ジョフロワの帰還2
夢男の姿がマティアスから元の姿へと戻っていく。しかし、電撃をその身にもろに受けてしまった夢男はピクリとも動かない。
ジョフロワが歩みを進めるごとにゴツゴツというブーツの硬い音がホールに響き渡る。やがて夢男の下にたどり着くと、彼の大柄な影が夢男の身体の上に落ちた。ジョフロワが身を横たえる夢男へとその手を伸ばそうとした瞬間。
突然彼の目の前を光の障壁が遮った。
「……ムッ」
ジョフロワが目線を上げると、そこには片手をかざしたエマの姿があった。
夢男をコの字型に囲い込んだ障壁は、エマが居る側だけが開いている。エマはさらに、ジョフロワたちと自分たちを分断するように壁を三重に展開した。これならジョフロワたちも簡単にはエマたちに手出しすることは出来ないだろう。
エマはぐったりとした夢男を両手でなんとか引きずり、後ろへと下がらせる。十分に下がらせたところで、夢男の頬をペチペチと叩いた。
「夢男さんっ? 起きてください、夢男さん!」
エマが必死に呼びかけるが、夢男の反応は、ない。
ジョフロワはその様子を視界の端に捉えつつ、目前の障壁をコンコンと叩いた。
「……これは」
「そこのシニョリーナの『ギフト』だよ。壁を作るんだ。俺もそれのせいでアレンくんを追いかけることができなかった」
「破れないのか?」
「破れるが、すぐに張り直されちまう」
ジョフロワはメルクリオの説明を聞くと、再び障壁へと目を向けた。そうして、すぅ、と大きく息を吸い込んだ。
「むんっ!」
気合の雄叫びとともに、ジョフロワが破城槌のような蹴りを障壁に叩き込んだ。ガラスが粉々に割れるような音とともに、障壁に穴が開く。
しかし。
「……ふむ」
「ね? 簡単じゃないでしょ?」
ジョフロワが割った穴は瞬く間に修復されてしまった。
見たところ、この障壁は三重に展開されているようだ。二枚目、三枚目を破る前に、一枚目の壁が修復してしまう。これを徒手空拳で破るのはそう容易いことではないだろうとジョフロワは理解した。小娘の考えにしては用意周到なことだ、と彼は思った。
ジョフロワは少し考えた後、メルクリオに命令した。
「メルクリオ、『雷球』を三つ、同じ箇所に叩き込め。俺の目の前だ」
「それはもう試したけど、だめだったぜ、機関長」
「かまわん、やれ」
短く返答すると、ジョフロワは再び身構えた。メルクリオも命令とあらば、というように淡々と長棒を構えると、その先端に電気ほとばしる三つの球体が浮かび上がった。
「いくぜ、それっ!」
メルクリオが長棒を振ると、それら三つの雷球が障壁へと一直線に飛んでいった。その雷球がエマの『ギフト』へと接触しようかというところで。
ジョフロワが自身の『ギフト』を発動する。
その途端に、雷球はのろのろとした亀のような速度になった。ひどく緩慢な動きで、しかし確実にエマの障壁へと向かって前進する。
やがて一つ目の雷球が障壁に直撃した。ほとばしる紫電が障壁の表面を舐め、六角形のタイルを広い範囲で破壊した。
さらに二つ目、三つ目の雷球が、同じ様に光の障壁を破壊し、ついにあちらとこちらを行き来できるだけの大穴が空いた。
しかし、それだけであれば何の問題もない。エマの『ギフト』がすぐさま、その穴をふさいでしまう、はずだったからだ。
だが、次の瞬間目にした光景に、エマは大きく動揺した。
「……そ、そんな!」
ジョフロワが悠然とした足取りで『その大穴をくぐってくる』。
エマの『ギフト』が発動していない、というわけではなかった。
障壁に開いた大穴の端から、新しい青白いタイルが形成されてきてはいるが、その速度がじわりじわりともどかしいほどに遅いのだ。ジョフロワの『ギフト』がエマの障壁を遅らせているに違いなかった。そうして穴が塞がるよりも前に、ジョフロワが壁のこちら側へとやってきた。
ゴツ、という靴音を鳴らし、エマの目の前にジョフロワが立つ。そびえ立つ岩のような圧倒的な存在感がエマを鋭く見下ろしてくる。エマの背筋が思わず震える。
「娘、そこをどけ」
