双極性障害と闘う
精神疾患といえば、うつ病、双極性障害、統合失調症、認知症、知的障害、アルコール依存症、薬物中毒が代表にあげられます。私が取材した人物は、双極性障害で本当に苦しんでいました。ナイフで腕を切った跡も見せてもらいました。そんな人の苦しみを少しでも知って欲しくて執筆しました。
双極性障害と闘う
もずみ 吟
高橋遼はホッとした思いで長崎こころのクリニックの精神科医後藤医師の言葉を聞いた。
「あなたは病気ではありませんよ。疲れすぎているだけです。それだけ過労が重なれば無理もありません。適度な運動をしながら好きな事をして、まず気持ちを楽にしてください。さしあたって、抗鬱剤と睡眠薬を服用して様子を見る事にしましょう」
遼が鬱病と診察され、長期休暇を取って東京から長崎の実家に帰ったのは昨年末だった。
勤めていた広告代理店では朝の八時半から夜中の二時過ぎまで働きどおし。自宅アパー
トには寝に帰るだけだった。インフルエンザにかかった時以外、休みを取った事が無く休日出勤は当たり前だ。そしていつものようにクタクタになって帰宅し、即布団に倒れ込んだのに、その日は朝まで眠れなかった。今日こそはと思った翌日もよく眠れない。そして翌日も。
疲れはピークに達し、仕事でミスをするようになった。仕方なく、外回りの合間に内科のクリニックで睡眠薬を処方してもらうと、魔法にでもかかった様に眠れるようになったが、仕事のミスは減らない。急に冷や汗や手の震えが出る。
思い切って精神科のクリニックで診察を受けた。
「鬱病と思われます。二ヵ月の加療を要すると、診断書を書きますので会社を休んで休養してください」
会社に戻って営業部長に報告し診断書を提出。
「そのまま待っていてくれ。社長に相談してくる」
休暇はすぐに認められた。
これまでにも労働基準監督署に訴えられた経験があるらしい。時には過労による自殺もあったと噂で聞いている。
結局、有給休暇消化と欠勤と言う形を取られた。
頭も体もクタクタだったこともあり、いい休暇になった。
金はある程度貯めたものがあるから生活には困らなかった。
就職のため、上京してから出来なかった近所の散策、東京観光、映画鑑賞などで気分転換
をして過ごした。しかし頭の回転は低下したままだ。睡眠障害も相変わらず治らない。不安を抱えたまま二ヵ月後に出社。
予想通り今まで自分が出来た仕事が出来ない。能力がガタ落ちだ。
そこで睡眠薬をもらいに行くだけではなく、きちんと精神科で診察してもらったところ
抗鬱剤が出た。何でも落ち込んだ気持ちを持ち上げる薬だとか。
確かに頭の回転は早くなったが、抗鬱剤を飲み始めて三日程してイライラが始まった。
上司とはしょっちゅう喧嘩をする。八つ当たりはする。たまにロレツが回らなくなる、手が震える、という現象が起きた。このままでは無理だ。この先、退職も視野に入れておく必要がありそうだ。
営業部長と話し合った結果、傷病手当金を受けながら長期休暇を取ることになった。受給金額は給与支給額の三分の二、期間は一年半だという。訴訟などを起こさない事を条件に、会社が健康保険等も全額払い続けるとの事だった。
だが、もう復帰は無理だろう。アパートを引き払って長崎の実家で静養する事を決意した。
長崎に帰った遼は、自宅から車で十分ぐらいの所にある長崎こころのクリニックへ東京のクリニックからの紹介状を持って初診に訪れた。
精神科医後藤医師は遼の話をゆっくり聞いてくれて、穏やかで丁寧な対応だった。冒頭のように優しい言葉で、十分な休養を取るように勧められた。
遼は実家の昔のままの状態に保たれていた自分の部屋で自由気ままに過すことにした。学生時代から愛用のロードバイクを整備し、一時間程走って帰り、ゲームをするという生
活を送った。
一ヵ月程経った頃電話が入る。小、中、高校の同級生でバス停二つ程の距離の加納からだ。
「遼、久しぶり。こっちに帰って来てるんだって。どうだ、明日でも飲みに行かないか?」
「おう、行く行く。ここのところグッスリ眠れなくてイライラしてたんだ。いい気晴らしになるかも」
「じゃ、昔よく行ってたぽん太に七時でどうだ?」
あっと言う間に話が纏まった。
加納と飲むのは気楽で、酒も旨かった。
「遼、まだ独身だろう。今度紹介したい女の子がいるんだけど、どうだ?」
「会う、会う。晩飯でもセッティングしてくれるんだろ」
加納が紹介してくれた茜は二つ年下だった。
鬱病で治療中だと明かすと、自分も一時期落ち込んで、半年程引きこもった経験があると言ってくれた。
「実は不眠とイライラが治まらなくって困っているんだ」
「そんな時もあると思うよ。私も落ち込んでいた時、そうだったもの。気持ちを楽に出来たらいいね」
茜と話していると、人に対して思いやりがあり、謙虚で優しい性格なのだと解る。安心して二人の時間を共有できる。気持ちが落ち着く。
そして茜と交際が始まった。茜の仕事の休みの土、日のたびに会い続けた。
「ねぇ、遼、ちょっと心配なの。私から見るとお金遣いが荒い様に見えるんだけど、休職中なのに大丈夫なの?」
「うん。貯金もあるし、傷病手当金っていうのも出てるから平気だよ」
「そう。ならいいけど、あまり無駄遣いしない方がいいよ」
半年ほど経った頃、お互いの両親の賛成を得て結婚した。
3DKのマンションを借り、二人の生活がスタートした。
広告代理店は退職していたため、いつまでもぶらぶらしている訳にはいかない。情報誌で見つけた男性用カジュアルブランド服の店に面接に行き、結果、一週間後に採用通知が来た。
営業は得意だったので、すぐさま成果が出た。遼がアドバイスし、コーディネートした服一式を迷わず買ってくれるお客も少なくなかった。
