不死を狩る者
——どうしてこんなことになってしまったのだろう。
自問の末、その答えが自らの愚かで浅ましい試みにあると結論づけるのに、そう時間はかからなかった。
彼女——スロニー・ベロニカは今、生命の危機に瀕している。
暗闇に閉ざされた礼拝堂において、光源と呼べるものは高窓からわずかに差しこむ月明かりと、部屋のすみで揺れる蝋燭の灯だけだ。死人のように青白く痩せこけた蝋燭がいただく炎は、息を吹けばたやすく消えそうなほど小さく、頼りない。
スロニーには、それがまるで自分に残された命の時間であるかのように思えて、炎がまだ消えませんように、と一心に祈った。
どれほどの時間が経っただろうか。
はじめは暗闇のむこうにぼんやりと見えるだけだった光景は、スロニーの目が闇に慣れるにつれ、その凄惨な輪郭を明瞭にしていった。
壁に寄せるようにしてうずたかく積まれたそれは、かつて人だったものの残骸だ。屍の山を構築する肉片のほとんどは、凄まじい力によって引きちぎられ、あるいは押しつぶされて原型をとどめていない。それでも床に散らばる破片のいくつかに、それらがかつてたしかに人間であったことを思わせる名残があった。
例えば長椅子のそばに転がる白髪頭は、ロルトック夫人。恐怖と苦悶を張りつけたまま永遠に時を止めた彼女の視線の先に落ちているのは、村一番の力自慢だったネノラの毛むくじゃらの太い腕だ。
そのすぐ奥の壁には、ヨレースの顔面を叩きつけて生じた亀裂があり、特徴的だった彼の長い茶髪が血や脳漿とともにこびりついていた。
みな、スロニーの目の前で殺された。あの『怪物』の手によって。
数えきれないほど嘔吐した。腹のものをすべて吐き出し、胃液も枯れ、それでも喉の奥からせりあがってくるものに血が混じりはじめてなお、スロニーは生への執着を手放せなかった。
それはある種の防衛本能だったのかもしれない。
スロニーの本能は、血の匂いと繰り返される殺人の光景に晒されながらも、冷静な思考を巡らせることができる程度には、スロニーの感覚を麻痺させていた。
——逃げるには今しかない。
とスロニーは思った。
あの怪物が自分を残して出ていった今が、最大の、ともすれば最後になるかもしれない脱出のチャンスだ。
スロニーは自分を後ろ手に縛る縄の感触を手のひらで確かめながら、かつて祖母が教えてくれた魔法のことを思い出していた。
子供でも扱える簡単なものだ。もっとも適正が低いスロニーにとっては、それすらも容易とは言えなかったのだが。
慎重に舌で唇を湿らせ、唱える。
「炎よ」
「赤の五級——『レア』」
なけなしの魔力を振り絞る。決死の覚悟を燃料に彼女の指先に灯ったのは、あまりにも弱々しい炎。だが縄を焼き切るのに十分な熱を放つそれは、希望の光だった。
炎は瞬く間に勢いを増し、スロニーの自由を奪う縛を燃やし尽くす。手首の耐えがたい熱気に強く腕を引くと、縄は結び目を残してあっけなくちぎれた。
「⋯⋯やっ、た」
拘束によって肩の筋肉はこわばり、すこし動かしただけでも骨の芯に石をぶつけられたような痛みが走った。だがそんなことはすでに意識の外にある。
はやる鼓動に急かされて立ちあがる。振り返った先に、白いトーク扉が見えた。
『怪物』の暴虐によって文字通りの血の海と化した床は、スロニーが歩を進めるごとに深紅の波紋を生んだ。裸の足裏におぞましい感覚をとらえながら、スロニーはようやく扉へとたどり着いた。
血で汚れた把手を握りしめたスロニーは、深呼吸とともに、一度だけ振り返った。
「⋯⋯みなさん。ごめんなさい。必ず弔いに戻ります」
ゆっくりと扉を押し開く。
最初に感じたのは光だった。なんてことのない、慎ましやかな月の光だ。しかしそれはまるで、神の祝福がスロニーの壊れかけた心を慰めるかのように降り注いでいた。
生ぬるい夜風が、体に染みついた血の匂いを拭い去り、土と新緑の香りを運んでくる。それはまさしく渇望していた外の空気だった。
早くこの場から立ち去らなければならない。そうと知りながらも、スロニーの足は動かなかった。昨日まで人々が泣き笑い、必死に生命を営み続けたこの村に、もう彼らはいない。この村がかつての様相を取り戻すことは二度とないのだろう。
だれかの声はおろか、虫の音すら聞こえてこない静寂がその残酷な事実を物語る。
不安と恐怖で抑えつけられていた感情が、涙となってこぼれ落ちた。
逃げる前にせめてもう一度だけ、思い出の残る村の風景を脳裏に焼き付けようと、滲む視界であたりを見回した時——
「どこに行こうとしてるの?」
ぞっとするほど冷たい声が、その感傷を引き裂いた。
「——あ」
スロニーの足元、彼女よりもずっと背の低い少女が恐ろしい形相で彼女を睨みつけていた。
スロニーの表情が凍りついた。淡い希望は霧散し、自分は二度とこの悪夢から逃れられないのだと悟る。次の瞬間、少女の細腕から繰り出された、見た目とは裏腹な怪力によって、スロニーの体は教会の暗闇へと吹き飛ばされていた。
まるで横に向かって落下していると錯覚するほどの速度で、その体は礼拝堂の最奥へと運ばれる。空中で受け身など取れるはずもなく、勢いそのままに壁に叩きつけられる。
全身の骨が軋む音とともに、視界が真っ赤に染まる。
抵抗の余地なく崩れ落ちるスロニーを、犠牲者たちの臓物と血の海が迎えいれた。異臭が鼻腔に突き刺さり、血の飛沫が全身を汚す。
だが、それらに頓着する余裕は今のスロニーにはない。
「ッ⋯⋯ア⋯⋯」
呼吸が止まるほどの激痛。悲鳴をあげることすらできず、苦悶のうめきをあげて血の海をのたうちまわるスロニーの頭上に影が落ちた。
