第十三話 闇に差し込む笑顔の光
どうしたものか、と芦名藤吾は騒がしい会場の中で一人ごちた。
今回の高天試験の内容は理解した。が、そもそも自分は優勝を目指す明確な理由などなく、此処最近の暗鬱とした思いを少しでも発散させようとこの試験に参加したに過ぎない。
しかしいざこの場に立ってみれば、やる気は下がるばかりであり、暗い思いも加速するだけ。こんな状態で戦うなど、出来るわけが無い。少々情けないが、始まる前に早々に棄権してしまおうか。
そう考えていた彼の選択を変えたのは、恋焦がれる一人の女性。
「あのぉ~、藤吾くん」
「っ! ふ、副会長!?」
九条礼菜、その人であった。彼女は驚き振り向く藤吾に、僅かな怒気と共に細く艶かしいその手の指を一本立てると、
「違うでしょぅ? 礼菜、です」
「あ、す、すいません、礼菜さん」
ははは、と苦笑いし頭を掻きながらも正しく己の名を呼んだ藤吾に、満足気に笑みを浮かべる礼菜。そんな彼女の姿はやはり美しかったが、此処数日の葛藤もあり、純情な少年の心は愛と痛みの狭間で苦しみを増すばかり。
胸を刺す、どころか肺を握りつぶされたかのような痛みを感じながらもしかし気付かれないよう、必死で表情を取り繕う藤吾だが、器用でない彼の顔はどうにも不自然に歪んでしまっている。
そのぎこちない笑顔を疑問に思いながらも、礼菜は会話を進めることを優先した。
「試験の内容が発表されましたけどぉ、藤吾くんはどう思いました~?」
「試験、ですか? そうですね、スピードタイプの俺には多少有利かな~、とは。でも、流石にこの数相手だと厳しいかもしれないですけど」
「そうですねぇ。私も速さには少々自信がありますが、それでもこのサバイバルレースを勝ち抜くのは容易では無いと思いますぅ。一人では、ですがぁ」
「一人では、ですか?」
ふふふ、と妖艶に微笑む礼菜に素直に返せば、彼女は更にその笑みを深めて、
「はい~、そうですぅ。先ほどの放送でも言っていたでしょう? 他の参加者と協力関係を結ぶのもありだ、とぉ。一人では難しくても、複数人で協力すれば優勝の確立はぐっと上がりますぅ。とはいえ、優勝者は一人。普通ならばどうやっても蹴落とし合いにしかならないのですがぁ……どうやら藤吾くんは、違うみたいですねぇ?」
「お、俺、ですか?」
「はい。先程見た様子だと、藤吾くんはあまり今回の試験に乗り気ではないみたいですねぇ?」
「まあ、そう、ですけど」
若干、言葉に詰まった。まさかその原因が貴女にあるんですよ、とは言えない、言えるわけが無い。
「やっぱりですかぁ。それなら、藤吾くんにお願いなんですけどぉ……私がこの試験で優勝する為に、協力して貰えませんかぁ」
不安げに放たれたその言葉には、何処か甘えるような色があった。自分は今、愛する人に頼られている――その事実に、藤吾の心が飛び跳ね波打つ。
「きょ、協力っていうのは、その」
「はい。ゴールを目指す私の、サポートをして欲しいんですぅ。一緒に駆けて、一緒に戦って、一緒に試練を乗り越えて……最後まで」
甘美なお誘いだ。敬愛する副会長と共に戦い、助け、ゴールを目指す。それはまるで、彼女のパートナー。他でもない自分がその位置に立てるなど、淡い恋心を抱く少年にはこれ以上無いチャンスである。
だが喜びと同時に、疲弊していた彼の心は一つの疑問を生み出した。
「あの、礼菜さん。……どうして、俺なんですか?」
何故、自分なんかをそのパートナーに選んだのか。そんな卑屈とも取れる想いが、彼の心に重く圧し掛かる。
「皆に慕われている礼菜さんなら、俺なんかよりもずっと実力のある友人だっているはずです。此処数日で、俺の力は知ってるでしょう? とてもじゃないですけど、礼菜さんに相応しいとは……「藤吾くん」」
藤吾の自虐を遮り、礼菜は嗜めるように言う。
「駄目ですよぉ、そんな言い方。確かに貴方は、まだまだ未熟かもしれません。でもその速さや一生懸命練習を重ねて積み上げた槍の腕は、本物じゃないですかぁ」
「それは……でもっ」
「ここ数日でぇ、私は貴方の実力を良く知りました。確かに藤吾くんの言う通り、貴方以上に実力を持った友人も、私には居ますぅ」
「ならっ!」
つい声を荒げた藤吾を、しかし礼菜は微笑みで制して。
「ですがぁ。私が一緒に戦って欲しい、と思ったのは貴方なんですよぉ、藤吾くん」
