はじまりのはじまり
一
「会社が倒産したんだよ」
えっ、とわたしは受話器を持ち直し、もう一度おとうさんの声に耳をそばだてた。
「倒産というのは、まあ潰れたということだな。潰れたといっても、地震で倒れたわけじゃないよ。出て行くお金が、入ってくるお金より多くて、それがどんどん膨らんで、にっちもさっちもいかなくなって、わかるだろう」
「うん」
それはわかる。中二のわたしには、倒産がどんなことぐらいは。しかし、なぜおとうさんの会社がいきなり倒産するのか、それが謎だった。つい三日前、家族三人で高そうなレストランで食事をしたばかりだ。レジで何気におとうさんの縦長の財布を覗き込んだ時、金色や銀色のカードが上から下までびっしりと詰まっていた。
「で、おとうさんはもう家に戻れない」
「でもいつかは帰ってくるんでしょう」
おとうさんは木曜日の晩、出張に行くと言って、家を出て行った。
「そりゃあ、いつかはね。だがおとうさんが帰ってくるときには、もう家がなくなっているかもしれない」
「えっ!」
「つまりだな、さっきも言ったように、出て行くお金がとても多くて、入ってくるお金では足りなかったわけだ。だから、どこかからお金を借りなければ、支払いができなかったということだな。分かるだろう」
「分かるけど――」
「ところがここでまたひとつ問題が起きる。つまりお金を借りたおかげで、支払いは終わったけど、借りたお金はそのまま残っているわけだ。今度はそいつの返済をしなきゃいけない。分かるだろう」
「分かるよ、それくらいのこと。つまり借金のために、家を取られちゃうってことなの?」
「そうだ。その通りだ。まだ子どもだとばかり思っていたのに、そんなにすぐこういうことが分かるなんて、すごいな、美里」
そんなこと誉められても、うれしくもなんともない。
しかし本当に家を取られてしまうのだろうか。いきなり言われても、まるで現実味が沸かない。わたしは一瞬、おとうさんが昨日見たテレビドラマのことを話しているのではないかと疑った。
「でもどうしてそんなこと急に……いきなり過ぎて信じられないよ。ねえ、おとうさん。それって冗談なんでしょう。なあ~んちゃってね、とか今言おうとしてるでしょう。ねえ、そうでしょう」
「なあ~んちゃってね、そう冗談だよ。なあ~んちゃってね。会社は本当に倒産した」
「どっちなのよ!」
「倒産だ」
「そんなの急過ぎるよ。絶対嘘だよ、それ」
「手形の不渡りというのは急に起きる。あっちこっちで申し合わせたように、早く金返せと一斉に騒ぎ始めた。だからもう潰すしかなかったんだ」
「そんなにあちこちからお金借りていたの」
「そんなに沢山じゃない。まあ三~四社からだよ。最初はお行儀のいい信用金庫だったが、そのお行儀のいいところから、あなた、こちらの会社からお金借りて、とりあえずうちの借金返済しちゃいなさい、と言われて、そんなに行儀のよくないところを紹介されて。さらにそこから、もっと行儀のよくないところを紹介されて。その都度金利はどんどん上がっていったな」
「それで、借金は返済できるの」
「できないから倒産したんだよ、美里。ということでおとうさんは、これから南の方に逃げる。しばらくそっちにいるつもりだ。捜さんでくれ」
「ちょっと、ちょっと」
「誰かが家に来て、おとうさんはどこにいると訊いても、知らないと答えるんだぞ、いいな。それじゃあ切るぞ。またこっちから連絡する――」
「待ってよ! 家取られちゃうんでしょう。あたしと静香はどうなるのよ」
「そうだ。肝心なことを忘れていた。そう。お前たち二人のことだったな。安心しろ。ちゃんと引き取り手はいる」
「引き取り手って誰よ。茅ヶ崎の叔母さん?」
「いいや」
「それじゃあ、名古屋のほら誰だっけ――」
「達郎伯父さんでもない。親戚連中じゃないんだ」
「じゃあ誰なのよ」
「おかめさんという人だ」
「おかめさん?」
「ああ」
「おかめさんって、まさか亀じゃないんでしょう」
「亀じゃない。人間だ」
「あっ、もしかして、おかめひょっとこのおかめ?」
「よく知らんがそうかもしれない。ともかくお前は静香と一緒に、おかめさんの所へ行くんだ」
「そんな……嫌だよ、知らない人の家に行くなんて」
「分からないかな、美里」
おとうさんがコホンと咳払いする音が聞こえた。
「親戚連中とはもう長い間、付き合いはない。茅ヶ崎のおばさんには子供が五人もいるのに、公団のアパート住まいだろ。達郎伯父さんは、去年リストラされた。息子二人はもうとっくに成人してるけど、無職だ。毎日部屋に閉じこもって、スナック菓子をバリバリ食いながらネットゲームに夢中らしい。だからどっちも、お前たちを引き取る余裕なんかない。それに静香は、どんぶりメシ三杯も食うだろ」
「三杯はオーバーだよ。せいぜい二杯」
「そうか。だがいずれにせよ、親類はダメだ」
