第二十話 過去、抉られて
――九条礼菜が暫定二位の座をひた走る、約三十分前――
「はっ……はっ……はっ……はっ……」
荒い息を吐き、全身から疲労と汗を吹き出しながら、二条綾香は余裕の顔で笑う怨敵を睨みつける。
九条礼菜――決して相容れることは無い、阻むべき敵。しかし同時に、自身よりも高い実力を持つ強者であることもまた、事実であった。
綾香が補助型、礼菜が戦闘型のテイカーということもあり、彼我の実力差は歴然だ。それは戦闘力によって決まる学内ランキングの順位にも、如実に顕れている。
九条礼菜、学内ランキング第十六位。対し二条綾香、学内ランキング六万九十七位。
正に圧倒的な差である。スポーツで例えるならば、オリンピック選手と地区大会入賞選手程の差であろうか。誰が見ても明らかな、絶対的な格差がそこにはある。
「無駄に粘りますねぇ、綾香さん」
だがそれでも、綾香は懸命な時間稼ぎを続けていた。
確かに、勝つことは出来ないかもしれない。しかしそれでも、彼女を足止めすることさえ出来れば、ある意味自分にとっては勝ちなのだ。
師が礼菜に出した条件は、今回の試験で一位を取ること。要するに彼女に優勝さえさせなければ、此方の目論見は達成されるのである。だからこそ、防御魔法で防ぎ、補助魔法で避け、捕縛魔法で捕らえる――そんなまるで攻撃性能のない連携で、此処まで戦うことが出来ている。
だがそれも、そろそろ限界。多数あった魔力補充薬は残り少なく、そもそも至近で一対一の状況では、飲むチャンスもそうそう無い。
何よりギリギリの状態で戦ってきたせいで体力が、そして精神力が限界を迎えようとしている。
(でも、それでも……。もう少し、もう少しだけ)
彼女、九条礼菜が優秀なことは良く知っている。速度に自信があることも。
今彼女が解放されレースに復帰すれば、勝機はまだあるだろう。確実に一位の座から蹴落とす、その為にはもう少し時間を稼いで置きたかった。
だからこそ、まだ粘る。師への愛と怨敵への憎悪によって湧き立つ気力を支えにして、倒れそうな身体を無理矢理立たせて。
一秒でも長く、彼女をこの場に釘付けにする為に。
「ん~……どうしましょうかねぇ」
対する礼菜は、実に余裕そうに見えてその実、内心少し困っていた。
体力にも魔力にも、まだまだ余裕はある。レースに関しても、放送を聞く限りまだ猶予はあるだろう。
だが流石にそろそろ綾香の相手は終えたい、というのが本音であった。彼女との因縁を此処で払拭しておこうと思ったのは良いが、どうやら予想以上に成長していたらしい。中々にしぶとくへばり付かれてしまっている。
(機構解放は……流石にまだ使うわけにはいきませんしねぇ。綾香さん相手に消耗し過ぎれば、この後が大変になってしまいますしぃ)
あのレストの弟子というだけはあるのだろう。全く以って厄介なことだ。
しかしどの道、このままぐだぐだと戦い続けていては時間も魔力も体力も減っていくばかり。仕方が無い、多少強引にでも決着を付けて――
(あ~、良いこと思いついちゃいましたぁ)
止めた。そんなものよりもずっと、有効な手段がある。
礼菜の笑みが、いやらしく深まる。まるで獲物を刈り取る蛇のようなその瞳に薄ら寒いものを感じ、綾香の全身が微かに震えた。
「綾香さん~」
「……なんです。今更話すことなど、無いと思いますが」
嫌な予感が脳を刺すように走り、しかしそれでも綾香は敢えて話しに乗った。こうして会話することで少しでも時間が稼げるのならば、それにこしたことは無い。
結果的に言えば。その判断は、間違いであったが。
「いえいえ。ただこうして居るとぉ、何だか昔のことを思い出してしまいましてぇ」
「昔の、こと?」
「はい~。……私と綾香さんが共に仲良く過ごして居た、あの頃のことですよぉ」
「っ!」
これ以上、聞いてはならない。師匠のこと以外では然して鋭くも無い綾香の直感が、痛い程にそう訴えてきていた。
思わず攻撃したい衝動に駆られるが、目的の為にそうする訳にはいかない。もしかしたらそんな風に馬鹿な攻撃をした隙を突いて逃げる、或いは此方を仕留める、というのが相手の狙いかもしれないからだ。
