プロローグ
きらびやかな会場の中、いろいろな色が視界をよぎっていく。目を閉じて耳に集中することで、目の前でダンスをしている衣擦れの音や靴音がより鮮明に聞こえてきた。中には踊りながら囁き合っている者もいる。壁の花と化しているリリアは、静かにその音を楽しんでいた。それくらいしか今できることがないからだ。
兄に持っているようにと押し付けられた果実酒の入ったグラスはたまに匂いを楽しむのみにして、口をつけずに持っているだけ。グラスを空にしてしまうと、手持ち無沙汰に見えてしまうのでダンスに誘われてしまう可能性がある。これはダンスに誘われないため兄が考えた配慮だと理解していた。
「曲が終わるまでもう少しありそうね」
今日のパーティーは王太子主催の芽吹きの春を祝う夜会だ。国主催の夜会は年に4度行われ、それぞれの季節に合わせて開かれる。今回は今年2回目の夜会となる。
王家主催の夜会ということで、王都にいる貴族たちが城に集まる大きな行事と言っていい。
普段出席しないリリアにとってこの熱気は重く感じられた。こういう場で未婚の女性は将来の夫を探すのが当たり前なのだが、リリアはそこに興味を示さず、ただぼんやりと会場を見回した。
今日は3つ年上の兄にどうしてもと言われて一緒に来たのだ。行くことに渋りながら兄の話を聞いていると会ってほしい人がいることがわかった。それも兄が見初めて密かに交流を持っていた男爵家の令嬢らしく、両親に話をする前に妹に紹介したかったようだ。両親に紹介して渋られた時のため妹の援護を期待して、先に紹介するのだろうと思っている。それに兄が見初めた相手だとわかれば会ってみたくなってしまった。
「見る目はあってよかったわ」
去年の秋、最後のパーティーで出会ったそうだが、その後はしばらく手紙のやり取りをしつつ冬の間にこっそり会っていたらしい。ほとんど屋敷に籠っていたリリアは仕事休みに出かけていた兄が女性と会っていたとは想像もしていなかった。もう23歳にもなればそういう相手がいてもおかしくないというのに、自分が婚期を逃してきているせいか思い至らなかったのだ。
果実酒を飲むふりをして苦笑し、先ほどあった女性を思い出した。
栗色の髪に黄色のドレスは分かったが、それ以外の見た目はさっぱりだ。緊張しながらもおっとりとした声と静かな仕草の気配に、兄が相手を大切にしている気配も伝わってきたので大丈夫だと判断できた。
せっかくのダンスの時間をいつまでも話していてはもったいないだろうと気を利かせて2人に踊ってくるように勧めた。その結果今は一人で壁の花となっている。
会場を眺めると色とりどりの景色が流れていく。あまり見すぎると酔いそうなので再びうつむいて、今度は果実酒をわずかに口に含んだ。
久しぶりに会えた2人には悪いが、この曲が終わったら帰らせてもらおう。こういう時1人で抜け出せないのが残念に思う。
「ねぇ、君」
もう少しの我慢だと思っていると足音が近づいてきてリリアの横で止まった。わずかに顔を上げると紺色の塊がこちらに声をかけてきていた。
「1人なの?よかったら1曲どうだい」
ぼんやりとだが手を差し伸べられたのがわかった。同時に男の後ろに数人の気配を感じ、囁くような声が聞こえてきた。
「どうする?」
「無理だろう」
「無視されて終わりだろ」
その声で大体の状況は理解した。おそらく声をかけてきた男も、その後ろにいる男たちもリリアの状況を把握したうえであえて声をかけてきたのだろう。彼らに気づかれないようそっと息をついてからリリアは答えた。
「ごめんなさい。人を待っているので」
果実酒を胸の前で添えて踊らない意思表示をする。夜会に参加することがほとんどないリリアだが、対応は心得ているつもりだ。だが、男は予想に反して詰め寄ってくるとリリアの手首をしっかりと握ってきた。
「待っている人なんかいないだろう?そんな口実僕には通じないよ」
