無題:ある学生の手記より
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*本**
196*年4*1**
僕のクラスに転校生がやってきた。珍しい。名前は「***」。このあたりでは見かけない*人だなあって思った。それにしても年度が替わってすぐに来るなんて(どう**ら三日前の始業*の時にくれば良かったのになんて),ずいぶんいい時節なような気がするな。きっとこの***のうちにこっちに引っ越してきた人なんだろう。
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ド田舎の,山のふもとに建っている小さな高校。近隣の高校生全員集めて,それでもようやく全校生徒100名弱のこの高校。
そんな高校にある僕のクラスの教室の窓際,おんぼろの木造校舎にありがちな,薄暗くて掃除をしてもなんとなく埃っぽいこの教室,その中でもちょっと異質な位いつも妙に日当たりのいいその席には,いつから座っていたのか,いつそこにいるのかもわからないような,何とも説明しがたい存在感をまとった女の子が座っている。同じ教室に咳があるということはクラスメイトのはずなのだが,彼女のことはなんというか,あまり僕の記憶にない。記憶にない,というよりは記憶にいないと言う方が正確かもしれない。とにかく,あまり目立たないタイプだ。そもそも教室で声を聞いたことが無いような気がする,多分。彼女はそれほどに無口でそれほどに存在感がない。正直僕が彼女のことを今現在これだけ話せるのがなぜなのか,自分自身にも分らないのだ。
容姿端麗,というか。いや,よくいる日本人といえば日本人なんだろうけど。色白の肌にくっきりと映える黒髪をうなじのあたりでひとまとめに括り,銀色の淵の楕円形のメガネをかけている。その奥の目はぱっちりと大きく,黒曜石のような瞳だ。口元はいつもきゅっと引き締められていて,目つきは……うん,そんなによくないかもしれない,人によってはきつい印象を感じるような,うーん……簡単に言えばちょっと吊り目。日本人形のような,どこか日本人離れしているような中途半端な雰囲気のようでいていやにバランスが取れている。淑女の雰囲気をまといながらもどこか気の強いというか,芯の強い凛とした武道家のような雰囲気もまとっている。よくよく見なくてもかなりの美人である。規定通りの長さにきっちりと揃えられた濃紺のスカート,パリッとノリのきいたセーラーカラー,きちんと結ばれた赤いスカーフ,真っ白な靴下。まるで校則をそのまま具現化させたような模範的な服装で,いつも何やら小難しそうな本を読んだり,時々何かを書いたりしていた。名前は……
『閑谷幽です。』
そんな声がいつっだったか教室に響いたことを唐突に思い出した。……あー,そう言えば彼女,転校生だった。つい……あれ?いつ転校してきたんだったっけ?……どうにも思い出せない。
『閑谷さんってちょっと変わってるよね。』
『うん。無口だし,ものすっごい他人行儀だし。ちょっと何考えてるかわかんないよね。』
『この間校庭の片隅で何かブツブツ言いながら埋めてたの見ちゃったんだけどさ……。』
『あ,あたし屋上になんか白いチョークでいろいろ書いてるの見た!先生に言った方がいいのかな?』
『なんか,よくわかんないっていうか,気味悪いよね……。』
『うんうん。』
そうだそうだ。女子の間でそんな会話があった。最初の一か月くらいはそれで教室がなんとなくざわざわした雰囲気をまとっていたものだ。それを見て僕は,よくあるいじめ?みたいなのに発展するんじゃないかと,他人事の割に彼女について気を揉んだものだ。それからしばらくしても,彼女が表だって陰湿な嫌がらせを受けているような様子は全くなかったし,陰でなにかが起こったなんてこともなかった。それどころか,不思議なことに,彼女についてひそひそと話す女子……いや,クラスの人間がいなくなった。別に,彼女を認識していない訳ではないだろう。だが,いつの間にか教室の中から「閑谷幽」という女子生徒の存在感が薄れていって,挙句には消えてしまったような,そんな不思議な気がしたものだ。