「なんで? どうして逃げようとしたの?」
怒気を孕むその声は、やはり年端もいかぬ少女のものだ。肩まで伸びた美しいブロンドの髪に、宝石のような輝きを放つ紫紺の瞳。年相応の幼さを残す端正な顔立ちに、苛立ちの色を強く滲ませて少女はまくし立てる。
「約束したよね? ミニアの家族になってくれるって言ったよね? 教会から出ないって言ってくれたよね? どうして? どうして約束破るの? ミニアは約束破ったことないよ?」
「ちが⋯⋯」
「ミニア知ってるよ? 嘘つきは泥棒の始まりだって。スロニーもそうなの? ひどいよ! スロニーは優しくしてくれたから家族にしてあげたのに! こんなの許せないよ!」
少女は喚き散らし、怒りを発露する。とどまることを知らない狂気じみた剣幕にスロニーの顔はますます青ざめた。しかしそれを意に介することなく、少女は礼拝堂の壇上——そこに座する『人影』へと叫んだ。
「ねぇ! 『パパ』もそう思うでしょ!?」
「————」
返答はない。暗闇にスロニーの荒い息遣いの音だけがやたら大きく響いた。にもかかわらず、少女は人影に向かってしきりに頷いている。
「うん」だとか「そうだね」といった相槌を一方的に投げかけ、ままごとのような交信は続く。しかしそうしていくうちに少女の態度は落ち着きを見せていった。
「⋯⋯うん、わかった。許すことも大事なことだよね。ミニアいい子だからちゃんとわかってるよ」
そう言って、少女はゆっくりとスロニーへ向き直った。さきほどまでの激昂がすべて嘘だったかのような柔和な笑みをたたえて。
「パパが許してあげなさいって言うから、特別に許してあげるね! どう? スロニー、嬉しいでしょ?」
一見無邪気な声音の中には、しかし肯定以外の返答を拒む威圧感があった。それに気圧され、スロニーは痛みの中で必死に首肯する。
その様子に少女は満足げに微笑んだ。
「よかった! じゃあこれからはまた家族だね!」
少女の明るげな声に、スロニーは安堵の息をついた。脱出は失敗したが、命まで取られなければきっとまた機会はある。これからこの狂った怪物とふたりきり、また闇の中に閉じ込められるのだろう。
だが諦めてはいけない。希望を捨ててはいけない。そうすれば、きっと——
そんなことを、スロニーは考えていた。それがいかに愚かしく、そして浅はかな考えなのか、すぐに思い知る。
「じゃあずっとここに住むんだし、足はいらないよね!」
ミニアの華奢な手に、斧が握られていた。
「⋯⋯まっ、て」
掠れた声での制止を無視して、少女はいまだ体を動かすことのできないスロニーの後ろへとまわった。そのままスロニーの足を踏みつけると、狙いを定めるように柔肌に斧の刃を滑らせる。
「お願いします。もう逃げませんから。お願い、許して」
太腿を撫ぜる鉄の冷たさに、全身からどっと汗が吹き出た。嗚咽混じりの懇願に、少女は冷たく言い放つ。
「⋯⋯約束、破ったのがいけないんだよ?」
少女の顔から笑みが消えていた。スロニーはようやく悟る。逃げ出そうとした自分を、ミニアは最初から許す気などなかったのだと。
銀の軌跡をえがいて斧が振り上げられた。その一撃が自分の足を根本から断ち切るのを想像して、スロニーはかたく目を閉じた。
——だが、覚悟したはずの痛みは一向に襲ってこない。
おそるおそる目を開け、視界の端で立ち尽くすミニアの姿を捉える。
ミニアはまるで自分が今振り上げているものがなんだったのかを忘れてしまったような呆けた顔で固まっていた。その視線はスロニーではなく、今しがた自分もくぐった教会の入り口へと向けられている。
「⋯⋯おにいさん、だれ?」
ミニアの言葉に釣られ、その視線をたどる。
開け放たれた扉の向こう。黒一色の影が立っていた。頭から膝までをローブですっぽりと覆い、フードを目深におろしたその姿からは性別はうかがえない。にもかかわらずミニアがその影を『おにいさん』と呼んだのは、本能的にその性質を見抜いていたからだろうか。
影はミニアの問いに答えることなく、滑るように礼拝堂へと踏みだした。
ゆるりとした歩調でせまる影に、ミニアが警戒を強める中、それは月明かりの届かない礼拝堂のなかほどまで進むと、不意にフードを外した。
鼠色に近いくすんだ銀髪、それと同色の瞳を携えた怜悧な眼光がミニアを射抜く。
「『不死狩り』ディルク。——おまえを殺しにきた」
男の口から出た言葉に、思わずスロニーは息を呑んだ。
不死狩り。
その名の通り、人の宿命に背き輪廻の輪から外れた存在を——すなわち『不死者』を狩る者たち。男の言葉を信じるなら、ディルクと名乗った不死狩りの目的はたったひとつしかない。
——村に惨劇をもたらした不死者ミニアの討伐。
不死狩りの登場はスロニーにとって再び見えた希望の光といえる。しかし、一度期待を裏切られたスロニーの内心は安堵とは程遠かった。
ディルクの細身のシルエットからは武装の気配を感じない。彼が対峙するミニアは外見こそ幼い少女のものだが、その正体は素手で人体を八つ裂きにし、温い血を飲み干す人外だ。
その怪力によって村人たちが次々と殺されてゆくのを目の当たりにし、そしてつい今しがた身をもって体感したスロニーにとって、ディルクの軽装はあまりに頼りなかった。
皮肉にも、ミニアも乱入者に対して同じ印象を抱いたらしい。
その幼い表情から警戒の色が失せ、暴虐を邪魔された怒りが代替する。
「殺す? 私を? ありえない。そんなのできっこない! そもそもなんで勝手に人の家に上がり込んでるの!? 非常識にもほどがあるよ! 許せない! 殺す、殺すよ! 絶対に殺す!!」
