縁談の日
その日は朝から屋敷内が慌ただしかった。
公爵家のアルベルト=ウォルスターが来るのは昼過ぎだというのに、リリアは朝から侍女たちの手によって体を清められ、香油を塗られ、母が用意したドレスに合うアクセサリー選びと目まぐるしく動いていた。
ドレスと髪のセットが終わり、化粧を施された頃にはすでに疲れてしまっていた。
「ただお会いするだけなんだから、こんなに気合を入れなくても」
アルベルトが来る時間が近くなった頃、ようやくすべての準備が整ったリリアは、自室でお茶を飲みながら、束の間の休憩を取っていた。
「何を仰っているんですお嬢様!この縁談がまとまれば、公爵家との縁ができるのですよ」
「でも、私を見てウォルスター様は幻滅すると思うわ」
向こうから持ってきた縁談ではあるが、リリアは上手くいくとは思っていなかった。
彼女はぼんやりとした視界で自分のドレスを見下ろす。
薄緑のドレスは落ち着いた色だが、手で触らないと施された刺繍がどんな模様なのかわからない。話し相手をしてくれている侍女の顔も朧気で、声と雰囲気で気合が入っているのがわかるくらいだ。こんなリリアを誰が結婚相手に選ぶというのだろう。
それこそ名ばかりの花嫁でも欲しいという相手でない限り、リリアを必要とする者はいないと思っている。
「でも、夜会では親切にしていただいたのでしょう」
「あんな場所で粗末に扱えないわ。ほかの貴族の目があるんですから」
親切にしてもらえたことは素直に嬉しかった。だからケーキをお礼に作った。だが、見合いをしたいかと問われれば、そんな意味合いでお礼をしたわけではない。
ため息をこぼすと、エルが隣でそわそわしている。
「とにかく一度お会いしてみてからでも遅くありませんよ」
前向きではないリリアを励ますように言ってくれるが、それでもこの縁談を成功させたいと思えない。
どんな反応をされるのか心配ではあるが、ここまで準備をしてくれた家族や使用人のためにも逃げることはしたくない。リリアは覚悟を決めるしかなかった。
「お嬢様」
ノックとともに声が聞こえた。返事をすると執事長が入ってきた。
「アルベルト=ウォルスター様がお着きです」
「今行きます」
立ち上がるとわずかにふらついた。朝からの支度に身体がすでに疲れ切っている。慌てた様子のエルが支えてくれたので、その手を借りてそのまま部屋を出た。
「エル」
「はい、お嬢様」
「このまま応接室まで行くわ」
「え?でも」
「一目でわかるでしょう」
「・・・わかりました」
リリアは敢えて侍女の手を借りてアルベルトが待つ部屋まで歩くことにした。こうすることで、リリアが障害を持っていることを言葉にしなくても示すことができる。あとから説明するよりも最初に見て理解してもらった方が相手もいろいろとすぐに判断できるだろう。
夜会の時に腕を借りたことで気が付いている可能性もあるが、あの時は問われることがなかったので、確信が持てない。はっきり態度で目が悪いのだと主張しておくのは重要だ。
先を歩いていた執事長のロンは何も言わなかったので、リリアはエルに手を引かれる形で応接室へと向かった。
「失礼いたします」
扉の前までたどり着くと、ロンが声をかけ扉を開けてくれる。それを合図にエルが手を引いてくれたので部屋の中に入った。
大きな窓がある応接室は自然の光を取り込んで明るく、手前のソファに2人、向かい合っている奥のソファに1人座っているのが確認できた。
手前には両親が座っているようで、1人で座っている黒いシルエットがアルベルト=ウォルスターだろう。
「リリア、こっちに来なさい」
父の声に頷くと、エルが手を引いてくれる。
「お待たせしました」
クリーム色のシルエットの横に立たされた。いつもと変わらない香水の匂いで母の横に立ったことを知る。黒いシルエットに視線を向けると、相手が立ち上がったのが分かった。
「リリア、こちらがアルベルト=ウォルスター様だ。わが娘のリリア=フラクトルです」
「先日は助けていただきありがとうございます」
「・・・いえ、こちらこそ急な願いを聞いていただいて、申し訳なかった」
静かな声音は落ち着いていて、リリアの耳に心地よく響いた。
あの夜会で助けてくれた人だと確信が持てる。
「座って話しましょうか」