「高橋さん、助かるわぁ。おかげで今月もノルマ達成出来たわ」
しかし来店客が少ない日が続くこともある。
店長は言う。「高橋さん、社員は四割引きでウチの服買うことが出来るの。これとこれどうかなぁ?」
数字が足りないのは分かる。店長の顔を立ててジャケット、シャツ、パンツ、を買った結果、給料から四万円近くも天引きされる月もあった。午後四時から九時までの五時間で、週五日の勤務なので手取りは多くなかったが遼の体調では、これが精一杯の労働時間だった。
そのうち、年始のバーゲンがありトイレに行く暇も無いくらい、忙しい日が三日続いた。応援に来た本社の幹部が驚くほどの売り上げを遼は叩き出した。しかし一方でレジ処理や業務日報等、事務的な仕事にミスが多いのは自分でも気が付いていた。それに疲れて帰っても寝つきが悪い。
茜が心配そうな顔で見ているとイラ立ちが増した。
二ヵ月程経過したある日、店長から遼の処遇について本社からの指示を聞かされた。正社員になるか辞めるかどちらかを選べと言って来た、と。正社員になれば労働時間は長くなる。自分の病気の事は店長にも話していなかった。無理だ…。
「私は健康上の理由で、今以上勤務時間が長くなると困るんです」
「そうなの。高橋さんみたいにやり手の人がもったいないわね」
店長は本社に今のままで、と頼んでくれたが、四月の新年度からは正社員を一人増やし、ローテションを組むとういう本社の方針は変更されなかった。
遼自身も疲れがピークに達していると感じていた。もういいや、という気持ちになってあっさり店を去った。
仕事を辞め、日中はマンションで一人ゆったりとした時間を過ごしたが、それでもイライラは治まらなかった。無職となり再度傷病手当金が支給され、生活は何とかなっていた。
しかしこの時、遼は大きな勘違いをしていたのだった。傷病手当金は途中、職に就いて支給を受けない期間が生じても、先伸ばしされる訳ではないのだ。スタートから一年半経過すれば打ち切られる。その一年半の期日が二ヵ月後に迫っていた。不安な気持ちはあるが、実際は何も考えられなかった。
長崎こころのクリニックでは「過労や鬱病ではなく双極性障害のようですね」と言われて
いた。しかし処方される薬の内容は変わらず、量だけが増えていった。
クリニックの帰りに実家になんとなく寄る。
「調子はどう?」
「あまりよくない、と言うよりほとんど眠れない。一日中イライラする」
「医者はどう言っているの?」
「双極性障害だと言ってる。でも今の薬以外考えられないって。アルコール飲むのを止め
るように、と言われたよ…。でもビールを飲むとチョットは眠れるんだよねぇ」
「お母さん一人でお医者さんに話しを聞きに行っていい?」
「いいけど、あんまり変わらないと思うよ」
そろそろ帰ると言うと、夕食の足しにと母の翠はタッパーにあり合わせの物を色々入れ
て持たせてくれた。
「茜が喜ぶと思うよ。じゃあね」母の泣き笑いのような顔に手を振る。
遼がクリニックから処方された睡眠薬を一度に大量に飲んだのは、二日後の夜九時頃だ
った。
茜は夕飯の片付けの後、ゆっくりとシャワーを浴びて寝る支度をし、寝室に入った。
ん?遼の様子が変だ。
「遼!」と呼びかけるが返事がない。灯りをつけて「遼、遼!」と呼びかけながら体をゆするが昏睡状態だ。茜はすぐに翠に電話を入れる。
「お義母さん、大変です。遼さんが睡眠薬を大量に飲んで自殺を図ったようです。薬の空になったシートがベッド横のゴミ箱に大量に捨ててあります」
「すぐに救急車を呼んで!運ばれる病院が分かったらまた電話して。主人と二人で直接病院に駆けつけるから」
遼は意識不明状態で国立病院へ運ばれ、そこで胃洗浄と点滴治療を受けた。気が付いた時、茜と母親が手や腕を取りながら「遼、しっかりして」と呼び続けていた。
「オレは死ななかったのか。眠ったまま死ねたらどんなに楽だろうと思ったのに」
「何言ってるの! 死ぬなんて簡単に言わないで。それに、さっきここの看護師が言ってたけど、ひょっとして薬が合ってないんじゃないか?って。さらに病院変えた方が良いんじゃない!って、言ってたわ。それから、医者からこの病院での処置は終わったからもう帰っていいって言われたよ」
「そうだな。帰ろ。何とか気を取り直すようにするから」
翌日、茜は心配しながらも仕事に出かけ、遼は長崎こころのクリニックの後藤医師に昨晩の事を相談した。結局リスパダールというイライラを抑える薬を処方されただけだった。
ただ、遼にはもう他の精神科へ行ってみようなどと考える気力も残っていなかった。
家事も出来ない。テレビもゲームも読書も漫画を読むことも…。
二日後の祝日に母親の翠から電話が入る。
「あれから双極性障害について少し調べたの。その治療を得意とする精神科の病院もいくつかありそうだったの。リストを作ってみたから、今から相談しない?二人でこっちに来られる?」
何をする気力もなく気分は最悪だったが、仕方なく茜の運転で実家に向かった。実家に着き、母親の顔を見た途端、体から力が抜けていった。思わず遼はその場にくずれる様にへたり込んでしまった。
「遼、体の具合悪いの?暗い顔してるよ」
「イヤ、力が抜けてるんだよ。体を支えられないし、頭も回らない」
「分かった。とにかく休みの日でも診てくれる病院を探すね」
翠は調べてあったリストを元に病院へ片っ端に電話をかけ始めた。
そしてやっと「すぐ来てください」という病院を見つけた。精神科専門の大きな公立病院だった。