落ち着きながらも、しかし腹の底から響くような芯のある深い声は、エマの身を竦ませるに十分だった。
それでもなお、夢男を自分の背に懸命に隠す。
「あわ、わ、わ……」
震えた声が上手く言葉にならず、思わず尻もちのまま後ずさる。
ジョフロワは無言のまま、エマに向かっておもむろに手を伸ばした。
――エマの胴体を一本の腕が抱え込んだ。
「きゃあっ!」
「むっ?」
ジョフロワの動きが止まった。エマの身体がもんどり打つように後方へと引き寄せられる。
エマを抱えたのは目の前のジョフロワではなく――。
「夢男さんっ!?」
「ここから脱出しますよ、エマ嬢」
いつの間にかパーシーへと身を変じていた夢男だった。
「……っ!」
ジョフロワはすぐさま反応し二人を捕らえようと動くが、夢男が『扉作り』を発動するほうが早かった。
「きゃあっ!?」
二人の足元に押し開きの扉が突然パカリと開き、思わずエマが悲鳴を上げる。
二人はそのまま扉の下へと落下していった。ジョフロワが懸命に腕を伸ばすも、それをあざ笑うかのように扉は目前でパタリと閉まり、そうして一瞬の内に跡形もなく消え去った。全てはジョフロワの一瞬の隙を突いた出来事だった。『ギフト』を発動する余裕さえなかった。
「あちゃ」
メルクリオが残念そうに肩をすくめる。ジョフロワはただの床となってしまった扉の跡をじっと見つめ、拳を無念そうに握り込んだ。
「……メルクリオ、シャロンの娘はタチヤーナに任せたと言ったな」
「ああ。うまくいってりゃ、裏の廃工場から脱出している頃だろう」
「アレン・ゴードンはその後を追ったのか?」
「……多分、そうだろう」
メルクリオのその返事を聞いて、ジョフロワがすっくと立ち上がった。その硬い編み上げブーツの底をゴツゴツと鳴らしながら玄関扉へと向かう。
「私は廃工場の方へ向かう。メルクリオ、お前はノルベルトとギヨルパの様子を確認しろ。敵が残ってる可能性もある。慎重に行動しろ」
「了解」
それだけを言い残すと、ジョフロワは外へと歩み出ていった。
「う……む…………ここは……?」
ピクリと身体を震わせて、ロベールが目を覚ました。目をぱちぱちと瞬かせ、地面に手をつくとゆっくりと上体を起こす。
「…………ええと……確か俺は……」
未だぼんやりとした頭に喝を入れるように掌底で叩くと、先程までの出来事をはっきり思い出してきた。
「っ! そうだ! 俺ぁ、撃たれて……!」
はっとして自分の身体に目をやる。腹部に血の跡がべったりと付いているが、痛みはない。手でまさぐってみても傷の跡を見つけることができない。とにかく傷跡はきれいさっぱり無くなっている。
ボリスがその『ギフト』で傷を治したことなど、ロベールには知りようもなかった。
「どうなってやがんだ……それに、他の奴らは一体どこへ――」
ロベールがそんな自問自答をしていたときだった。
目の前の壁に突如扉が出現し、その奥からエマと夢男が飛び出してきた。
「うおおっ!?」
ロベールが驚きの声を上げている間に、夢男はサッと体勢を整えると、即座に扉を閉めた。目の前で扉が消え去った。
「うう……いたたた……」
「おい、嬢ちゃん!?」
地面へと転がったエマが覚束ない様子で身体を起こすのを、ロベールが支えた。
「おやロベールさん、まだこちらにいらっしゃいましたか」
パーシーの姿のまま、夢男がロベールに言葉をかける。
「まだいらっしゃいましたか、じゃねーよっ! あんたら、今まで一体どこに……」
「シッ! 静かに」
夢男が建物の角から様子を伺う。特務機関の正面玄関前に、先程までは居なかった青い馬車が横付けされている。
ロベールが夢男と同じ様に角から顔を覗かせる。彼は青い馬車を見て、あっ! と驚きの声を上げた。
「おい、あれだよ! 俺が見た青い馬車ってのは!」
「なるほど。ということは、あれはおそらくジョフロワが乗ってきた馬車ということでしょう。あれに乗って彼はここへ戻ってきたと」
「おい、誰だジョフロワってのは」
「奴らのボスの名前ですよ。……ム、ロベールさん静かに」