母がリリアの手を取って自分の隣に座らせてくれた。エルに手を引かれてきたことで、母もリリアの考えを察してくれたようだ。その間向かいから視線を感じたが、何も言わずに座った。
「・・・あの」
ソファに座りまっすぐ前を向くと、黒い影がわずかに動く。その声は少し気まずそうだった。
「失礼ですが、リリア嬢は目が悪いのですか?」
「はい。あまり見えていません」
はっきりと答えると、戸惑いの気配を感じた。どうしてリリアに縁談の声を掛けたのかわからないが、自分の事情を知れば縁談が無駄であったと後悔していることだろう。
「お父様、お母様。2人だけでお話してもいいでしょうか?」
両親がいては気まずくて先の話ができないだろう。そう考えて2人だけになることを提案した。
「・・・わかった」
少し渋った父だったが、娘の意図を汲んで退室することにしてくれたようだった。
「ロンとエルも部屋の外にいてくれる?」
「畏まりました。何かあればすぐに声をかけてください」
使用人2人もそっと部屋を出ていく。2人は扉の前でいつでも動けるように待機してくれるはずだ。
皆が出て行って残されたのはリリアとアルベルトになると、先に口を開いたのはアルベルトだった。
「先日の夜会の時も、あまり見えない状態で参加していたのか」
少し砕けた口調になったのは2人だけになったからだろう。
「兄がどうしても会ってほしい人がいるというので、兄が一緒という条件で参加していたんです。あの時は相手の方と兄が1曲踊っていたので、その間を待っていたのですが、予定外に絡まれてしまって」
それを助けてくれたのがアルベルトだった。
「あの時は助かりました」
本当に助かったのだ。だからこそお礼をしたいと思った。相手の素性がわかっていたので父に頼んでケーキを届けてもらったのだが、それがこんな形で再び会うことになるとは予想していなかった。
「そうか」
アルベルトはどこか気の抜けた返事をするだけだった。どうしたのだろうと首を傾げて伺うと、彼は大きなため息をもらした。
リリアが驚くと、彼はどこかほっとしたような口調で言ってきた。
「今の話を聞く限り、私に取り入るためにいろいろしてきたわけではないようだね」
「取り入る?」
不思議に思っていると、彼の態度が軟化したように感じた。空気が変わった気がしたのだ。
「フラクトル嬢には申し訳ないが、ケーキという少し変わった贈り物で、それを機に公爵家との縁を結びたいのかと思ったんだが、考えすぎだったな」
それがアルベルトの本心なのだろう。だが、リリアはそれを聞いて苦笑してしまった。
「そんな器用なこと私にはできません。それに、この目では縁談を行ってもそれ以上にはなりませんよ」
リリアは自分の目の不自由さが、周りからどんなふうに見られているのか理解している。初めての場所には1人でいけない。慣れた場所でも人が多ければ動くことができない。誰かの助けがないと自由に動くことができないお荷物なのだ。
「できることでしたら、この縁談はウォルスター様から断ってくださるとありがたいです」
爵位を考えると、リリアから断るのは憚られた。アルベルトがやはりリリアとは婚約を結べないと断ってくれた方が丸く収まるのだ。
「わざわざ来ていただいてありがとうございました」
これでこの縁談は終わりだ。そう思って礼を言うと、なぜかアルベルトからの反応がなかった。
「あの、ウォルスター様?」
「君はそれでいいのか」
「え?」
不思議なことを聞いてくるなと首を傾げていると、アルベルトがふっと笑ったようだった。
「欲がないんだな」
「あの・・・」
「私は目が不自由だからという理由だけで、あなたを虐げるようなことはしたくない」
宣言のようにも聞こえる発言にリリアは戸惑った。
「この縁談、話を進めることはできないだろうか」
「・・・はい?」
随分と間抜けな声が出てしまったが、リリアは何が起こったのか理解することができずに何度も瞬きをした。そんなことをしても目が見えるようになるわけでもないし、アルベルトの心が読めるわけではない。突然の発言に戸惑ってしまった。
「いまなんて?」
「縁談を進めたいと言ったんだよ。目のことは関係なしに、もう少しあなたのことを知ってみたいと思った」
すっかり縁談は破談で終わると思っていたリリアは、どう反応していいのかわからずに固まってしまった。
「私と、婚約するということですか」