「なあ,あの席に座ってる閑谷さんだけどさ。」
ある日僕は思いきってクラスメイトに声をかけた。多分,彼女が転校してきて2か月半くらい経ってからだと思う。ほら,この時期の男子って多感じゃん?クラスメイトのゴシップ大好きじゃん?だから,男子が女子の話しただけでなんていうかこう,「お前あいつのこと好きなのか!?」みたいな空気になるから……だから,正直若干勇気がいったんだけど……それでもあまりに彼女が話題にならなくなったことへの興味の方が勝ったから,思い切って聞いてみた。閑谷さんが座っているその席を指さしながら。(まあ,その時彼女は席を外していたんだけど。)すると,男子生徒は不思議そうな顔をした。
「閑谷……?あぁ,そんなやつ居たっけ?」
「いるもなにも,あいつ同じクラスじゃんか。」
「けどよ,最近あの席ずっと空席だぜ?今日も誰も座ってねえよ。あそこだろ?窓際の日当たりのいい席。」
「空席……?」
おかしい。
だって僕は今朝も彼女を見ているのだから。来ていないなんて,そんなことはないだろう。現にチャイムと同時に彼女は教室に戻ってきて,そっと空席に音もなく腰を下ろした。相変わらず妙に日当たりのいいその席で,彼女はただ黙々とノートを取っていた。
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1*72*7月***
彼女は変わった人だ。いつも**読んでいる。どこか**にいるような,高嶺の花のような,そんな人だ。確かにちょっと変わってるけれど。臨**校の班が*緒になれたのは,きっと何かの奇跡で何かの間違いなんだろう。楽しみだ,この学校で作る,最**最*の***になるんだろうから。そんなことより,なんて言い方は良くないかもしれないけれど,僕***は三日後*月20日に迫った期末テストが怖い。
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彼女が転校してきて3か月にもなる頃。
「閑谷さーん!」
「…………どちら様?」
嘘ぉ……クラスメイトだよ僕。
ある天気のいい日。校舎の屋上で彼女と二人きりになる時間があった。別に僕は彼女に恋をしていたというわけではなかったし,彼女も別段僕のことをクラスメイト……というか,一学生としてしか認識してなかったみたいだし。ただ何となく,来週末から始まる臨海学校の班が同じになったのでこの機会に仲良くなろうと思って声をかけただけだった。が,まさか名前を知られていないとは。ほとんど表情の動いていない彼女に対して僕は大げさなまでにため息をつく。
「端本だよ……臨海学校の班一緒じゃん。」
「……臨海学校。あぁ……そうか,そうだったわね。その端本くんが私に何の用?」
本を数ページ,何かを探すようにパラパラめくり,何かに納得したように頷きながら,彼女はそんなことを言った。本から目を上げることはない。若干冷たいようなその物言いに少したじろぎながらも,僕はニコニコしながら言葉をつづけた。
「あ,いや,なんか気になって。閑谷さんっていつも一人でいるっていうか,なんか不思議な人だなあ,と思ってさ。いつも一人で本読んでるし。それ,いつも何読んでるの?」
「……歴史書ってとこかな。」
「へえー!閑谷さん,歴史好きなの!?」
「嫌いじゃないわ。……というか,今回のこともそうだけど,知らないとできないことが多いから。」
「そうなんだ……?」