ほとばしる絶叫とともに、ミニアの体が大きく跳躍した。礼拝堂の低い天井ギリギリを滑空するように横切り、斧をディルクへと打ちおろす。
外法の身体能力から繰り出されたその一撃は、常人では反応すらできなかっただろう。
しかし、不死狩りは常人ではない。人外を狩る彼もまた、人間の領域を大きく逸脱している。
ディルクは足を引き、わずかに身を引いて斧の軌道上から身をはずした。刹那、凄まじい風圧とともに振り下ろされた斧が、その脇をかすめながら通過し床板を破砕する。
「避けるなぁっ!!」
怒号とともに、続けざまに斧がふるわれた。剛力に任せてくりだされる一撃は、それが鉄の塊であることを忘れてしまいそうになるほどに素早く、正確にディルクの急所を狙いすましている。
目にも止まらぬ速さでふるわれるそれを、しかし不死狩りの目はたしかに捉えていた。わずかに体をねじり、あるいは短くステップを踏んで、迫りくる絶死の一撃を紙一重で躱しつづける。
ディルクの踊るような体捌きは、ミニアを翻弄し、その稚拙な斧術をものともしていない。だがスロニーには、事態は好転するどころか、ますます悪い方向に向かっているように思えてならなかった。
そんな悪い予感を裏付けるように、不死狩りの体は斧を避けつつも徐々に後退してゆく。横殴りの雨のような激しい連撃は、命を奪うには十分すぎるほどの威力を纏い、同時にその速度は不死狩りから反撃の機会を奪っていた。
そしてついに退路が尽きる。薙ぎ払うように放たれた一閃を躱したディルクは、背中に硬い壁の感触を得て、そのことを悟った。
必然生じる一瞬の隙を、ミニアは見逃さない。
「死ねぇっ!!」
叩きつけるような上段からの一振り。その不可避の一撃に、ディルクは右腕を掲げることで応えた。
それはあまりにも虚しい抵抗のように思えた。不死者の怪力から振りおろされる斧は、とても片腕ごときで防げるものではない。決死の覚悟で差し出したであろうその腕もろともディルクの頭蓋が叩き砕けるのを想像して、ミニアの口元にひどく歪な笑みが吹きこぼれた。
だがそのミニアの予見とは裏腹、礼拝堂に響きわたったのはディルクの断末魔でも、脳天が破砕される音でもなく——
「なっ⋯⋯」
——ミニアの振りおろした斧を真っ向から迎え撃つ、鋼の音だった。
「義手ッ!?」
飛び散った火花に照らされ、驚愕に見開かれたミニアの眼と怜悧な意思を宿すディルクの眼、その視線が交錯する。
刹那、甲高い音ともに斧がミニアの手から弾き飛ばされた。黒いローブが翻る。弾丸のように飛び出したディルクが、ミニアの懐へと潜りこんでいた。生身の手が伸び、その掌がミニアの体の中心を捉える。ディルクの唇が小さく動き、呪文が紡がれた。
「緑の三級『フレクトリアス』」
緑の閃光が爆ぜ、血飛沫があがった。密着状態で炸裂した風の刃がミニアの小さな体を軽々と打ちあげていた。放物線を描きながら落下するミニアの肉体は、その過程で大小様々に空中分解し——胸から下と、左腕を失った少女はにぶい音を立てて床へ転がった。
「⋯⋯勝っ、た」
ミニアの体からあふれる血が、赤く染まった床板を、なおおぞましい色に染めゆくのを見て、スロニーは不死狩りの勝利を確信した。
暗闇で繰り広げられたふたりの攻防は、スロニーには目で追うのがやっとだった。村を壊滅させた恐ろしい怪物であるミニアの怪力はもちろん、その猛攻を掻いくぐって戦いを制したディルクの実力も、スロニーの理解の範疇にない。
だがひとまず、人外同士の戦いは不死狩りの勝利で幕を閉じたこと。そして自分がなんとか助かりそうであることを、他人事のように認識していた。
だというのに、敵を打ち倒したはずのディルクの視線はいまだ厳しい。スロニーは訝しみ、その視線をたどり——眼前、ありえないものを認める。
その光景はまるで時が巻き戻るようだった。横たわるミニアの体。無数の裂傷がみるみるうちに塞がり、欠落した下半身の断面からは草木が芽吹くように骨と血が、そしてそれらに絡みつくようにして肉が再生してゆく。
「⋯⋯いったぁ〜〜〜〜〜い」
わずか数秒間の出来事だった。底冷えするような声とともに怪物が再起を果たす。
再生にともない、ミニアの装いは胸にまとわりつくボロ布一枚になっていた。怪物はそれを気にする風もなく、傷一つない白い裸体を暗闇に晒す。
「⋯⋯そんな」
——『不死者』。
呪いによって死の枷から解き放たれた、人が人である所以を捨てた咎人の成れの果て。怪力をもって人肉を喰らい、決して死なない存在。
不死者のことをそう伝えるおとぎ話に、スロニーは懐疑的であった。人の肉を喰らうというのはわかる。禁足地を跋扈する魔獣はおろか、野犬ですら人を襲って喰らうのだから。だが魔法の直撃を受け、肉体の大部分を失ってなお立ち上がる怪物が実在しているとは到底思えなかったのだ。
だが、もはや認めざるをえない。不死者を殺すことはだれにもできない。この悪夢から逃れることも。
ミニアの再生はスロニーの心を三度絶望へと突き落とした。だが、不死者の意識はもはやスロニーには欠片も向けられていない。
憎悪にゆらめく紫紺の双眸は、対峙するディルクのみを射抜くように映している。
「これでわかった? 私は死なない。お前に私は殺せない。死ぬのはおまえだけ。⋯⋯もう、絶対に許さない」
先程までの激情に任せたものではない。研ぎ澄まされた刃を思わせる、肌を刺すような冷たい殺意。得物を失いながらもその殺意は微塵も衰えていない。それどころか、ミニアの瞳には執念にも似た危険な色が灯っていた。
