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【異世界定食】〜とんかつ屋「揚太郎」に集う、ワケありな人々〜

『天才魔導師、とんかつのサクサクを百六十八時間維持する弁当箱を開発して職場放棄する。』 ~期待という名の泥水を飲み続けてきた私が、銀貨三枚の革命に辿り着くまで~ ep5

掲載日:2026/04/18

いつもお読みいただきありがとうございます!

本作は、ブラックな職場環境でボロボロになった天才魔導師が、とある「揚げ物」との出会いによって全てを投げ出し、自分の幸せを全力で取りに行くお話です。

「食」への執念が国家を動かす(?)、少しおかしな異世界グルメファンタジーをお楽しみください!

 エルザは廊下を全力疾走していた。

 白亜の床に、軍靴の音が高く響く。


「エルザ様ッ!」


 背後からラルフの悲鳴が追いかけてくる。


「結界の再構築が! 報告書の提出期限が! 新人の教育がッ——」


「うるさい」


 エルザは振り返りもせず、言い捨てた。


「去年の定型文をコピペしなさい。マニュアルは音読させればいいわ」


「は、はあ!?」


 ラルフの顔が蒼白になる。


「ですが、エルザ様! これらは全て、貴女にしかできない重要な——」


「私にしかできないこと?」


 エルザは立ち止まった。

 銀髪を振り乱し、充血した瞳でラルフを睨む。


「……ええ、そうね。私には、私にしかできないことがあるわ」


 エルザは懐に手を当てた。

 そこには、七日間かけて完成させた「それ」がある。


「だから今から、それをやりに行くの」


「それ、とは……?」


 ラルフが尋ねる。

 けれど、エルザは答えなかった。

 ただ、その瞳に狂気の光が宿っている。

(……あのサクサクを、もう一度)

 七日に一度の休み。

 それすら奪われ続けてきた彼女が、初めて自分の欲望のために走り出した瞬間だった。

 ◇

【一週間前】

 ◇

「……これ、何?」


 エルザは目の前の皿を見つめていた。

 王宮の厨房。

 貴族たちが固唾を呑んで見守る中、あの転移者——揚太郎が差し出した、黄金色の物体。


「ロースかつ定食」


 揚太郎が無愛想に言う。

 エルザは、恐る恐るフォークを伸ばした。


 ザクッ。

 衣が砕ける。

 その瞬間——。


「——ッッ!!」


 脳が、沸騰した。

 衣の向こうから溢れ出す、肉汁の奔流。

 喉を焼く脂の熱。

 胸を突き抜ける、圧倒的な幸福感。

 翠冠亭で感じた、あの「空白」。

 満腹なのに、どこかが満たされない感覚。

 それが今、完全に埋まっていく。

 頬を、涙が伝った。


「……お母様の、作った料理と、同じ匂いがします」

 ◇

【三日後】

 ◇

 下町の路地裏に、小さな看板が掲げられていた。


『とんかつ専門店・揚太郎』

『ロースかつ定食:銀貨三枚』


 エルザは、その看板を見上げていた。

(……行きたい)

(毎日、行きたい)

 けれど。

 彼女には、そんな時間はなかった。


「エルザ様、第五区画の定期点検報告書、明日までにお願いします」


「エルザ様でなければ、閣下が納得されないので」


「でも、それ先週も——」


「先週はベルンハルト様が担当でしたが、閣下が『エルザほど丁寧ではない』と仰って。だから今週からエルザ様に戻しました」

(……なら最初から私に頼まないでよ)

 エルザは喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。

 言えば、「エルザ様がそう仰るなら、すべて貴女に」と、さらに仕事が増える。


「エルザ様、新人のアルベルトが初歩的な術式で躓いているようです。貴女が直接指導してあげてください」


「教官がいるでしょう」


「ええ。でも、エルザ様なら五分で終わる仕事ですから」

 五分で終わる。

 その言葉が、エルザの一日を十時間奪う。

 五分の仕事が、二十個積み重なる。

 気づけば、休憩時間も、昼食も、すべてが消えていく。


「エルザ様、明日の休暇ですが、南方からの視察団が貴女に会いたいと」


「……休暇よ。私の」


「ええ。でも、エルザ様ほどの方なら、お休みを一日潰すくらい問題ないですよね」


 エルザは、何も言えなかった。

 断れば。


「エルザ・フォン・ヴァイゼンベルク様ともあろう方が、国家の重要な外交を蔑ろにされるのですか」


 そう言われる。

 七日に一度の休み。

 それすら、「エルザ様なら大丈夫ですよね」の一言で奪われる日々。

 この国において、エルザは「便利な舞台装置」に過ぎなかった。

 天才であるがゆえに、どんな雑務も「彼女にしかできない重要な仕事」に化ける。

 その結果、彼女の食生活は、素材をただ温水に沈めただけの味気ない「水煮」に占拠されていた。

(……無理だ)