父親が車を運転し、茜と翠は遼に寄り添う。着いた病院は、すでに遼を迎える準備が整っていた。当番医の医師がこれまでの経過を問い掛ける。丁寧に聞き取った後「これまで飲んでいた薬を見せてください」と言われ、茜がすべての薬を入れた薬袋を袋ごと渡した。
「これは大量の抗鬱剤ですね。ずっとこれを飲んでいたんですか?これまでの医師は双極性障害と見抜けなかったんですか?」
ぼんやりしている遼の代わりに翠が答えた。お帰しすることは出来ません。
「いえ、私も長崎こころのクリニックの後藤先生に直接話を伺いに行ったのですが、双極性障害だとはっきり言われました。でも、そこに持ってきた薬より合う薬は無い、不眠もこれ以上どうする事も出来ない、と言われたんです。でも、息子は悪くなるばかりで…」
「本当にその人は本当に精神科医ですか!双極性障害の患者に抗鬱剤を飲ませ続ければどんどん悪くなるのは当たり前です。信じられません」
「いえ。本当です。お薬手帳をお見せすることは出来ます」
「とにかくこの抗鬱剤はこちらで処分させてもらいます。そして、医者としては、このひどい鬱状態のご本人のためにも、今すぐに入院してもらいます。自宅へお返しする訳にはいきません」
遼も茜も両親も黙って医師の顔を見るばかりだった。
そのうち、二人の体のごつい男性看護師が診察室に入ってきて遼の後ろに立って見守っている。
その後、医師は遼に入院に当たっての説明をした。まず特殊な部屋に入って落ち着いたと見なされるまで、入室してもらわなければならない事。大丈夫だと思われれば鍵付きではあるが、普通の部屋に移れることも説明した。しかし遼には、声は聞こえるが、頭の中では全く受け付けていなかったらしい。
男性看護師二人に両脇を抱えられ連れて行かれた病室は頑丈な扉を三つくぐった先にあった。
部屋は遼には牢屋にしか見えなかった。鉄格子が入っている。監視カメラもある。オレが何でこんな所に閉じ込められなければならないんだ。罪を犯した訳でもないに。いったいどうなってるんだ。くっそ、こんな事なら断食してやる。
後に知ったことだが、この檻の様な部屋のことをハードという。ベッドのある部屋をソフトというらしい。他は一般病棟。さらにスーパーハードという部屋もある、と他の患者から聞いた。
遼はハードに入れられたのだ。始めは暴れていたが、看護師はそういった患者に慣れており、相手にされなかった。眼鏡もかけさせてくれなかった。レンズを割って喉を刺す可能性があるからだそうだ。ハードの部屋にもソフトの部屋にも陶器ではなく金属性の便器のトイレが備え付けられている。陶器のものだと割って自殺を図る輩がいるからだろう。しかも床に布団が敷いてあるだけ。他は何も無い。こんな所で何をしろというんだ。
「出せ、出せ!」と遼はわめき散らし、食事にも一切、手を付けなかった。もちろん、ハードにいる時は面会は許可されない。茜と翠は、それでも着替えは持って来て看護師に遼の様子をその都度聞いて行ったらしい。
「高橋さん、少しでも食事をしてください。ジュースだけでもどうですか?このままだと強制的に食欲が出る注射をしなくてはなりませんよ。それに薬を飲まなければハードから出られませんよ」
医師と看護師がかわるがわる言う。ハードにいる看護師はもちろん男性だ。
遼には脅迫に聞こえた。
そして遼の食事の摂らない期間は五日を過ぎた。そこでハードの部屋からスーパーハードに連れて行かれる。
思いっきり抵抗したが、あっさりベッドに寝かされ、両手両足をロープでつながれ点滴を打たれたのだ。点滴が終わると自室のハードに戻される。看護師が憎くて、憎くてたまらなくなった。当然毎朝回診に来る福島医師にも同様だ。
遼は点滴のせいか、ついに食事を受け入れた。
少しは落ち着いたと見なされソフトの部屋に移される。飲み薬も前とは全く違っていた。
おかげで睡眠だけは取れるようになった。眼鏡をかける事もやっと許可された。家族との電話も出来る様になった。しかし早く退院したいと言う遼のわがままに茜も両親も困り果てたらしい。
そして遼は肝心な事、つまり、収入がなくなっている事に気が付いた。傷病手当金が支給される一年半が入院中に切れてしまう。茜の収入だけではやっていけない。
結局遼の入院中にマンションを引き払って、茜は遼の実家に同居することになった。病院で両親は水道光熱費はもちろん、遼の治療費も負担すると茜と遼に告げた。その上、翠は市役所に行き、障害年金の申請の手続きを相談すると言う。
「えっ、障害年金!オレは障害者なの?どうして?」
説明を受けていたらしいが、オレの頭の中にはさっぱり残っていなかった。ショック状態のオレに医師は改めて説明し出した。
「高橋さん。双極性障害は鬱病とは違います。今の医療では一生直らない病気です。たとえば糖尿病などもそうですね。これ以上悪くならないように気を付け、対処療法を続けていく以外ないのです」
オレは頭の中をムリヤリかき回されているような思いだった。
「ですから、障害年金を受ける用件を満たしているなら申請しましょう」
遼は屈辱感で一杯だったが、これからの生活に少しでも足しになるということで、認めざるを得なかった。それにオレが納得しなくても、事実は変わらない。オレは精神障害三級とされ、二ヵ月に一度十万余り支給されることになった。その後も躁の状態での高揚感やイライラしたり、落ち込んだりする気分の波はあったが、二か月半経過したところで、強く退院を求めた。医師はもう少し様子を見ることを勧めたが結局、当面、週一回通院することを条件に退院を許可した。