確かに、叔母さんや伯父さんの家などに厄介になりたくはない。
叔母さんちの上の二人は、まだ小さいくせに、人のスカートをめくったり、胸を触ったり、やりたい放題だ。そのくせ叱ると、ぎゃぴんぎゃぴん大声で泣く。あまりにも泣き方が凄まじいので、スカートをめくられ、パンツまでずり下げられそうになったわたしの方が、大人げないということになってしまう。
それにあの伯父さんとこのニート兄弟。
去年法事で会ったが、お経の最中、ふたりはわたしの制服からはみ出た太ももを、食い入るように見つめていた。外見が瓜二つの兄弟は、ほとんどロウソクのように色白のくせに、唇だけは妙に赤くぬめっとしていた。がりがりに痩せ、出っ歯で目が細く、タワシのような髪の毛のところどころに、米粒大のフケが浮いていた。あんな人たちとひとつ屋根の下で暮らしたら、わたしは三日で発狂してしまうかもしれない。
「おかめさんはそんなに悪い人じゃない。おかめさんのことを信じるんだ美里。きっとおかめさんがいいようにしてくれるよ。それじゃあそろそろ切るぞ。盗聴されてるかもしれないからな。また連絡する。じゃあな。達者で暮らせよ。静香にもよろしく言っておいてくれ」
「ちょっと! おとうさん」
電話はいきなり、ガチャリと切れた。ツーツーという無機質の通話音が、耳の奥で鳴っている。折り返し電話しようとしたが、ディスプレイの表示が公衆電話になっていたのであきらめた。おとうさんの携帯に電話をかけると、案の定通じなかった。
「どうしたんだよ、美里」
振り向くと、パジャマ姿の静香だった。ズボンの後ろに右手を突っ込み、ボリボリお尻を掻きながら大あくびをしている。
今は午前十時だが、土曜日なのでまだこんな格好をしているのだ。
「どうもこうもないよ。すっごいことが起きてるんだよ」
「ちょっと待った。長い話なら後でな。おれ先にウンコしてくっから」
「きたないなあ」
「せーり現象だから仕方ねえじゃん」
こう言うなり、静香はトイレに入り、大きな音を立てて扉を閉めた。
まったくもう。
五分ほどして出てきた静香に、わたしは先ほどの、おとうさんとの会話のことを話した。眠そうな妹の顔が、見る見る覚醒していった。
「なんだよ、それ」
「だから話したとおりだよ」
「そんなバカな話あるかよ。おれは嫌だぜ。ここに残るぜ。おかめさんて、なんだそりゃ。知らねえよ、そんな人。あのクソオヤジ、ふざけた真似しやがって」
おとうさんが、ふざけた真似をするのは、今回が初めてではない。そんなことは静香だって知っている。しかし、今回のこれは、今までおとうさんが巻き起こした、幾多のふざけた騒動の中でも、群を抜いてふざけているといえた。
「でもこの家多分抵当とかに入ってるから、そのうち取られちゃうんだよ」
「取られたって、シカトして住んでりゃいい。だいたいこの寒空の下に子供を追い出す権利なんか、大人にはないはずだぜ」
「そうか――」
なかなか静香も頭がいいと思った。
「他人のものだろうと何だろうと、ここはおれたちの生まれた家だ、大人の都合で出て行くなんて、冗談じゃないぜ」
「そうだよね」
こう言いつつも、わたしには一抹の不安があった。いずれにせよ、わたしたちはまだ未成年で、保護者が必要なのだ。おとうさんは失踪してしまったのだから、保護者代わりというのは、多分そのおかめさんという人がやるのだろう。
おかめさんがわたしと静香に、この家を出て自分の家に来いと言ったら、法律はわたしたちではなく、おかめさんの味方をするのではないだろうか。
「――でもさ、あたしたちお金ないよ」
「オヤジは送金しないつもりかよ」
「だって南に逃げるって言ってたよ。あたしたちのことまで構ってる余裕なんて、ぜんぜんなさそうだったよ。だからおかめさんってのが出てきたんだよ」
「ちっくしょう。ホント、とんでもねえ親だ」
静香は拳を固く握って、居間の扉に打ち付けた。扉はドンと音を立てたが、びくともしなかった。身長百四十五センチの静香の拳は、金平糖のように小さい。
「今年に入って、ずっとヒドイことばかりだよな。中学生になって制服なんて着せられてよ。スカートなんて冗談じゃないぜ」
静香は幼稚園のときから、ずっとズボンしか穿かない。
「フェミのおばさんたちは何やってんだよ。女性専用車両はもういいから、中学校からスカートを廃止させろよ。男も女もズボンだけでいいだろ。男女平等なんだから」
「でも静香、スカート似合ってるよ」
中一なら夏休みを過ぎれば、徐々にスカートを短くする子も出始めるのに、膝下丈をかたくなに守っている静香の脚は、実はとてもきれいなのだ。
「似合ってねえよ」
静香はどかどかと台所に歩いてゆき、股をこれ以上できないほど広げて、食卓に腰を下ろした。たしかにこんなんでは、スカートはアウトだ。
静香は、そこいら辺のおじさんのように、朝刊を開くと、鼻くそをほじくりながらテレビ欄を眺めはじめた。