 エルザは拳を握った。

(あの店に行く時間なんて、ない)

 店の暖簾が、夕風に揺れている。

 中から、あの音が聞こえてくる。

 

 ジュワァァァ……。

 油の歌。


 バチバチッ。

 二度揚げの轟き。

(……ああ)

 エルザの胸が、締め付けられる。

(もう一度、食べたい)

(あのサクサクを、もう一度)

 その時だった。

 エルザの瞳に、狂気の光が宿る。

(……なら)

(持ち帰ればいい)

 ◇

【研究室:第一夜】

 ◇

「第一次試作——時間停止!」


 キィン。

 魔力が箱へ流れ込む。

 とんかつを箱に入れ、蓋を閉じる。

 完璧な静寂。

 時間の流れが、完全に止まった。


「……成功?」


 エルザは息を呑んだ。

 箱を開ける。

 その瞬間——。

 ガリッ。


「——っ痛ッ!?」


 エルザの奥歯が砕けた。

 口の中に、鉄の味が広がる。

 血と、鋼鉄の破片。


「……あ、ああ」


 エルザは膝をついた。

 中には、鋼鉄と化した衣。

 完全に失敗だ。


「なん、で……なんで、こんな……!」


 震える手で箱を拾い上げる。


「……くそ、くそ、くそッ!」


 エルザは箱を床に叩きつけた。

 カラン、と虚しい音が響く。

 涙が溢れそうになるのを、必死で堪える。

 口の中の血を、ごくりと飲み込んだ。

(……まだ)

(まだ、諦めない)

 歯が折れようと、何度失敗しようと。

 もう一度、あのサクサクを食べるまでは。

 絶対に、諦めない。

 ◇

【研究室:第三夜】

 ◇

「第十次試作——熱量固定!」

 今度は時間を止めず、熱だけを閉じ込める。

 箱を開ける。

 シュウウウ……。

 蒸気が立ち上った。


「……やった?」

 期待を込めて、箸を伸ばす。


 ベチャ。

「……嘘」


 衣が、水浸しのスポンジになっていた。

 肉から出た蒸気が箱内に充満し、衣が全ての水分を吸い込んでいた。


「……あは」

 エルザは笑った。


「あはは、あははははは……!」


 笑いが止まらない。

 髪を振り乱し、白衣を油まみれにして。

 研究室の床には、失敗作の残骸が散乱している。

 同僚たちが廊下を通るたび、小声で囁く声が聞こえる。


「エルザ様が壊れた」


「あの天才が、とうとう……」


「職務放棄だ」

 上司が憤る声も。

 けれど、エルザには関係なかった。

(……忘れられない)

 彼女は目を閉じた。

(あの、ザクッという音)

 王宮の厨房で、揚太郎が包丁を下ろした瞬間。

(衣が砕ける瞬間の、あの震え)

 黄金の断面から立ち上る、神の吐息のような湯気。

(肉汁が溢れ出す、あの熱)

 薄ピンクの肉が、誇らしげに鎮座していた。

(……ああ、もう一度。もう一度だけ)

