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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

山田と境の森

作者: 折田高人

 真っ赤な夕日が大地を目指す。緋色の世界は後どれほどの時間続くのか。

 今は秋。つるべ落としな黄昏時。ラジオからは堅洲で起こった怪奇現象がニュースとして流れている。

 鼻歌交じりに営業車を運転する後輩に、助手席の山田太郎は声を掛けた。

「疲れてないかい、小川君?」

「いやいや。全然疲れてないですよ。まだまだ若いんです、俺」

「ははは……僕も若いはずなんだけどね……」

 羨ましい事だと山田は思う。生き生きとした小川の横顔は非常に整っている。

 紛れもない美男子である小川に比べ、山田の方はというと。前髪がやけに後退し、露わになった額。眼鏡の奥には疲れ切ったような正規の無い瞳が浮かぶ。何とも人生に疲れ切った中年のような雰囲気を醸し出していた。

 年はそれほど離れていないのだが、山田の方が圧倒的に老けて見える。人生の先輩である上司に普通に頭を下げただけなのに、その有様は年下の上司にペコペコする中年社員の悲壮感を醸し出す……それほどまでに、山田の容姿は老成して見えた。

「でも、本当に大丈夫かい? 運転しっぱなしだし、少し休んだ方がいいんじゃないか?」

「大丈夫ですよ。営業の方で先輩に迷惑かけまくったんですから、これくらいはさせて下さい」

「君、一言多いもんねえ」

 丸一日の外回り。場を凍らせるような余計な一言を繰り出してしまう後輩のおかげで、営業中は針の筵だった。

「自分でも注意してるつもりなんですけどね。どうしたものか」

「まあ、そんなに気を落とさずに……落としてないか」

「切り替えの早さが俺の自慢ですからね。まあ、先輩は会社につくまでゆっくりしてください」

 すいすいと車を走らせる小川を見て、山田は若干羨ましさを感じる。物事をネガティブに考えがちな山田にとって、この後輩の底抜けの明るさは非常に眩しく思えた。

 自分も少しは明るく生きるべきではないか。現に今も、この後輩に車の運転を任せきりだ。事故を起こさないかが不安で仕方なく、運転免許を取っていながらなかなか車に手を出せない山田の運転技術は、自動車学校時代から全く上達しておらず、寧ろ錆び付くままに任せている始末であった。

 延々と流れていく森の風景。静かな車内を満たすのは、単調なラジオの声と後輩の鼻歌。心地良い振動に、山田の下に睡魔が忍び寄る。確かに今日の営業は疲れた。小川の言葉に甘え、少し仮眠でも取ろうかと考えたその時だった。

 凄まじい衝撃が山田を襲った。一瞬、何が起こったのか分からなかったが、目の前に広がるエアバックの感触に、車が何かに追突したらしいことが理解できた。

「っつぅ……だ、大丈夫ですか、先輩?」

「小川君の方は?」

「大丈夫です!」

「一体何が……」

「せ、先輩! あれ!」

 ひび割れたフロントガラスの先、沈み行く夕日を背負ってソレはいた。人間を容易く貫きそうな鋭い牙。忌々し気に山田達を睨みつける大きな獣。

「い、猪?」

「あれを轢いてしまったのか……ひ、轢いたんだよね、小川君?」

「は、はい。そのはずですけど……」

 走行する車に衝突したはずのその猪。どう見てもピンピンしている。怪我一つ見られないどころか、自分を跳ね飛ばした鉄の獣に対して敵意をむき出しにし、今にも突撃してきそうな雰囲気だ。

 凍り付く背筋。フラッシュバックする走馬灯。荒ぶる巨猪の特攻を唖然として見つめ続ける山田達。

 轟音が響き渡った。驚いた鳥達が空へと逃げていく。怒り狂う猪の巨体がどおっと倒れ、頭部からは夕日よりも赤い血潮が道路に滴り落ちていく。

 半壊した車内で呆気に取られていた山田達の前に、森の中から二つの影が現れた。赤光を照り返す褐色の肌が艶やかな長身の少女と、純白の髪と肌、真紅の瞳が印象的な小柄な少女だ。

 アルビノの少女は倒れ伏した猪の下に駆け寄ると、その巨躯を小さな腕で掴んで道路の中央から端へと引っていく。

「ったく、手こずらせやがって。にしても、やたらとタフな奴だったな、夜?」

「ああ。まさかこんな物まで取り出す羽目になるとはな」

 褐色の少女の手にしているのは銃だった。猟銃などと言う生易しい物ではない。銃刀法が定められた日本ではまずお目にかかる事のない、対物ライフルであった。

「昼ちゃ~ん! 夜ちゃ~ん!」

 静かな森に響き渡る様な大きな声。それと共に、さらに二人の少女が森の中から現れた。

「どう? 仕留めた……って、うわ!」

「大変だ……!」

 快活そうな様子の少女と、大人しそうな栗毛の少女が中破した車を見て、絶句している。

「ユウ、お前は猪の方を頼む。ついでにコイツもしまっておいてくれ」

 夜、と呼ばれた褐色の少女が、対物ライフルを栗毛の少女に手渡す。快活そうな少女と共に車に近付くと、歪んだドアを力尽くでこじ開け、山田達を車の外へと引き摺り出した。

「大丈夫か?」

「あ、はい。大丈夫です」

「よかった~大事にならなくて」

「アッチの方が大事になりそうです」

 命の恩人の前で、真顔で余計な事を言う小川。その視線は少女達の豊満すぎる胸に注がれていた。

「しかし参ったねえ。こんな山の中で事故るなんて……」

「ウチの車、どうしましょうかね、先輩」

「まあまあ、命あっての物種って言うし、今は助かった事を喜ぼうよ!」

 頭を抱える山田達を、快活そうな少女は元気付けようとする。

「とりあえず、会社に電話を……ってああ!」

「どうしたんだい、小川君」

「俺の携帯が……オシャカに……」

「あっちゃあ……衝突の衝撃でやられたのか……じゃあ、僕が……」

「……先輩?」

「……ごめん小川君。バッテリー切れ」

 がっくりと肩を落とす二人のサラリーマン。

「会社に連絡したいのか? なら、近くに集落がある。そこで電話を借りればいい。悪いが私達の携帯は一般人に使わせる訳にはいかなくてな」

 夜と呼ばれた少女が、横から提案してきた。渡りに船であった。

「車も運んだ方がいいかな?」

「まあ、邪魔になるからな。事故の原因にならんように回収しておけ。警察への連絡は私がしておく。知り合いがいるんでな」

「何から何までありが……うおっ?」

 獲物の下処理が済んだのであろう。栗毛の少女が巻物を広げると、猪の巨躯がその巻物に吸い込まれるかのように消え失せた。続いて対物ライフル。果ては中破した車まで。

 信じられないものを見たと言わんばかりに口をあんぐり開けていると、三度森の中から人影が。

「おい、お前ら。随分と手間取っているみたいだが、ちゃんと野郎は仕留められたのか……って、ん?」

 腰まで流れる濡烏。白磁のような肌。深淵のような黒い瞳。神像を思わせる肉体美。生ける彫刻が如き和装の美女は、山田を目に留めるとアルカイックスマイルを浮かべてこう言った。

「よ、久しぶり」

「……都さん?」

 かつて夢の中で知り合った少女との思ってもいなかった再会であった。


『それは災難だったね』

 古めかしい黒電話の受話器から、上司の溜息が聞こえてくる。

 都に案内された集落、多胡部の民家。山田はそこでこれまでの経緯を上司に連絡していた。

「申し訳ありません、浦野さん」

『いや、無事なら良い。何せそこは境の森だからね。獣害よりも理不尽な目に会う可能性もある訳だから』

「はあ……」

『それで、今日は帰りの足が用意できないからそこで一泊したいと言うことだったね。無理して帰ってくることはないさ。安全にそこを離れる目処が立つまで、しばし休みたまえ。上への許可は私が取っておく』

「有難うございます」

『しかし、君が武藤の末姫様と知り合いとはねえ』

「私もそんなに凄い方だとは知らなかったですよ」

『武藤の殿様がこの地にやってこなければ、堅洲は廃れたままだって聞くからね。そのコネは大事にした方がいい』

「ははは……」

『うーむ。しかし多胡部か……武藤の末姫様もそこにいることだし、少し頼まれごとを聞いてはくれないか?』

「何でしょう?」

『安食君のことなんだよ』

 安食は山田の同僚である。いつもムスッとした顔を浮かべており、人付き合いの悪い男であった。

『彼、ここ三日くらい姿を見せてないだろう? 無断欠勤って奴だ。電話も通じなくてね。何かあったんじゃないかと心配しているんだ』

「確かに見てませんでしたね。余り交流が無かったので、そう言えば、という感じですが」

『そこでだ。可能ならば彼の様子を見てきて欲しいんだよ。安食君の住居は多胡部からそう遠くないからね』

「分かりました。夜が明けたら早速……」

『それと注意しておいてくれ。決して君達だけでは安食君の住居には近づかない事だ。ここは堅洲だ。音信不通になった人間が真っ当な事件に巻き込まれているという保証もない。必ず、武藤の末姫様に協力を仰げ。断られたならば、この件には関わらない方がいいかもしれん』


