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転生王太子のホスト生活

現代日本に転生した王太子、取り巻き1、取り巻き2がホストをやる感じ。現代恋愛ジャンルだろうか?

まあ十万文字くらいの中編として完結できたら気持ちよさそう。


午後九時を回ったばかりの泡町(アブクチョウ)はまだ夜の本番を迎えていない。


ネオンの光が雨上がりの路面に滲み、通りを行き交う人々の靴音が湿った空気を叩く。キャバクラの呼び込みが声を張り上げ、どこかのビルの非常階段で煙草を吸う女の横顔が三階の窓から青白く浮かび上がっている。


その雑居ビルの五階に、ホストクラブ「KINGDOM」はあった。


「レオン様、三番テーブルのお客様がお呼びです」


黒服の男がそう告げたとき、店内のソファに深く腰を沈めていた青年は手元のグラスを見つめたまま微動だにしなかった。


シャンパンの泡が静かに昇っては消えてゆく。


「レオン様」


「ああ、聞こえている」


二十代半ばに見えるその青年──源氏名レオンはゆっくりと顔を上げた。整いすぎた造作が照明に照らされ、切れ長の目が黒服を捉える。どこか遠くを見ているような、この世界に馴染みきれていないような、そんな眼差しだった。


立ち上がる。


背筋を伸ばし、ジャケットの裾を軽く払う仕草にはどこか生まれながらの貴人を思わせる気品があった。この店に来る前のレオンを知る者ならば、その変貌ぶりに目を疑っただろう。かつては目の下に隈を作り、どこか虚ろな表情で客席をふらついていた男が今では別人のように堂々とフロアを歩いている。


「カイト、シュウ、先に入っておいてくれ」


傍らのソファにいた二人の青年に声をかけ、レオンは三番テーブルへと足を向けた。


残された二人は互いに顔を見合わせる。


「相変わらずだな、あの方は」


「殿下、などと呼ぶなよ。ここでは壁に耳がある」


低い声で窘めたのはカイトと呼ばれた青年だった。鍛え上げられた体躯を高価なスーツに包み、短く刈り込んだ髪が精悍な印象を与える。元の体の持ち主が残した刺青がシャツの袖口から僅かに覗いていた。


「分かっている。しかしつい口を衝いて出る」


シュウと呼ばれたもう一人は眼鏡の奥の目を細めて苦笑した。線の細い容姿と、どこか影のある微笑み。知性を感じさせる面立ちだがその瞳の奥には常に何かを計算しているような冷たさが宿っている。



三人には秘密があった。


この世界の言葉で言えば、「前世の記憶」とでも呼ぶべきものか。


レオンはかつてグラムシャハール王国の王太子だった。カイトは武門の誉れ高いローゼンハイム侯爵家の嫡男。シュウは王国宰相の息子として、若くして政務に携わっていた。


三人は幼い頃から共に学び、共に遊び、やがては王国の未来を担うべき存在として育てられた。


それがなぜ、こんな場所にいるのか。


なぜ、見知らぬ国の、見知らぬ体に宿っているのか。


その答えを、三人は持っていない。



「お待たせしました」


レオンが三番テーブルに着くと、待っていた女性客が顔を輝かせた。三十代前半だろうか、派手な装飾品を身につけた女が赤い唇を綻ばせる。


「レオンくん、今日も素敵ね」


「ありがとうございます。今夜は何をお飲みになりますか」


「シャンパン。一番いいやつ」


「かしこまりました」


黒服に合図を送り、レオンは女の隣に腰を下ろした。


香水の匂いが鼻を衝く。


前世であれば、このような場所に足を踏み入れることすら考えられなかっただろう。王族として、常に礼節と威厳を保つことを求められてきた。女性と二人きりで酒を酌み交わすなど、正式な婚約者以外には許されぬ行為だった。


しかし今の自分はこの国の、このような商売に従事する男でしかない。


「ねえ、聞いて。今日ね、会社で嫌なことがあったの」


女が話し始める。


レオンは適度に相槌を打ちながら、その言葉に耳を傾けた。この体の前の持ち主──本来のレオンはこうした会話を苦手としていたらしい。客の話を聞くふりをしながら上の空で、時には露骨に退屈そうな素振りを見せることもあったという。


