日常
「おはようございます。お嬢様」
その声でリリアは目を覚ました。普段なら侍女が部屋に入ってきた時点で目が覚めるのだが、昨日の夜会の疲れが出たのか、今朝は声をかけられるまで気づけなかった。
「おはよう、エル。今日もいいお天気ね」
カーテンを開けてくれたおかげで、窓から差し込む日差しから天気がいいのがよくわかる。
「だいぶお疲れのようですが、朝食はどうなさいます?」
声をかけられるまで目覚めなかったリリアを気遣った質問だが、半身を起こして首を振る。
「大丈夫よ。みんなと一緒に食べるわ」
ほとんど出席しない夜会に疲れたのは本当だが、ぐっすり眠ったおかげで体は元気だ。部屋で朝食をとると言ったりしたら、途端に家族が心配する。連れ出した兄は両親から叱責されるかもしれない。この家で働く侍女や執事、料理担当に庭師までリリアの心配をしだすだろう。ぼんやりとした視界の中でそんなことを想像する。簡単に想像できるので苦笑するしかない。
リリアの目は物をぼんやりとらえる程度の視力しかない弱視だ。色は判別できるが姿かたちをはっきりとらえることはできない。まったく見えないわけではないが、はっきりとした形や距離がつかめないため、初めて行く場所は1人で歩くことができない。知っている道を1人で歩くとしても人が多い場合ぶつかる可能性が大きいため歩けない。そのためほとんどを屋敷で過ごしていた。
昨晩の夜会は兄の頼みでもあって、自分も兄の恋人に会ってみたい好奇心で出かけた。そのおかげで酔っぱらいに絡まれたが、助けてくれる親切な騎士にも出会えた。疲れはしたが少し楽しかったのも事実だ。
「お嬢様、お支度を」
「そうね」
ぼんやり昨日のことを考えているとエルに声をかけられた。
エルに手伝ってもらいながら着替えを済ませると、部屋の扉を開けてくれる。廊下に出てダイニングに1人で向かう。生まれ育った屋敷の中は物の位置や廊下の長さ、階段の段差も体が覚えているので1人で歩くことが可能だ。
ダイニングに向かって歩いていると、扉の前に黒い影が見えてきた。
「おはようございます、お嬢様。昨日はお疲れのようでしたが、今日は顔色がよろしいようで」
「おはよう、ロン。ゆっくり休んだもの。あれくらい平気よ」
「それはなによりです。皆様もうお待ちです」
この屋敷の執事は穏やかな声で応じ、扉を開けてくれた。黒い影に見えるのは執事の制服が黒を基調としているからで、視線をあげれば彼の髪が茶色であるのがわかる。ほのかなワックスの匂いがすることから、今日もきっちりセットされているのだろう。
「おはようございます」
部屋に入るとテーブルに向かって声をかける。両親と兄がすでに席についているのはわかるので、そちらに声をかければ大丈夫だ。
「あぁ、おはよう」
「おはよう、リリア」
「よく眠れたかい?」
父、母、兄が順に応えてくれた。兄の隣に座ると、すぐに朝食が始まる。
「昨日の夜会はどうだったの?久しぶりの外出だったでしょう」
朝食を食べながら母のサラが尋ねてきた。久しぶりに夜会に行くと言い出した娘に両親は驚いていたが、兄の恋人に会うためだとは言っていない。言わなくてもおそらく二人とも何か察してくれているだろう。
ドレスは毎年新年の夜会の時期に念のための新調をしていたのでそれを着ることができた。古いドレスを着ると途端に周りからあざ笑うような声が聞こえてきたことだろう。
毎年王家主催の夜会には両親は参加しない。夜会は気合を入れてくる貴族が多く、そこに父が行くことは避けていた。そうしないと父の姿に場が凍り付きそうになる。父のオルファ・フラクトルは前第2騎士団長を務めるほどの実力と、野獣と評される強面で恐れられ、現役を退いても顔が変わるわけはなく、姿を見せると一部の貴族が恐れおののくといわれている。特に新年の夜会は新しくデビューした貴族令嬢や令息が多いため、失神されても困る。昨日は春の夜会だが、見慣れない父の強面は、いつだって効果絶大らしい。倒れる人間を出さないため父は敢えて大きな夜会を欠席する。
「久しぶりで少し疲れたけど、楽しかったわ」
兄の恋人のことは伏せておく。必要になれば彼から両親に報告するだろう。
「楽しめたのならよかったわ。あなたも年頃ですし、素敵な殿方との出会いもあるかもしれないものね」
母の嬉しそうな言葉にリリアは笑顔を向けた。そのとたん隣の兄から不穏な気配がした。
「リリは無理して相手を探さなくても、ずっとこの屋敷にいて構わないよ」
ムスッとした声に苦笑してしまう。
「あら、レイル。リリアに素敵な人ができてもいいじゃない。娘を大切にしてくれる旦那様なら、お母さん賛成よ」
「お母様、まだそんな人いませんから」
「そうですよ。リリは美人だからすぐに声をかけられる。僕の目に見合った相手じゃないと認めません」
「レイル、それはそれでどうなの?」
兄レイルはリリアを大切にしてくれている。目が不自由な分余計に世話を焼いてくれるが、度が過ぎて周りから完全にシスコン認定されてしまっているが、本人は気にすることもなく逆に嬉しそうにしている。
「話ばかりで手が止まっているぞ」
3人で盛り上がってしまっていると、母の隣に座る父が静かに諫めてくれた。朝食はいつも家族で会話をしながらとることにしている。ほとんどがその日のスケジュールを話すのだが、たまに違う話をして夢中になってしまうと父が軌道修正してくれるのが常だ。
「お父様とお母様は、今日はお城に行くのよね」
「昨日の夜会を欠席しているから、陛下へのご挨拶とお茶会に行ってくるわ」
両親は夜会を欠席する代わりに、次の日に城へ行って国王への挨拶をしている。そのあと王妃様からの誘いで親しい人だけを集めたお茶会に参加する。これも恒例行事になっていた。
「僕も仕事で城に行くけど、リリは?」
兄も5年前から城勤めになった。基本的に雑務がほとんどで、後輩に仕事を教えたり、上司からの指示で調べ物をすることが多い。少しずつではあるが仕事を任されることもあるらしい。
「午前中はゆっくり休んで、午後からお菓子でも焼こうかしら」
目の不自由なリリアにはできることが限られている。幼いころに何ができるのか両親はいろいろ考えてリリアに与えてくれた。
文字が読めないため点字本を用意してくれたが、需要があまりないため数が少なく読書はたまにしかしていない。刺繍も挑戦したが、指に刺しすぎて手が血だらけになったため母に止められた。今はゆっくりなら刺すことはできるが、細かい模様を入れられないので侍女任せになっている。ほかにも貴族の令嬢がやらないことも挑戦し、その中に料理があった。侍女のエルか料理長が付き添う条件で今はお菓子作りをさせてもらえていた。
「帰ってきたら、リリのお菓子が食べられるのか。頑張って仕事して早く帰ってこなくちゃ」
仕事に行く前から、帰ってきた時のことを考えて目を輝かせている兄に両親が呆れているのを感じ取りながらリリアは苦笑しながら何を作ろうか考えていた。