訪問者
その日、俺はいつものように昼食の支度をしていた。
採れたてのじゃがいもを使ったコロッケを作ろうとしていた。じゃがいもを茹でて潰し、この世界の玉ねぎに似た辛みの少ない球根野菜を刻んで炒める。そこに塩胡椒、それから隠し味に自作の味噌を少々。
小麦粉、溶き卵、パン粉をつけて、生活魔法で適温に熱した油にそっと落とす。じゅわっという音と、香ばしい匂いが厨房に広がる。
きつね色にこんがり揚がったコロッケを皿に盛り付け、千切りキャベツを添えようとしたときだった。
──コンコン。
扉を叩く音。
俺はぴたりと手を止めた。ここに来て三ヶ月。人間と会うのは初めてだ。最寄りの集落まで、徒歩で丸三日はかかるはず。こんな辺境に人が来るなんて。
包丁を置き、静かに扉に近づく。
「……どなたですか」
「すみません……っ。どうか……水を、少しだけでいいので……」
女の声だ。掠れて、途切れ途切れで、今にも消えそうな声。
扉を開けた。
そこに立っていた──いや、立っているのがやっとという様子で壁に手をついていたのは、ぼろぼろの衣服をまとった若い女だった。
長い栗色の髪は砂埃にまみれ、頬はこけ、唇はひび割れて乾いている。薄汚れた衣服の下の体は痩せ細り、足元はよろよろと覚束ない。
だが──その瞳だけは、まだ光を失っていなかった。必死に、何かのために生きようとする意志の炎が、琥珀色の瞳の奥で燃えている。
俺は咄嗟に鑑定をかけた。
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**【リーナ・フォルト】**
**種族:** 人族
**レベル:** 12
**職業:** 農民
**状態:** 重度の栄養失調、脱水症状、軽度の発熱、全身の擦過傷
**備考:** フォルト村出身。村は深刻な食糧不足に陥っている。
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農民。レベル12。そして──重度の栄養失調と脱水。
考えるより先に体が動いていた。
「中に入ってください。水がある」
女の細い肩を支え、家の中に招き入れる。椅子に座らせ、すぐに井戸水をコップに汲んで差し出した。
「ゆっくり飲んでください。一気に飲むと体に障りますから」
料理人として食に関わってきた俺は、飢えた人間がどうすべきかも知っている。脱水状態でいきなり大量の水を飲めば、体がびっくりしてかえって危険だ。少しずつ、ゆっくりと。
女は──リーナは、震える手でコップを受け取り、俺の言う通り少しずつ水を口に含んだ。喉が動くたびに、目の端から涙がこぼれ落ちた。
「……ありがとう、ございます……」
「お礼はいいですから。食べられますか? 胃が弱っているでしょうから、まずは軽いものを」
俺はすぐに厨房に戻った。コロッケはいったん置いておく。今彼女に必要なのは、胃に優しくて栄養のある、消化の良いものだ。
野菜スープ。俺の十八番だ。
だが今回はいつもより丁寧に作る。人参とじゃがいもを極限まで柔らかく煮込み、裏漉して滑らかなポタージュ状にする。塩加減は控えめに。仕上げに生活魔法で温度を調整し、火傷しない程度のぬるさにした。
五穀豊穣レベル30超えの野菜で作ったスープだ。体力回復と状態異常耐性の効能が、彼女の体を内側から癒してくれるはずだ。
「はい、どうぞ。少しずつ飲んでください」
木のスプーンを添えてスープの皿を差し出すと、リーナは一口すくって口に運んだ。
その瞬間、彼女の目が大きく見開かれた。
「……これ……なんですか、これ……こんなに美味しいもの、食べたことがない……」
声が震えている。涙がぽろぽろと頬を伝い、スープの皿に落ちた。
「ただの野菜スープですよ。裏の畑で採れた野菜で作っただけです」
「ただのって……こんなの……体の中に、温かいものが広がって……痛いところが、楽になっていく……」
おそらく効能が発動しているのだろう。体力回復の効果で、栄養失調や脱水の症状が緩和されているはずだ。
リーナがスープを飲み干す頃には、彼女の顔色は目に見えて良くなっていた。頬にわずかに血の気が戻り、唇のひび割れも和らいでいる。
「もう少し食べられそうですか?」
「……はい。あの……図々しいお願いなのはわかっています。でも」
リーナは膝の上で拳を握り、俯きながら言った。
「私の村を……助けていただけませんか」
「村?」
「フォルト村といいます。ここから西に二日ほど歩いた場所にある、小さな村です」
リーナはぽつぽつと事情を語り始めた。
フォルト村は辺境の寒村で、もともと豊かな土地ではなかった。細々と農業を営んで暮らしていたが、半年前に一帯を襲った異常気象で作物が全滅。蓄えも底をつき、村は崩壊寸前にまで追い込まれていた。
「王都に助けを求めましたが……こんな辺境の小さな村に割く余裕はないと。勇者の召喚があったばかりで、国の資源は魔王軍との戦いに集中しているそうです」
勇者の召喚──その言葉に、俺の胸がちくりと痛んだ。
「動ける者たちが手分けして食糧を探しに出ました。私もその一人です。何日も歩いて、何も見つけられなくて……もう諦めかけていたところで、この家を見つけたんです。今までなかったのに、突然家があって……」
リーナが顔を上げ、真っ直ぐに俺を見た。涙で濡れた琥珀色の目に、あの意志の炎が揺れている。
「村にはお年寄りや子どもたちがいます。ほんの少量でいいんです。水と、何か食べ物を分けていただけたら……もう何日も、みんなまともに食べていなくて」
子どもたちが飢えている。
その言葉が、俺の胸の奥にある柔らかい場所を突いた。
孤児院時代を思い出す。食事が十分でなかった日のことを。空腹を抱えて眠れない夜を。そして──厨房のおばさんが、こっそり余ったおにぎりを握ってくれた日のことを。あの一つのおにぎりが、どれだけ温かかったか。
俺が料理を好きになったのは、あの日からだ。食べ物は人を生かす。料理は人を笑顔にする。それを教えてくれたのは、孤児院の厨房だった。
「少量なんて言わないでください」
俺は立ち上がり、リーナに向かって言った。
「俺にできることがあるなら、何でもします。村まで案内してもらえますか。……ああ、その前に」
揚げたてのコロッケを皿に盛り、千切りキャベツを添えてリーナの前に置いた。
「もう少し体力をつけてからにしましょう。これ、食べてみてください。この世界にはまだない料理だと思います」
リーナが恐る恐るコロッケにかぶりつく。サクッという衣の音。じゃがいものほくほくとした食感と、味噌の隠し味が効いた優しい味わいが口に広がる。
「──おいしいっ……!」
今度の涙は、さっきまでとは少し違う色をしていた。
俺は笑った。孤児院を出てからずっと、誰かのために料理を作ることの喜びを、少しだけ忘れかけていたことに気づいた。
「明日の朝、出発しましょう。それまでにたっぷり食べて、しっかり休んでください」
空間収納の中には、時間の止まった新鮮な食材が山ほどある。三ヶ月分の収穫を、丸ごと持っていける。
辺境で静かに暮らすつもりだった。目立たず、隠れて、一人で生きていくはずだった。
だが──飢えた子どもたちを前にして、自分のスキルを隠し続けることなど、俺にはできそうもなかった。