ミニアの闇雲な攻撃はディルクには通じない。だが同時に、ディルクもミニアを完全に殺す術をもたない。事実上の千日手。ならば、不死者のタフネスを有するミニアに分がある。その有利を、不死の怪物に身を落としてなお、ミニアの理性は自覚している。
ゆえにミニアは攻撃をしかけない。余計な反撃を受け、再生の隙をついて逃げられるよりも、人間であれば必ず生じる疲弊による綻び——その瞬間を虎視眈々と狙うことを選択する。
「おまえはここから出られない。絶対に生かして返さない。何時間でも、何日でも、何年でも、いつまでもいつまでもいつまでも!! おまえが死ぬまで戦い続けてやる——!!」
「⋯⋯悪いが、おまえにそれほど時間をかけるつもりはない」
「は?」
ディルクはミニアの言葉を遮るように、左腕——義手ではない方の腕だ——を掲げた。ローブの裾がずり落ち、その下の光景があらわになる。
「——なに、それ」
ディルクの腕には、幾重にも螺旋を描くような不可思議な紋様が刻まれていた。暗闇の中、かすかな月明かりを受けて鈍い金色の光を放つそれは、蛇の鱗か、流れる涙の雫のようにも見えた。
「『ILL VILL LYNN』」
『起動』を司る誓言に、紋様が歪む。紋様はあたかも独立した意思を持つ別の生き物のようにディルクの腕を離れて、虚空にとぐろを巻いた。その輪の中に生じた魔力の奔流が、鋭く、硬く、研ぎ澄まされ、形をもって現出する。
「『献身』の杖——エクシオン」
そして手中におさまったそれを、不死狩りは杖と呼んだ。だがそれは杖というには巨大すぎる。ディルクの身の丈ほどもあるそれは槍、あるいは呪術に用いられる不気味な祭具のようだ。
流れ落ちる水流が、その途中で時間を止めたような歪な形状。握りから柄に至るまでを黒曜石のような漆黒に染めたそれは、人工物では決してありえない、荒々しい輝きと畏怖をたずさえている。ともすれば神秘的ですらあるその黒杖の切先を、ディルクがゆっくりと向けるのを見て、ミニアは息を呑んだ。
だが、得体の知れない威圧感に気圧されて顔が引きつったのは一瞬のことだった。ミニアの表情にはすぐに余裕が戻り、嘲るような笑みが浮かぶ。
「⋯⋯杖? それがおまえの切り札? くだらない。杖なんかでなにができるの。おまえの魔法じゃ私を殺せない。何度やったって無駄だよ!!」
「なら、そのままじっとしてろ」
閃光がほとばしるのと、ミニアがその場に崩れ落ちるのは同時だった。
「なっ⋯⋯」
額を床にしたたかに打ちつけ、ミニアは憎々しげにうめいた。その声は決して苦痛からくるものではない。
本来であれば魔法の行使に必要不可欠であるはずの詠唱を、完全に省略して放たれた一撃。胸の中心を正確に貫いたその閃光は、詠唱を省いた代償として威力を伴っていない。ディルクの魔法によって受けた肉体的なダメージは非常に軽微であり、それも不死者の再生能力によって瞬く間に治癒していた。
だというのに体は動かない。上体を起こすどころか、指一本動かすことすらもままならない。
「緑と青の複合属性——『麻痺』の魔法だ」
頭上から、諭すようなディルクの声。ミニアは唯一自由に動く目だけでディルクを視界に捉え、憎々しげに睨みつける。
「こんなケチな魔法で勝ったつもり? なにも状況は変わってやしない。こんなのは所詮時間稼ぎよ。どこへでも逃げればいい。必ず追いついて、殺してあげる」
「いいや、おまえはここで終わりだ」
「終わり? 終わりなんてない。私は死なないんですもの」
「⋯⋯たしかに、今おまえを殺すことはできない」
言いながら、ディルクは倒れ伏すミニアの背中を踏みつけた。そのまま、細く白いうなじへと、黒杖の切先を突きつける。
「だが首を落とせば再生に数時間はかかる。その間になんとかするさ。狭い箱に押し込めるなり、鉄と一緒に溶かすなり、な」
ディルクの言葉に、ミニアの顔が青ざめた。
杖の先に、魔力の刃が形成される。それはさながら罪人の首を落とす断頭台の刃のように、ミニアの白い頸を狙いすましていた。
詰みが眼前に迫っていることをようやく悟り、ミニアは懸命に力を振り絞り、刃から逃れようと試みた。だが魔力による呪縛は簡単に解けるものではない。抵抗の証としてわずかな身じろぎが生じるだけだ。
「やめろ。やめろやめろやめろやめろやめろ!! どうして!? ミニアは悪いことなにもしてないよ!? みんながミニアをいじめるから殺しただけ! 何日も地下に閉じ込めて、なにも食べさせてくれなかった! ミニアは悪くないよ! そうだよね!? 『パパ』!?」
ほとばしるミニアの絶叫。縋りつくような嗚咽の中に混じった、父親を指す言葉に、ディルクはミニアの視線の先を一瞥した。
礼拝堂の最奥。教壇に座す影。その正体に気づき、ディルクは忌々しげに顔を歪めた。
「⋯⋯緑の五級」
「やめろ! やめ——」
「——『フレクト』」
怪物の叫びを遮るように魔法は放たれた。必要最低限の魔力で練られた薄緑の刃は、しかしいともたやすく少女の首を切り落とした。
ディルクは仕留めた獲物には目もくれず、教会の惨状を横切り、倒れたスロニーへと歩みよった。
その黒いローブから、ミニアのものであろう真っ赤な血が滴り落ちているのを見て、スロニーは細い息遣いをさらに細くする。そんな怯えを知ってか知らずか、ディルクは彼女の傍でおもむろに膝を折った。
「大丈夫か?」
言いながら差し出された手に、あの黒曜石のような長杖はない。役目を終えた杖は再び紋様へと戻り、ローブの袖に隠されたディルクの腕へ刻み込まれていた。
代わりに、今ディルクの手の中に収まっているのは液体で満ちた小瓶だった。栓はすでに抜かれており、そこから花の蜜のような甘ったるい香りが漂っている。