通院条件はキチンと守り、服薬も守ったが、相変わらず気分の波は起こった。薬の副作用で常に喉が渇き、大量の水を飲む。水分を大量に取るため、トイレが近く、夜中でも用を足さなければならない。しかも薬の副作用で身体がふらついたり、夜は夢遊状態だったりで、失禁もしょっちゅうだった。自分が情けなく、つい、アルコールで心を紛らわそうと、飲酒を重ねたりもした。
茜や両親は腫れ物に触るようにオレに接した。
しかし、それはそれで、遼の気に障るのだ。つい、茜に暴言をあびせたり、物に当たったりした。
そのうち、遼はアームカットが癖になった。なぜか腕を切ると胸がスッとした。その度に茜や両親は外科に夜中であっても、遼を連れて行くことが日常化した。思い余り、翠が入院することを勧めた。しかし入院は嫌だった。あの牢屋を思い出す。しかし、結局、その後二度の入退院を繰り返したが、また、大量の薬を飲んで自殺未遂を図った。救急病院へ運ばれ、手当てを受けた。医師から「このまま今通っている精神科に入院するように」と言い渡された。茜と両親はオレを車に乗せ、病院に連れて行き入院させようとしたが、遼は拒否した。医師は本人が拒否しても、妻や両親がハンコを押せば入院させることは出来るとして、強く勧めたらしい。しかし、オレはよく覚えていないのだが、今、入院させたら一生恨むと強固に言い張り、激しく威嚇したらしく、その日はそのまま家に帰ってしまった。しかし、その自己中心のわがままさが後日、遼が病気と付き合いながら精神状態の安定を探ることを妨げ、長くずっと、苦しまなければならない事になる。さらに家族にも精神的・経済的重圧を負わせることになった。
それから、二ヵ月ほど遼は自分のスポーツタイプの車にかなりの金額を掛け改造したり、気分次第で、フラリと飲みに出かけたりした。すべて金は茜に出させた。また、あまり覚えていないが、東京へ出て、人の愚痴を聞く「愚痴聞き屋」なる商売を始めたいなどと言ったらしい。当然、両親にも茜にも相手にもされず、イラついた。
周りに当たりまくった。暴力も振るう。大切にしていたゲーム機も床に叩きつけ、壊した。
思い余った茜はオレを病院に連れて行き、今度は配偶者の権限で医療保護入院にした。オレは入院の形態にはもちろん抵抗したが、どうにもならず、また檻の中だ。
今回から主治医が変わった。後から聞いた話だが、これまでの福島医師が「信頼関係が崩れた」という理由でオレの担当から外れたいと申し出たとの事だった。
次に担当になったのは三十歳ぐらいの中野医師だった。改めてオレに発病のきっかけに遡って詳しく聞き取り始めた。その後、処方薬にジプレキサという薬だけを出してきた。オレはこの薬は嫌いだ。苦い思いが沸き上がる。病院へ初回入院時に処方され、飲むと常に満腹じゃないと気が済まないのだ。あっという間に十キロ太った薬だ。主治医に頼み、何とか処方薬から外してもらっていたのだ。しかし、中野は「どうしてもこれを飲んでもらいます」と高圧的に言った。
「いいですか、高橋さん。これは双極性障害に非常に効果がある薬です。もちろん睡眠にも作用します。この病気は気分の変調が極端にひどくなります。一般的に自宅でボーッとテレビを見ている時のテンションが八十%と言われています、仕事をしようと思っている時が百%。酔っぱらって、調子に乗っている時が百三十%から百四十%。逆に何となく調子が悪いなぁ、と言う時は六十%から七十%です。もし三十%まで落ちると布団から出られなくなります。テンションが高すぎるのを躁と言い、低すぎるのを鬱と言います。躁状態で恐ろしいのはテンションが四百%ぐらいまで上がってしまう事があるからです。そうなると凶暴性が出て、自分や人を傷つける可能性があります」
「そのジプレキサだけは嫌だ」
「いいえ、飲んでいただきます」
そこで中野医師に殴りかかった。
「元気いいですねぇ。スーパーハードへ行きましょう」
オレはカッとなり、テンションが医師の言う通り四百%まで上がったようだ。
スーパーハードの部屋に押し込まれ、両手両足をロープでしばられ、注射を打たれた。頭がボーとなり抵抗する気力が無くなっていく。それから眠れる状態になるまで、ジプレキサの量が一錠、二錠、三錠、四錠と増えていった。イラ立ちは徐々に落ち着いてきたが、常に何かを食べたかった。食欲が抑えられない。あっという間に二十キロ近く体重が増えた。
オレは回診に来た中野医師に「薬の副作用で太った」と抗議した。彼は「まあ、そんな薬ですから」笑いながら軽く流す。オレはそのへらへらした態度に心から強い不信感を抱いた。
遼があんなに副作用で以前太った事を訴え、拒否したのにも関わらず、スーパーハードに入れて、点滴で注入しやがって、こんなことが例え、治療でも許されるのだろうか?不信から怒りの感情が湧き上ってくる。
中野医師は相変わらずヘラヘラした感じに遼には見えた。こんな奴の顔、もう見たくない。
回診で顔を見るたびに、やたらと腹が立つ。茜に強く訴えると思いがけず、二日後に退院
の許可が下りた。多分、向こうも早く厄介払いがしたかったのだろう。
もう中野の診療なんか受けたくない。ネットで検索して評判の良い精神科のクリニックを見つけ、通院した。しかし、気分は一進一退で、気晴らしに車を転がしてみれば、チューンナップしたくなる。飲みに出かければ癖になる。茜は節約したが焼け石に水だった。オレの預金も茜の預金も空になり、オレはクレジットカードを切りまくった。茜の訴えにオレは暴言で答えた。
両親は茜を庇ったが、茜は自分達のことはなるべく自分達で解決する方向を探った。