だが王族として育った自分にとって、臣民の声に耳を傾けることは当然の務めだった。たとえそれが他愛のない愚痴であったとしても。


「大変でしたね」


「でしょ? もう本当に、あの上司ったら」


女の瞳が潤む。酔いが回ってきたのだろう。


レオンはグラスを傾けながら、ふと店内を見渡した。


カイトは四番テーブルで、若い女性客の相手をしている。武門の出とはいえ、彼もまた貴族としての教養を身につけていた。剣だけでなく舞踏も心得ており、立ち居振る舞いには自然な優雅さがある。ただし、時折見せる鋭い眼光は彼が本来戦場で生きるべき男であることを物語っていた。


シュウは五番テーブルだ。眼鏡の奥の目を細め、年上の女性客と何やら話し込んでいる。政治家の娘を相手にするかのような、慎重でありながら巧みな話術。相手の言葉の裏を読み、その真意を探りながら会話を進めていく──宰相の息子として培った技能がこんな場所で役立つとは皮肉なものだった。



二時間ほどが過ぎた頃、女性客が帰り支度を始めた。


「また来るわね、レオンくん」


「お待ちしております」


エレベーターホールまで見送り、扉が閉まるのを確認してから、レオンは小さく息を吐いた。


「お疲れ様です、レオン様」


振り返ると、カイトとシュウが立っていた。


「二人とも、客は」


「先ほど帰られた」


「こちらも同様です」


三人は揃ってバックヤードへと向かった。従業員用の休憩室は狭く、煙草の匂いが染みついている。レオンは壁に寄りかかり、天井を見上げた。


「今夜も、よく分からぬ一日だった」


「殿下がそうおっしゃるのも無理はありません」


シュウが眼鏡を外し、レンズを拭きながら言う。


「我々がこの世界に来て、すでに三月が過ぎました。しかし未だにこの状況を完全には受け入れられておりません」


「受け入れる必要があるのか、という問題もある」


カイトが腕を組む。


「元の世界に戻る術があるのかどうか。仮にあったとして、戻るべきなのかどうか。我々は一度死んだ身だ。北の塔で、病に倒れて」


その言葉に、三人の間に重い沈黙が落ちた。


北の塔。


グラムシャハール王国において、王族や高位貴族が幽閉される場所だった。冷たい石壁に囲まれた独房で、日の光も届かぬ中、三人は最期の時を迎えたのだ。


「あの女のせいだ」


レオンの声に、かすかな怒りが滲む。


「メリッサ・ヴェルデューラ。男爵家の娘でありながら、私に取り入り、私の心を惑わせた」


「殿下だけではありません」


シュウが静かに言った。


「私もカイトも、同様でした。あの女が現れてから、我々の思考は霞がかかったように曇り、自分が自分でないような振る舞いを繰り返してしまった」


「セレスティア嬢を……公爵令嬢を、あれほど蔑ろにするとは」


カイトが拳を握りしめる。


「我々は彼女に十分な敬意を払っていたはずだ。王太子殿下の婚約者として、将来の王妃として。それなのに、なぜあのような」


記憶を辿れば辿るほど、己の行いが信じられなかった。


セレスティア・フォン・シュタインベルク公爵令嬢。銀の髪と紫水晶の瞳を持つ、王国随一の美姫と謳われた女性だった。聡明で慎み深く、民のことを常に案じる心優しい令嬢。レオンの婚約者として、将来の王妃となるべく教育を受けてきた。


それを、自分は何と呼んだのだったか。


「氷の人形」


苦い声が漏れる。


「感情のない、つまらない女だと。そんなことを、公衆の面前で」


「殿下」


「私は彼女の髪を『色褪せた銀糸』と嘲り、その瞳を『死んだ魚の目』と罵った。なぜだ。なぜ、あのようなことを」


答えは出ない。


出るはずがない。


三人は知らなかったのだ。メリッサ・ヴェルデューラが「魅了」の外法を使っていたことを。男爵家の娘でありながら、禁じられた術を身につけ、王太子と側近たちの心を操っていたことを。