「治癒の魔法は苦手なんだ。悪いが薬で治してくれ」
ディルクに支えられながらなんとか上体を起こし、スロニーは受け取った小瓶の中身を一息で飲み干した。
よほど腕のいい薬師によるものであろう、その薬の効果は覿面だった。全身を駆けめぐる電撃のようだった激痛が和らぎ、ささくれだった神経を穏やかに鎮めてゆく。穏やかな安寧は、スロニーに落ち着きを取り戻させていた。
「ありがとう、ございます」
囁くように礼を言う声は、明らかに潤いと抑揚を欠いていた。魔術の施された魔法薬は、たしかにスロニーの肉体を癒やしていたが、心についた傷までは癒せない。
ディルクはちらりと、血の海の中で倒れ伏すミニアの肉体を見やった。首と胴体とを致命的に分たれたそれは、もはや再生の兆しなど無いように見える。
「歩けるか?」
「⋯⋯はい」
ディルクに震える手を引かれ、スロニーは今度こそ暗闇から脱した。
雲間からのぞく月が眩しい。その光に照らされて浮かび上がる情景は、やはり静寂に満ちていた。
営みの一切が根絶され、闇の淵で時を止めた農村。
現実を受け止めながら、もう不思議と涙はこぼれなかった。生き残った実感と、喪失感、後悔と罪悪感とがないまぜになってスロニーの胸中を押しつぶしていた。
呆然と立ち尽くしたままのスロニーに背を向けて、ディルクはフードを目深に被りなおして言った。
「そこで待っていろ。不死者の『死体』を回収してくる」
「⋯⋯私もついていって構いませんか?」
「⋯⋯なんのために?」
「彼らのために祈りたいのです」
ディルクは眉をひそめた。
「祈ったところでどうにもならないぞ。死んだ人間は生き返らない。——それこそ不死者でもない限り」
スロニーのかすれた声は疲労が色濃く滲んでいた。整った顔立ちも今は苦悩に歪んでおり、憔悴しきっているのは明らかだった。少しでも休息が必要であるはずだった。
「⋯⋯それでもせめて祈りたいのです。彼らが死んだのは、私のせいですから」
丁寧に頭を下げる彼女に、不死狩りはなにも言わなかった。彼女の言葉を追求することもなかった。
ただローブを翻したその後姿が教会の闇へと消える直前、「ついてこい」とでも言うように手が振られたのを見て、スロニーは彼の後を追った。
「——ッ」
扉をくぐった途端、鼻腔を満たす死臭に、こみ上げる吐き気を堪えながらディルクの姿を探す。
彼は礼拝堂の暗がりの奥、倒れ伏した不死者ミニアの傍でしゃがみ込んでいた。
ミニアの肉体は、教会を出る前と寸分違わぬ位置でピクリとも動かない。ディルクの言ったとおり、不死者といえども首を落とされれば再生に時間がかかるらしい。
そのことに内心胸を撫でおろしながら、ディルクの手元を覗きこんだスロニーは小さな悲鳴をあげた。
「⋯⋯言っただろ。殺すことはできない、と」
言葉が出なかった。だがディルクの言葉が疑いようもない真実であることを、眼前の光景が物語る。
ミニアの首の切断面は蠢いていた。血の滴る肉が不自然に隆起し、奪われた頭蓋を探し求めている。その様はまるで蛆虫が餌を欲して這いずりまわっているようであり、それは死んだ生物の肉体的な反応と断じるにはあまりにもおぞましかった。
そしてそれは、スロニーの目に間違いがなければ傍に落ちる頭を目指しているようで。
「⋯⋯大丈夫、なのですか」
不死狩りは再生に数時間かかると言っていた。その間に処置を動きを封じる処置を施すと。だが教会には怪力の怪物を閉じ込められるような箱も、鉄を鋳溶かせるような道具もない。おそらく村中探しても見つからないだろう。
ディルクはスロニーの不安をよそに外套の下から短刀を取り出すと、ミニアの胴体を引き起こした。そのまま蠢く肉の中心へ短刀を深々と突き立てる。
「異物を挟めば再生を遅らせられる。応急処置だが、街に戻るまではこれでもつ」
淡々と説明しながらも手は止めず、同様の処置を転がる首にも施す。それらを黒い袋に詰め込むと、軽々と肩へ担いで立ち上がった。
そして思い出したように、壇上の祭壇——そこに座す、ミニアが意識の間際に父と呼び縋った影へと視線を向けた。
それは身なりを整えられた死者だった。
顔面の肉がほとんど削げ落ち、下の白骨を晒していることを除けば、損壊は見られない。床に散らばる多くの他の遺体にあるような、食い荒らされたり玩弄された形跡もなかった。
たしかにその扱いからは、妄執にも似た愛情が注がれていることがわかる。だが、娘に顔面を貪られるという最期は決して穏やかなものではないだろう。さらには死後、その娘が殺戮を行い、狂気に堕ちてゆく様を見せつけられたとあらば尚更に。
「あの不死者⋯⋯教会の娘だったのか」
遺体が身につける黒の礼服とロザリオは、紛れもなく聖教の従属の証だった。ため息まじりのディルクの呟きに、スロニーが答えた。
「はい。ミニアはこの村の神父様の娘でした。信仰心の強い⋯⋯優しい子でした」
スロニーはかつての日々に思いを巡らせて、その形のいい眉を悲痛げに歪めた。
「⋯⋯けれど、今思えばあれはミニアなりの強がりだったのかもしれません。早くに母を亡くして⋯⋯心の隙間を埋めるように神を求めた」
「そして不死者になった、か」
「⋯⋯はい。ミニアに『兆候』があらわれたとき、神父様は騎士団に引き渡すのではなく、地下に閉じ込め、私もそれに賛成しました。⋯⋯今思えば愚かな決断だったと思います」
神父がどんな手段で不死者の怪力を封じ込めたのかは定かではないが——それはきっと不完全だったのだ。
封印は破られ、飢えた不死者が解き放たれた。その結果がこの村の惨状だ。それをふまえれば、神父の行動は親の情と呼ぶにはあまりにも軽率だった。