しかしながら、クレジット会社から高額の請求書が届いた時には遼の親に頼らざるを得なかった。遼は自分の親なのであまり感じていなかったが、茜は相当の引け目を感じた様だった。それでも遼は飲みに行くのを止めず、しかも躁状態の時には自傷に走った。当然だが、以前の病院へ逆戻りだ。クレジット会社からその後も何通かの請求書が届き、総額百万円弱の額になっていた。両親は支払いについては心配するなと茜を慰めたが、精神的にどんどんと落ち込んでいったらしい。
更なる入院で再び主治医が変わった。
担当医師から山本と自己紹介された。山本医師はこれまでの医者とタイプが違いように感じられた。
「高橋さん双極性障害のために、自己コントロールが利かなくなる訳ですが、でも、悪い事は悪いんですよ。ダメなものはダメなんですよ」
「はい。オレはテンションが上がっているという自覚も有りませんし、マズイことをしてしまったと、分かるにはいつも鬱になってからです」
「そうですね。ですから常にテンションが上がり過ぎない様に服薬と認知行動療法を通じ、セーブしなければなりません。認知行動療法については何度も聞かれた事と思いますが、物事の捉え方や日常の行動にリズムを付け、バランスを整え、柔軟な考えが取れるように手助けする治療です。強いストレスにも対処できます。ですが、ご自分でも常に日常の言動に注意し、バランスを心掛けて頂かなければ成りません。薬だけでは治療効果は半分ほどです」
「自分で心掛けがけろ、と言われても…」
「その為の入院でもあるのです。スタッフと一緒に作業療法を主体として、認知行動療法と薬の組み合わせを身体の調子を見ながら、調整して行きましょう」
遼はその時も言われたことの半分も呑み込めていなかったように思う。さらに、面会に来た茜はこれまでの様に笑顔を見せず、あまりオレと話をしようとはしなかった。
遼は黙々と、病院スタッフの言う通り認知行動療法と作業療法のメニューをこなしていった。
だが、家では深刻な事態が起きていた。茜が変調をきたしたのだ。
もちろんオレは知る由もない。
茜は仕事中に頭が働かなくなり、ミスが多くなっていたのだ。動悸が激しく、時には立っていられなくなることもあった。突然、ワッと泣きだしたり、睡眠中にキャーと叫び声をあげ、飛び起きたりしたのだ。母の翠が異変に気付き、茜を説得し精神科のクリニックへ連れて行った。医者は「ご主人との生活がストレスになり、変調が現れてきていると思われます」
適応障害と診断され、薬を処方された。
両親は茜をいたわったが、簡単に回復するはずもない。
その内、母の翠も不調を訴える様になって来た。胃痛が止まらなくなったのだ。
茜も翠もほとんど面会に来なくなった。
代わりに父親が衣服の交換や日様品を届けに来た時、父親から家族の状態を知らされた。
しかし、遼は自分のせいでこのような事態になったなどと、全く自覚できなかった。
茜の心の状態や治療が気になり、翌日病院から自宅に電話を入れた。
電話に出た母に「ちゃんと治療を受け、あまり悪いようなら入院するように伝えてくれ」と頼む。
だが、それを聞いた茜は深く傷ついたらしい。当り前だ。遼は常に入院を拒み、たとえ入院したとしても、すぐに退院したいと強硬に主張するオレの今までの行動と照らし合わせれば、自分の主張の身勝手さを全く自覚していないオレにあきれ果て、絶望感を持ったのだ。それでもオレは双極性障害の影響もあり、自分の矛盾に気が付かない人間だった。
遼は少しずつ落ち着きを取り戻し、睡眠も改善していった。半面、茜はどんどん落ち込んでいった。茜なりに現状から脱け出すためには、遼との関係を解消する、離婚するしかないとの結論を出したようだ。
病院に面会に来た茜は遼に離婚の話を切り出した。オレの退院を待たずに実家へ戻ると告げた。もちろん、オレは引き止めたが茜は返事をしなかった。両親も言葉を尽くして思い止まるよう頼んだが、茜は時間を見つけ、少しずつ自分の身の回りの品を実家へ運び込んで行った。そして、遼の退院が一週間後と決まった時に出ていった。
なお、両親は茜が遼のため結婚前にあった預金をほとんど使い果たしたことを知っていたので、それ相当の金額を補填し、茜の両親へお詫びの挨拶へ行ったらしい。もちろん遼がその事を知ったのは、かなり後のことだった。
茜がいなくなった家に戻ってオレは自分の車が無くなっていることに気づいた。父が言うには、車の処分はオレの了解を得た上で行なった、とのことだ。オレには覚えがない。
そんなバカな。オレの愛車だ。オレの入院中に茜が知り合いの車屋に売り渡したらしい。
確かに、茜にとっては湯水のように金が飛んでいった憎むべき金食い虫の塊だった。車検が切れるのも目の前だった。
「こんな金食い虫、次の車検を受けずに離さなきゃ」と、二人で話していたことは事実だ。ああ~、オレのシビックType―R。
オレは失意の念にとらわれ、無念だったが、暴れるわけにもいかない。仕方がない、諦めろ、と自分を抑えることができたのは、今までとの違いだ。オレにしては上出来だ。
退院から一週間後、病院から紹介されたユークリニックに行った。紹介状を渡し、これまでの経過を話したが、オレの話にユークリニックの南野医師は優しく耳を傾けてくれた。オレと気が合いそうだ。いや、医師が合わせてくれたのか? どちらにしても、この医師に対して、オレは信頼感を感じた。また、何でも話すことが出来た。ユークリニックに通院して、三か月ほど経過した時のことだ。
「高橋さん、今は精神障害三級になっていますが、今までの入退院の繰り返しや、病状の状態から勘案してもフルタイムで継続的に働くことも無理だと思われます。二級の申請をしましょう。あなたの気持ちとしては、自分の障害がそれほど重いとは認めたくないかもしれませんが、決して安定している訳ではないのです。また、障害年金の支給額も増えます。生活の安定が少しは増すのではないでしょうか?」