そして今もなお、三人はその真実を知らない。


知っているのは自分たちが理解しがたい行動を取ったということ。尊敬していたはずの令嬢を虐げ、得体の知れない女に心を奪われ、やがて「公爵令嬢への迫害」を理由に断罪されたということだけだった。



「しかし考えようによっては」


シュウがレンズを拭き終え、眼鏡をかけ直した。


「この転生は我々に与えられた機会なのかもしれません」


「機会?」


「贖罪の、です」


カイトが眉を寄せる。


「この世界で、か」


「ええ。元の世界には戻れない。仮に戻れたとしても、我々は死人です。セレスティア嬢に謝罪する機会も、名誉を回復する機会もない。しかしこの世界であれば」


「何ができると言うのだ」


レオンの問いに、シュウは薄く笑った。


「分かりません。ただ、この体の前の持ち主たちはあまり褒められた生き方をしていなかったようです。違法な薬物に手を染め、借金を重ね、周囲の人間を傷つけてきた。そうした悪評を、少しずつ塗り替えていくことはできるかもしれません」


「……そうだな」


レオンは目を閉じた。


前の持ち主の記憶は断片的に残っている。霞がかかったような、夢と現実の境界が曖昧な映像の断片。しかしそれだけでも、彼がどのような人間だったかは察することができた。


快楽に溺れ、責任から逃げ続けた男。


「少なくとも、借金は返済しなければならんな」


「殿下、いえレオン。その言い方は」


カイトが苦笑する。


「まるで自分の借金のようだ」


「ある意味ではそうだろう。この体を借りている以上、その責任も引き受けるべきだ」


「相変わらずですね、殿下は」


シュウが肩を竦める。


「いや、だからその呼び方は」


「ここには誰もいません。それに、我々三人の間ではそう呼ばせていただきたい」


「……好きにしろ」



休憩を終え、三人はフロアに戻った。


深夜を回り、客の入りは落ち着いている。しかしカウンターには数人の女性が座り、酒を傾けながら談笑していた。


「あ、レオンくん」


呼び止めたのは常連客の一人だった。四十代の、落ち着いた雰囲気の女性だ。この店には珍しく、派手な装飾品を身につけていない。


「今夜は遅いのね」


「少し、考え事をしておりまして」


「ふうん」


女は酒を一口飲み、レオンの顔を覗き込む。


「最近のあなた、前と全然違う」


「そうでしょうか」


「そうよ。前はなんていうか……もっと空虚な感じだった。目に光がなくて、どこか壊れかけているような」


「耳が痛いですね」


「でも今はしっかりしてる。芯が通ってる感じ。何かあったの」


レオンは少し考え、それから微笑んだ。


「死にかけたから、かもしれません」


「え?」


「冗談です」


冗談ではなかった。


実際に死んで、この体に宿ったのだから。


しかしそれを口にすることはできない。できるはずがない。この世界には魔法も転生も、御伽噺の中にしか存在しないのだから。



「レオン」


背後から声がかかった。


振り返ると、店の支配人──内藤という男が立っていた。四十代後半、恰幅の良い体躯をスーツに包み、鋭い目つきで店内を睥睨している。


「ちょっと来い」


「何か」


「いいから」


有無を言わさぬ口調だった。


レオンはカイトとシュウに目配せをして、支配人の後についていく。案内されたのは奥の事務室だった。


「座れ」


「は」


来客用のソファに腰を下ろす。支配人は向かいに座り、腕を組んだ。


「お前、最近変わったな」


「それは先ほども言われました」


「客にか。まあいい。俺が言いたいのはそういうことじゃない」


支配人が身を乗り出す。


「お前、以前の借金、半分返したらしいな」


「ええ。給料から少しずつ」


「どうやって。お前の稼ぎで、そんなに返せるわけがない」


レオンは沈黙した。


実のところ、この三ヶ月で三人の売上は急激に伸びていた。以前は底辺を這っていた三人が今ではナンバー1から3を独占している。それだけの客がつき、指名が入るようになったのだ。