歯を食いしばって身の内の衝動を抑える綾香に、思惑通りと内心喜色を示し、しかし表面状は何とは無しに礼菜は続ける。
「楽しかったですねぇ、あの頃は。一緒に食事を取って、一緒に勉強をして……一緒に買い物にも行きましたぁ。覚えてます? 私の誕生日には、プレゼントもくれましたよねぇ」
「黙りなさいっ……! あんなのはもう、終わったことです!」
「いつもいつもぉ、私の後ろを付いて来て……礼菜さん、礼菜さん、ってぇ。嬉しそうに笑顔を浮かべて、別れる時は寂しそうに俯いて。まるで小動物のようでしたぁ」
「黙りなさいっ!」
声を荒げ、しかし下手に手を出すことは出来ない。
そんな、されるがままの彼女に礼菜は一方的に言葉を投げかける。
ああ、何て――
(面白い)
外に出そうになる感情を、必死で抑える。もしそんなことをしてしまえば、ここで話が終わってしまう。それでは実に、つまらない。
「懐かしいですよねぇ。入学から三ヶ月、一人寂しく日々を過ごして居た貴女を見かけ、声を掛けたのが始まりでしたっけぇ」
この広い学び舎の中で彼女を見つけることが出来たのは、正に天恵だと思えた。
話した事こそ無かったものの、同じ中学の先輩後輩であったことも、また然り。
「始めは先輩にいきなり話し掛けられて、うろたえていた貴女も……時間が経つにつれて段々と慣れて、普通に会話してくれるようになりましたぁ」
「昔のことです……所詮はっ」
「そうですねぇ。しかし、忘れられない思い出でもあるでしょう? 何せ当時、その消極的な性格と珍しいタイプのテイカーということで孤立していた貴女にとって、私は救世主のようなものだったでしょうからぁ」
「っ!」
――綾香は、元々田舎の小さな町の出身である。その為か、テイカーの総本山とも言えるこの総学に進学する(出来る)生徒は、彼女の周りには一人も存在していなかった。
加えて今でこそそれなりに積極性も持ち合わせている彼女だが、元来は内気で気弱な性格だ。そのせいで入学したは良いものの中々新しい環境に馴染むことが出来ず、またクラスの皆とも上手く話せず、友達を作ることが出来ていなかった。
そして一番の問題となったのが、彼女の特異性。魔導機を使わない魔法使いという、世にも珍しいテイカータイプである。
そもそもが魔法を補助する器具として作られた魔導機は、魔法使いタイプのテイカーにとっては必需品。使わない方がおかしい存在なのだ。
結果、彼女は妙な注目を浴びながら、上手く話せないせいで親しい人も居ないという、何とも居心地の悪い立場に置かれる事となった。そんな状況で慣れない土地に一人、その孤独感は想像するに余りあるだろう。
そうして苦しみながらも日々を過ごして居た綾香に、ある日突然声を掛けてきた存在――それが、九条礼菜だったのである。
二人はすぐに、仲良くなった。同じ中学の出身という共通点を有した礼菜の、優しく穏やかな雰囲気と巧みな話術は容易に綾香の心の壁を砕き、綾香は礼菜を強く慕った。
「それからの日々は素晴らしいものでしたぁ。貴女は事ある毎に、私と行動を共にしようとしていましたねぇ」
「それが、どうしたとっ」
「でも、それから間も無く。事件は起きましたぁ。貴女が……いじめられ始めたんですぅ」
その言葉に、遂に綾香が激昂を露にする。
「どの口がっ……! あれは、貴女の差し金でしょう!」
「ふふふ、そうでしたかぁ? 何て、誤魔化しは無意味ですよねぇ。……実に愉快でしたよぉ、いじめられる貴女の様子を観察しているのは。徐々に酷くなるいじめに呼応するように、私に縋り付いて来てぇ。皆に指示を出していたのが、私だとも知らずに」
「ええ……今思えば、馬鹿でした。てっきり私が貴女と親しくすることを、気に入らないと感じる人間が居るのかと思っていましたが……そもそも、私程度に親しい人間など、交友関係の広い貴女には幾らでも居た。ましてそのような嫉妬で動くのならば、あのような実行犯が丸分かりのいじめなど論外です。貴女にばれたり、相談されたりすれば破滅するのは自分の方ですから」
