れ落とした頼りない小さな両手を。
(いや……違う)
無意識の内に、藤吾は己の考えを否定した。
まだだ。まだこの両手には、失っていないものが――いや、失ってはならないものが、残っている。
(俺は……)
ぎゅっと、両手を握り締めた。大切なものをもう落とさぬように、抱きとめるように。
荒れていた呼吸が静かになる。吐き気や鈍痛はまだ残っていたが、そんなものは些事だった。痛くても、辛くても……今はただ、立ち上がらなければいけない時だった。
「倒れていなくて、良いのかい?」
立ち上がった藤吾に掛けられる、ある種挑発的な問い。その答えは、上げられた顔に浮かぶ表情が雄弁に示してくれている。
悲しみと、苦しみと……色んな感情がない交ぜになりながらも、真っ直ぐ前を見るその表情が。
「……レスト」
「なんだい?」
「あやっちを頼む」
「勿論だとも」
テンポ良く返してくれる親友に小さく笑って、藤吾は二人に背を向ける。
床に落ちていた己が魔導機を拾い上げ、小部屋の出口へと歩いて行くその背中に目を向けて、レストもまた小さく笑う。
「ん? これは……ふむ。藤吾」
すっと、倒れる綾香を所謂お姫様抱っこの形で抱えあげたレストは、彼女の懐から零れ落ちたある物を見て一つ頷くと、離れていく親友へとその落し物を軽く蹴り上げた。
「餞別だ。健闘を、祈っているよ」
背を向けたまま左手でその飛来物を受け止めて、魔法陣に消えざま残された親友の言葉に、もっと言うこたぁねぇのかよと悪態一つ。
出口の前に立った藤吾は、ぎゅっとその手の相棒――TAKENAKAの柄を握り締め。
「……するべきこと。今の俺が、しなくちゃいけないこと」
それは、少なくとも己の身に降り注いだ悲劇を悲観して、俯き立ち止まることではないはずだ。
現実から目を逸らし、泣いて蹲って己を騙していた礼菜を怨むことでもないはずだ。
そっと、学内ネットワークに接続して、放送を覗き見る。どうやら気絶していた間に既に試験は終盤戦、しかも礼菜がほぼ一位を走っているらしい。
幾ら速度には自信のある藤吾でも、精々がコースの中盤程度であろうこの場所からでは、とても追いつけない。
今の、ままでは。
「……なあ、相棒」
握り締めた、己が右手の相棒を見た。
長い棒の先にドリルが付いた、不恰好な魔導機。けれど周囲に馬鹿にされてもずっと使ってきた、自分の愛を示す大切な魔導機。
この魔導機が決して優秀な物でないことは、良く分かっている。あまりに取り回しが悪く、バランスも悪く、ただ戦うだけならば足を引っ張るだけの存在だろう。
でも、それでも、藤吾はこれを相棒として使ってきた。毎日毎日汗だくになるまで魔導機を振るって、扱いきれない未熟な己に歯噛みして。
『竹中の里』への愛。ただそれだけで、蔑まれても勝負に負けても、変わらず使い続けてきた大切な誇り。自分にとっての、一つの信念。
でも、今は。
「――すまない」
藤吾の思いに応えるように、ガキンと小さな金属音を鳴らして、TAKENAKAの先に付いたドリルが外れ地に落ちる。
それこそ『竹中の里』を模したこの魔導機の象徴であり、核と言っても良いパーツ。例え魔導機としての機能の全てが柄の方にあったとしても、これを失くせばTAKENAKAはTAKENAKA足りえない、ある種の心臓部。
寂しく地に横たわるそれに、涙を堪えた目を向けて。けれど藤吾は、前を向く。
ドリルの中から現れた、鋭い穂先を持つだけの、最早TAKENAKAでは無い細長い槍をその手に持って。それでも藤吾は決意と共に静かに目を閉じ、前を向く。
(蘇ってくる、思い出がある。礼菜さんと共に過ごした、楽しい記憶)
左手に持った、レストからの餞別――魔力補充薬の蓋を親指で弾き飛ばすと、一気に煽った。
柑橘系に近い爽やかな味が残る吐き気を吹き飛ばし、失っていた魔力が即座に充填されていく。
(湧き出てくる、過去がある。隠されていた真実を知って、切り捨てられた、苦しい記憶)
空になった小瓶を投げ捨てた。高まる魔力、蠢く世界。激しい魔力の胎動が、周囲の次元を圧し揺るがす。
それは、真なる使い手にのみ許された魔力の波動。
(もう、何もしたくない。今すぐ寮の自室に帰って、ベッドに籠もって……そのまま飽きる程、寝てしまいたい。枯れるほど、泣いてしまいたい)
戸惑うことは無い。自分はこの力を、良く知っている。
何故なら、使えなかったのでは無く。ずっと、使ってこなかっただけなのだから。
「でも……でも、よ」
溢れ出る緑色の魔力が、彼の周りで渦巻いた。やっと解放されると、歓喜する『風』のように。
目蓋の後ろに映るのは、優しく、なのに何処か冷たく微笑むあの人と――大切な、友人の姿。
意地を籠めて。藤吾は今、目を開く。
「友達が踏みにじられたってのに、戦えないんじゃあっ……男じゃねぇだろっ!!」
気高き叫び。呼応し、開く異次元。飛来するのは、透き通るようなエメラルドグリーンの装甲体。
それは藤吾の周囲をぐるりと一周すると、真っ直ぐ横に伸ばされた魔導機へと変形しながら鋭く連結・合体する。
「機構融合!」
刃の先に新たな穂先を、広がる装甲は鋭き突撃形。細長いへの字を描くその姿、正に『槍』。
一見すれば素早く振るうは難しく、しかし疾風より速きもの。その名を――
「魔導真機――鋪至神槍」
己の真なる力を強く握り締め、藤吾は愚直に未来を見据える。
目標は遠い。彼女がゴールに辿り着くのも、そう遅くは無いだろう。だが、それがどうした。
「俺は『風』だ……何よりも疾き風だ。この程度の、距離ならばっ!」
渦巻く風を身に纏い、体勢低く前傾姿勢。視線は前に、力を脚に、構えは突撃。
「一瞬で、駆け抜けるっ!」
激しい残風を巻き起こし、藤吾は飛び出す。痛む心を風に乗せ、意地と気合で吹き散らし。
少年は今、冒険の旅に出た――。