「……お客様のおかげです」


「そうか」


支配人は値踏みするような目でレオンを見た。


「まあいい。何をやったか知らんが数字を出してるなら文句はない。ただ、変な商売に手を出してるなら──」


「それはありません」


「即答か」


「以前の私なら、あるいは。しかし今はそのようなことをする理由がありませんので」


「理由ねえ」


支配人が鼻を鳴らす。


「お前、話し方も変わったよな。なんつうか、上品になった」


「恐れ入ります」


「褒めてねえよ」


席を立ち、支配人は窓際に移動した。ブラインドの隙間から、夜の街を見下ろしている。


「いいか、レオン。この商売は信用が全てだ。客に対しても、店に対しても。お前が何かやらかせば、店全体に迷惑がかかる」


「承知しております」


「カイトとシュウにも言っておけ。あいつらも同じだ。何か隠してることがあるなら、今のうちに話せ」


「隠し事など」


「あるだろう」


支配人が振り返り、レオンの目を真っ直ぐに見た。


「お前ら三人、同時に変わりすぎだ。薬を抜いたからって、ここまで別人になるか? 性格も、話し方も、立ち居振る舞いも。まるで中身が入れ替わったみたいだ」


心臓が跳ねた。


しかしレオンは表情を変えなかった。王族として、感情を表に出さぬ訓練は受けてきている。


「お言葉ですが支配人」


「何だ」


「人は変われます。死にかけて、初めて分かることもある」


「……死にかけて、か」


支配人が息を吐く。


「まあいい。とにかく、変なことはするなよ。お前らが稼いでくれるのはありがたいが俺は余計な面倒はごめんだ」


「肝に銘じます」



事務室を出ると、廊下でカイトとシュウが待っていた。


「何を言われた」


「疑われている」


レオンは低い声で告げた。


「我々が変わりすぎていると」


「それはまあ」


シュウが肩を竦める。


「無理もないでしょう。この体の前の持ち主たちは控えめに言っても屑でした。それが突然、礼儀正しく真面目に働き始めたのですから」


「どうする」


カイトの問いに、レオンは首を振った。


「どうしようもない。今更、元の振る舞いに戻ることなどできん。それに」


「それに?」


「支配人が言った通りだ。この商売は信用が全て。我々が真摯に働けば、やがて周囲も認めてくれるだろう」


「楽観的ですね」


「そうでもない。前世でも、父王に何度か言われたことがある。『信頼は一日にして成らず、されど一日にして崩る』と」


「グラムシャハール王国国王陛下のお言葉ですか」


「ああ。当時は聞き流していたが今になって身に染みる」



フロアに戻ると、新しい客が入ってきたところだった。


若い女性の二人組だ。二十代前半、華やかな装いに身を包み、興味深そうに店内を見回している。おそらく初めての来店だろう。


「いらっしゃいませ」


黒服が対応する。


「ご予約のお客様で」


「あ、はい。八木と申します」


「かしこまりました。こちらへどうぞ」


二人が案内されたのは入口近くのテーブルだった。初めての客にはまず雰囲気に慣れてもらうための配慮だ。


「レオン、行くか」


カイトが促す。


「ああ」


三人は揃ってテーブルに向かった。


若い女性たちが息を呑むのが分かる。三人が並んで歩く姿は確かに目を引くものがあった。レオンの気品、カイトの精悍さ、シュウの知性。それぞれが異なる魅力を持ち、しかし不思議な調和を醸し出している。