「そうしていただけると有難いです」
「高橋さんの病状なら二級の申請は通ると思います」
南野医師のお陰で申請も通り、少しは生活や気持ちにゆとりができたオレは、今までずっと拒否していた障害者手帳の交付を受け、これから改めて障害者なのだと、少しばかり開き直った。
ユークリニックへ通院してからは眠れない日はあったが、少し落ち着いた日々を過ごすことが出来た。これも医師への信頼感から来るものなのか⁉
ある日、小、中、高校が同じだった加納から久方ぶりに電話が入った。
「今月の三十日に中学校の同窓会が長崎国際ホテルで六時から開催されるから、お前も出席しろよ。懐かしいメンバーもいるかもしれないぞ」
「わかった。二十年ぶりぐらいかなぁ。出席するよ。連絡有難う」
久しぶりに会う同級生は懐かしかった。
遼にとって病気を忘れるぐらい、いい気晴らしになった。
歓談が進む中、一人の女性から話しかけられる。
「あの~、高橋遼さんですね?根津雪です。覚えていますか。小学校、中学校と一緒だった、雪です」
「え~、雪ちゃん!もちろん覚えているよ。わぁ~、本当に久しぶりだね。美人になって。何しているの?元気だった?オレ、体を壊して東京からこちらに帰って来ていたんだが、加納以外、ほとんど誰とも付き合いが無かったんだ」
互いの近況等の話から、雪は今も一人らしい。何らかの事情があるらしく、男性とのお付き合いが上手くいかない、という話も出た。一度ゆっくりと食事でもしないか、ということで、次の日曜日に会う時間と場所を決めた。
長崎では日常の足として車がないと身動きが取れない。遼は一か月前に名義は母親だが、マーチの中古を買ってもらった。思ったより良く走る。
約束の日曜日、俺は前日よく眠れなかったという思い込みもあり、少しボーッとしていた。オレも久しぶりに女性と食事をしたい。雪が待っている。
栄養ドリンクを飲んで、待ち合わせの場所へ出かけた。
睡眠障害だと、他人から見れば良く眠っている様に見えるし、充分に睡眠時間も取っているが、本人にしてみればよく寝た、という自覚が精神的にも睡眠の満足感も持てない厄介な病気だ。
雪と合流し、しばらく車を走らせる。雪が話しかける。
「遼は私のあこがれの人だったんだよ。」
オレは雪に会って本当に、久しぶりに楽しかった。同窓会以来、少し舞あがっていたのだ。
この楽しさが裏目に出た。気が付くと前方の信号が赤だった。急ブレーキも間に合わず、追突事故を起こしてしまった。前の車を運転していた女性のけがの程度はわからなかったが、オレは上半身の軽い打撲傷、雪は背中と腰に打撲傷を負った。救急車とパトカーが到着し、相手の女性は病院へ搬送され、オレと雪も同様に病院へ運ばれた。両車も相当のダメージだ。長年の付き合いのディーラーの担当者も駆けつけてくれた。事故やその後の保険の取り扱いも任せることができ、助かったし、嬉しかった。家に戻ったのは夜遅くだった。
事故の状況を覚えている限り両親に説明したが、気分は落ち込む一方だ。母親は何かくどくどと言ったようだが、もうよく覚えていない。何もかも急に嫌になり、ベッドに行った。
雪との楽しい時間、高揚したテンション、その気持ちが反動で底なし沼に落ち込んでいくようだ。言いようもないくらい嫌な気分のまま、オレはまんじりともせず、明け方を迎えた。なにを思ったか、そっと家を抜け出し、その後、国道で大型トレーラーに飛び込んだ。
気が付いた時は、県立病院のICUだった。オレは死ななかったのか⁉
病院へ駆けつけた両親の顔を見たとき、オレは何も言えなかった。というより、何も言葉に出来なかった。ただ、母が「生きてくれて良かった」と、泣きながら口走った姿が随分と老けて見えた。
ICUには 雪も見舞いに来た。オレが母に知らせてくれと 頼んだのだ。
「せっかく会えた遼が自殺なんて…。でも、ひどいケガじゃなく良かった。ここは一週間ぐらいで出られるって、聞いたよ」
「ここはね…。でもこの後、精神科の入院設備のある病院に移されると思うのだ。オレは重度の双極性障害者なんだ。自分で自分が解らなくなる事があるから、雪にきちんと説明できないけど…。要するに感情をコントロールする機能が壊れているんだと思う。喜怒哀楽、どの感情も少しオーバーしただけでテンションが上がりまた、下がったりして、ブレーキが利かなくなる。酔っぱらうと訳の分からない事しても、覚えていないのと少し似ているかな。さらに病気と闘おうとして頑張ってみると、なおさら感情のコントロールが利かなくなり、同じ結果だ。一層、眠れなくなる。オレの前の妻や母親が言うには、オレは寝ていながら眠れないと寝言を言っているそうだ。また、夢遊病者が隠し持っていた、睡眠薬をワンシート全部口に放り込んでも覚えていないように、オレも何度もそのような事があったらしい。でも、自覚がないんだ」
「せっかく出会えた遼と離れたくない。遼が病気で不安を抱えていなかったら、普通の人で健常者だったら、私に目も向けることもなかったと思う。私とは縁のない遠くにいる人だった、と私は思う」
「雪、ダメだよ。オレと付き合うと不幸になる。オレは無職だよ。これからも、多分…」
「じゃ、収入は?」
「障害年金が支給されているよ。学生時代は国民年金、サラリーマンの時は厚生年金を払っていたから。ひと月十万ぐらいだよ」
「じゃあ、私の収入と合わせればやっていけるよ。一緒に暮らせるよ」
