27.和魂 × 荒魂
「詩織……?」
鋭く尖った触手に貫かれて、詩織が地面に倒れる。
俺は呆然と立ちあがり……倒れる彼女の傍へと歩いていく。
「詩織?」
地面に血だまりが広がっていく。
人間の身体にはこんなにたくさんの血が流れているのかと、場違いな感想が頭によぎった。
「っ…………」
詩織の口がわずかに開くが、何か言葉を発することなく閉じられる。
それきり、二度と動くことはなかった。
「…………!」
死んだ。
詩織が。恋人が死んだ。
いや、恋人じゃない。元カノだ。自分を殺した憎い女だ。
それも違う。憎しみなんてない。
どうでもいい……無関心、無関心、無関心なはずの女。
(どうでもいい? 本当に?)
身体の芯から膨大な感情が溢れ出す。
他の相手と浮気をした。
でも、好きだった。
俺を裏切った。殺した。
でも、愛していた。
彼女は退神師だ。倒すべき敵だ。
でも、大切にしたかった。幸せにするつもりだった。
(彼女は……俺の何なんだ?)
もう詩織になんて興味がないはずだった。
無関心。そうであるはずだった。
それなのに、まるで火山が噴火するように感情が溢れてくる。
零れ落ちる感情を何者かが喰っているような気配を感じるが……とてもではないが、抑えきれない。
何者であろうと、この心を消し去れるわけがなかった。
「ああ……そうか……」
そして、唐突に気がついた。
震える唇で、されどしっかりと口に出す。
「俺は詩織が好きだったんだ……」
殺されても。
浮気をされて、裏切られても。
好きだった。大好きだったんだ。
あんなことがあっても嫌いになれないくらい、好きだったんだ。
「大好きだったんだ……ああ、畜生……!」
涙が出る。止まらない。
感情がオーバーヒートして、もうどうにもならない。
「ッ……!」
胸の奥で何かがブチブチと引きちぎれるような音がした。
そして……『彼女』の声が聞こえてくる。
『とうとう、気がついてしまったのですね……主様』
優しい声だった。
八雷神と同じ声なのに、全てを包み込むような慈愛に満ちた声である。
『気づいて欲しくはなかった。なんて、悲しくて優しい御方……』
(アンタは……誰なんだ……?)
『ようやく、出てきたか。食いしん坊の寝坊助め』
重なるように、もう一つの声。
厳しく、刺すような声音は間違いなく八雷神のものだった。
「…………!」
カチリと音が鳴って、周囲の景色が一変する。
光の差さない常闇の空間。
黄泉の闇の中に、俺は立っていた。
「ここは……」
『どいつもこいつも、間抜けばかりよのう。呆れてしまうわい』
そこにいるのは俺だけではなかった。
八雷神……かつて夢で出会った、黒い着物の女が立っている。
あの時と異なるのは、ちゃんとした顔があることだけ。
美しい相貌はどこか見覚えがあったが……誰のものかは思い出せない。
『粗暴な貴女に言われたくはありませんわ。主様も愚拙もデリケートなのです。悩みもしますし、苦しみもしますわ』
そして、八雷神とは別にもう一人女性がいる。
八雷神と同じ顔、同じ体格。
しかし、八雷神が烏羽玉のように黒い髪と瞳、骨のように白い肌を持っているのに対して、その女は真逆。
浅黒い肌と白い髪、瞳の色は血のような深紅色をしていた。着物の色も白である。
『申し遅れました、主様。愚拙の名はーーーーと申します』
その女性が名乗るが、名前は良く聞こえない。
『主様に与えられた黄泉の神の加護の片割れ。八雷神と双極の対を成す存在ですわ』
「八雷神と……だったら、どうしてこれまで出てこなかったんだ?」
『それは……』
『此奴はずっと食っておったのじゃよ。お主の感情の一部をな』
問いに答えたのは八雷神である。
『お主があの娘……舞原詩織に対する感情を持て余しておったから、その感情を食っていたのじゃ。悩まぬよう、苦しまぬよう……余計なおせっかいじゃろうに』
『余計とは何ですか。我が主様のためではありませんか』
白髪の女性が不服そうに唇を尖らせた。
『主様は悲しいほどに優しすぎるのです。他の男と不義密通をされ、挙句に刺されていながらも、かの娘を愛していました。不毛であることを理解しながら、それでも愛していた。あのまま娘への感情を放置していれば、主様は潰れてしまったかもしれない……優しさに押し潰されるだなんて、あまりにも哀れではないですか』
『だから貴様が肩代わりしたと? 過保護な事じゃ。それで潰れるならそれまでではないか』
『貴女は、またそんなことを……主様に所有される身でありながら、なんという不忠者……』
二人が険悪な空気になって、言い合いを始める。
まるで仲の悪い姉妹がケンカをしているようだった。
「ちょっと待ってくれ……それじゃあ、俺が詩織に対して無関心だったのは……」
『……愚拙が娘子への思いを食べていたからです。僭越なことをいたしました』