 彼女の手が、無意識に震えていた。

 中毒だ。

 完全に、とんかつの虜になっていた。

 ◇

【研究室:第五夜】

 ◇

「第三十次試作——全系統統合!」

 ゴボッ。

 箱が爆発した。

 研究室の壁一面に、とんかつの残骸が張り付く。


「……」


 エルザは動かなかった。

 眉毛が焦げている。

 白衣が真っ黒だ。


「……いいわ」


 エルザは立ち上がった。

 机の上に散乱している、古えの魔導書。

 かつて王都を救った、禁忌の術式。


「熱を逃がせば冷める。閉じ込めれば湿る。なら——」


 彼女の指先が、空中に魔法陣を描き始める。


「塩の魔力まで逆算してやるわ……! 揚太郎の魔封岩塩が持つ、あの深海のような青い魔力特性……それを逆利用して、旨味へ変換する回路を組む……!」


 湿度を調整しながら熱を固定し、音すら閉じ込める。

 真空を維持しながら魔力を循環させ続ける。

 致死量の魔力を一点に凝縮して、「揚げたて」という概念そのものを永久に固定する。

 やることは単純だ。

 ただ、誰もやろうとしなかっただけで。


「……できた」


 七日後。

 エルザは、黒い箱を見つめていた。

 それは、一人の女が「自分の幸福」を守るためだけに、国家の英知を私物化した執念の結晶だった。

 ◇

【現在】

 ◇

 下町の路地裏。

 揚太郎の店の暖簾を、エルザは引きちぎらんばかりの勢いで潜った。

 カウンターの端に、地味な事務服の令嬢が書類を広げながら定食を食べていた。この路地裏に似合わない几帳面さで、箸を置くたびに手帳に何かを書き込んでいる。


「……おい、エルザか。今日も——」


「全部ロースかつ定食」


 エルザはカウンターへ、七つの黒い箱を叩きつけた。


「この箱の中に、私の一週間を詰めなさい。それと、今すぐここで食べる分をもう一食。大至急よ、揚太郎」


 揚太郎は鉢巻きを締め直し、呆れ半分、職人の顔半分で包丁を握る。


「……勝手な客だな」


 ドォン、ドォン。

 重低音が響き、油が歓喜の雄叫びを上げる。


 カウンターの端で書類を広げていた令嬢が、眼鏡の奥の目をわずかに細めた。

(……あの箱)

 地味な外見に似合わない鋭さで、視線が黒い箱に吸い寄せられる。

(都市防衛用の多層結界……それも、永久機関級の出力?)

(まさか、あの女……)

(あんな国家機密を、たかが豚肉の保存に流用しているの!?)

 令嬢の背筋に、冷たい震えが走った。

 あの箱一つで、軍の兵站は書き換わる。

 物流は根底から覆る。

 数百万人の命を繋ぐ技術が今、目の前で「揚げ物」のために無駄遣いされている。


 バチバチッ、ジュワアアアアッ!

 揚太郎が手際よく、湯気の立つカツを七つの弁当に詰め、カウンターへ一列に並べた。

 その刹那だった。

 エルザは神速の手つきで蓋を閉じ、魔法回路を起動。


 キィィィィン。

 鼓膜を刺すような高周波が走り、七つの箱が同時に、絶対的な静寂に包まれる。

 完璧な真空。

 そして時間の完全停止。

 一秒の劣化も、一ミリの温度低下も、衣の鳴き声一粒さえ逃さぬ、執念の魔導。


「……成功」

 エルザの手が震えた。

(やった)

(やったわ……!)

 七日間。

 徹夜で、歯を折りながら、狂気に溺れながら。

 それでも諦めなかった。

 その結果が、今、目の前にある。

 七つの箱。

 七日分の、幸福。


「……ふふ」

 エルザは笑った。


「ふふふ、あははははは……!」

 笑いが止まらない。

 隣の席の令嬢が、びくりと肩を震わせた。

 けれど、エルザには関係なかった。

 目にも留まらぬ速さで、七つの箱をカバンへ叩き込む。

 そして。

 最後に供された「今、食べるためだけの一皿」を見つめた。

 黄金色の、完璧な一皿。

(……いただきます)

 エルザは箸を握った。

 ザクゥゥゥゥゥッッ!!