「暮らす?オレと。雪。オレのこと、どれだけ解っている? オレは死にたいという衝動を抑えられなくなる時があるのだぞ。イライラし、当たり散らし、暴力振るう時もあるんだよ。自分で自分をコントロールできないみたいなんだ。薬を飲んでも抑えることができない時もあるんだよ。そんな状態が続けば、雪は耐えられないと思う。雪は不幸になるよ」
「そんなのやってみないと解らないでしょう。私は遼と一緒にいたい」
「じゃあ、オレが退院したらまず一年ほど付き合ってみるって事でどうだ?」
「わかった。そうしよう。遼の退院、待っている」
その後、転移させられた総合病院の精神科で遼は事故の後遺症が現れないか、検査を受けながら一ヵ月半ほど留め置かれた。両親以外の面会は許されなかったが、後遺症も出ず気持ちも落ち着いてきた。
主治医の意見はまだ自殺企図が消えていないようなので、もう少し様子を見たいとのことだったが、今回もまた遼は退院を強く主張し、主治医は渋々ながら日常生活の約束事を守ることを条件に退院を許可した。
退院後、ユークリニックの南野医師の診察を受けに行った。すでに先生はトレーラーに飛び込んだことは、すでに両親から聞いていたらしく、本気で怒られたが、遼は事故後の絶望感と自然と湧き出てきた自殺願望は自分でも、どうにもこうにもならなかった感情だと訴える。
とにかく一度、ハネ上がった感情は自分では抑えられない。これが双極性障害なのだ。
車が事故で全損のため、雪が待ち合わせ場所へ迎えに来てくれた。
「ねえ、遼、ワタシあれから精神疾患について、双極性障害も色々と調べたよ。臓器が悪ければまず内科。手術が必要なら外科。足腰の痛みや骨の異常なら整形外科。精神が壊れたら精神科。当たり前のことでしょう。それに睡眠障害の人は二人に一人いるらしいじゃない。睡眠に関するサプリや飲み物のCMも多いよ。鬱病だって、十人に一人程発病していると言うじゃない。だから、遼みたいな双極性障害だってかなりいると思う。自分だけをダメだと思うのは止めなよ」
「雪は精神障害を軽くみているんじゃないのか?オレは躁になると多くの双極性障害の病人と同様、金使いが滅茶苦茶荒くなるんだ。半端じゃなく。さらにイライラしやすくなる。暴言を吐いたり、時には物に八つ当たりし、暴力を振るうことも度々ある。そして、その反動で落ち込み、鬱になり、消えてしまいたいと思ったりする。でも、その精神状態の時はそんな事をしているとの自覚、記憶がないんだ。後になってから解るんだ。今まで何回もそれを繰り返して来た」
「そんなことばっかり言って! 遼はワタシが側にいたら迷惑?」
その後、実家で暮らしていた雪は親に何と言って了解を得たのかわからないが、職場近く
にアパートを借りた。オレは時々、週末に雪のアパートに泊まるようになった。
先だっての事故で車は全損だったので、車両保険から保険金が下り、その範囲内で親が車を購入してくれた。ただし、少しでも調子が悪い時、睡眠薬がまだ体に残っているような時や自分では自覚していないが、親から見て舌がもつれている時は絶対に運転しないと約束させられたが。
さらに、飛び込まれたトレーラーの運送会社から弁護士を通じ、修理代も含め、多額の損害賠償請求が来たらしい。運送会社にすれば多大な迷惑を被ったのだ。すべて両親が対処してくれた。
つくづく思った。オレはこの両親だからこそ、今まで生きて来られたのだ。以前入院していた精神科病棟の別病棟には、家族との関係を断たれたまま、そこで何年も入院生活をしている患者が沢山いた。オレはその患者から見れば、親からはまだ見捨てられていなく、恵まれていると。
オレは雪と付き合っている内に、自分をリセットできるように思えてきた。
その後、雪との関係は順調に深まっていったが、その内、雪は笑顔が少ないこと。さらに時々、かなりトンチンカンの事を言うのに気が付き、戸惑いが生じてきた。
付き合い始めて一年程経った頃、一緒に暮らそうという話が具体化してきた。
「雪、本当にオレで良いのか? 金に困るぞ。オレの収入は月十万程だぞ。アパートの家賃と光熱費で消えるよ」
「じゃ、私が遼の両親と同居すれば家賃など掛からないんじゃない?」
「そうだな。それならやっていけそうだ。両親も協力してくれると思う」
「決まりだね」
だが、雪との結婚生活は直ぐに、ほころび始める。
雪は軽い買い物依存症のように見えた。どうでもいいような雑貨小物をどんどんと買ってくる。百均で数十点も一度に買う。それも頻繁に。食料品、調味料も冷蔵庫一杯に詰め込む。冷凍庫も満杯だ。
夜半、半額になった総菜を山ほど買ってくる。その結果、生活費が足りないと訴える。
「夕食はオレ達の分もオフクロが作ってくれるじゃないか。冷蔵庫の中の物は自由に使って良いて言われているじゃないか」
「私が食べたいと思うもの買ってきたらいけない訳!」
「そうじゃないけど、金が足りないんだろう?」
「私が、自分のお金で買っているのよ」
「でも、色々と買ってくるから部屋の中もゴチャゴチャになって来てるし、もう少し考えて必要なものだけを買ったら?」
「遼、私の自由を束縛するの!」
言い争いになる。
遼は疲れ、イライラの時に服用するリスパダールを飲んで、一人ベッドへ行く。
数日後、雪は辛口の白ワインを買ってきた。ワインは遼も好きだ。
食器棚に大切にしまわれていたクリスタルのワイングラスに注いでくれた。
久しぶりに充実した時間を過ごせた。
だが、雪はそのグラスを片づける時に割ってしまった。一度に沢山の食器をお盆に乗せて運んでいたからだろう。今回が初めてではない。先日は塗の椀を、その前は一点物の陶の皿を、さらに、潦が大切にしていたビアタンブラーも割られた。家で大事に扱われてきた器だった。雪はなぜ大雑把なのか、注意力が足りないのか?