「初めまして。レオンと申します」


「カイトです」


「シュウです。本日はご来店ありがとうございます」


三人が軽く頭を下げる。


若い女性たちはしばし呆然としていた。


「あの……ホストクラブって、こんな感じなんですか」


「どういう意味でしょうか」


「いや、なんか想像と違って……もっとチャラい感じかと思ってました」


「失礼ながら、我々はチャラいという言葉の意味を」


シュウがわざとらしく眼鏡を持ち上げる。


「完全には理解しておりませんが褒め言葉ではないことは存じております」


女性たちが吹き出した。


「なにそれ、面白い」


「お気に召していただけたなら幸いです」


緊張が解けたのを見計らって、レオンが席に着く。カイトとシュウもそれに続いた。


「今夜はどのようなきっかけでいらっしゃったのですか」


「友達に勧められて。なんか最近、この店が面白いって」


「ありがたいことです。どなたからお聞きになったのですか」


「んー、会社の先輩。三十代の人なんですけど、ここのナンバーワンがすごいって」


「光栄です」


レオンが微笑む。


その笑顔に、若い女性の頬が赤く染まった。



夜は更けていく。


三人は交代で客の相手をしながら、時折互いに目配せを交わした。言葉にしなくとも、通じるものがある。長い年月を共に過ごした絆は世界を跨いでも変わらない。


カイトが席を立ち、カウンターに向かう。水を一杯飲み、息を整える。


「お疲れ様です」


声をかけてきたのは同僚のホストだった。源氏名を「ユウト」という、二十歳そこそこの若者だ。


「ああ」


「カイトさん、本当に変わりましたよね」


「よく言われる」


「前はなんていうか……もっと怖かったですもん。話しかけづらいっていうか」


「そうか」


「今は話しやすいです。なんか、どっしりしてる感じ」


カイトは黙って水を飲んだ。


前の持ち主の記憶では確かに周囲を威嚇するような態度を取っていたようだ。粋がって喧嘩を売り、弱い者には高圧的に振る舞う。そうすることでしか、自分の存在価値を示せなかったのだろう。


哀れな男だと、カイトは思った。


武門の誉れとは弱きを守り強きを挫くことにある。力を振りかざすのではなく、力を以て秩序を守ること。それが侯爵家に生まれた者の責務だった。


「ユウト」


「はい」


「お前、この仕事は長いのか」


「えっと、二年くらいですかね」


「この先、どうするつもりだ」


「どう、って」


ユウトが戸惑った顔をする。


「考えたことないです。とりあえず稼げるから、って感じで」


「そうか」


カイトは空になったグラスを置いた。


「若いうちはそれでもいいかもしれん。しかしいずれは考えるべきだ」


「何をですか」


「自分が何者で、何を成したいのか」


ユウトが目を丸くする。


「カイトさん、そういうの考えるんですね」


「最近、な」


死んで、蘇って、別の世界に来て。


ようやく考えるようになった。自分は何のために生きるのかを。



閉店は午前三時だった。


最後の客を見送り、片付けを終えて、従業員たちが三々五々に帰っていく。


「今日も乙」


「おつかれー」


声を掛け合いながら、ビルの階段を降りていく。


レオン、カイト、シュウの三人は最後に残って事務室の鍵を閉めるのが日課だった。以前の三人なら考えられない真面目さだが今の三人にとっては当然のことだ。


「さて」


エレベーターホールに出ると、カイトが伸びをした。


「今夜も終わったな」


「お疲れ様でした」


シュウが軽く頭を下げる。


「しかしこうして毎晩女性の相手をしていると、ふと思うことがあります」


「何だ」


「我々は前世で、あれほど一人の女性──メリッサに心を奪われていたはずなのに、今はまったく、そのような気持ちにならないということです」


レオンが足を止めた。


「……確かに」


「殿下も、お気づきでしたか」


「ああ。この三ヶ月、何人もの女性と接してきた。中には美しい者も、聡明な者もいた。しかしかつてメリッサに感じたような、理性を失うほどの執着を覚えることは一度もない」


「私もです」


カイトが頷く。


「あの時は彼女のことしか考えられなかった。彼女のためなら何でもできると思っていた。今から思えば、異常なことだ」


「術にかかっていた、と考えるべきでしょうね」


シュウが眼鏡を押し上げる。


「何らかの魔法か薬か、あるいは別の何かか。我々の正常な判断力を奪う術を、彼女は用いていたのだと思います」


「しかし証拠はない」


「ありません。今となっては確かめようもない」


三人は沈黙した。


泡町の夜は静かに更けていく。遠くで救急車のサイレンが聞こえ、酔った男の怒鳴り声がどこかから響いてきた。


「帰るか」


レオンが歩き出す。


三人が暮らしているのはここから徒歩十分ほどのアパートだった。前の持ち主たちが共同で借りていた部屋を、そのまま使っている。狭くて古い建物だが三人で住むには十分な広さがあった。