「そうですねぇ。後々のことも考えて、敢えて直接暴言を吐かせたり、顔を見させたりしましたからぁ。主犯格は皆、しっかりと記憶に刻まれたでしょう?」
『誰の仕業か分からないいじめ』では、駄目なのだ。それでは、後の仕上げに繋がらない。
一片の否定も無く、確実に犯人だと断言出来る、そういう人物を作り上げる必要があったのだ。
「そうして時間を掛けて、貴女の中から私以外の人物を排除してぇ……場が整ったと感じた半年前に、仕上げに掛かったんですよぉ」
「っ……半年、前……」
呻くように言って、綾香は苦渋の極みとばかりに顔を歪める。
忘れる訳が無い。あの時の衝撃は、今でも昨日のことのように思い出せる。それ程までに――あらゆる意味で、二条綾香という人間にとっての転換点だったのだから。
「そう。いよいよ精神的に追い詰められて余裕の無くなって来た貴女を誘って、二人で街に買い物に出かけたんですよねぇ。暗い顔ばかりするようになっていた貴女が、あの時は本当に楽しそうに笑って……ふふふ、とっても滑稽でしたぁ」
「貴女はっ……!」
「お昼を食べて、また街を歩いてぇ……その途中、さも偶然見つけたかのように辿り着いた廃ビルに、貴女と一緒に入りましたぁ。ちょっと探検してみたい、何てあまりに不審でおかしな理由だったにも関わらず、私の言葉というだけで疑いもせずに乗ってきた時は、吹き出すのを堪えるので精一杯でしたよぉ」
強く歯を食いしばる。だが攻撃は仕掛けず、身体も動かさない。
果たしてそれは、時間を稼ぐという目的を果たす為だったのか……それともただ、抉られる古傷と呼ぶには新し過ぎるトラウマに、心も身体も硬直していた為なのか。
今の綾香には、その答えを出すことは出来なかった。
「そうして、呆気なく付いて来た貴女と共に入った廃ビルの中でぇ……貴女をいじめていた皆と、合流してぇ。ふふ、あの時の綾香さんの顔……今でも思い出す度に、笑ってしまいますぅ。訳が分からず、ぽかんと口を開けて間抜けな表情をしてぇ。ふふっ、ふふふ」
「下らない話を、つらつらと。一体何が言いたいんです!」
「そう怒らなくてもぉ。ただ少し、昔語りがしたいだけじゃないですかぁ」
「そんなことに、何の意味がっ……!」
「そうそう。あの時も貴女は、そんな風に叫んでいましたねぇ。籠められている感情は、まるで逆でしたがぁ」
話を終わらせようとする綾香の言葉など録に取り合わず、語り続ける礼菜。
狙いが分からず、何より彼女の口を止める術を持たない綾香は、ただその言葉を聞き続けることしか出来ない。
いっそ、耳を塞いでしまいたかったが……そんな隙をさらせる相手では無いことは、揺らぐ理性の中でも良く理解出来ていた。
だから、聞く。耳に飛び込む呪いのような言葉を遮ることも出来ず、ただ聞き続ける。それがこの先の破滅に繋がっていると、そう薄々感づいていたとしても。
「実は私がいじめの黒幕だったんです、と、この人達に頼んで貴女をいじめてもらっていたんです、とばらしても中々信じてもらえず、苦労しましたねぇ。その為にわざわざ皆さんの顔を覚えてもらっていたというのに貴女は、嘘だと、そんなわけ無いとつまらないことばかり。色々と用意しておいた証拠を見せて、たっぷり時間をかけて証明してぇ。ようやく信じてくれたかと思えば、今度は一言も喋らなくなってしまいましたしぃ」
「それはっ! それ、は……」
「分かりますよぉ。ショックだったんでしょう? 信じていた人に裏切られて。唯一頼れるはずだった人が、一番の敵だったんですからねぇ。ふふ……本当に貴女は予想通りに動いてくれて。此方の思惑に全て乗ってくれるのですから、実に良い玩具でしたぁ」
「貴女はっ……! やはり、最低の人間です!」
「酷いですねぇ。私はただ、自分の欲望に素直に動いただけですよぉ。誰だって自身が上の立場に昇ること、そして他者が下の立場に落ちることは、快感でしょう? 特にその様が劇的であればあるほど、感じるエクスタシーも一際大きくなるというものですぅ」
「黙りなさいっ! 貴女と話していると、吐き気がしますっ……!」
「絶望に暮れるその顔は、とても美しく魅力的で。あぁ時間を掛けて育てたかいがあったなぁと、そう思いましたぁ」