「それでも」と、スロニーは続けた。
「⋯⋯神父様を告発することなんてとてもできませんでした。たとえ人喰いの怪物になってしまったとしても神父様にとってはかけがえのない家族だった。——もちろん、私にとっても」
スロニーは服が汚れるのも気にせずに神父の足元に跪くと、握りしめたロザリオを胸元に寄せた。
「神よ。どうか彼らの魂を冷たい泥の底からお救いください。悪しき竜に惑わされぬよう、あなたの光でお導きください」
ディルクに信仰はわからない。聖句を紡ぎ祈ることが、果たして死者の慰めになるのだろうか。つらつらと聖句を捧げるスロニーを見ながらそんなことを考えた。
祈りを捧げ、憂いを含んだ横顔が立ち上がるのを待ってディルクは問いかける。
「俺は街にもどってこれを届ける。おまえはどうする?」
不死狩りの言葉にスロニーは丸い目を大きく見開いた。
「⋯⋯私を処罰しなくてよろしいのですか」
その疑問はもっともだった。不死者の隠匿は重罪だ。とはいえディルクがこうして現れなければ、すでに死んでいる身だ。罰を受け入れる覚悟を、スロニーはとっくに決めていた。
だがディルクは小さくかぶりを振る。
「俺の仕事は不死者を狩ることであって、罪人を裁くことじゃない。⋯⋯それに、罰ならもう十分受けただろう」
ディルクの銀鼠色の瞳は、憐れみとも憂鬱ともつかない感情をたたえ、不死者のもたらした惨状を映していた。愛する人とその娘、ともに過ごしてきた仲間たち。他人から罰をくだされるまでもなく、スロニーはあまりに多くのものを失っていた。
たとえ自分自身の手で、その悲劇の引き金を引いていたのだとしても。
スロニーは逡巡するように唇を噛み、やがて頭を下げた。
「ありがとうございます」
しかし顔を上げた彼女の頬には、一滴の涙が伝っており。
「ですがやはり、私は罪を告白しようと思います」
そして、彼女の決意が揺らぐことはなかった。
「私だけ、生き残ってしまいましたから。罪も償わず逃げおおせては、私のせいで死んだ皆さんに顔向けできませんから」
その口元にはかすかな微笑が浮かんでいた。ディルクは彼女の決意が覆しがたいものだと悟り「そうか」とだけ答えると、神父の遺体に背を向けた。
「⋯⋯あの、ひとつだけお尋ねしてもよろしいですか?」
しかし、出口へと進むとその背中を、スロニーがおずおずと呼び止めた。
「なんだ?」
「どうやって不死者を——ミニアのことを知ったのですか? あの子のことは私と神父様しか知らなかったはずなのに⋯⋯」
それは不死狩りがあの場に現れたときから抱いていた疑問だった。
娘とはいえ人喰いの怪物を匿っていると村人に知られれば、当然ただでは済まない。スロニーと神父はミニアの存在の秘匿にこれ以上ないほど気を使っていた。
「別に知ってたわけじゃない。別件で近くにきて——あまりにも人の気配がなかったから気になって立ち寄っただけだ」
『別件』とはなにか、新たに芽生えた疑問をスロニーが口にするよりも早く、ディルクはそれ以上の詮索を拒絶するように身を翻すと、血と死の臭気で満たされた聖堂を横切って扉を押し開けた。
差し込む月明かりが、ディルクの背負う黒い大きな袋の輪郭をなぞる。スロニーはその中で沈黙するミニアがこれから辿るであろう運命に想いを馳せた。
ミニアはこれから街にあるというギルドの本部へと運ばれるのだろう。ミニアの体はそこでさらなる封印を施される。ディルクの言った通り鉄に溶かされるのか、原型を留めないほどに破壊され、小箱のようなものに詰められて地中深くに沈められるのか——あるいはスロニーの考えなど及ばない、もっと別の処置か。
暗く冷たい闇の底で、自分が死んだということさえ認識できずに眠る幼い体を思い浮かべるうちに、つい数十分前までには決して抱かなかったであろう、憐れみの感情がスロニーの中に生まれていた。
ディルクが不意に振り向く。
「もう夜も遅い。街までなら送っていくが、どうする?」
先までの冷たさが鳴りを潜めた穏やかな声。スロニーは目を閉じ、静かに思考を断ち切った。
もとより、自分にできることなどなにもない。ただ、願わくは——ミニアの孤独な眠りが穏やかなものでありますように。
「⋯⋯はい」
申し出に素直に頭をさげ、ディルクに続いて歩を進める——その瞬間だった。
「ありがとうござ——っ!!」
礼の言葉が意図せず途切れる。否、喉奥からせり上がるなにかによって、強引に遮られたのだ。
スロニーは反射的に体をくの字に折り曲げ、喉を通り過ぎて口いっぱいに広がった液体を手のひらへと吐き出した。
「——えっ」
その両手が赤く染まっていた。
いったいなにが起こったのか、そんな疑問を挟む余地もなく、再び腹の奥が逆流する感覚。
「ぶ、ぉ——ぁ?」
視界が明滅する。まるで心臓が耳から飛び出たのではないかと思うほどにうるさく鼓動を刻んでいる。いまやスロニーを襲っているのは嘔吐の不快感だけではなかった。
——熱い、熱い、熱い、熱い。
血管に燃え盛る溶岩をを直接流し込まれたかのように熱い。こめかみが張り裂けそうになるほど強く脈打っている。耐えがたい苦痛に足元がふらつき、そのまま崩れ落ちる。
そして同時に、スロニーはとうに空っぽだったはずの腹の中身を床へとぶちまけた。
それは黒ずんだ血の塊だった。こぼれ落ちるそれは滴る、なんて生易しいものではない。体中の血液が逆流しているのではないかと錯覚するほどにとめどなくあふれ、床を汚してゆく。スロニーはそれが自分の吐き出したものだということが到底信じられない様子で唇をわななかせた。