白髪の女性が腰を追って、丁寧な所作で頭を下げる。
『されど……そうでもしなければ、主様の心が危うかったのです。潰れ、引き裂かれ、すり潰され、粉微塵になろうとしているのを放ってはおけなかったのです。おかげで今日まで挨拶に伺えずに申し訳ございませんでした……』
「だったら、どうして今になって出てきたんだ? 詩織が死んだからか?」
『それもありますが……主様の感情があまりにも強く、愚拙の腹に収まる量を超えてしまったのです』
白髪の女性が申し訳なさそうな表情で、胸元に手を当てる。
『本当はずっと守って差し上げたかった……押し寄せる感情の濁流から、貴方を……』
『じゃが、小僧は目覚めた。自覚した。あの娘にいまだ情を寄せているという事実を』
『もはや止めることは叶いません……無念です』
『あるべき形に戻っただけのこと。むしろ、これまでが歪だったのじゃよ』
黒髪と白髪。
二人の言葉が共鳴するように暗闇に響き渡る。
それは天からの福音のようでもあり、死の宣告のように冷たい言葉だった。
『小僧、そなたはもう娘への感情から逃げるわけにはゆかぬ。だが……それで潰れはせぬじゃろう』
八雷神が彼女にしては珍しく、優しさすら感じさせる声音で言う。
『お主はコレが思っているほど柔ではない。易々と潰れはせぬし、潰れてもまた立ち上がれる……妾はそう思っておる』
『巣立ちの時……ということになりますわ。これより、愚拙もまた主様の振るう武に加えさせていただきます』
「……もしも君がいたら、助けられるだろうか」
彼女を……そして、彼女を。
小さくつぶやく。
そうでなければ、力を手に入れる意味などないと。
『御心のままに』
白髪の女性が跪き、頭を下げてくる。
黒髪の女性……八雷神は腕を組み、ふんぞり返っていた。
「…………!」
視界が明転。
常世の闇が消え去り、現実に引き戻された。
目の前には血まみれで倒れる詩織がいる。
そして、その向こう側には途方に暮れた様子で涙を流し、触手を振り乱している優菜の姿が。
時間が止まっていたのだろうか。
先ほどから、何秒も経っている様子はない。
「…………」
俺は前を向き、立ち上がった。
『彼女』が食べていた感情が解き放たれたことにより、津波のように押し寄せてきた激情に流されてしまいそうだ。
どうして、アイツが心を食っていたのかがよくわかる。
黄泉返ったばかりの俺だったら、耐えきれずに潰れてしまったことだろう。
「……助けないと」
だけど、今は違う。
助けなくちゃいけない女の子がいる。
潰れてなんている場合じゃない。くだらない感情に流されている場合じゃない。
やるべきことを、やるのだ。
「来い」
俺は左手をかざした。
呼び声に応えて、もう一本の刀がそこに現れる。
「来い……『黄泉戸喫』」
俺の左手に刀が現れた。
刃渡り90センチ。八雷神と瓜二つの形状。
しかし、そこに纏っているのは雷ではなく、どこまでも深い常世の闇。
もう一本の、あの世の刀。
『和魂』の力である八雷神と双極の対を成す、『荒魂』の力が顕現した。
「ホムラサン……」
「うん、わかってるよ。優菜」
できるだけ穏やかに笑いかける。
すると……優菜の周りで荒れ狂っていた触手の勢いがわずかに削がれた。
「コロシテ……アナタをコロすまえに……」
優菜は泣いていた。
真っ赤な血の涙を流していた。
ああ……俺はなんて馬鹿なのだろう。
自分のことばっかりで、泣いている女の子の涙をぬぐうことすらしなかったなんて。
本当に最低。大馬鹿者だ。
「うん、わかった」
だから、俺は頷いた。
先ほどのように癇癪を起して騒ぐことなく、優菜を安心させるためにしっかりと。
「殺すよ。今から君を」
俺は地面を蹴った。
迷いが一切消えた踏み込み。
これまでにない勢いの加速によって、一瞬で優菜に肉薄する。
「ッ……!」
反射的な反応なのか、接近した俺に触手が振るわれるが……もはや躊躇いはしない。
「ごめんね」
つぶやいて、俺は優菜の胸に刀を突き刺した。
根元近くまで抵抗なく刀身が刺さって、正面から抱き着くような形になる。
「あ……」
優菜の口から吐息がこぼれる。
苦しみではない、解放の吐息だった。
「ほむら、さん……」
「うん」
優菜が抱き着いてくる。触手ではなく、左右の腕で。
「……だいすき」
「…………」
それは人生で二回目の愛の告白。
詩織にされて以来、一年ぶりである。
「ああ……俺もだよ。君が好きだ。たぶん、初めて会ったときからずっと」
詩織やあの男を笑えない。
俺だって、二股の最低男だったようである。
「…………」
優菜が嬉しそうに微笑み、そのまま動かなくなった。
触手が消えて人間と同じ感触になった身体を抱きしめ、俺は少しだけ泣いた。
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