「それは……それは俺が優勝を目指していないからですか。裏切られたり、出し抜かれたり……優勝を目指す上で、敵にならないから」
「それも、ありますぅ。でもぉ、それだけじゃありません」
え、と間抜けな声を上げ、目を見開く。それだけじゃ無い? なら、どうして――。
「例えば、藤吾くんと同じように優勝を目指していない友人が居たとしますぅ。それも貴方よりも、高い実力を持ったテイカーの。その人が、私の優勝をサポートしてくれる、と言って来ても――私は断って、藤吾くんに頼みますぅ」
「どう、して」
「人の心って、とっても難しくて変わりやすいものですからぁ。優勝なんていらない、って言っていた人が、いざそれを目の前にすると心変わりしてしまう、何て良くある話ですぅ。私が優勝を手に出来るところまで来ているのなら、一緒に戦ってくれているその相手も同じ所まで来ている可能性が高いですからぁ。そうなった時、つい心に魔が差してしまう、ということが無いとは言い切れません」
「それは……」
ありえない話、では無かった。何せ先程試験の内容が説明された時、同時に優勝賞品についても発表があったのだが、それが何とも魅力的な品々だったのだ。
成績評価に対する加点は勿論のこと、億を超える賞金に、夏休み中の豪華世界旅行(宿題の免除付き)。他にも目玉の飛び出すような高級品がぞろぞろと並ぶという、これまでの高天試験の歴史でも類を見ない超豪華賞品のバーゲンセールなのである。
これを手にすることが出来るかもしれない、となれば土壇場で心変わりしてしまう者もいて然るべきだろう。別段、裏切った所で相手が死ぬわけでも無いのだから。
「だから、藤吾くんなんですぅ」
「え?」
言っている意味が良く分からず、呆ける。
そんな彼と真っ直ぐ瞳を合わせ、礼菜は、
「貴方なら、決して裏切らないとぉ。そう、信頼出来ますからぁ」
全幅の信頼を載せた満面の笑みで、断言してみせた。
藤吾の心が、震える。霧掛かっていた頭の闇が晴れ、視界には果て無き光が差す。それはまるで、世界を照らす神々しき救世の光。
――俺は、何をうじうじしていたんだ。
藤吾は自分を恥じた。馬鹿な考えで自分が落ち込み、悩んでいることが、どうしようも無く情けなく思えた。
だって彼女は、こんなにも自分を信じ、思ってくれていたのに。この想いが、恋が叶わないというそれだけでいじけていた何て、愚かに過ぎる。
「礼菜さんは」
「んぅ?」
「礼菜さんは、どうしてこの試験で優勝したいんですか?」
それまで気になっていながらも聞けなかったことを、藤吾は問うた。
満点に近い程成績優秀であり、期末試験の憂さ晴らしに暴れたい、という性格でも無いであろう彼女がこの試験に参加し、あまつさえ本気で優勝を狙おうとしている訳を。
本能の奥深く、普段は大して役に立ちもしない直感が異常なほど警鐘を鳴らし、無意識に避けていたその問いを、しかし今の藤吾は静かに切り出せた。
数瞬悩んだ様子を見せ、しかし礼菜は正直に答える。
「今回の試験で優勝すればぁ……レストさんと、お付き合いすることが出来るんですぅ」
それは恋する少年には、残酷な答えだった。しかし藤吾はその答えにやっぱりな、とでも言いたげに苦笑するだけで、微塵の狼狽も表さない。
――動揺する必要は、無かった。だって、この恋が叶わなくとも、彼女が親友と付き合うことになろうとも。彼女を想うこの気持ちに、彼女の信頼に応えたいと思うこの気持ちに、一欠片の衰えもあるはずがないのだから。
僅かに頬を染め、正に恋する少女の姿を見せる礼菜から目を逸らさず、藤吾は小さく笑みさえ浮かべて宣言する。
「分っかりました! 男・芦名藤吾、礼菜さんの優勝の為、全力で協力しますっ!」
「本当ですかぁ」
喜色を滲ませる礼菜に、任せろと言わんばかりにどんと勢い良く自身の胸を叩く。
「勿論。どんな苦境も突破して、必ず礼菜さんを優勝させて見せますよ!」
「ありがとう御座いますぅ。嬉しいですぅ、藤吾くん。一緒に頑張りましょ~」
無邪気に喜び、此方の手を取り飛び跳ねる礼菜。そんな彼女に笑い返し、共に喜びながら、藤吾は思う。
(必ず、彼女を優勝させる。絶対にだ)
決意を固める彼に呼応するように。休憩の終わりを告げるブザーが、会場に響き渡った。
――高天試験が、始まる。