「ふう……」

 上司との会話を頭の中で反芻する。メモ用紙に要点を書き終えたところで、料理を盆に乗せた女性が現れた。

「電話、繋がりましたか~?」

 間延びした声で訪ねてくる女性に会釈で答える。彼女は上鳥黒美。ここの家主である。ややぽっちゃりとした体形。美人と言うよりも可愛いという印象が強い、膨らんだ河豚を思わせる愛嬌を感じさせる顔つき。一緒に居て心が落ち着くタイプの女性であった。

「さあさ、今日も腕によりをかけてご飯を作ったから、いっぱい食べてってねえ~」

「有難うございます。急に押しかけて来たのに、食事まで……」

「いいのいいの。ご飯は皆で食べた方が美味しいからね~」

 彼女と共に客間に入ると、都達は各々くつろいでいる様子だった。

 山田は目を丸くする。都は特に変わりがないのだが、その他の四人の姿が問題だった。

 快活そうな少女の朝顔。生意気そうな白子の少女昼顔。大人しそうな栗毛の少女夕顔。そして鍛えられた褐色の肉体を持つ夜顔。

 朝顔曰くガオガオ団なるこの面々。先程の事故現場では普通の少女に見えたのだが、今の彼女達は違っていた。

 牛の角。牛の耳。牛の尻尾が生えていた。どことなく、鬼を思わせる姿である。

「えーと……小川君、どうなってるの?」

 困惑した表情で後輩に尋ねるが。

「うしちちうしちち……おっぱいおっぱい……」

 興奮した様子で少女達の豊満すぎる胸をガン見中だった。

「こ、こら小川君! 女性に対して失礼な……」

「はっ! すみません先輩……なんか綺麗だな、いい匂いするなって思ってたら、急に意識が朦朧してきてムラムラと……」

「アウトだよアウト! セクハラはダメだって!」

 焦りながら注意する山田に対し、都が楽しげにクククと笑う。

「何、そいつをそう責めてやるな。そうなるのも仕方ねーんだ」

「ど、どう言う事です?」

「夢の中で言ったよな? 俺はリリスの末裔だってさ」

「は、はあ……」

「リリムはな、人間の男を食い物にしねえと繁殖できねえんだよ」

「食い物って、そんな……」

「文字通りの食い物だ。子を残すため、あるいは失った魔力を補充するため……男の精を死ぬまで搾り取るんだ。比喩なんかじゃなく、マジで死ぬまで」

 真っ赤になった山田の顔が一瞬で青ざめる。

「まあ、安心しろ。雅……俺の双子の兄のおかげで堅洲じゃ魔力にゃ困らんからな。魔力的には常時満腹状態だから子作り目的以外で狩りをしようなんてやつはまずいない。で、だ」

 都が身を乗り出す。無機質な美貌に楽し気な声。

「リリムが人間の男を捕食するにあたって、最も厄介な敵ってのは何だと思う?」

「え、えーと? 神父とか牧師とか?」

「女だよ、女。人間の女だ。同種族のつがいなんだから魅力が勝って当然さ。異種族に欲情できる猛者なんてそういやしない。生半可な容姿の良さじゃ狙いをつけてた獲物を人間の女どもに横から掻っ攫われるんだ。だからだよ。リリスの末裔は人間の女よりも魅力的な容姿を得るべく長い時間をかけて進化してきたんだ」

「食事のために美しく進化って……なんかハナカマキリみたいですね」

「こら、小川君!」

 小川が放った不躾な一言に山田は慌てるが、都の方は「違いない」と言ってケラケラ笑っていた。

「それでだ。リリスの末裔……純潔の魔女は他種族の雌に血を分けて魔女化させることができるんだがな。この混血の魔女……ラミアっていうのは元となった生き物とリリムの姿が混成した存在になるんだ。そいつらみたいにな」

「じゃあガオガオ団の皆は牛から魔女になったって訳か」

「そうそう。名付けるならば牛ラミアってところか?」

「何か特撮の怪人みたいな名称だなあ」

「まあ、要するにそいつらは男を引き付けるリリムの美貌を色濃く受け継いでいるって訳だ。欲情したところで何ら不思議じゃない。寧ろ欲情しなかった方が健康な男としては問題があるかもしれん。病院にかかる事をお勧めするぜ」

「いやしかし、やっぱり失礼では?」

「西洋じゃ『魔女がいくら美しい姿をしていてもそれは偽り。本当の姿は極めて醜いから騙されるな』なんて伝えられてる。そんな自己暗示賭けなきゃ耐えられない程なんだぜ、リリムの美貌ってのは。人間を捕食するためだけに磨き抜かれた進化の賜物、甘く見んなよ?」

「はあ……」

 後輩が醜態をさらした理由自体は理解できた。

 しかし。だとすれば。山田の頭に浮かんだ疑問に対して、都は察したように苦笑する。

「おい山田。お前、俺の話が本当ならばどうしてそいつが俺に発情しないのか不思議に思ってんだろ?」

「え、いやそれは」

「あ、俺は気になります。何か都ちゃんに対してはそんな気持ちになれないんですよね」

 都は苦笑いしたまま頬を掻く。

「まあ、なんだ。嫌味に聞こえるだろうが俺は綺麗に生まれ過ぎたって事だな。美形すぎて絵画や彫刻を見ているようで、まるで肉欲が喚起されないんだと」

「あー。確かに。いくら綺麗でも、マネキンに欲情できる程俺は上級者じゃないなあ」

「だろ? 長い事生きてきたけどさ。俺を抱きたいなんて奴、真っ当な美女を食い飽きた道楽者か人形狂い、ゲテモノ好きくらいしかいなかったしな。まあ、そんな訳で俺はリリムとして見りゃ獲物を狩れない落ちこぼれって訳だ」

「卑下しなくてもいいんじゃない?」

 都は首を横に振る。

「卑下なんかじゃねえよ。俺がリリムとしては出来損ないなのは紛れもない事実だ。それは変わらん。容姿以外にも問題あるしな」

「口調かい? 正直、君の声や容姿には不釣り合いもいい所だよ?」

「言うねえ。だが外れだ。リリムってのは先天的に魔力を扱う術を得ているんだが……俺はそれが不完全でな。外から取り入れた自力で魔力を外に出せないんだ」

「えっと……?」

「火球を打ち出したり疫病を流行らせたり、天候を変えるなんて真似ができねえのよ。肉体内で魔力を消費することしかできないから、肉体を強化してぶん殴る程度のことしかできん」

「ああ……成程……」

 都と知り合った夢の中。山田は迫りくるゾンビを剛腕でねじ伏せていた彼女の姿を思い出す。

「自力で餌を獲る事もできず、魔術もろくに使えない。まさにポンコツだ。堅洲以外で生まれてりゃ餓死してたね、俺」

「その割にはアッケラカンとしてるなあ」

 小川の意見には山田も同意だった。自分を卑下しているのかとも思ったが、都の話す姿は楽し気だった。

「まあ、魔女として生きたいってんなら腐っていただろうがな。生憎、俺は……ていうか、俺ら姉妹は叔父上の生き様に憧れていてな」

「叔父上というと……武藤の殿様、ですか?」

「そうそう。叔父上、すっげー強い武士でさ。人間なのに人に仇なす無数の怪異を実力でねじ伏せてきたんだ。それだけじゃねえ。人間も出来ていてさ。綺麗ごとを綺麗ごとと認めた上で貫こうっていう芯の強さもあって……とにかくすげーんだ!」

 瞳を輝かせて誇らしげに語る都。若干興奮した様子を見るに、心の底から叔父のことを慕っているらしい。

「だからさ、俺は武士として生きようって決めた訳。幸い、そっちの才能には満ち溢れていてさ、姉上からは叔父上の生き写しなんて褒められてんだぜ? 望む才能に恵まれた上、条件付きとはいえ魔術まで使えるんだ。自分を称賛こそすれ、卑下なんてできるかよ」

 成程、成りたい自分に適した才能を持っていたが故の余裕だったのだ。都のとって魔女としての才能は端から必要ないのである。

「……ところで、魔女ってのは本当に美人揃いなのかい? むしゃぶりつきたくなるほどパラダイス」

「リリムはな。ラミアはちょい違う。正確に言えば人ラミアだが」

「人ラミア……人間の魔女?」

「そ。元が牛だった朝顔らみたいに本来の姿が魔女からかけ離れているほど、魔女化すると容姿にリリムの特徴がよく出るんだ。逆に人ラミアは、俺らの容姿が元々人間の女に似ている事もあってか、魔女になっても変化が少ないんだよ。若干肌艶が良くなる程度かね? まあ、魔術を使えるようになれば容姿なんていくらでも弄れるだろうから、あんまり当てにはならないがな」