混乱する頭の中で何とか今の状況を確認するように尋ねる。
「婚約となると、やはり身構えてしまうだろうか。それなら、仮の婚約ということでも構わない。私はあなたのことを知りたい」
「仮婚約ですか」
視認できない分、相手の表情で判断することはできないが、彼の言葉はからかっているようには聞こえなかった。そのため余計にどうしたらいいのかわからなくなる。
ぽかんと口が開いてしまったリリアだった、すぐに両手で口元を隠した。なかなかはしたない場面を相手に見せてしまった。そんなことを考えているとアルベルトがふっと笑った気がした。
「急に言われて戸惑っているだろう。今日は帰らせてもらうから、少し考えてみてほしい」
そう言って立ち上がったアルベルトに、リリアは戸惑いながらも声をかけた。
「私の目のことは関係ないと仰いましたね」
「目が不自由だからという理由で破談にするのはおかしいと思っただけだよ」
「そんな風に言ってくださる方、今までいませんでした」
優しい返事にリリアは素直な気持ちを口にしていた。
これまでに縁談が来たことはあった。1度目は目が不自由だということを伝えると、縁談の前に断られた。2度目は顔を合わせたが、相手はお飾りの妻を探していたようで、会うなり愛人がいることを宣言してきた。表向きの妻として家に収まっていてくれればいいという考えだったようで、それを知った父が大激怒したことを覚えている。それ以来リリアはすべての縁談を断るように父にお願いし、いつの間にか縁談自体が来なくなっていた。
「本当に、私でいいのですか?」
不安はある。この縁談には裏があるのかもしない。そう疑ってしまうほどにリリアの心は卑屈になっていた。
立ち上がっていたアルベルトが動く気配がする。ぼんやりとした影がリリアの隣までくると、すっと小さくなった。彼が膝をついて見上げるような態勢を取ったと気づくのに少し時間がかかった。
「私の言葉が信じられないのなら、私のことを知ってくれないだろうか。そのうえで今後どうするべきかを判断してほしい。このまま結婚するために婚約したいと思うか、婚約自体を破棄することもできる」
不思議な人だと思った。リリアにここまで興味を持ってくれる人がいるなんて。
「私は・・・」
「考える時間が必要だろう。返事は後日で構わない」
アルベルトが立ち上がろうとする。
「待って!」
リリアは手を伸ばしたが、彼との距離感が掴めなかったため、手は空をきって何も触れなかった。
その感覚を切なく思いながら、手を彷徨わせたままリリアは口を開いた。
「私も、あなたのことを知ってみたい」
そう言うと、息を飲む気配が伝わってきた。
「この目のせいで結婚は諦めていたんです。だから、当然婚約もできないし、このまま家に残るか、領地でひっそりと暮らすしか選択肢がないと思っていました。だから、本当にこのまま話を進めてくださるのであれば、私は叶わないと思っていた夢を見ることができます」
縁談を断るようになってから、リリアは結婚を諦めていた。周りには何も言っていなかったが、家族もおそらく察していただろう。このままでは将来家族に迷惑をかけることになる。そんなこと家族は気にしないだろうが、リリアはずっと申し訳ない気持ちを抱えて生きていくことになる。
「ですから、この縁談お受けしたいと思います」
結婚まではいけないかもしれない。途中でやはりやめようと言われる可能性の方が強いと思っている。それでも、叶わないと思っていた婚約をすることができる。自分を知りたいと言ってくれる婚約者ができるのだ。それに縋ってみたいと思っても罰は当たらないだろう。
「わかりました。伯爵とは書面で正式な婚約を交わします」
敬語には戻ったが、とても優しい声だった。ほっとしたリリアは手を引っ込めた。すると、その手を掴まれた。
「申し出を受けてくれたことに感謝します」
優しく手の甲を撫でられる感触に、リリアは息を飲んだ。心臓が早鐘を打っている。相手に伝わってしまうのではないかと心配になるほどに。
そっと手を離されると、アルベルトは静かに部屋を出ていった。廊下から話声が聞こえたが、リリアは触れられた手を胸に抱くようにしてしばらくその場から動けなかった。
その数日後、ウォルスター公爵とフラクトル伯爵である父が2人の正式な婚約を認め、リリアは諦めていた婚約者ができた。