 脳髄が弾ける。

 魔封岩塩が引きずり出した脂の奔流が、喉を焼き、胸を突き抜け、一週間のブラック労働も、押し付けられた責任も、すべてを黄金の熱で焼き尽くす。

 それは、世界で一番贅沢な、自分自身への報酬だった。


「……ああ」

 エルザは目を閉じた。


「生きてる」

 頬を伝う一筋の涙。

 しばらく、誰も何も言わなかった。


 厨房の奥で、揚太郎が鍋を火から下ろす音だけが聞こえた。

 エルザが七つの箱を並べ、魔法回路が正常に機能しているか一つずつ確認し始めると、揚太郎がカウンター越しに腕を組んで立った。


「一つ聞いていいか」


「何」


「その箱の中のカツ、七日後に開けたとき、揚げたてと同じ音がするか」


 エルザは手を止めた。

「……する。それが目的だから」


「サクッという音か。それともザクッか」


 エルザの目が、わずかに細くなった。

「……違うの」


「俺が二度揚げで作るのはザクッだ。衣の層が二重になって、外側が砕けるときの音だ。サクッは一度揚げの音で、軽い。どちらを閉じ込めた」


 エルザは黙って、箱を一つ手に取った。

 七日後に開けるはずだった箱を、今ここで開ける。

 キィン、と魔力が解放される音がした。

 蓋を開けた瞬間。

 ザクッ。

 揚太郎の目が、細くなった。


「……完璧だ」

 それだけ言って、揚太郎は鍋に向き直った。

 エルザは箱を見つめた。七日分の幸福が、今一つ減った。

 だが不思議と、惜しいとは思わなかった。

 その時、令嬢が我慢しきれず席を立ち、エルザの肩を掴んだ。


「貴女」


「……?」


「その『箱』。いえ、そのシステム」

 瞳が、鋭く光る。


「私と契約なさい」


「……契約?」

 エルザは咀嚼を止めた。

 口の中で黄金の幸福が溶けていく中、目の前の地味な令嬢を改めて見る。さっきから数字を見るような目でこちらを観察していた女だ。


「貴女は誰」


「シルヴィア・ヴェルナー。元王太子妃で、現在は無職です」


「……元王太子妃が、なぜこんな路地裏で」


「とんかつの視察です。業務上の理由があります」

 エルザはしばらくシルヴィアを見た。

 嘘をついている顔ではない。本気でそう思っている顔だ。この女は狂っている。自分と同じ種類の狂い方で。


「……続けて」

 シルヴィアは眼鏡を押し上げた。


「この異常な執念、国家の物流を根底から塗り替えるわ。事務処理や上層部への根回しなど、この私がすべて踏み潰してあげる。貴女はただ、これを食うためだけに、その魔法を磨き続ければいいのよ。それが一番、この国のためになるわ」


「……条件は」


「月次報告書を私に提出すること。様式はこちらが用意します」

 エルザは一秒だけ考えた。


「月次報告書、一枚」


「三枚です」


「二枚」


「三枚。ただし書式は簡略化します」


「……いいわ」

 二人が無言で視線を交わした瞬間だった。


「わあああ、なんかすごく難しそうな話が秒で決まりましたね!?」

 リーネが酒瓶を抱えたまま、隣の席から身を乗り出していた。

 アホ毛がぴょこんと揺れている。


「あの、私も混ぜてもらっていいですか。その、よくわからないんですけど、なんか楽しそうだなって」


 シルヴィアが一瞥した。

「貴女は」


「リーネです! 追放された聖女で、ここで住み込みで働いてます!」


「……追放された聖女が、なぜここに」


「とんかつが美味しかったので」

 シルヴィアが眼鏡を押し上げた。


「貴女も同じ理由ですか」


「はい! お兄さんのとんかつ、最高ですよね!」

 エルザが静かに言った。


「同意する」

 三人が同時に揚太郎を見た。

 揚太郎は鍋を睨んだまま、背中を向けていた。


「……見てない」


「見てましたよね絶対」とリーネが言い、「明らかに聞いていました」とシルヴィアが言い、「耳が赤い」とエルザが言った。


 揚太郎は何も言わなかった。

 鍋に出汁を少し足した。

 リーネが琥珀色の酒瓶を高く掲げた。


「じゃあ改めて! 契約の話は、この酒で心を発酵させてからにしましょうよ。ね、シルヴィアさん、エルザさん!」

 シルヴィアが眼鏡を押し上げた。


「飲酒は業務外です。ただし、今は休暇中ですので問題ありません」


 エルザは杯を受け取り、一口煽った。

「……悪くない」


「そうでしょうそうでしょう! 私が醸したんです!」


 揚太郎は三人を横目で見て、不敵に、しかし口の端だけで笑い飛ばした。


「勝手にしな。だがな、俺の二度揚げを冷めさせた奴には、次はねえぞ」

 エルザは箸を置いた。

 カウンターの壁に、手書きの品書きが貼ってある。


『ロースかつ定食:銀貨三枚』

 たった三枚。

(……この値段で、この幸せが手に入る)

 王宮直属の料理人になれば、もっと高い料理が食べられただろう。

 けれど、揚太郎はそれを断った。


「銀貨三枚。あいつらが一日必死に働いて手に入れるその三枚で、この至福を届けてやりたいんです」

 あの日、王宮の厨房で彼が言った言葉。

(……そうか)

 エルザは、ようやく理解した。

 革命とは、高い場所から降ってくるものじゃない。

 油の跳ねるカウンターの向こうから、始まるものなのだ。

 そして今、私も。

 銀貨三枚。

 それは、一人の天才が「期待」という鎖を食いちぎり、自分の魂を買い戻した、革命の値段だった。

 ◇

(完)


最後までお読みいただき、ありがとうございました!

エルザが歯を折りながらも弁当箱を完成させるシーンは、書いている側も「とんかつ食べたい……」という執念に駆られていました。銀貨三枚で買える幸せこそが、最強の魔導を凌駕する。そんな勢いを感じていただければ幸いです。

また、本作には別シリーズのキャラクターであるシルヴィアやリーネも登場しました。彼女たちの狂気(?)も、エルザの情熱に負けず劣らずだったのではないでしょうか。

もし面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価【★★★★】、感想などで応援いただけると、作者のモチベーションが「二度揚げ」のように跳ね上がります!

また次の物語でお会いしましょう。

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