その答えに彼女ははっとしたように顔を上げて「なんでもない。こっちの話。」とまた目を本に落とした。しばらく沈黙が続く。それに耐えかねて何度も彼女に話を振ったのだが,そっけないと言うか,「うん。」とか「違う。」とか,そんな感じの短い返答しか返ってこなくて,会話にならない。これもしかして盛大に嫌われてるんじゃないかなとまで思い始めたところで,突然彼女が本を閉じて,そして流れるような動作で立ちあがってスカートを叩く。
「あれ,えっ,もう行っちゃうの?」
「……昼休み,もうじき終わるわよ。」
その言葉に時計を見ると,なるほど確かに予鈴まであと2分くらいだった。
「端本くん。」
階段を駆け下りようとした僕を,彼女が不意に後ろから呼び止めた。何事かと思って振り返ると,本から滅多に顔を上げない彼女と目が合った。……悲しそうな眼をするんだな。と柄にもなく思った。
「臨海学校,楽しめると良いわね。」
「あ,うん。閑谷さんもね。一緒に楽しもう。」
その言葉に,閑谷さんはやはり少し悲しそうな眼で頷いた。
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197***月6*
臨海学校***と一週間。時間がない。****まであと少**のに課題が*わらない。***図書館箱詰***半分以上きちんと終わったのか,先生は****って言って*んだ***。……終わるかなぁ。******同じ班になったのに、楽****************************************************************だ*****。
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屋上の一件から二週間が過ぎた。臨海学校は目の前だが,宿題が減るわけではない。その宿題を片づけるために僕は珍しく図書室にいた。下校時刻が刻一刻と近づいて,生徒がまた一人,また一人と帰って行く。
「雨でも降りそうな天気だな。」
人気のなくなった図書室から適当に教科書やノートをかき集めて慌てて廊下に出る。外は夕暮れ時ということもあってかただ暗雲垂れ込めているだけよりよほど暗く感じて,僕は少しだけ身震いした。雨の降る前のあの独特の湿っぽい風が,少し先の教室(窓でも開いているのだろうか。)から流れ込んできていた。
「あ,しまった,ノート忘れた。」
折り畳みの傘を出そうと鞄の中を探し,宿題のノートを図書室に忘れてきたことに気づいた。もうすぐ校門が閉まる。慌てて取って返し,階段を駆け上がる。
「……あれ?」
図書室のある3階へ駆け上がってきたはいいものの,恐ろしく人気がない。さっきから漠然と感じていた違和感はそれだったかと合点がいった。いつもならいるはずの先生までいない。耳が痛くなるほどに静かな空間に自分の足音と息遣いだけが響き渡って妙に重苦しい沈黙が廊下を満たしていた。なんだか背筋が薄ら寒くなり,誰に隠れるわけでもないが,なるべく音をたてないように図書室の扉を開ける。
「誰も……いないよな。」
いないはずなんだけど。どうもさっきから誰かに背中を見られているようなそんな気がしてならない。さっきまで座っていた席まで滑るように移動して机の上を一瞥,ないことに気づいて机の下を検める。思った通りだ,机の脚の向こう側に隠れるように落ちていた。僕はそのノートを拾い上げて……「ん……?」
背後に影。しかしいくらしゃがんでいるからと言って,頭の上を通り越してノートに影を落とせるわけがない。不審に思ってそっと首をひねって後ろを見る。
「え。」
直感的にヤバいと思った。形の無い影が,どこからが顔で,どこからが胴体なのか,すべてがはっきりしないその影が,だがしかし,はっきりと僕を見下ろしていた。いつの間にか外は今にも落ちてきそうなほどに重く黒い雲で覆い尽くされていて,どこからがその物体の闇で,どこからが外の暗闇なのかもかなり怪しかった。