「やっぱり美人ばっかりじゃないか! ひゃっほうこいつは滾ってきた!」

 延々と下世話な魔女トークに勤しむ小川。都も楽しんでいるようなので中断させるのも悪いと思ったが、山田は二人の話を遮る形で上司からの依頼を都に伝えてみた。

 都は二つ返事で快諾し、再び小川との会話に没頭するのだった。


「それじゃ、ここに車を置いておくね。業者さんが来たら対応よろしく、黒美ちゃん」

「はいは~い」

 夕顔の広げた巻物から、中破した営業車が取り出される。物理法則を無視した魔術の妙技に感嘆しつつ、山田は黒美に頭を下げた。

「それじゃあ、お願いします」

「まかせといてね~」

 ほんわかした彼女の笑顔に和みつつも、山田は都に向き直った。

「それで都さん。ここからどうやって安食君の家に?」

「流石に徒歩は勘弁した貰いたいよ、都ちゃん」

「安心しろ。足はある。俺達の使っているバンを出す」

「おお、近代的だ。都ちゃん、車持ってるんだね」

「小川……お前、俺達の事なんだと思ってやがる」

「ああ、いや……何と言うか、夜ちゃん以外は和装だし、牛車の方が似合いそうだなって……」

 米国製のアクション映画に登場するキャラクターの如く硝煙が似合いそうな装いの夜顔に比べ、残り三人と都は時代劇の撮影をしていると説明された方が納得できる出立ちであった。

「……まあ、言ってることは何となく理解できるから許してやる。実際、バンは夜の持ち物だしな」

「あ、やっぱり。なんか都ちゃん、一昔前の美人さんって感じだから自動車とかに合わないし」

「おーおー偏見か? 確かに四駆は持ってないが、単車は結構乗り回してんぞ?」

「着物じゃ乗り辛くない?」

「そん時は和服なんざ着ねえっての」

「……随分と仲いいね、小川君」

 山田は怪訝そうな顔をする。別に嫉妬などではない。この残念なイケメンは一言多いのが原因で女性からの怒りを買い、そのまま疎遠になる事が多いのだ。

 余計な一言。それにはセクハラまがいの言葉も含まれるのだが。

「都ちゃんって話しやすいって言いますか……女の人の怒られずにこれだけ会話を続けられたの初めてです。まあ、何と言うか女の人と話している気になれないのも原因ですけど」

 成程、と山田は納得する。昨日も小川が言っていた通り、小川は都に性的な魅力を感じていない。故にセクハラまがいの言葉も出てこないのだろう。加えて、都は繊細な見た目とは正反対の豪快な性格である。小川の失言を聞き流すどころか、むしろ楽しんでいる感じすらあった。

「ところで都ちゃん。君達の使っているバンってどんな車?」

「ZNKのEVだ」

「え? マジ?」

 驚いた様子の小川に、山田は首を傾げる。

「小川君、何か問題でもあるのかい?」

「問題は無いですけど、そりゃ驚きますよ。だってZNKのEVですよ?」

「それがどうしたんだい?」

「先輩知らないんですか?」

「う~ん。僕は車の事には疎くてね……都さん達は堅洲の住人だし、PTEの車を使うのは珍しくないんじゃないかい?」

 ZNKとは、如月市でもっとも大きな会社であるPTE重工の展開している自動車のシリーズである。

 PTE重工は全国的に有名な国内メーカーと比べると華はないものの、安価で堅実な車を作ると評価されていた。

 ZNKシリーズはタフさと安価さから国内よりも発展途上国での知名度が高く、確かな実績もある。国内では有名なメーカーに押されて殆ど見ないとはいえ、品質面においても優秀なZNKシリーズは自家用車の選択肢としては驚くようなものではない。件の安食もZNKのユーザーだったはず、と山田は記憶を思い返していた。

「先輩。PTEって、いつから電気自動車を開発しているか分かります?」

「近頃、環境への配慮とかが重要視されるようになったし、結構日は浅いのかな?」

「外れです。エコだの何だの叫ばれるはるか前、それこそ昭和に開業してから今日に至るまで研究を続けているんですよ」

「そんなに? だったら、なおさらZNKの電気自動車なんて珍しくないんじゃ……」

 小川は首を振って否定する。

「PTEが長年EVを開発していたってのは事実です。長年、色んなモーターショーにコンセプトカーを展示してますからね。ですが、PTEは今まで一度たりとも電気自動車を商品化した事がないんですよ」

「へ?」

「環境保全が掲げられて以降、世界中でEVへの移行が試みられた際、PTEは自国のメーカーからも他国のメーカーからも強大な商売敵になると見られていたのに、です」

「何でまた? 電気自動車に一日の長があるなら、今が売り時なんじゃないかな?」

「国内の有識者達も不思議がってましたよ。見事な性能のコンセプトカーは出すのに、商品化に関しては音沙汰無しなんですから。それを不思議に思ったある記者がPTE代表の摩周氏に質問した事もありました」

「代表は何て答えたんだい?」

「『我々が長年電気自動車を研究しているのは、昨今他のメーカーが掲げるようになった環境への配慮などと言った高尚な目的ではなく、ひどく俗で個人的な問題の解決のためである。我々の抱える問題が何なのかは口をつぐませてもらうが、その問題が解決するまで我々はEV産業に参加するつもりはない』とのことで」

 それで驚いていたのか、と山田は納得した。市場に出回っていないPTE製の電気自動車を如何にして手に入れたのだろうか。そのような山田の疑問を見て取ったのだろう、都が口を開く。

「PTEの代表とは知り合いでな。使い心地を試して欲しいってんで試作車を借り受けたんだ」

「レンタルか~」

「そ。じゃあ夕顔、お披露目してやれ」

「了解だよ、みゃーちゃん」

 広げられた巻物から、車の姿が顕現する。都はそれを得意げに山田に見せつけた。

「じゃ~ん!」

「あ、あの……都ちゃん?」

「どうだ二人とも! スゲエだろ! レア物だぜ、レア物!」

 巻物から取り出されたその車は、山田達が今まで見た事のないような外観をしていた。

 歪み、凹み、拉げ……獣がつけたと思しき爪痕すら見て取れる。どこもかしこも傷だらけ。もはや、元の形がいかなるものだったのか判断がつかないまでに崩れ果てていた。

「都さん……これ借り物って……いいんですかこんなにボロボロにしちゃって……」

「問題ない」

 夜顔の涼し気な声が割り込んで来る。おそらく魔術によるものだろう。事故現場で目撃した時と同じように、今のガオガオ団の面々は牛の角や尻尾を隠して人間を装っていた。

「PTEが欲しがっているのはこの車の耐久性のデータでな。どれ程の蛮用に耐えうるのか調べるのが借り受けた私達の務めだ」

「そうそう! だからこれは事故ったとかじゃなく、あえてボロボロになるように運転してただけ! さあ、乗った乗った!」

 朝顔の声に促されるように、小川は歪んだドアに手をかける。以外にも、引っかかる事無くスムーズに開いた。

「あ、凄いですよ先輩!」

 小川に促されて車内を覗いてみると、壊滅的な外観からは予想もつかない程の整った環境が山田を出迎えた。座席に腰を落ち着けると、自分達が使用していた営業車とは比べ物にならない程の上等な座り心地。

 一同が乗り込むと、夜顔の運転で車が動き出す。静かで、そして力強い動き。そうでありながら、社内に伝わる振動は眠気を誘う程度にごく僅か。

 ぬかるんだ農道をものともせずに進む、スクラップのような外観のバンに、黒美は「気を付けてってねえ~」と姿が見えなくなるまで手を振るのであった。


 陽気な鼻歌が車内を満たしていた。口ずさんでいるのは運転席の夜顔だ。不愛想な容姿には不釣り合いなくらい明るい調べを奏でながら、リラックスした様子で運転に集中している。

 車窓の外に流れていくのは木、木、木……延々と続く緑の海の中、チラリと猪が姿を見せた。軽快に動く歪な車に驚いたのだろうか、すぐさま森の中へと引き返していく。

「真っ当な猪だったようだな。ほとんどの猪は人里には立ち入らないっていうタブーをちゃんと破らず生きている。全部が全部、あんな猪ばかりだったら苦労しないんだが……」

 そう言って都は肩を竦めた。

「それにしても、今年は暴れ猪が多いねえ。いつもなら夏の内に駆除しておけば、秋は獣害が随分と落ち着くんだけど……」

「今年はって……都ちゃん達、毎年猪の駆除をやってるのか?」

「まあな。この森は武藤の持ち物だから、ほったらかしにする訳にもいかないんでね」

「え? そなの?」

 ポカンとした表情で昼顔が声を上げる。

「昼ちゃん、何で君が驚いてるの?」

「だって、初耳だし……境の森の近くで暮らしている連中を顔見知りだから手助けしているものとばかり……」

「私とヒルは堅洲に住み着いてから日が浅くてな。そこら辺の事情には疎いんだ」

 運転席から夜顔が答える。

「武藤家って、大地主なんだな……島一つ所有しているってのは聞いたけど、堅洲にも土地を持っているとはね」

「まあ、森に住み着いてる連中に対しては基本的には干渉しないようにしているんだけどな。かと言って完全にほったらかしにするとタブーを破って悪さする連中も出てくる訳で。定期的な見回りは欠かせないって訳」