「黙りなさいっ……黙れ!」
「そういえば、まだ答えてもらっていませんでしたねぇ。あの時にも訊きましたが、もう一度訪ねることにしましょうかぁ」
悪魔が、笑う。
「どんな気分でしたかぁ? 信頼する相手に裏切られ、惨めに落ちた――その感想はぁ?」
「黙れえええええええええええええええええええええ!」
叫びと共に、綾香の魔力が鳴動する。
尽きかけた力を無理矢理に搾り出し、編み上げられた攻撃魔法。
然して得意でこそ無いものの、十分人一人を打ち倒すに足るだけの威力を持つそれを、目の前の女の口を閉ざす為に解き放ち――
「隙だらけ、ですよぉ」
それよりも早く、四方から飛んできた捕縛魔法によって、綾香は身体を拘束された。
状況が理解できず、一瞬頭が真っ白になり……しかしすぐに気付く。自分はまたも嵌められたのだ、と。
「甘いですよぉ、綾香さん。私が何の意味も無く、あんな話をだらだらと続ける訳がないじゃないですかぁ。当然貴女の気を逸らし、此方の手を準備する為の、目くらましというやつですよぉ」
「く、っう」
捕縛魔法から逃れようともがきながら、綾香は己の迂闊さを呪った。
もし落ち着いていれば。もし平素の自分であったのならば。彼女がひっそりと展開していた捕縛魔法の存在に、気付くことが出来ただろう。
補助型のテイカーは伊達では無い。直接戦闘には弱い分、魔力の感知には長けているのだから。
だが、気付けなかった。どうしてか? 決まっている、心を荒らされていたからだ。だから魔法の展開にも気付けなかったし、そもそも時間が無いはずの彼女がどうして長々と昔話などしているのか、その狙いにも気付けなかった。
愚かだ。何て、愚か。気を抜かず相手を警戒しているふりをして、その実まるで集中出来ていなかった。あまりに未熟で、情けない結末。
「さて、それではぁ」
「っ! あ、うぁ……!」
放たれる、幾多の魔法弾。
けれど今の綾香には、それを防ぐ術が無い。捕縛魔法に掛けられた魔法構築阻害の術式の影響で、咄嗟に防壁を張ることすら出来やしない。
殺到する魔法弾は、その全力を以って、容赦無く綾香の身体を打ち据える。しかし捕縛魔法によって固定された身体は吹き飛ぶことも無く、まるでサンドバッグのようにひたすらに嬲られ続けた。
意識を飛ばさないよう適度に加減され、衝撃だけを強く与えるように設定された魔法弾。それは礼菜が開発した、相手を痛めつける為だけの魔法。悪趣味の極み。
岩でも叩き付けられたかのような衝撃を全身に喰らいながら、意識を失うことも出来ず。呻き続けた綾香はやがて、ぐったりと力なくその身を落とす。
それを待っていたかのように、捕縛魔法はするりと解かれ――後にはただ、朦朧とした意識の綾香が、冷たい地面に横たわるだけだった。
「ぁ……ぁ……」
「無様ですねぇ。しかし同時に、お似合いかもしれません。貴女のような程度の低い人間は、そうやって地を這っているのが一番ですよぉ」
嬉しそうに言いながら、倒れる綾香へと近づいて行く礼菜。
そうしておもむろに右脚を上げると、倒れる彼女の頭へと振り下ろす。
「ぁっ」
「もう満足に声も出せませんかぁ? ふふ、それで良いんですぅ。私とレストさんの間に、貴女のような卑小な人間が口を出すべきではないんですよぉ」
幾度も、幾度も、地面に擦り付けるように頭を踏みにじる。その度に上がる呻き声。
常人ならば悲痛を覚えるその声も、礼菜にとっては快楽の音色だ。
やがて――限界を迎えた綾香の意識は、ゆっくりと闇に落ちて行って。
「おや? もう気を失ってしまいましたかぁ、残念ですぅ。まぁ、そろそろ行かなければ、とは思っていましたし、丁度良いですけどぉ」
名残惜しそうに美しい黒髪を踏みにじりながら、溜息一つ。
レースはどうなっているか、と礼菜は放送を見ようとして――
「礼菜、さん……?」
呆然と己を呼ぶ声に、首を傾げ振り向いた。
「あれぇ、藤吾くん? どうして貴方が、此処に居るんですかぁ?」
視界に入ったのは茶色い髪を短く切った、お調子者染みた少年の姿。
誰よりも自分を慕う協力者――芦名藤吾が、そこに居た。