「――……っ!」
悲鳴も上げられない。背中を嫌な汗が伝うのを嫌でも自覚しながら,僕は図書室の扉を半ば蹴破るようにして飛び出した。表紙の型紙がぐしゃりと歪むのも構わず,ノートをひっつかんでひたすらに走った。肩掛けの布鞄の中身が飛び出しそうになるのも構わずに,とにかくひたすらに下を目指して走った。1階に続く踊り場,そこで下から蠢いて階段を這い上がってくる黒い影を見た。
「回り込まれてる……!」
2階に取って返し,廊下の片隅を黒い塊が満たすのを見計らって廊下を突っ走って反対側の階段に飛びつき,手すりを滑り降りるようにして再び1階へ駆け下りる。と。
「うわっぷ……!」
下駄箱前に飛び出した瞬間,真っ黒な煙が視界を包み込み,嵐のように荒れ狂った風が僕を廊下に転がした。木張りの廊下,とはいえ痛い。背中から叩きつけられるように転がった僕の目を,見えない,けれど確かに柔らかい手が覆い隠した。
「深呼吸して。ちょっと飛ぶよ。」
耳元にどこかで聞いたことのある声がして,次の瞬間,僕の視界は色の塊が残らないほどの勢いで歪んだ。
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1********日
*******************,***********************************。******。図書館********************************は,******************。
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次に目を開いたそこがどこなのか,僕には一瞬わからなかった。
「良く生きてたわね。」
「閑谷さん……?何やってんのこんなところで……。っていうかどうやって屋上まで来たの?」
「……内緒。」
いつも通りの無表情で彼女は答えた。僕の方はといえば,屋上は風が強くて思わず目を瞑ってしまいそうだ。しかし相変わらず眼鏡をかけた彼女のその眼は油断なく屋上を見渡している。良く見るとその手には柄から鞘から,鍔に果ては鋲まですべてが鴉の羽よりも黒く着色された日本刀が一振り握られていた。(どこから持ってきたの,とか聞いちゃダメなんだろうな。)鍔の近くに紫の艶のある布が結ばれ,その結び目に一枚だけ小さなお札が貼られていた。見るからに怪しい一振りを,彼女はしっかりと握って油断なく屋上を見渡している。
「ねえ,閑谷さん逃げようよ,下になんかよくわかんないけど……なんかいたからさ……。」
「そうね,知ってる。っと……おいでなすったわ。」
ひときわ強い風が吹き,僕が思わず目をつぶったと同時,閑谷さんが刀を抜いたような音がした。きぃんっと鋭い音がして僕がはっと目を開けた時には,彼女は再び僕の隣に舞い戻ってきていた。その手に握られている黒い刀身の刀からゆらゆらと何か,こう,気のようなものを揺らめかせながら,その場に仁王立ちしていた。その刀身よりも鋭い眼光が屋上のその先,フェンスのあたりを見つめている。その視線の先には先ほど僕を階下で追い回していた黒い影の姿。黒い靄のようにはっきりとしていない姿である事に変わりはないが,地面から屋上のフェンスに向かって手を伸ばして這い上がってきていることがはっきりとわかった。
「ったく……本当に厄介ったらありゃしない……っ!」
気合い一閃,鞘を投げ捨てて屋上を蹴る。一息に10mもありそうな化け物との間合いを詰める。今やフェンスの上に完全に身体を乗り出していた化け物は彼女の姿をとらえるとざわざわと音を立てながらこちらへと物凄いスピードで襲いかかってきた。
「……喝!」