「ほんと、この森を作り上げるのには時間が掛ったよね。必要なことだったと言ってもさ」

「必要だった、と言うと?」

「あ~。話すと長くなるんだが、聞きたいか?」

「あたしは聞きたいぞ? なんでこんなクソ面倒な狩りをするようになったのか気になるし」

「私も同感だ。当事者になった訳だし、お前達がわざわざこの森を育てた理由に興味が有る」

 昼顔と夜顔の言葉に、小川も頷いた。女好きなせいか、それとも本気で怪異に関わる話を聞きたいのか……どうにも、都側に引っ張られつつある。人の領域から外れた知識は、余り追い求めない方がいいと思う山田だった。

「堅洲ってさ、今はこんなにも自然にあふれているけどさ、俺が生まれた時には滅茶苦茶荒れ果てていたんだよ」

「『犬棲まず』……でしたっけ?」

「お、詳しいな山田」

「堅洲への赴任が決まった際に下調べをしましたからね。ほら、堅洲って全国的に……」

 山田は口をつぐむ。全国的に有名なホラースポット。それも悪い意味で有名な。そんな町の外の評価を告げるのは、堅洲民である都達の前でははばかられた。

「何ですか先輩、その『犬棲まず』って」

「文字通り、野犬も棲みつかない程に荒れた土地って意味だ。不毛の地に不毛の海。飢餓から逃れるための食人行為も住人達の間じゃ珍しくなかったくらいにな」

「マジでか……今の堅洲からはとても想像できないな。なあ都ちゃん、何が原因だったんだ? ここまで自然が回復したって事は、土地の条件が悪かったとは思えないんだけど」

 都はかつての堅洲が荒れ果てていた理由を語りだす。

 原因となったのは魔樹であった。読んで字のごとく、魔族の樹。

 魔族とは魔力を糧に生きる存在の総称である。寿命もなく老いることもない存在だが、一定量以上の魔力……生体エネルギーが存在しない場所では生きていけないのが特徴だ。魔樹とはその名の通り、魔力を吸収して生きている樹木であった。

 植物が魔力を生み、鉱物がそれを留める。それが自然のサイクルである。にも拘らず、魔力を生み出すのではなく消費する魔樹は、植物本来の在り方とは矛盾した存在だ。

「魔女も魔族の括りって訳かい?」

「ああ。中でも俺らリリムってのは基本的には大食らいでな。高濃度の魔力が無いと生きていけないんだが……まあ、それはいい。要するに魔樹ってのは土地の生命力を吸収しなければ存在できない植物なんだ」

「ソイツが土地が荒れるまで生命力を吸い尽くしたって訳か……一本だけでそんな事が出来るなんて、おっそろしい樹もあったもんだ」

「流石に一本や二本じゃこうはならないさ。この堅洲には、それこそ数えるのも馬鹿々々しいほどの魔樹が生えていた形跡があったんだ。大漁の種が埋められていたんだよ。しかも、明らかに人為的にな」

「バッカじゃねーかソイツ? なあミャーコ、何だってソイツらそんな自殺行為に走ったんだ?」

 昼顔の言葉に、小川も頷いている。しかし、運転席からの声はそうなった経緯を理解できているようだった。

「要は魔樹がもたらす恩恵が大きかったからこそ、人の手で育てていたという事だろう?」

「当たり。その魔樹は非時香果の変種でな。本来常世にしか育たなかったそれが、どういう訳か現世での適性を得たものだった」

「トキジクノカクノミ……? すまんミヤコ。海外暮らしが長くて日本の植物には詳しくないんだ。どんな植物なんだ?」

 夜顔の問いの答えたのは山田だった。

「非時香果……日本書紀では橘とも伝えられている植物ですね。不老不死をもたらす霊薬とありましたが……」

「その通り。コイツの実は食った奴の寿命を延ばし、若返らせるんだ。食い続けてさえいれば老いることも病むことも無い。土地の生命力を犠牲にするだけの価値があったんだろうな。だが、結局は魔樹の制御に失敗した。自然の法則に外れた魔樹を大量に植林したせいで、生命のサイクルが崩れたんだよ」

「でもさ、都ちゃん。いくらなんでも、自分達では管理できない程の量を植えるものかね?」

「だよな。トキジクノナンチャラがどんな植物かも分かっていないのに植えるなんてことはなかったんだろ? 育て方が分かっていたならそんな無茶するか?」

 昼顔の疑問に、鼻歌が止む。

「……成程な」

「夜ちゃん、何か分かったのかい?」

「ミヤコ。この地には魔王がいたんだろう? ミヤビよりも前にだ」

「えっ? マジで?」

 昼顔は驚愕した表情を都に向けた。

「魔女の王は植物の化身だ。普段、動物が外部から蓄えることしかできない魔力を自ら生み出し、大地を満たす。魔王ありきの強引な育成方法だからこそ、それだけの量の魔樹を自然を壊さずに維持できたんだ」

「魔王って、そんなにポンポンと生まれないんだろ? 証拠とかあんの?」

「母上が堅洲にやってきたのはな。過去に世界を旅していた際に中国で知り合った魔王に会うためだったんだ。風の噂で日本に渡来したって聞いていたんで、いい機会だから挨拶しておこうって軽い感じではあったらしい。母上は老いぬ人々が住まう仙境があると聞いて、そこに件の魔王がいると確信して堅洲の地に赴いたんだが……」

「辿りついた場所は『犬棲まず』って訳か」

「ああ。何らかの理由で魔王が堅洲を去ったらしい。当然、魔王の魔力ありきで育てられていた魔樹が魔力不足で土地の魔力を吸い尽くし……『犬棲まず』のいっちょ上がりって訳だ」

「ミャービよりも前の魔王ねえ……魔王って不死身だし、当然今も生きてるんだろ? どんな奴だったのかな?」

 過去の魔王に思いを馳せる昼顔を前に、都は話を本題へと切り替えた。

 不毛の地と化して長い時が経った堅洲の地に、流れ着いた者達がいた。それが、堅洲武藤家の祖である四人の武士であった。

 折しも戦国の世。あちらこちらできな臭い噂が煙を立て始めた頃だった。

 武藤家の当主であった武藤兼重は、その善良さと武勇から多くの民に慕われていたのだが、いさかか理想主義的な面があった。いかに人に好かれようとも、いかに一騎当千の武勇を誇ろうとも、それが政治の世界で通用する訳ではない。もっと奸智に長け、現実的な当主でなければ、国を守っていくのは難しいと考えた重臣達は、兼重の一つ下の弟を新たな当主に据えようと画策していたのだった。

 その目論見は実行する前に日の下に暴かれた。しかし、兼重は彼らを罰することはなかった。それどころか、自らの理想に民を巻き込み不幸にするのは忍びないと自ら当首の座を弟に譲り、自らは国を割る火種にならぬように出奔したのである。一人で消えようとしていた兼重だったが、血の繋がりの有り無しに関わらず、彼を慕っていた三人の弟達の目は誤魔化せず……かくして、様々な土地を人助けをしつつ巡りながら、最後に辿り着いたのが人々が飢えに苦しむ堅洲であったのだ。

「叔父上達がこの地に赴いた時、住人達は飢餓以外の新たな困難に頭を抱えていた」

「踏んだり蹴ったりだな。何があったんだ?」

「鬼だよ。外界からやってきた牛鬼が、堅洲の地をうろついていた。自分達が生きたまま食われるんじゃないかと住民達は怯えていたんだ」

「ん?」

 何かを察したかのような昼顔。

「なあミャーコ。その牛鬼って……」

「まあ、お前なら気付くよな。そうだよ、母上が日本で調伏して連れ回していたお前の先輩方だ」

「あ~。黄泉の奴、このタイミングで堅洲に到着してたのか……」

「当たり前だろ? 叔父上達と母上が顔を合わせなければ、俺は生まれてないんだからな」

「そりゃそうだけどさ」

 都の母である黄泉との邂逅。それによって、兼重は堅洲の住人達の懸念が無用な物であると悟り安堵する。それと同時に、堅洲の地を蝕む魔樹の種について詳しい知識を得ていた黄泉の博識さを見込み、堅洲の再生に力を貸してくれないかと助力を頼み込んだのだ。

 残念ながら、それは簡単にはいかないことが分かった。生命力を甦らせるために植物を植えようにも、生み出された魔力はトキジクの種によって奪われ、大地に行き渡らない。堅洲を再生させるには、この荒れ果てた大地の中から全てのトキジクの種を取り除くか……あるいは、魔王を再びこの地に据え、トキジクの種が吸収するよりも多くの魔力を供給し続けるかのどちらかだった。

「武藤の御殿様は後者を選んだって訳か。昼ちゃんの言う分には魔王って簡単に生まれないらしいけど、そんなに珍しいものなのかい?」

「珍しいなんてそんな生易しいレベルじゃない。女しか生まれない魔女にとって魔王ってのは文字通りのイレギュラーな存在なんだ。八千年以上生きてる母上ですら、堅洲に住み着くまで生涯の殆どを世界中の旅に費やしておきながら、出会えた魔王は中国で知り合った一人だけ。俺だって雅以外の魔王は車輪党のアイツくらいしか知らない。会った事はないが夜顔の射撃の師匠もそうだっけか。要するにだ。世界の殆どの魔女にとって魔王は伝説上の産物としてしか見られていない。それくらいに希少な存在なんだ」

