東金凛々子05
一章①→http://ncode.syosetu.com/n9717k/1/
いいかげん星空にも見飽きた僕はゆっくり体を起こした。
体がギシギシと痛んだ。普段運動なんかしないのに突然走ったからだった。
七月七日、今日の天気は快晴。星が良く見える絶好の七夕日和だ。
しかし織姫と彦星が逢遇する本日、僕は鬼と出会ってしまった。
東金凛々子。
あいつは殺人事件が起きたこの土手で僕を襲いやがった。
月明かりの反射が美しい、まるで通り魔が持つような大きなナイフで。
僕は明日学校に行けるのだろうか。
体は痛いがそんなことは問題ではない。
あいつが登校しているかもしれない学校に行けるのだろうか。もしかしたら次こそ出会ったら殺されるんじゃないだろうか。
そんなことを考えつつ僕は土手の階段を登り始めた。
――帰ろう。
家では妹が腹を空かして待っているはずだ。
すっかり夜も更けたというのに、この暑さはやわらぐことはないようだ。
スーパー沢村は僕の行きつけの家から徒歩五分内にあるスーパーである。
僕が知っている店の中では一番安く、品揃えも豊富で、近くに住む主婦はたいていここを利用して食卓を彩っているだろう。
実はそこで買い物をすることが僕の一日の楽しみだったりする。
そのスーパー沢村からレジ袋を提げて出てきた時にはもう日は落ちていて、僕は品定めに時間をかけ過ぎたことを知る。
「やべえ、遅くなっちまった。裕香、腹空かしてるだろうな」
裕香は僕の二個下の妹である。
背は僕よりも十五センチほど小さく、かなり小柄なのだが。結構図太い神経の持ち主であり、両親の親バカを利用して僕を平気で顎で使ってくる。
なので家での兄妹としての地位は完全に逆転してしまっている。
兄としては情けない限りだ。
最近は髪にストレートパーマをかけたり、顔が大人びてきたりして昔に比べ外見が女らしくなった。シスコンだと思われるかもしれないが、我が妹ながらかなりかわいいのである。
だから中学校でちょっと――いや、かなりもてるらしく、ここ最近明らかに調子に乗っているので、どんどん性格が腹黒くなっているようで、兄として僕は頭を悩ましている。
商店街は帰宅途中のサラリーマンやOL、部活帰りの中高生で溢れていた。
時刻は七時を回ったところだと思う。僕は時計を持たない主義なので時間を確認するときはいつも携帯で事を済ましているが、今はその携帯も家の鞄の中である。
よって体内時計に頼るしかないのだが、もしこれが正確なら家に帰ってそれから夕飯を作り始め、できるときには八時過ぎになってしまう。そこまで、あの裕香が我慢できるとは思えない。
思えないが。
僕には家に帰って夕飯を作る以外、選択肢は無い。
家の方向に足を進め始める。
その直後、眼前を女性がすれ違った。
そんな事は日常的に珍しいことでも何でも無かったが、僕はその女性に見覚えがあった。いや、見覚えは無い。聞いただけだ。
『なんか全身から殺気が出ているみたいな感じ。友達もいないみたいだったし。もしにらまれたらオレ震え上がっちゃうよ』
そうあのバカは言っていた。
美しい長い黒髪と神秘的な品性。
そして、睨まれたら怪我をするんじゃないかと思う、刃のような鋭い目つき。
僕にはその女性を直感的に彼女だとわかった。
なるほど、そりゃ震えもする。
その女性は平気で人を殺しそうな深い黒の目をしていた。
東金凛々子だ……!
振り返ってその姿を確認する。
しかし、すでにその姿は無かった。
熱湯の中に氷を入れたがごとく、もともとそこに無かったかのように、空気に混じって消えてしまったんじゃないかと思うほど瞬間的な出来事であった。
だが、すぐにそれは勘違いだと気付く。
僕の真横の裏路地に彼女はいた。十メートルほど進んだところであった。
その先には、階段。
それはマンションでもなければビルのものでもない。
あの殺人事件があった土手の遊歩道に繋がるものであった。
警察の姿はもう無かった。今日の現場検証はもう終わったということだろう。
……危ないんじゃないか?
被害者は全員女で、しかも今日発見された死体は十九歳くらいだと言っていた。
それは東金凛々子にも該当することであった。
もし犯人のターゲットがそれくらいの年頃の女子ならば、しかもまだ犯人が土手近くにいるあるいは周辺に住んでいるのだとしたら。
それは自殺行為だろう。
僕は夕飯のことなど忘れ、気付かないうちに後をつけていた。
僕は東金凛々子との間に十メートルの距離を保ったまま歩いた。
それは喧嘩をした恋人同士にも見えるし、たまたま歩いている方向が同じな他人にも見えた。あるいは、ストーカー。
最後だけは本当に避けたいものなのだが、残念ながらこれらの中で今の僕に一番近いのはこれだろう。
「僕は何をしているんだ……」
自分が情けなくなってきた。しかしもし今、僕が帰ってしまってその後でこの人が犯人に襲われでもしたら、一生僕は自責の念に苦しまれることだろう。
それに比べたらストーカー扱いなんてたいしたリスクではない、……はず。
僕はため息をつく。
彼女に何とかここが危ないという事を伝えることができればいいのだが。
――ん?