両手へ視線を落とす。手を赤く染める血の向こう。血液の流れの中を泳ぐような黒い『刻印』。それは小さな蛇か、あるいは蛭のように見えた。一匹や二匹ではない。群れをなした呪いが、スロニーの皮膚の下を這い回っていた。
まるで彼女を貪るように、あるいは蝕むように。
震えるその視線が助けを求めるように中空をさまよい、不死狩りへと向けられる。
視界の先、ディルクは唇を引きむすびローブの裾を翻す。そして——
「⋯⋯すまないが、事情が変わった」
「っ——ぁ」
その手のなかに再び顕現した黒杖の昏く、怜悧な切っ先がスロニーへと向けられた。
「——不死化の『兆候』が現れてる。おまえを街に連れて行くわけにはいかない」
不死狩りは冷たく言い放つ。
『兆候』。その意味をスロニーは理解していた。かつて神父とともに目撃したミニアの異変。人が人ならざる怪物へと身を堕とす瞬間。ベッドの上で、吐き出した自らの血にまみれてのたうち回るミニアと、彼女の全身に呪いのように浮かび上がった『刻印』。
それがいま自分の体を蝕んでいる。その現実を理解して吐き落とした言葉は、しかし絶望でも恨言でもなかった。
「⋯⋯そう、ですか。やはり、罰は与えられるべき者に与えられるものですね」
身を焼かれる苦痛に表情を歪めながらも、あくまで穏やかなその声音は、まるで安堵しているようにすら聞こえた。
不死者ミニア。彼女は純粋に殺戮を楽しんでいた。そこには記憶にある健気な少女の面影はなかった。あれがこれから自分がたどる姿だというのなら——
「——それなら、仕方ないですね」
スロニーは自分に言い聞かせるように呟いて、ディルクに背を向け跪いた。かたく組んだ手の中に、鮮血に染まったロザリオを封じ込めて。
決して死の恐怖が消えたわけではない。その証左にスロニーの肩は小さく震え、いつくるとも知れぬ最期に怯えている。
それを認めたディルクは痛々しげに眉を寄せ——己が責務を全うするために杖を構えた。それと同時に、か細い声が痛切に空気を震わせる。
「ひとつだけ⋯⋯最後のお願いを聞いてくれませんか」
喘鳴にも似たその問いに、返答はない。それでもスロニーは続ける。
「テンペスという農村があります⋯⋯私の、故郷なんです。そこの⋯⋯エゾという薬師に伝えていただけないでしょうか」
『不死化』が進行しつつあるのだろう。最期の願いを紡ぐスロニーの声は徐々に小さくなり、時折血を吐くような水音が混じる。細い首筋には喉元を食い破ろうとするように無数の刻印が蠢いていた。
「あなたの、娘は⋯⋯幸せになれた、と」
鼓動が打つたびに注がれる、気が狂いそうな熱に苛まれながらも、スロニーは懸命に最期の言葉を吐き落とした。
その姿にディルクがなにを感じたのかはわからない。ただスロニーを映すその瞳の色に混じるのは、ミニアに投じた不死狩りとしての冷徹さだけではなかった。
「⋯⋯わかった」
「⋯⋯ありがとう、ございます」
ディルクの構えた杖に灯る魔力が風の刃を象った。一瞬の間を置いて放たれた刃は少女の命を完全に絶った。崩れ落ちたその体は、無数に散らばる周囲の屍となんら変わらない。
宿主の死に、黒い呪いはつまらないとでも言うように動きを止め、消えた。
ディルクは教会に火を放ち、炎がすべてを飲み込むまでを見届けた。スロニー・ベロニカの遺体が再び動き出すことはついになかった。
▲▽▲▽▲▽
ディルクが街にたどり着いたのは夜が明けてからだった。『ネザイエ』——片翼の鳥をシンボルとして掲げるその街は、神都ルーデリアのすぐ西に位置している。
片翼の名は決して伊達ではない。ネザイエは西部の物流を一手に引き受け、神都への物流における重要な中継地点としての役割を担っている。
しかし、あるいは必然と言うべきか、ネザイエにはもうひとつの側面があった。それは国きっての治安の悪さである。
物資が集まる場所に人と金はつどう。神都ほどの警備体制が敷かれていないネザイエには野盗がはびこり、悪化しようがないほどに悪化した治安は、それでも悪化の一途を辿っていた。
それゆえ、ここネザイエにおけるギルドの活動は他拠点のそれとは性質を異にする。
本来、王国直属の精鋭たちである騎士団が解決するべき事案を、割高な報酬と引き換えに民間人に依頼するのがギルドのシステムだが、ネザイエのギルドで取り扱う事案には民間人からの依頼も多く混ざりこむ。
その依頼の内容は主に行商人の護衛に、野党の討伐。
この依頼を受ける人間は様々だ。傭兵・騎士崩れや暗殺者、果てには同族である野盗が依頼を引き受けることもままある。
しかしその裏で、多くの人間が避けて長い間保留状態の依頼がある。その多くは国からの依頼——つまりギルドが本来取り扱うべき事案である。
こちらの内容もほとんど統一されているが、野盗相手の依頼とは決定的な差異がある。それは対人間ではなく、対人型魔獣であること。——すなわち『不死者』の討伐以来である。
「あっ! ディルクさんだぁー!」
ギルドの扉を開けた途端、弾むような声。随分と繰り返されたその光景に慣れきったディルクは、声の主に小さく手を上げて返す。
声の主——ギルド受付兼酒場給仕の小柄な少女、メルトはその反応に表情を綻ばせると、慌てた様子でディルクのもとへ駆け寄った。
若干癖のかかったマゼンタの髪。丸みを帯びた目や幼さの残る顔つきに屈託のない笑みを浮かべるその様子は、どこか飼い主からたっぷりと愛情を注がれて育った小動物を思わせる。
ところどころにフリルの施された白いエプロンとホワイトブリムが、ギルドの看板娘たるメルトの愛らしさをより引き立てていた。