やけに馴れ馴れしく近づいてきたことに驚いていると、男から酒の匂いを感じ取った。どうやら酔った勢いで無遠慮に誘ってきているのだろう。男の後ろにいる数人の微かな笑い声が聞こえてくる。酔った男を仲間たちがけしかけたのかもしれない。こちらが困っているのを見て楽しんでいる可能性もあるがぼんやりした視界では予想するしかない。今はとにかく目の前の男を何とかするほうが先だ。
「この曲が終わったら帰ります。ですからあなたとは踊れません」
はっきり言ったほうがいいだろうと断ると、なぜか男はリリアの腰に手を添えてきた。
「なっ!」
驚いて固まるリリアにお構いなしで男は強引にダンスを踊っている集団の中に連れて行こうとした。
「大丈夫ですよ。僕が手取り足取り教えてあげますから」
腰に添えた手が背中へと這い上がってくる。その動きにリリアは悲鳴をあげそうになった。それを寸前で呑み込めたのは周りに人がいたからだ。こんな大きな会場で悲鳴をあげれば途端に注目されてしまう。そうなれば兄にも迷惑が掛かってしまうし、自分自身も注目されたくない。
強引な男から何とか逃げなければと思っていると、急に男が立ち止まった。背中の手が緩んだ瞬間、横に身体をずらして距離をとる。すると、二人の間に誰かが入り込んだのがわかった。
「失礼。彼女は今夜私と会う約束をしていたのだが、先に踊られては困りますね」
低い落ち着いた声が響く。相手の男に言っているようで目の前の黒い塊は男の背中のようだった。
「その制服は、黒騎士の・・・」
酔っていた男の声が急に上ずったのがわかった。突然割り込んできた男に動揺しているようだ。
「黒騎士?」
社交界にほとんど顔を出さないリリアにとって、貴族の知り合いも少ないが騎士の知り合いもいない。ただ、この状況は確実にリリアを助けてくれようとしている気がした。
「あの・・・」
ぼんやりとした視界で声をかけながら手を伸ばせば、男の背中にそっと触れた。それに気づいた相手が振り返る。
「遅れてすまない」
知り合いであるかのように謝ってきた男にリリアは小さく首を振った。下手なことを言って知り合いでないとばれるのはまずい。
「では、私たちは失礼させてもらいます」
男がそっとリリアの腰に手を添えて歩くように促してきた。先ほどの酔っぱらいの男と違い気遣うような感じにほっとしながらリリアはその場を離れた。背後で男たちが何かを話していたが、会場の喧騒に紛れて聞き取ることはできなかった。
そのまま会場の壁際まで歩いたリリアは、隣を歩く男を見上げた。
「あの・・・」
「何も言わないで。まだあいつらが見ているから、このまま一度会場を離れて庭に出ます」
「それなら腕を貸していただけないですか?」
酔っぱらいの男たちがまだこちらを気にしているようなので、一度この場を離れようとする男に、リリアは足を止めてそっと手を前に差し出した。ずっと腰に手を置かれていたが、視界がぼんやりとしているリリアには進むように促されても目の前の確認が取れないため慣れない場所では不安が多い。男がリリアの状況をどう理解したかわからないが、立ち止まったのは一瞬のことで、腰に添えられていた手が離れ、出していた手に男の腕が触れた。
「ありがとう」
男の腕を掴むと再び歩き出す。今度は男についていく形になったので安心して歩ける。だがリリアはまた足を止めることになった。
「あっ」
ダンス会場から庭に続いて出られるように扉は解放されていたが、庭の明かりはまばらで会場内のきらびやかな明かりと比べると全体的に薄暗かった。ぼんやりとした視界に色を判断するだけのリリアにとって光は重要だ。明るければ明るいほど色がはっきりとするし、周囲も見分けがつきやすい。その代わり暗くなると色もわかりづらくなって暗い世界だけがそこにあるような感じになる。男の腕につかまっていれば歩けることは歩けるが、庭は薄暗く人の気配がなかった。助けてくれたとはいえ知らない人についていくことに不安になって足が止まってしまった。動揺して俯いてしまう。すると男は腕を離しリリアの正面に立った。
「まだ名乗っていませんでした。私は第3騎士団黒騎士隊隊長のアルベルト・ウォルスターと言います。先ほどは失礼しました。もうあの男たちはいないようですが、念のため一度会場を出たほうが良いと思ったのですが、知らない男と一緒では不安ですよね」