「八千年で確認できているのが四人だけって、分が悪いってもんじゃないな。でも、御殿様はその賭けに勝ったんだろう? それも、その身を犠牲にしてまで」

「正解だ。魔女との間に子を成すってのは生命エネルギーを全て奪われるってこと……男にとっては確定された死だってのに、叔父上とその弟達は母上の忠告を受け取ったうえで飢える堅洲の民のためにその命を捧げたんだ。結果、順番が叔父上に回る前に魔王とオマケの俺が生まれたって訳だな」

 山田はようやく得心がいった。堅洲の住民達が武藤家に向ける崇拝にも似た尊敬の念。すぐさま堅洲を離れることができたにも拘らず、飢餓に苦しむ見ず知らずの住民達のために我が身を犠牲にしてまで『犬棲まず』を豊かな土地へと変貌させてくれたのだから、感謝してもしきれないのだろう。

 待望の魔王の登場で、堅洲は目に見えて豊かになっていった。堅洲を荒廃させた原因である魔樹も、雅の生み出した魔力によって芽吹くようになったおかげで、見つけ出して引き抜くのも容易になった。

 日に日に事態は改善していったが、世は戦国の真っただ中。これまで見向きもされなかった堅洲だったが、豊かな地になった途端にこの土地の富を我が物にしようとする外部の野心家が現れ始めた。

 そこで、堅洲と外の境に防波堤として設けられたのがこの森であった。

 魔王の魔力を求めてやってきた怪異達に、人里に踏み入らないことと悪意ある部外者を追い出すことを条件に自由な居住を許したのだ。

 結果、堅洲は外部からの侵略には殆ど晒されてこなかった。日の本が統一されてからは防波堤の役割を終えたが、この森おかげで堅洲が外界の暴力に怯えずに済んだという事実は消えはしない。

「堅洲の守護者となってくれた怪異達に報いるため、武藤家はこの森を守り続ける必要があるって訳だな」

「成程な~」

 昼顔は真っ赤な目を丸くして何度も頷く。

「でも、森がここまで大きくなるなんて思ってもいなかったよね~。懐かしいな~。鳥が運んできた種を探し出して苗木にして、ここまで運んで来てさ。木がある程度生え揃って更新を実生に任せるようになるまで随分と時間掛ったよね~」

「それはいいんだが……些か大きくなりすぎたな。それで問題も出ているし」

「昨日のどでかい猪かい? それとも、何か困ったことが他にも?」

 都は首肯する。

「植物が魔力を生むって事はさっきも話しただろ? それに加えて魔王の魔力のダブルパンチだ。周辺の魔力が濃密すぎて個人の魔力が紛れてしまうから、問題を起こした怪異を魔力で追えないんだよ。なまじ森が広いせいで、碌でもないことを考える連中の絶好の隠れ家になっちまうんだ」

「そう考えると、森が豊かだというのにわざわざ人里に降りてきてまで害を振りまく暴れ猪連中はまだ対処しやすいと言うことか……と、見えてきたな。ヤマダ殿、あの家で間違いないか?」

 夜顔の示す先、木々に囲まれるようにして赤い屋根の小さな一軒家が建っていた。


 都達は木漏れ日に照らされた白い壁を見上げて山田に問うた。 

「ここであってるんだよな?」

「表札、見当たらないねえ」

 朝顔は困惑の声を上げる。この小さな建物を安食の住居と示すものが見当たらないように思えたのだ。

 しかし、山田達は間違いなくここが分かっていた。

「間違いなくここだよ、都ちゃん」

「何で分かるんだ?」

「車ですよ、都さん。ほら、そこの」

 山田が指差す先に留まっていたのは、真っ赤な軽自動車だった。正面から見ると、どことなく蛙の顔に見える丸っこいフォルムに夜顔の目が輝く。

「ZNK2004だな。海外に比べてPTEの知名度が低い日本でも普及した傑作車だ。最新作のZNK2014が出ている現在でも愛好者が多いと聞く」

「子供の頃にCMで何度も見たよ。夢の中から語り掛けてくるような、やけに耳に残るメロディだったっけ」

「で、ソイツは安食って奴が乗ってた車か?」

「ええ。間違いありません。赤い車を使っているのって、我が社でも数少ないから印象に残ってましてね」

 そう言って、山田は呼び鈴を鳴らした。

「安食君? 居るかい? 山田です!」

 返ってくるのは沈黙ばかり。どうしたものかと悩む山田の横から、小川が扉に手をかける。

「意外と開いていたりして……って、そんな事無いか」

「しっかり施錠されているって事は、留守なのかな?」

「でも、安食は音信不通なんですよね? このまま帰って留守でした~なんて報告していいものなんでしょうか?」

「家の中で倒れている可能性も無きにあらず、だしねえ」

「でしょう? やっぱり中を調べた方がよさそうですよ」

 山田は頷く。余り交流の無かった相手だと言っても、留守を理由にここで帰って後日遺体で発見される等した場合、寝覚めが悪くなるのは目に見えていた。

「……とは言ってもねえ。どうやって中に入ろうか?」

「他の出入り口、無いですかね?」

 家への侵入に四苦八苦しだした山田達を見て、都が助け舟を出してきた。

「鍵を開ければいいんだな?」

「あ、あの……流石に腕力で扉を吹き飛ばすのはどうかと……」

 引きつった笑みを浮かべる山田に、都は心外と言わんばかりの眼を向けた。

「お前、俺の事を救いようのない脳筋だと思ってないか? もっとスマートに解決できるっつの。夕顔、頼む」

「任されたよ、みゃーちゃん」

 そう言って栗毛の少女が扉の前に立つ。鍵穴に当てられた手が、山田にはぼんやりと光ったように見えた。

 ガチャリ。軽い音を立てて鍵が開く。

「それも魔術かい? 便利だなあ」

 小川は感心した様子で扉を開ける。

 玄関口には明かりが灯っていなかった。山田がもう一言、大きな声で安食を呼ぶが、その答えは静寂によって掻き消された。

「安食君、お邪魔するよ?」

「お宅はいけ~ん」

 それほど広くない部屋を、小川と共に一つずつ回る。生活臭はあるのだが、人影は見当たらない。

 一番奥の部屋を開けた時、山田達の眼に思ってもみないものが飛び込んできた。

 山田を射る赤い視線。真っ赤なペンで書かれたと思しき大小様々な眼のマーク。それがそこかしこから山田達を見下ろしていた。

「な、なんだこれ……」

 呆気に取られている山田達を余所に、都達は慣れた様子で部屋の中を物色し始める。この程度で驚くようでは堅洲ではやっていけないと言わんばかりの冷静さだ。

「あ、これ……」

 机の上に広げられた分厚い本を調べていた夕顔が小さく呟く。

「夕ちゃん。その本、どうかしたのか?」

 山田よりも先に再起動を果たした小川が開かれたページを覗き込む。そこにはこのような文章が踊っていた。


『願い叶える赤き瞳、亡骸を求める赤き瞳。彼の者より恩恵を賜りたくば、以下のものを用意せよ。赤き瞳の一族を象りし像と仮面。生贄たる畜生と清められた短剣、そして血を受け止めるための器。月明かりを求めよ。魔象はそれを欲する……』


「何、この本? 生贄とか何とか、物騒な事が掛かれてるんだけど?」

「えっと……『異世界との契約』? 聞いた事のない魔導書だ……訳とか書いてないし、日本製なのかな?」

 興味深そうにページを捲りだした夕顔を余所に、都達は示し合わせたように机を探り始めた。

「都さん、何か気になる物でもあったんですか?」

「まあな。魔導書がある上に魔術的な痕跡が残されてるとしたら、安食って奴は魔術師の可能性が高い。魔術師連中ってのは記録魔が多くてな。大抵は日記をつけてるもんなんだが……ビンゴ!」

 都は躊躇なく、同僚の日記を紐解く。他人のプライベートを覗く行為。普段なら山田も注意したのだろうが、赤い瞳で埋め尽くされた部屋の異様さと、安食が魔術師だと言う都の指摘から、彼が真っ当じゃない事件に関わってることがわかり、専門家の判断に任せることにした。

 小川達が注目する中、日記を読み上げる都の涼やかな声が部屋の中を満たしていく。


『魔術を捨てて生きるなど、親父は馬鹿な真似をしたものだ。売り飛ばした魔導書と儀式の道具を探し出し買い戻すのには随分苦労したが、こんなはした金で我が一族の富の秘密を売り払うなど、愚行の極みだ。否、それは親父も分かっていたのだろう。祖父のあの最後を目の当たりにし、魔術に恐れをなした以上は呪われし遺産を早急に消費してしまいたかったのだろう。あるいは、我が一族の闇の側面から目を背けたいが故の逃避行動だったのかもしれない。散財に次ぐ散財……親父の暴走で我が一族の栄光は地に落ちた。あれだけ蓄えられた富は一代にて霧散した。借金を残さなかったのは、せめてもの親心だったのかもしれないが、俺としてはいい迷惑だ。嘗て繁栄の面影もない貧困生活。そのせいで、俺はいらぬ苦難に塗れて生きている。親父は日夜海外の高級ブランド車を乗り回していたというのに、俺はと言えばZNKなんていう片田舎の二流メーカーの安物……それも新車ですらなく中古車を騙し騙し使うような惨めな生活を送る羽目になった』