「しかし殿下」


歩きながら、シュウが言う。


「殿下が本当に気にかけておられるのはメリッサのことではないのでは」


「どういう意味だ」


「セレスティア嬢のことです」


レオンの足が一瞬止まった。


「以前から気になっておりました。殿下は時折、虚空を見つめるような表情をされる。何かを悔いているような、何かを懐かしんでいるような」


「……」


「それは我々が公爵令嬢に対して行った仕打ちを、今もなお悔いておられるからではないですか」


カイトが咳払いをする。


「シュウ、それは」


「いや、いい」


レオンが手を上げて制した。


「シュウの言う通りだ。私はセレスティアのことを忘れられずにいる」


月明かりが狭い路地を照らしていた。


「彼女は本当に素晴らしい女性だった。美しく、聡明で、心優しく。私の婚約者として、将来の王妃として、何の不足もなかった。それなのに私は」


言葉が詰まる。


「私は彼女を虐げた。公衆の面前で罵り、侮辱し、他の女を見せつけた。婚約者として当然の権利を奪い、孤立させ、追い詰めた」


「殿下……」


「断罪されて当然だった。北の塔に幽閉されたのも、病で死んだのも、すべて自業自得だ。しかしそれで彼女の受けた傷が癒えるわけではない」


レオンは空を見上げた。


この世界の空には二つの月はない。一つだけの、白い月が浮かんでいる。グラムシャハール王国で見た夜空とはまったく異なる光景だった。


「もし、もう一度彼女に会えるなら」


「殿下」


「会って、謝りたい。私の行いを詫び、許しを乞いたい。たとえ許されなくとも、せめて言葉にして伝えたい」


「……それは叶わぬ願いですね」


シュウが静かに言った。


「我々とセレスティア嬢はもはや違う世界にいる。会うことも、言葉を交わすこともできない」


「分かっている」


「しかし」


カイトが口を開いた。


「もし、万が一、セレスティア嬢もまたこの世界に転生しているとしたら」


三人の足が止まった。


「何だと」


「いや、考えすぎかもしれん。しかし我々三人が同時に転生したのだ。他にも転生者がいる可能性はゼロではないだろう」


「確かに……」


シュウが顎に手を当てる。


「我々だけが特別だという証拠はない。他にも同じような境遇の者がいるとすれば、それはセレスティア嬢である可能性も」


「しかしどうやって探す」


レオンの問いに、二人は沈黙した。


この広い世界で、一人の人間を探し出すことがどれほど困難か。前世の記憶を持っているとして、その人物がどこにいるのか、どのような姿をしているのか、まったく分からないのだ。


「探偵でも雇いますか」


シュウが冗談めかして言う。


「この世界にはそういう職業があるようですね。人探しを専門にする者が」


「しかし何を手がかりにする。『前世の記憶を持つ女性を探してくれ』とでも言うのか」


「気が狂ったと思われるでしょうね」


三人は苦笑した。


そう、この世界では魔法も転生も、御伽噺の中にしか存在しない。真実を語れば、精神を病んでいると思われるだけだ。



アパートに着いたのは午前四時を回った頃だった。


古びた建物の、二階の角部屋。玄関を開けると、カビの匂いと、かすかな薬品臭が漂ってくる。前の持ち主たちが残した匂いだ。どれだけ掃除しても、なかなか取れない。


「ただいま」


誰にともなく呟き、靴を脱ぐ。


狭いリビングには安物のソファと低いテーブルがある。壁には謎のポスターが貼られ、床には雑誌が散乱している。前の持ち主たちの趣味なのだろうが三人の誰一人として興味を示さなかった。


「腹が減ったな」


カイトがキッチンに向かう。


「何か作るか」


「カイト殿の手料理ですか。それは楽しみです」


「からかうな」


前世では侯爵家の嫡男として、料理などしたことがなかった。しかしこの世界では自分で作るしかない。幸い、この体の前の持ち主が残した記憶には簡単な調理の知識が含まれていた。


「……インスタント麺しかないな」


「それでいい」


レオンがソファに腰を下ろす。


「明日も、いや今日も仕事だ。適当に食べて寝よう」


湯を沸かす音が静かな部屋に響く。


三人の奇妙な共同生活はこうして日々続いていた。

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