掴まれる寸前で垂直に飛び上がり,その真上から大上段に振りかぶった刀を振り下ろす。黒い残像を残して刃が煌めき,まるで死神の鎌のように,ざっくりとその靄を切り裂いた。その様子にズキリと胸が痛む。真っ二つに切り捨てられたその黒い靄は,二つに分裂したまま着地する彼女を待たずに僕の方へと襲いかかってきた。普段体育の時には見せない(少なくとも授業中の彼女の運動神経は人並みだったと思う……。)重力度外視のその動きにあっけにとられていた僕は少しだけ反応が遅れた。
「ええええええっ!?」
あまりの展開に慌てて身体をひねる。ひねった拍子に足元を突風に掬われて,僕の身体は無様に屋上に転がった。その上から覆いかぶさって来るように靄が迫ってくる。
「そこをっ…………どぉおおぉおおぉぉぉけぇええぇえぇええぇぇっ!」
どこから出しているのかと疑いたくなるくらいの怒号と共に閑谷さんの細身が一直線に刀を構えて突っ込んでくる。靄が一瞬ぎょっとしたように揺らいでざ、ざざ、と音を立てながら僕から離れていく。その隙に彼女の華奢な身体は僕とその黒い影との間にねじ込まれるようにして割り込んだ。金属が軽くぶれるような音と共に彼女が刀を構え直す。
「……ったく……なんであなたはこんな日に限って校舎に残ってた訳……?」
僕に向けられた棘のある声に,胃袋を掴まれたような気になり,僕は居心地悪く屋上の床の上で膝をすり合わせた。
「と,図書館に……。」
「図書館?」
影を睨みつけたまま,彼女は目を細めた。
「課題……終わらなくて。」
「…………そうか,あなたなのね。」
ふ,と空気が緩んで,彼女が振り向いた。一瞬蹴り殺されるのではないかと思って僕は身構えた。だが,彼女はあの日の屋上で見せたのとは違う,けれど少し悲しげな眼で僕に微笑みかけただけだった。
「あなたの日記,拾ったわ。おかげでだいぶ助けられた。ところどころ泥とか血とか破れたりとかで読めなくなってもいたけれど,この学校のこと,いろいろ書いてくれてくれてたでしょ。クラスであった事とか,行事とか細かく。そのおかげで助かったの。」
「えっ!」
あの日記読まれちゃったの!?と僕は慌てて鞄を探す。だが,いつも日記をつけているノートはきちんといつもの鞄の外ポケット,その奥に隠されるようにしてちょっとくたっとしたノートが入っている。
「……あれ?」
日記は僕の手元にある。読めない所もない。さっきの彼女の言葉は僕の聞き間違いだったのだろうか。
「……じゃあ,役者が揃ったって事で……そろそろ終わりにしようか。」
おもむろに彼女はそう呟いて,ぐ,と親指の腹を刀の刃に押し付けて一筋の血を流す。それを懐から取り出したお札にビッと塗り付けて,刀に突き刺した。その切っ先を蠢く影にピタリと向けて。
「…………,…………。……っせいっ!」
口の中で何やらもごもごと唱えながら刀を投擲した。稲光が空を切り裂き,黒雲を切り裂き,黒い靄に直撃するのと,お札を突き刺した刀が黒い靄に突き刺さるのとはほぼ同時だった。あまりの爆音と閃光に,僕は思わず目と耳を塞いだ。絹を引き裂くような耳障りな悲鳴が山間に響き渡り,いつの間にか降り始めていた雨で緩んだ地盤を揺らす。
その間の彼女の行動は早かった。刀を投げるや否やスカートのポケットから白いチョークを取りだし,雨でぬれた屋上のほぼ中央,いつか僕と彼女が言葉を交わしたその近くに,ガリガリと音を立ててあっという間に何かを書きつけていく。不思議なことに,チョークで書かれているはずのその線は雨に流されることなく,傷んだコンクリートの床にくっきりと白い線を残していく。
「なになになに,何が起こるの!?」
「驚かせてごめんなさいね。さっきのは緊縛の陣。封印するのはこの後。この屋上を中心に陣を張って落とすわ。」
「は,え……閑谷さんってなに,えっと……巫女さん?それとも陰陽師みたいな……?」
「……まあそんなところ……かな。この空間で,納得いかずに捻じれた気持ちを抱えて死んでしまった魂を,ね。ちゃんとあちら側に送ってあげるのが、仕事。」