「ふん。一族だのブランドだの……アジキとやら、実より名を取るタイプか。戦場ではとても生き残れんな」

「いや、安食君はサラリーマン……」

 眉間にしわを寄せながら吐き捨てる夜顔に山田は至極真っ当なつっこみをいれる。

「どしたの、夜ちゃん。珍しく不機嫌そうだけど」

「私とて不機嫌になるさ。命の恩人を軽んじられたとあればな」

「そんな記述あったか?」

 朗読を中断した都に、夜顔を覗いた一同は首を横に振る。

 不思議そうに夜顔を見つめる都に対し、夜顔は静かに、しかし力強く話し始めた。

「アメリカの師匠の下で火器の扱いを学び終えた後、私は傭兵として世界中の紛争地帯を渡り歩いてきた。そんな中、ZNKには何度救われたかも分からん。タフで乗り心地も良くて安価……多少の積載オーバーもなんのその……小柄なボディに秘められた規格外のパワー……私が雇われた貧困地域には、常にZNKがそこにあったんだ。それを片田舎の二流メーカーの安物だと? 分かってない! 全く分かっていない!」

 熱を帯びていく夜顔の声。これでもかと言わんばかりにZNKシリーズの良さをアピールし始めた彼女をどうにか宥める。 

 そう言えば、と小川は思い出す。ZNKシリーズはその安価さと信頼性から貧困の蔓延する紛争地帯での需要が鰻登りだということを。特にピックアップトラック型は単純な足としてだけではなく、簡易戦闘車両……テクニカルの母体として引く手数多であり、社会問題になっているとニュースでも報道された事があった。

「夜ちゃん、随分熱烈なZNKユーザーだったんだねえ……」

「正直、ミヤコがPTEとコネがあると知った時は歓喜で身が震えたものだ。試験車両を任せてもらえるなんて、まさに光栄の至り……!」

 あの外見スクラップ車を運転している時、道理で上機嫌だったわけだと山田は納得した。

「……すまん、今語るべき事ではなかったな。邪魔して悪かった。ミヤコ、続きを頼む」

「お、おう」

 普段物静かな仕事仲間の意外な一面に、都は若干引きつつも日記の朗読に戻る。


『我が一族は代々、赤い瞳のものと契約をしてきた。死後、その身を差し出すことを条件に、人ならざる魔力を得てきた。その魔力でもって富と名声を築いてきたのだ。祖父の最後は俺も覚えている。死したはずの祖父。通夜の中、その瞳が開かれた。真っ赤に染まったその瞳。この世ならぬ邪悪な笑みを浮かべ、祖父の亡骸だったものは外界へと消えて行った。どうやら、親父は自分達の繁栄と引き換えに得体のしれない怪物を解き放ち続けてきたという事実に耐えられなかったようだ。全くもって愚かしい。偉大なる我が一族が繫栄するための必要経費ではないか。それとも、自分の亡骸が怪物に乗っ取られるのを恐れたのだろうか? それも馬鹿げている。自ら死した後の事など、わざわざ気にして何になる? どうせ自分がこの世から去った後の些末事に過ぎない。重要なのは今、我が一族が栄えているという事ではなかったのか?』


「な~んかきな臭くなってきたねえ……」

「先輩。俺正直もう、安食に関わりたくなくなってきてるんですけど」

「そう言うな、小川君。例え選民思想の行き過ぎた没落した魔術師であっても、同僚ってことには変わらないじゃないか」

「あくまでも同僚、ね。仲間、とか言い出さないあたりに本音が見て取れるな」

「うっ!」

 図星を突かれたのか、都の言葉に一言呻いたまま山田は黙り込んだ。


『凡愚に混じって僅かばかりの賃金を稼ぎながら、我流で魔術を研鑽し……ようやく、魔導書と儀式の道具を再び一族の下に取り戻せた。赤き瞳のものを呼び出すために必要な物は全て揃ったのだ。魔力は堅洲中に満ちているが、儀式の確実な成功を望むなら濃いに越したことはない。濃密な魔力を蓄えた境の森を歩き回り、月明かりが生えそうな場所も確認できた。後は時間のみ。その時が来るまで、赤き瞳の印の下で精神を集中し魔力を高めなければならない』


「このマーク、儀式の前準備だったのか……」

「いくら絵だと言っても、こんなに見られていると集中するの大変じゃないかねえ」

「見られて興奮する奴もいるんだし、集中する奴がいても不思議じゃねえだろ? えっと次は……」


『ついにこの日がやってきた。今宵、月が真円を描く!』


 日記はここで終わっていた。

「どうやら、安食とやらは境の森にいるようだな」

「なら、いずれ帰ってくるってことかい?」

「う~ん」

 都は考えるようなそぶりを見せる。

「月が真円を描くって、要は満月の夜を待っていたって事だろ? 確かに三日前は満月だった。なら、もう儀式が終わってるはずだぞ? なのに何で帰ってきてないんだ?」

「何かあったって事か? 儀式が失敗したとかで、伸びてるとか……」

「ありえん話じゃないな」

 パタン、と日記を閉じた都はガオガオ団の面々に向き直る。

「しゃあない、探しに行くぞ。たとえ無事だとしても、日記で確認できた自分勝手な性格を見るに、魔力を得た事で調子に乗って何か悪さを企んでいる可能性がある。放って置く訳にはいかない」

「都ちゃん、俺と先輩はどうする?」

「危ないから帰ってろ……と言いたいところだがな。俺達、安食とやらの顔知らねえんだよな。もう一度家探しして、写真が無かったなら付いてきてくれねえか?」

「……先輩。写真、あるといいですね……」

「うん。危ないって断言されちゃったしね……」

 山田と小川の願い空しく、安食の写真は一枚も発見できなかった。


 鬱蒼とした森の中。木々の間から差し込む僅かな光に照らされて、山田達は境の森を突き進む。

 先導するのは武藤の末姫様。足元の不安定さに四苦八苦している山田達とは違い、和装にも拘らず軽やかな足取りだ。流石に仕事慣れしているだけの事はあるらしい。

「それで、都ちゃん。黙々と進んで来たけどさ、ちゃんと目的地はあるの?」

「まあな。森の中はこの通り、光が遮られているだろ? 月光が存分に当たる場所ってなると、限られている。たぶん、木があまり生えていない高所……平沼山のどこかだな」

「山登りかあ……ねえ夕ちゃん、その巻物の中に登山用具ってしまってないかい?」

「ごめんね。入ってない」

「そっかー。スーツで山登りはきつそうだなあ……」

「多分大丈夫だろ。あの家の中にも登山用具はなかったし、本格的な山登りまではしていないと思うぞ?」

 つい先日まで怪異のかの字すら知らなかったというのに、すっかり非日常的な現象に慣れ切ってしまった後輩。

 根や石に躓きがちで足下こそ覚束ないものの、小川は息も上がらずに都達と会話を楽しんでいる。

 これが若さか……と、山田は大して年の離れていない後輩のバイタリティを羨望しつつ、ゼエゼエ言いながら一同の後を追っていた。

「ん? どうした夜?」

 都の言葉につられ、山田達は後ろを振り返った。殿を買って出ていた夜顔の足が止まっていた。クンクンと鼻を鳴らす。

「……鉄臭いな」

「……ホントだ」

 魔女の魔力か、牛の嗅覚か。ガオガオ団の面々は、夜顔の呟きによって微かに漂う異臭に気付いたようだ。

「こっちだ」

 夜顔が先導し、都が殿に。先程までとは逆の隊列になりながら、一同は臭いの下へと誘われる。

 僅かに開けた場所に出た。

 蹲る人影一つ。その男が着るスーツに、山田達は見覚えがあった。

「安食君……?」

 探していた同僚、安食その人であった。

 一同に背を向けたまま、振り返らずに小刻みに動く。その足元を見て、山田は仰天した。血溜まりが出来ている。よくよく見れば安食の姿は薄汚れ、破れたスーツから覗く肌は傷だらけ。一部の傷口からは骨すら見える有様であった。

「だ、大丈夫かい、安食君? 大怪我してるんなら、今すぐ救急車を……」

 傷ついた同僚の下に駆け付けようとした山田を、都が手で制する。

「都さん?」

「山田、アイツの肌をよく見ろ」

 言われるままに安食の傷だらけの肌を見つめていると、山田はその異様さにようやく気が付く。

 傷口が信じられない速さで閉じていく。先程まで見て取れた骨も、赤い血肉で塞がっている。

「おいお前。こっちの言葉が理解できてるなら、ゆっくりと振り返れ」

 都の言葉に、安食の動きが止まる。静かに立ち上がり、振り返った姿を見て山田と小川は絶句した。

 右頬から頭にかけて潰れ、半壊した安食の顔。それがじわじわと肉を盛り返し、元の形に戻っていく。口元は血で染まり、今まで食らっていたであろう瓜坊の残骸が血溜まりに投げ出される。