僕は思いつく。
「あの人に話しかければいい事なんじゃないのか?」
僕は数多の星が浮かぶ夜空を見上げて呟く。
なんで、その方法を思いつかなかった!?
最初からやれっての!!
いや、後悔している場合ではない。そうと決まればこの微妙な距離を埋めなければ。
僕は意を決して話しかけようと、視線を空から前にいる東金凛々子に移す。
しかし、そこに彼女の姿は無い。
「また!?」
今度は口に出して驚いた。彼女には瞬間移動機能でも付いているのだろうか。
しかし、その考えはまた否定される。
僕側から見て左側の川のほとり。小石が散らばっているそこに彼女は降りていた。
そして、殺人事件が起きたのとは別の橋に向かって歩いていた。
僕より低い地点にいたのでまるで消えたように見えたのだ。
僕も土手を降り、話しかけるべく急いでかける。
だが、前にいる彼女は橋の下に差し当たり、潜り抜け、そしてまた土手に戻るように右に折れた。
これでは結局元の場所に戻るだけだ。
何がしたいんだ。あの女は。
そう毒づきながら僕は彼女が通った道筋をまるでアリの行進のように、駆け足で追いかけた。スーパーのビニル袋が走るのに邪魔だった。
そして彼女が右に曲がったそこを僕も同じく曲がる。
――一瞬のことだった。
僕が橋の下から顔を出した直後、ものすごい速さで僕の耳元を何かがかすめる。
僕の、視力0.1の二つの目が見間違っていなければ、それは刃渡り十五センチほどはあろうサバイバルナイフだった。
それを持っている手から、腕、肩、そして顔を順にスクロールして、刮目した。
美しい長い黒髪が風で巻き上げられたように広がり、僕の視界を支配した。
その中で僕は彼女と目が合う。
平気で人を殺しそうなその目と。
――一体僕の身に何が起こっている。
「あなた」
気品に満ちた、凛としている声が僕に呼びかける。
「そういった行為をするというのは、私に殺されても別にかまわないといった覚悟があってのことなのかしら」
その瞬間、僕は気付いた。
これは罠だったと。奇襲するためにわざと僕の視界から外れて、僕を誘い込んだのだと。
東金凛々子。
こいつはもしかしたら人を殺したことがあるのかも知れない。そう思わせるほどの殺気と抑圧だった。
深く黒い瞳は確実に僕に殺意を向けていた。
おいおい、幸村さんよぉ。あんたは間違ってねぇよ!こいつは正に真虐じゃねぇか!?
「いっいや!?待ってくれ!!」僕は喉から絞りだすように声を上げた。
「別にストーカーとかじゃないから!!僕はただ――」
言い終える前に東金が言う。
「ストーカー……じゃない……?あら、そう。なら余計あなたを逃がすわけにはいかなくなったわね」
「なんでだっ!?」
腹から叫ぶ。
サバイバルナイフはまだ僕の顔の横に存在している。
「だってストーカーで無いというのなら、さしずめ次の獲物を探していたんでしょ」
次の。
獲物?
どういうことだ。
東金は口元を上げ、笑顔を浮かべた。しかし、それはいい印象とは到底呼べる代物ではなかった。
そして続けて言った。
「そうなんでしょ。ねぇ、赤帽子さん」
言うが先か動くが先か、彼女は僕の横にあったサバイバルナイフを振り上げ、肩にめがけそれを下ろした。
僕は反射的に手で顔を覆い隠す。
切られた感触はあった。
しかし、まったく痛くは無い。
僕が恐る恐る目を開けると、ナイフはたしかに切っていた。だが、切られていたのは偶然僕の手にあった食材がたくさん入ったスーパーのビニル袋である。
彼女の動きが一瞬止まる。
チャンスだ。
僕は持てる力の全てを使って、彼女に体当たりをした。
東金はバランスを崩し斜面になっている土手に倒される。
その隙に僕は今来た道を全力で走った。
無我夢中に走った。
もう歩けなくなってもいいと考えるほどだった。
そして、どれくらい走ったのかわからなくなるくらいになってから、僕は走るのをやめた。
汗が顔を伝って顎から落ち、地面を濡らす。
後方を確認した。
あいつの姿は見えない。
助かった――。
僕は急に全身の力が抜けて、地面に座り込み、そのまま寝転んだ。
空には星がたくさん浮かんでいた。
「なんなんだあいつはよ……」
そうつぶやいて僕は思い出す。
――赤帽子。
それはおそらくあの通り魔――改め、殺人犯のことを言っているのだろう。
っそうか。
僕はそいつを警戒して後をつけていたというのに、よりにもよってそいつに間違われたって訳か。
まったく、笑いもんだ。
僕は一人でくっくっくと笑う。
人はあまりの非現実空間に出されると笑い出すというのはどうやら本当らしい。
だって、そうだろう。いきなり初対面の女にナイフで殺されかけるなんて、それこそ通り魔だ。非日常過ぎる。
それから体が落ち着くほどの時間が経ち、ようやく帰ろうと土手の階段を登り、僕は気付いた。
いや、たいしたことではないのだが。
食材が入ったビニル袋が無いことを。