その念のせいかちょっと余計なのも一緒に呼び出されちゃったけどね,と彼女は唇だけで苦笑した。手を止めずにザクザクと床に図形や文字と思しき形を書き連ねていく。あっけにとられている僕を恐ろしい勢いで置き去りにして一通り図形を書き上げた彼女は,最後にその周りを恐ろしいほど正確な円で囲んで,三分の一程の長さになったチョークを投げ捨てた。
「下がってて。あんまり関係ないけど……。」
懐からお札をもう一枚。それから,古ぼけた大学ノートを一冊。そのノートを陣の中心に置いて,その上に更にお札を載せる。
「――――――――!」
音にならない叫びと共に先ほど彼女が投擲した刀が焼け焦げたお札と共にこちらへ投げ出されてくる。こちらの首を鎌鼬よろしく切り裂こうと飛んできた刀を,どこに仕込んでいたやら(今更聞きたくもないが),抜き放った短刀一振りで軽く往なして屋上の床に叩き付ける。跳ね返ってきた,真っ黒な血に濡れててらてらと光るそれを手元を見もせずに取り上げ,ビュン,と風を切り裂く音と共に血振りする。その刀をそのまま流れるような動きと共にお札と日記の真上に静かにかざす。蠢く影が僕らに照準を合わせて身体を縮める,そして……これまでにないスピードで爆ぜて襲いかかってきた。槍のように,鉾のように,鋭くとがった切っ先にも見えるその影は,一直線にこちらへ伸びてくる。
「閑谷さ……っ!」
伸ばした手の先。
「常闇に生まれた魂と,常闇に食まれた魂に,救済の崩落と,浄化の鉄槌を。我,閑谷幽が地獄の大王にかしこみ申し上げ奉る。道を失い理を忘却した憐れな魂,その獄炎に彩られた門戸を開き受け入れよ,憐れな灯の懇願を聞き入れよ,願わくば悠久の時の果てに安らかなる地を,裁きを以て六道輪廻への道標を。理から外れた魂に,一時の粛清を以て真の道をここに示さん!!」
詠唱のような大音声と共に振り下ろされた刀は,鍔まで深々とお札に突き刺さり,刹那を待たずに陣が真っ赤に光った。それを待っていたかのように,校庭の四隅からも真っ赤な光が迸り,敷地をあっという間に取り囲むと,刀の柄に集まった。先ほどまで彼女が書いていた図形の外周を取り囲むように白と黒の別の図形が光を迸らせながら浮かび上がり,わずかに離れた黒い影の足元から群青にも近い青の光が立ち上がって黒い影に絡み付いていく。
「え。」
浮遊感。
屋上が,いや,校舎がもろとも,地面と共に消失した。
ガラガラと音を立てて崩れていく世界の中,彼女だけが今までと変わらない高さに佇んでいるのを,僕は落下しながら呆然と眺めていた。彼女に迫った黒い影はあと一尺ほどの距離を残して奮闘空しく崩落に巻き込まれ,結果として彼女は無傷だった。
(あぁ……)
奈落の底へと落ちていく感覚を味わいながら,僕は彼女を見上げていた。霞む意識の中,風にたなびく黒髪だけが妙に印象に残っていて。
(臨海学校,楽しみだったのになぁ……。)
僕の意識はそこで途絶えた。
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いい心地ではない。だが,まあ,成功したと思っていいだろう。小さな祠の前で,閑谷幽は額に汗をにじませながら横たわっていた。時折吹いてくる風が汗ばんだ身体には丁度よくて,白い装束の背が汚れるのも構わず,彼女はごろりと横になった。
(なが……かったなぁ……)
ここに二週間泊まり込んで魂祓いに心血を注ぎこんでいた彼女の眼は多少やつれた色をしてはいたが,光は失っていなかった。
傍らには,漆黒の日本刀が深々と突き刺さった大学ノートが一冊。破れ,濡れ,焼け焦げてはいたが,部分的には読むことができるその日記は,40年ほど前に発生した大規模な土砂災害に巻き込まれて校舎諸共流されて生徒教員のそのほとんどが亡くなった,県立高校に通っていた生徒の物だった。学校ぐるみで実施される臨海学校という一大イベントを目前に,100名近い命が土の下に沈んだ。