 再生していく顔が、犬歯を浮かべて獰猛そうに笑う。

「ああ、山田か。小川も一緒だな。心配かけてすまなかった。だがもう大丈夫だ。明日までには出社できそうだよ」

 あっけらかんと言葉を紡ぐその姿。自分達の事を知っている。ならば、安食はあの日記通りに人ならざる魔力を身に着けたというのだろうか。

 だが、山田が抱くのは猛烈な違和感。親し気に話しかけてくるその様も、顔に浮かべる心からの笑みも、あの不愛想な男の印象とは似ても似つかない。そして何より……山田を射抜く、赤い瞳。

「宿主の記憶もしっかり引き継ぐようだな……茶番は止したらどうなんだ? 悪いが『お前の身体』の住処を覗いてきたばかりでな。そこに書いてあったぜ。赤い瞳のものとやら」

 風もないのに森が騒めきだす。

 安食は笑みを深め、愉快そうな声をあげた。

「なるほどなるほど……宿主殿の家でお勉強済みか」

「あ、貴方は何者なんです? 安食君はどうなったんですか?」

 震える山田の声を聴き、安食だったものは尊大な調子で語り始めた。

「我は魔王……この世ならぬ魔界を統べし者……」

 都達は目を見開いた。

 安食の肉体が変質していく。肌は緋色に変色していき、猛々しい角が頭に生える。背からは蝙蝠を思わせる六つの羽根が広がり、ゆっくりと宙を浮き上がっていく。

「やがてこの地は、我々の手に落ちる……恐怖するがいい、人間達よ……人の世の終焉は我から始まメゴパッ!」

 安食だったものを襲う突然の衝撃。大地に強かに身を打ち付け目を回す緋色の人外。

 山田達の目に、もはや彼は映っていなかった。森の騒めきを背に現れた巨体に、視線が完全に支配されていた。

 それは隻眼の猪だった。しかし、大きさが尋常ではない。先日、山田達の車の前に立ちはだかった猪も巨体ではあったが、それが赤子に見える程の大きさである。

 幼少時、動物園で見たアフリカ象。今、山田が目の前の巨獣から感じる威容はそれを大きく上回っていた。

「見つけたぞ、武藤とやら……人間共に味方する、魔族の面汚しよ……」

「しゃ、喋った?」

 安食だったものを牙の一振りで大地に沈めた怪獣が、忌々し気な視線を都達に向けている。

「何だ、てめえ……」

「我が名は魔嶽……全ての猪の乳母にして守護者也」

「なんだと? おい、まさか最近暴れ猪共が活発化しているのは」

「如何にも……我が眷属に力を与えたのは妾である……貴様ら人間に虐げられし者達のために!

 一つ残された左眼に灯るのは怒りの炎。そして亡き同胞への嘆きの光。

「この地で貴様らに殺された同胞の無念が妾をこの地に呼び寄せたのだ! かつてこの森は偉大なる我が一族が栄華を極める楽園であったと英霊達は語った! それを貴様ら、後からやってきた人間によって奪われたのだと! 偉大なる我が一族に恐れ、楽園に手を出せなかった人間共! あろうことか呪われし魔女を味方に引き入れることで眷属達から森を奪い、生きるに困った哀れな者達さえも無慈悲に毒牙にかけてきたのだと!」

 次第に声の大きさが上がっていく。悪戯に狩られてきた同族への義憤が、魔嶽の喉奥から迸る。

「人間! 人間! 呪わしき人間! 楽園を奪い、支配者面で森を荒らす害獣共! 偉大なる我らの正義の怒り、身をもって知るがよい! ってちょっと! ちゃんと妾の話聞いてる?」

 長々とした演説を聞いていたのは山田と小川の二人だけだった。武藤家の面々は魔嶽が語り始めるとすぐに興味を無くしたらしく、倒れ伏す安食だったものを介抱することに注力していた。

「み、都さん……いくらなんでも、人様? の話は最後まで聞くべきかと……」

「お前に任せる。自分から偉大だとか抜かす奴と武器を手にして正義と平和を語る奴の話は聞き流す事にしてんだわ」

「で、ですが……」

「大体、偉大か否かってのは他人の評価じゃねえか。自分からそうだと言い出すのは、偉大じゃなくて尊大っつーんだよ」

「し、しかしですね。彼女? は我々人間の都合で住処を奪われたことを怒っているんですから、無視を決め込むのは流石に……」

「そうだそうだ! いいぞ人間! もっと言ってやれ!」

 あれだけ人間に恨みを抱いていたというのに、一族の敵に無視を決め込まれたのが答えたのか、苦言を述べる山田を応援しだす魔嶽。

 そんな中、小川が横から会話に混ざり込んできた。

「あの、先輩。なんか、この魔嶽ちゃん? の言うこと、おかしくないですか?」

「な、なにを言う人間! 我ら偉大なる一族を虐げておきながら、よくもいけしゃあしゃあと!」

「だって魔嶽ちゃん、この森が猪達の楽園で、後になってやってきた人間に奪われたって言ってますけど……ここ、『犬棲まず』だったんですよね?」

「え? あ……」

 小川の言いたいことを察した山田が、魔嶽に疑念の目を向ける。

 魔嶽はポカンとしていた。頭の上にハテナマークが見えそうな、間抜けな表情だ。

「な、なんだ人間。その『犬棲まず』というのは?」

「犬も棲まない不毛の地、らしいですよ。もともとこの地には森なんて無かったんです」

 堅洲はかつて荒れ果てた土地であった。魔王の生誕によって豊穣の地へと変化し、その実りを狙う略奪者達から身を護るために武藤によってこの森が生み出されたのだと、車の中で都から聞いたばかりであった。

 それは間違いのない事実である。当事者たる都の証言は勿論のこと、山田が堅末の赴任前に調べた県外の複数の資料にすら『犬棲まず』の名でもって堅洲の荒廃ぶりが記されているのだ。

 それならば。猪がこの地から追われたというのは、人間達が豊かな森を奪おうとしたわけではなく。

「武藤の管理していた森に勝手に居座って好き放題していた一部の猪が、迷惑に思った土地の管理者によって追い出されただけなんじゃないですかね? 後にやってきたのは人間じゃなくって猪の方。どうなんだい、都ちゃん?」

「大体あってる。そもそも、この森ができる前まで猪なんか堅洲じゃ見なかったからな。もし荒れ果てたかつての堅洲で猪が繁栄していたってんなら、飢餓に襲われた堅洲の住民が人を食う羽目になんてならねえだろ?」

 だからこそ、都は魔嶽の話を聞こうとしなかったのだ。この森がかつて猪達のものだったという彼女の主張は嘘っぱち。それは幾多の証拠によって証明されている。

 そもそも、ほとんどの猪はこの森で真っ当に暮らしていると都が言っていた。魔王の魔力はすさまじい。たとえ冬場でも、多くの獣が飢えないどころか、胃の腑がはちきれんばかりの森の実りを約束している。人の育てた作物の味に魅入られでもしない限りは、人里に降りるメリットなどさしてないのである。

 ようするに、駆除され、その怨念によって魔嶽をこの地に呼び寄せたのは、人里の作物に魅入られた少数派の暴れ猪に他ならない。

 武藤家は人里に立ち入らないことを条件に、この森で暮らすことを許している。タブーを破っておきながら被害者面する暴れ猪達の面の皮の厚さに、都達は内心ゲンナリとしているのだろう。

「つまり、魔嶽ちゃんはここの悪党猪達に騙されていたんだよ」

 憐れむような表情で巨獣を諭す小川。魔嶽は俯いたままプルプルと震えていたが。

「うそをつくなあああ!」

 怒り心頭と言わんばかりに怒号を上げる。

「偉大なる我が一族が人間などと言う害獣の言葉を信じると思ったかあああ! 正義は偉大なる我らにありいいい! ここで貴様らを亡き者にすれば、真実を語るは妾のみいいい!」

 結局、魔嶽は他人の正論よりも身内の戯言を選んだのだった。

 勢いに任せて突進してくる巨体。その猛威に山田は体が固まって動けない。

 ぶつかる! そう思って目を閉じた山田だったが、その衝撃は何時まで経ってもやってこない。

 恐る恐る目を開くと、魔嶽の前に立ちはだかる小さな影一つ。

 都だった。魔嶽の鋭い牙を片方、嫋やかな広い手で軽く握っている。さして力を入れていないように見えると言うのに、魔嶽はそこから一歩も動けない。後ろ足が大地に沈み込む程の力で踏み込まれているのに、ビタリとその場に縫い付けられたかの如く前に進めないのだ。