「お久しぶりです! 最近見かけなかったから心配しましたよ! どこ行ってたんですか?」
そう尋ねるメルトの表情には、早朝にもかかわらず疲弊や眠気の翳りはない。それはきっとメルトの過剰にも見える活力に満ちた様が、演技ではなく生来のものである証左なのだろう。
そんなことを考えながら、ディルクはかぶりを振って答えた。
「たいしたことじゃない」
「嘘だぁ! 絶対いまはぐらかしましたよね?」
「はぐらかしてない」
メルトがわざとらしく頬を膨らませてふてくされるのも意に介さず、ディルクは無人のギルド受付を指差した。
「今いいか? 別件で一体『狩って』きたんだが」
「⋯⋯まぁ、いいですよ。本部に送る書類が整って、ちょうど手が空いたところですから」
そそくさと歩き出したメルトの背を追いながらディルクは周囲を一瞥した。
ギルドには併設した酒場がある。入り口から向かって右側にはカウンターの奥の簡素な厨房が剥き出しに覗き、その手前にはいくつかのテーブルと椅子が並べられている。
こんな時間にもまばらだが人影があった。夜通し飲み明かしたのだろう。顔を朱にした筋肉質な男たちは、しかし不機嫌そうに鼻を鳴らした。
その理由が、ギルドの紅一点であり受付と給仕を兼ねているメルトの不在にあることは想像に難くない。
男たちはメルトの関心をかっさらっていったディルクを値踏みするように、アルコールで濡れた目を向ける。
しかし、男たちは黒衣を纏ったその人物が『不死狩り』ディルクだと気づくや否や、慌てて視線を逸らし談笑に戻って行く。
これもまたディルクにとっては慣れた光景だ。
その性質から腕に覚えのある者が多く集まるネザイエとはいえ、本気で命の危険を冒す気がある者はごく少数だ。
不死者を相手取るのはもちろん、それを狩る不死狩りを敵にまわすのも絶対にごめんだ——そう彼らの目は語っていた。
「ではディルクさん、引換の証書をいただきます」
「あぁ」
受付に着いたディルクは、メルトに促されるまま懐から一枚の証書を取り出した。それを受け取ったメルトは証書に素早く視線を走らせる。
「ふむふむ——駐屯地のサイン、よし——担当騎士のサインも——よしよし、ちゃんとありますね」
メルトは目の前の証書が所定の手続きを終えていることを確かめ、にっこりと笑った。
「不死者一体の討伐の証、たしかに確認しました! こちら報酬のバルシール金貨十枚となります」
「ありがとう」
「⋯⋯ところで」
短い礼の言葉とともに金貨を受け取る。
しかし、せっかく受け取った報酬を懐にしまおうとして引かれたディルクの手を、その握り拳の上からメルトががっしりと掴む。
「なんだ?」
「ディルクさんがいない間、私寂しかったです」
「嘘つけ、そこまで深い間柄でもないだろう」
「本当ですよ? なかなか帰ってこないし、寂しくて寂しくて。それで私——」
わざとらしく言葉を切るメルトの瞳に悪戯げな色が浮かぶのを見て、直観する。
——ロクなことにならない、と。
一瞬の後、ディルクの予感が正しかったことを、満面の笑みとともに差し出された書類の山が証明した。
「ディルクさんがいつ帰ってきてもいいように、ディルクさん向けの依頼を見繕っておきました」
「⋯⋯これ、全部か?」
「はい!」
ディルクは呆れたように息をついた。それから大層な法書かなにかと見紛うほどに分厚い紙の束をぱらぱらとめくった。
見繕ったと言うにはあまりにもその量は膨大だ。おおかた本部から押し付けられた無理難題のような依頼なんだろう、とディルクは推測する。するが、だからといってその消化を手助けするつもりは毛頭ない。
ただ、しばらくギルドに顔を出していなかったことも事実だ。メルトの救難信号を邪険に扱うのも、ほんのわずかにだがためらわれた。
意識に留まることなく眼前を横切る文字の螺旋。しかし、その中にある一文を見つけて手を止める。
「⋯⋯これは」
「おっ! 気になるのありました?」
束から引き出された一枚の依頼書。そこに書かれた文字をディルクは険しい視線で辿る。
その様子に興味を引かれたのか、メルトもカウンターから乗り出してディルクが手に取ったそれを覗き込む。
「ふむふむ⋯⋯標的は二体の不死者ですか。徒党を組む不死者となると、これまた難易度高いですねぇ」
メルトの言葉は事実だ。不死者を一体相手取るのも決して容易なことではない。それが二体に増えればなおのこと。
だがディルクの意識はそこにはない。その鋭い眼光は標的の情報ではなく、その下に小さく綴られた事件の概要を追っていた。
『テンペスを壊滅させた不死者二体の討伐』
テンペス。その村の名前は記憶に新しい。つい先刻の記憶が脳裏をよぎる。農村の教会でディルクが助け——そしてその命を奪った少女、スロニー・ベロニカが今際の際に吐き落とした願い。
故郷テンペスに住む父親に、自分の幸せを伝えて欲しいという願い。
目の前の依頼書は、彼女の望みがいともたやすく断ち切られたことを意味していた。またしても不死者の手によって。
「⋯⋯これを頼む」
「はい。⋯⋯その、私が勧めといてあれですけど、ひとりで大丈夫ですか?」
「あぁ」
ディルクは受注の意思を伝え、ローブを翻す。
叶う望みの潰えたその願いを未練たらしく引きずっているわけではない。彼女の最期に感懐を抱いたわけでもなければ、ましてや青くさい義憤にかられ、仇討ちに勇むわけでは断じてない。
不死狩りは不死者を狩る。そこに理由はない。それが責務であり、使命なのだ。少なくともディルクにとっては。
ゆえに、ディルクがあの膨大な依頼の中からこの一件を選んで引き受けた理由は——ただの偶然に過ぎない。