リリアの足が止まった理由を察したアルベルトが自己紹介をしてくれた。
「いえ、あの・・・不安がないといえば嘘になりますが、あなた様は大丈夫だと思っています」
「そんな簡単に信じたら、悪い男につかまりますよ」
ふっとアルベルトが笑ったのがわかった。確かに名乗ってくれたとはいえ会ったばかりの男を大丈夫と決めつけたのはいけなかった気がする。
「すぐ近くにベンチがあるのでそちらに」
解放された庭には休めるようにとベンチがいくつか置かれていたが、リリアの目では薄暗い庭のどこに休憩できる場所があるのかわからない。ここはアルベルトを信じてベンチまで案内してもらうことにした。ベンチにつくとすぐに座って息をつく。男たちに絡まれたことと今日会ったばかりの騎士と歩くことに無意識に緊張していたようだ。座ると同時に疲れを感じる。
「大丈夫ですか?飲み物が欲しければ取ってきますよ」
リリアの疲れを感じ取ったのかアルベルトが声をかけてきた。声がリリアよりも下から聞こえたので、彼はわざと屈んで目線を合わせてくれたらしい。
「ありがとうございます。飲み物ならここにありますから」
ずっと持っていたグラスを見せると、なぜか彼は黙ってしまった。
「どうかしました?」
「いや・・・もう空だから飲めないと思うが」
「え?」
きょとんとするリリアに彼はかすかに笑ったようだった。少しずつ飲んで空にしないようにしていたはずだが、いつの間にか飲み干してしまっていたようだ。もしかすると男が声をかけてきたのは、グラスを空にして手持ち無沙汰になったように見えたからかもしれない。それは男に聞いてみないとわからないことだが、飲むペースを間違えてしまったことは事実だろう。
「新しいものを持ってこよう」
空のグラスをリリアから取ると、アルベルトはその場を離れようとした。
「リリ」
その時リリアを呼ぶ声が聞こえた。声のする方を向くとこちらに駆け寄ってくる足音と影が見えた。それはリリアとアルベルトの間に割って入るように止まると急にリリアの腕を掴んで立ち上がらせた。
「あの場所から動かないと言っていただろう」
慌てた声に兄がダンスを終えて戻ってきたことがわかった。
「ごめんなさい。ちょっとトラブルがあってあの場所を離れたの。私は大丈夫だから」
いるはずの場所に妹がいなかったことで探していたようだ。心配させたことを謝ると兄は振り返ってリリアを庇うような形をとった。
「トラブルって、この男の事」
「あっ、違うわ」
おそらく彼を睨んでいるだろう兄にすぐに説明する。待っている間に別の男たちが声をかけてきて強引にダンスに誘われたこと。困っていたリリアにアルベルトが声をかけて助けてくれたこと。一度場所を離れるために庭に来たこと。
「ふ~ん」
話を聞き終えた兄の口から疑いの声が漏れる。
「本当に大丈夫よ」
心配性な兄に苦笑しつつアルベルトに視線を向ける。表情はわからないが、疑われて不愉快な思いをしていなければいいと思った。
「兄が失礼を」
「いや、気にしなくていい。約束の場所から連れ出したのは私でもある。心配をさせてしまって申し訳ない」
最後の言葉は兄に対してだった。
「いいえ、妹を気遣ってくれてありがとうございます」
あまり感謝しているように聞こえない声で兄が礼を言った。
「リリ、疲れただろう。今日はもう帰ろう」
「ローラさんはいいの?」
今日紹介してくれた恋人の名を出す。
「大丈夫。今日はリリに紹介するために来ただけだから」
ほとんど夜会に出てこないリリアを無理に連れてきたことを相手も理解しているようだ。ダンスが終わると一緒に来ている両親の所へ戻ったらしい。
「それじゃ、僕たちはここで失礼します」
兄はリリアの手を取ると腕に絡ませて有無を言わさず歩き出した。薄暗いために視界が不安定すぎて一緒についていくことしかできないリリアはアルベルトに助けてもらった礼を言っていなかったことに気が付いて振り返ったが、彼の姿は闇に溶けてすでにどこにいるのかわからなかった。