近々この辺りに高速道路を通す計画があるのだが,かつて校舎があったこの区画だけ,作業員の怪我や病気,果ては事故死までもが相次ぎ,仕方なく魂祓い師である彼女の所に鎮魂の依頼が来たのだった。
結果から言えば,生徒の霊は何ら悪さはしていなかったようだ。だが,一人だけ,いや,一つだけ強い思念を持った生徒の魂があった。その魂がこの地に元来住みついていた悪鬼の魂をかき集めてしまい,それが工事現場に災いを成していた,というのが事の顛末のようだ。最初はいつも通り,というよりは一般的な除霊を試みていたがどうにもうまくいかない。そこで地元に作られた慰霊資料館に足を運んだところ件の日記を発見した。並々ならぬ禍々しい気を放っていたそれが現況の元凶,少なくともその一端を担っていることは明白だった。
彼女は区画整理をされる前のこの地区を管理していた区役所に掛け合い,かつてあった校舎の見取り図とその当時の全校生徒名簿を手に入れ,この土地に縛り付けられてしまった生徒の霊を,日記の持つ思念の力を媒体にして土地ごと黄泉の国へ投げ込むことに決めた。見取り図を元に校庭の四隅を特定し,奈落堕トシノ陣を張るための石像を埋め,土地の中央に当たる校舎の屋上あたりに白墨で陣の中心を描く。その作業をする間,彼女は自分の魂を限定的にこの土地に縛り付け,日記に書かれ,読み解くことのできた事実がある日付に自分を同期させていった。タイムトリップ,と言うわけではないが,日記の持ち主の記憶の中に潜り込んで空間のより深くまで――確実に黄泉の国へこの土地を落とすため――陣を張ろうとしたわけだ。その空間の中で彼女と関わった無関係な生徒の記憶からは自分を抹消しながらだ,一つ作業を終えると疲れ果てて丸一日は寝込む羽目になる。そんなこんなですべての作業を終えるのに一週間半がかかった。同時に土地に住みついていた悪鬼も落とすとなると念には念を入れなくてはならない。奈落堕トシノ陣を使うこと自体は初めてではないが,この規模は初めてのうえに同時に自分の魂を土地から切り離す作業も必要になる。結局,悪鬼束縛ノ陣,奈落堕トシノ陣,縁切ノ陣,破邪ノ陣の四つを仕込んで同時に発動させると言う荒業を展開することでそれを乗り切る事にした。奈落堕トシノ陣は発動直前に書き上げなければ意味がないため,四つの陣の中で最も図形が複雑で書きにくいが,そこは二日ほど地面の上で練習して何とかした。繊細で非力なように見えて腕力と豪胆さで物事を丸め込む彼女らしいと言えば彼女らしい戦法であった。
「……うまくいったからまあ……いいか。」
日付もよかったのだろう。奇しくも今日は土砂崩れが発生した日,まあ狙っていたのだが。遠くで慰霊のためだろうか,静かに鐘が鳴らされているのが風に乗って聞こえてきていた。自分が死んだ日付というものは,あの世に引かれ易い。それも手伝って,万事予定通りに済ませられた。
「…………。」
立ち上がって刀を抜き,日記を拾い上げる。真ん中を見事に貫かれた日記は,それでもまだところどころ判読ができる。ハラハラとページをめくり,ひとしきり目を通してから丁寧に閉じ,目も閉じた。この日記の持ち主はきちんとあちらへ逝けたのだろうか。そっと日記に黙祷する。
「……――ありがとう。」
「!」
風に混ざるように声が聞こえた。消え入るような声は,一際強く吹いた風に吹き飛ばされるようにして散ってしまった。
記憶の中で下準備のために足を踏み入れた屋上。そこで彼女に話しかけてきた,あっけらかんとしたクラスメイトと同じ声だった。
もう少し短く,もう少し抽象的で,もう少しアクションの少ないものになる予定でしたが,予想外の方向へ転がってしまいました。なお,作品中に出てくる詠唱や陣については完全に作者の空想で出来ています。