 能面の様に無表情ながら、都は心底面倒くさそうな雰囲気を醸し出して魔嶽に呟く。

「師走の二十日に出直してきやがれ」

 次の瞬間、魔嶽の身体が宙を舞った。都が牙を掴んだままその巨体を持ち上げ、そのまま魔嶽を大地に強かに叩きつけた。

 骨が砕ける嫌な音が響く。背中から肉体を強打した魔嶽の瞳がグルンと白目を向き、血の泡を吐いて絶命した。

 横たわる巨体から黒い何かが煙のように立ち上って消えて行く。それを見た都が眉を顰める。

「す、凄い……」

 呆気に取られている山田達に、ガオガオ団の面々はさも当然と言わんばかりの顔だった。

「限定した魔術しか使えないと言うことは、それだけその魔術にリソースをつぎ込めるってことだからな。長年肉体強化だけを鍛え続ければこうもなる」

「フィジカル勝負でみゃーちゃんにかなう奴なんて、堅洲にはそういないよ!」

 自慢げに堪える朝顔の下に、都が若干渋い顔をしながらやってくる。

「悪い、お前ら。血抜きと下処理頼む」

「はいはーい。お任せ!」

「それにしても、厄介な奴がこの森に棲み付いたもんだな……面倒事が増えそうだ」

「え? もしかして、魔嶽ちゃんのことかい」

「他に何がある?」

「だって魔嶽ちゃん、今そこで解体処理されているし……」

 都は盛大に溜息をつく。

「そこで伸びてる赤いのと同じだ。アイツは死体に憑りついて実体を得るタイプだな。依代となる肉体をいくら壊しても意味がない。悪霊化した魂そのものをどうにかしないと、猪の死体がある限り復活してきやがる。フィジカルで解決できない問題には弱いんだよ、俺」

「じゃあ、魔嶽ちゃんは健在なんだ」

「鬱陶しいことにな。森の連中に猪の遺体を見たら早急に処分してくれるように頼まんと……と、それは後に置いておくとしてだ。問題はコイツだな」

 都の視線の先には、赤い皮膚の悪魔モドキの姿。倒れ伏した安食だったものに喝を入れようと都がしゃがんでみてみると。

「……おい、お前。目、覚めてんだろ」

「……サメテマセンヨ……アリエマセンヨ……アンナバケモノヲカタテデ……カタテデ……ユメデス……コレハユメデスヨ……」

 瞳をしっかりと閉じたまま、恐怖のあまり微振動を繰り返す元安食。自分を一撃で伸した巨獣をいともたやすく片手で葬り去った都に怯えているらしかった。

「おら! とっとと目を覚ませ! しかとその目で現実を見ろ!」

 何とか赤い瞳のものを正気に戻そうと都達が悪戦苦闘していると、森の奥が再び騒めいた。

『すっごい音だったなあ。隕石で落ちたのかな?』

『音は確かこっちから……あれ? みゃーこ?』

 木々の間からのっそりと姿を現したのは、蛸を思わせる頭部と蝙蝠の様な羽を備えた緑色の怪物と、象の様な鼻を持ち鋏を備えた一つ目の怪物。

 立て続けの怪異に山田の頭は麻痺しかけていた。本来ならば絶叫をあげて気絶しそうなものなのだが、やけに冷静になって都に問いかける。

「……『みゃーこ』って頭の中に響きましたけど、都さんのお知り合いで?」

「おう。蛸っぽいのがカリンで一つ目のがB。平沼山と境の森の守り神様だ」

 紹介された山田に気さくな声で挨拶をする二柱の山神。見た目に寄らずフレンドリー。

『それにしてもでっか! なにこの猪!』

『あ、朝ちゃん。血抜きするならBに飲ませて~!』

『あ、ずるい! 私にもちょ~だい!』

 魔嶽の血を吸いに走っていった二柱を生温い視線で眺めていた都。気が付くと、赤い瞳のものがしっかりと瞼を開いて立っていた。

「ああ……夢じゃなかった……」

 その緋色の双眸には絶望の色が滲んでいた。


「で、結局お前は何者なんだ魔王殿?」

 魔嶽の下処理が済んだ後。赤い瞳のものが都達に囲まれた形で正座している。

 どうにも都に怯えているようで、オズオズと言った感じで声を上げた。

「あの、すんません。盛りました……」

「ん? どういう意味だ?」

「話、盛りました。俺、ホントは魔王とかじゃなく、田舎から出てきたばかりのペーペーなんすよ」

「何でそんな下らん嘘を……」

「都会の連中に舐められないようにって……若干イキってたっす……」

「若気の至りって奴か……まあ、それはいい。もう一度聞くがお前は何者なんだ? 安食とやらはどうした?」

「は、はい……順を追って話すっす……」

 赤い瞳のもの。それは、こことは違う次元に住まう実態を持たない知的生命体なのだと言う。どうにも人間の死体に憑りついていないと繁殖できないらしく、並の人間では到底身につけることのできない程の魔力と引き換えに、死後の肉体を譲り受ける契約を結ぶらしい。人間の死体を使うにあたって、人間界での常識をある程度は身につけているらしく、奇怪な生態に対してメンタルは人間に近いようだ。

 成体になって初めての魔術師から呼び出し。この赤き瞳のものは意気揚々と人間界に赴き、儀式のために像の前で仮面を被り、贄を捌いたナイフを手にした安食と無事に契約を果すことに成功した。膨大な魔力を手に入れ、これで一族を再興できると高笑いする安食に対して、それは自分の努力次第なんじゃないかと突っ込みたくなるのを抑えつつ、契約した彼の守護者としての生活が始まる……そのはずだったのだが。

 突如として木々の中から飛び出してきたのは大猪。全くの青天の霹靂に反応する事が出来なかった安食はその突進をもろに受けた。

 さて、儀式のためには十分な月光が必要であった。そのため、安食は境の森とは地続きの平沼山の高所……崖の上にいた。そこで追突を受けた訳で。

「……宙を舞う契約者と目があったんすけど……助けを求めるようなものじゃなく、何が起きた? と言わんばかりの困惑した目でしたよ。唐突の事態過ぎて魔力を使う暇もなかったんすかね。呆気にとられた様子で猪諸共そのまま崖の下へ……」

 ねんがんのまりょくをてにいれたのに……何たる不幸だろうか。結局、その魔力を振るうことなく安食の生涯は唐突に幕を下ろしたのであった。

 余りの出来事に赤い瞳のものが唖然としていると、猪の逃げてきた方向からやってきたのは異形の姿。緑の蛸人間と長鼻のサイクロプス……カリンとBであった。

 二柱は猪を追って来たのだろう。崖の上に残された痕跡から獲物が崖下に落ちた事を察し、急いで現場を目指して駆け出した。

 見た事もない異形の存在に驚きつつも、あの二柱が先に崖下についたらどうなるかと考えて、赤い瞳のものは焦りだす。あの二柱は猪を今日の晩御飯と呼んでいたのだ。下手をすれば、自分の契約者の亡骸も持っていかれるかもしれない。

 急いで引き留め事情を話したかったのだが、そうはいかない訳があった。赤い瞳のものは実体がない。その姿を捉えられるのは基本的に同族か契約者だけなのだ。現に、あの異形達は目の前に自分が浮遊していたのにも拘らず、全く気付いた素振りを見せなかった。見えていないのだ。

 とは言え、実体がないことはメリットでもあった。肉体を備えるが故に回り道をしなければならない二柱を余所に、赤い瞳のものはそのまま崖下へと直行できた。

 崖下で発見した安食の遺体は酷い有様だった。あちこちが損壊し、真っ当に動かせるかは分からない。とは言え、あの二柱に持っていかれる訳にもいかず、契約通りに原型を留めない遺体に憑りつき、這う這うの体でその場を後にしたのであった。

「もう、本当に大変だったんすよ……肉体を修復するために、ズタズタの身体で獲物を狩るのは……火をつけて焼く手間も惜しんで生肉に齧り付いて、三日でようやくここまで再生できたんす。正直、しばらくは獣の肉は勘弁してほしいっすよ」

 何とも言えない表情を浮かべる一同。安食の最後はまさかの事故死。目の前の存在が正当な権利を得た上で安食の肉体を所有している以上、都としても退治する訳にはいかなかった。

「それで、都様……でしたっけ? 同族の女の子に出会えるまで、この堅洲町で暮らしたいんっすが、構わないでしょうか?」

 出会った際の傲慢さは微塵もない様子で、都に下手に出る赤い瞳のもの。

「ん、まあ問題は無い。堅洲のタブーさえ破らなければな。例えば信仰の強制みたいな」

「それは大丈夫っす。俺達は儀式されないとこっちの世界には来られないっす。元々、俺達と契約を望む相手の下にしか行けないっすから……あと、山田さん?」

 急に話が振られた山田があたふたしていると、赤い瞳のものは両手を合わせて頭を下げる。

「すんません。折角なんで俺、この安食とかいう男に成り代りたいんすよ。天涯孤独の身で住居と職業持ちって、人間界に生活するのにまたとない好条件なんっす」

「そ、そうですか……」

 都に視線で助けを求めるも、彼女は肩をすくめるばかり。「別にいいんじゃないか」という意思表示であった。

「だから、お願いっす! 三日間も無断欠勤をしたそれっぽい理由、一緒に考えて欲しいっす! 人間界での活動早々に会社をクビにされるのは嫌っす!」

 平身低頭に頼み込む安食だったもの。

 まさか自分の周辺に怪異が巣食うことになるなんて、夢にも思っていなかった山田であった。

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