ある日、大きなマッサージチェアーのようなものが届いた。雪に聴くと、電磁波を発生させ、リッラクス効果で疲れも取れ、万病に効くので遼も使ったら、と言う。
「高かったんじゃないの?」
「百三十万ちょっと」
「よくそんなお金あったね。」
「結婚した時にもらったお祝い金や結納金をよけてあったの」
遼は怒鳴り付けたい気持ちを、リスパダールを飲み、その日は何とか自分を抑えたが、その後も雪の言葉が遼の心を苛ませる。雪は自分の言動が遼をイライラさせているなどと思わないようだった。遼はストレスが溜まり、ユークリニックから今までと違う精神科病院を紹介してもらい、任意入院をした。
病院で雪の状態を主治医に説明し、相談に乗ってもらった。主治医は遼に幾つかの質問をした後、「くわしく検査をして見ないと解りませんが、奥さんは発達障害の中の一つ、アスペルガーの可能性がありますね」
アスペルガー症候群は知能障害や言語障害はないが、社会的コミュニケ―ション能力、想像力、共感性、イメージする能力などに欠け、特定の分野へ強いこだわり、感覚の過敏性などが特徴とされる。空気を読めないという言葉が当てはまる。
遼も精神障害を患っているので、ある程度のことは調べてあったので、自分の予想が不幸にも当たった。しかしながら、遼は遼で自分のことがはっきり判っていない。雪も当然自分はまともだと思っているに違いない。
雪には親しい友達がいない。雪が言うには、職場でも自分がなんで注意されるかが解らない。納得出来ないことで、度々注意されることがあると言う。想像力の欠如だ。
十日間程で気持ちも落ち着いてきたので退院し、帰宅した遼は主治医から聞いた話を雪に伝え、検査を受けてみようと提案した。案の定、雪の反発は尋常ではなかった。
「どうして私抜きに勝手な相談するのよ! それに医者に相談した内容って、遼が感じて思っている遼の主観を伝えただけでしょう。遼の偏見じゃない。絶対嫌よ」
雪は乱暴に部屋のドアを閉め、目を吊り上げ、隣の部屋にサッサッと行ってしまう。遼が話しかけても、口も聞かない。さらに数日後、仕事から帰って来た雪が突然言い出した。
「私が一日中働いているのに、遼は少しでも私の負担を軽くしようとは思わないの?何もしてくれないの? せめて私のシャツにアイロンぐらい掛けといてよ。だいたい、ワタシが太ってきたのもストレスが原因なのよ。この家も遼も…」
鬱状態の遼がなんとか応える。
「わかったよ。アイロン掛けておくよ」
一ヶ月程経ったある日、雪は遼に言い放った。
「私、気晴らしに土曜日に実家に帰って、月曜日の夜ここに戻って来るようにする」
「好きなようにすれば」
次の週の土曜日も実家へ帰る用意をし出した。
雪もオレのイライラ、暴言に耐えていたこともあり、相当精神的に追い込まれていた様だ。ストレスを抱えながらオレとの生活をしていたのか。双極性障害とアスペルガー、お互いに上手くいかないに決まっている。最悪だ。もうすべてが嫌になった。
遼の気分は急速に落ち込んでいく。
鬱状態が激しく一日ベッドから起き上がることが出来なかった。
オレはこれからも仕事はできない。社会的な活動も無理だ。今はただ息をしているだけだ。生存していなければならない理由も見出せない。何もかも忘れたい。不幸な思いを断ち切りたい。昔のいつだったっけ?幸せや仕事の喜びを感じたのは?この辛い人生とオサラバしたら幸せになれるかもしれないなぁ~。
深夜、遼は風呂場で左腕の動脈を切った。
楽しく遊び回った小さい頃、仕事は忙しかったが充実していた自分を思い出しながら。
遼が目を覚ましたのは、総合病院のICUのベッドの上だった。また、死ねなかった。救
急車で運ばれたのはもう何回目だ? 自分でも判らなくなっていた。
外科的処置が一通り終わり、三日経過した後、先日任意入院した精神科病院へ転移した。この病院は初めて入院した公立の病院が厳しい管理体制を取っていたのと違って、緩やかな体制だ。患者が安定した状態なら、自由に患者同士が交流出来た。
遼は山上という同年代の一人のアルコール依存症の患者と親しくなった。将棋を指しながら、自分は趣味で小説を書いているが、何時か賞を取ることが夢なんだ、と語ってくれた。
その為にも何とかアルコール依存症から抜け出したい、と情熱を込めて小説を書く面白味を話してくれた。
遼にとっては、今までと違う世界を生きていた人の話で新鮮な刺激だった。
「オレにも書けるかな?書いてみたいな。書いてみようかな」
「コツさえつかめば誰にでも書けるよ」
オレは入院中、彼から手ほどきを受けた。結果、ハマった。広告代理店にいたのだから、文字を書くという事に抵抗は無かった。自分ながら稚拙な文書だと思ったが、何とか入院中、原稿用紙を埋めてみた。充実感、やったぜ!
「発想は面白いが、話が唐突で飛躍し過ぎる。同じ言葉を続け過ぎる。違う言葉で言い換えれば表現の幅も広がる」など専門的なアドバイスをもらうが、遼にとってはまだチンプンカンプンの感じだ。山上から入院中「高橋さんなら出来る。これからも書き続けるように」と励まされた。
思いがけずに今、遼は新しい世界に足を踏み入れた。
雪とは退院後、話し合って別れた。
少しだけだが身体にエネルギーが充填されるのが実感出来た。
次に何を書いてみようか?
終
精神疾患の著書はたくさんあります。しかし、それは医師から見て書かれた物ばかりです。私も何冊か読んでみましたが、トンチンカンな事や患者の気持ちを考えて書かれたものはほとんどありませんでした。私は患者の視点に立って書きました。取材に応じてくれた人は、自分の事を思い出すのが脳に受けたダメージをかきむしられているようだ。思い出したくないものまで思い出した、と本当に苦しそうでした。ある日自分がなっても不思議では無い病気です。今でも精神疾患に対して差別はあります。しかし、この作品を読んで少しでも精神疾患の人の苦しみを知って、差別する意識を無くしてもらいたいと願っています。