ロベールが続けて何かを言おうとするのを夢男が制する。
すると、特務機関の建物からジョフロワが出てきて、馬車の御者と何やら言葉を交わし始めた。短い言葉のやり取りの後、ジョフロワが馬車に乗り込むと、御者がひとムチ入れて、馬車がガラガラと動き出した。
「……もしや」
夢男は短くつぶやくと、自分の後ろにいるエマへと声をかけた。
「もしかしたら彼はカロル嬢の下へ行く気かもしれません。私はアレを追いかけます」
夢男はそう言うとククへと姿を変えた。突然のことにロベールが、おおっ!? と驚きの声を上げる。
エマが慌てながら声をかける。
「な、なら私も一緒に――」
「いえ、エマ嬢はこれを持ってここから離れてくれませんか。できるだけ遠くへ」
そういうと夢男はエマに一本のナイフを渡した。エマはそれを受け取ると沈痛な面持ちで呟いた。
「……私は足手まといということかしら……」
「いいえ、違いますよ」
夢男がはっきりと否定する。
「そのナイフは『アンカー』です。ジョフロワの行く先にもしカロル嬢が居るのなら、それを使ってカロル嬢ごと脱出してきます。なので、なるべく遠くへ逃げていて欲しいのですよ。脱出してすぐに奴らに捕まりたくありませんからね」
そう言って、夢男がククの顔で笑った。それを見て、エマがぎゅっとナイフを掻き抱いた。
「では私は、彼を追って――」
「ちょっと、お待ち下さい」
身を翻した夢男の服の裾をエマが咄嗟に掴んだ。
「私は……あなたを信用してよいのですか?」
エマが俯きながらそう呟く。
「先程の話では……あなたは『本』を持っていると、そういう話でした。それが真実なら、あなたはそれをカロル様に黙っていたことになる」
「……それは彼らの与太話ですよ」
「そんなわけありません。あなたはあのジョフロワという男の問いかけに、こう答えました――」
『お前の持つ『世界樹の本』を寄越せ』
『そんな言葉で私がおとなしくホイホイ渡すとでも?』
「――あなたが『本』を持っていない限り、こんな返答は出ないはずです」
「……本当に良く聞いていらっしゃる」
夢男の顔から幾分表情が失われる。エマは続けた。
「夢男。あなたは一体何を考えているのですか? 救出にかこつけて、あなたはカロル様を奪おうとなさってたりはしませんか? 本当にあなたはシャロン卿を殺害していないのですか?」
エマの疑念が言葉となって溢れ出す。エマはうつむけた顔を唐突に上げた。
「あなたの考えの一切合財をお話下さい。でなければ……私はあなたが信用できません」
しばらくの沈黙が流れた。ロベールには何が起こってるのかさっぱりわからず、ただぽかんとした様子で二人の顔を交互に見やっていた。
夢男が口を開いた。
「……その疑念はもっともでしょうね」
夢男がフッと表情を緩めた。
「ですが、今ここで全てを話すには時間が足りません。今こうしている間にもジョフロワがどこかへと向かっています。それはもしかしたらカロル嬢のところかもしれません。……それにアレンさんやボリスさんのことも気がかりです」
エマは『ボリス』という単語を聞いて、びくりと身体を震わせた。表情や態度にこそ出さなかったが、正直言ってずっとボリスの様子が気がかりだったのだ。上の階の喧騒はいつの間にか収まっていたものの、ボリスが来るでもなく、敵が来るでもなく、不気味な沈黙を保っていた。上の階で何が起こったのか。ボリスは……無事なのか。
「私も、今の立場をどう説明したものだか、悩んでいるのです。何をどう説明しても不審がられるのが目に見えていますからね。証拠も提示できない。だから『本』のことは伏せていたのですが……もうひとつ気がかりなこともある」
「もうひとつ……気がかり?」
エマが聞き返すが、夢男は思い直したように「いや……」と呟き、ゆるゆると頭を振った。
「……今はまず、この事態を収拾することを考えませんか。前にもいいましたね、私には私の目的があってカロル嬢を助けていると。その気持に嘘はありません。もしカロル嬢を奪おうとするなら、もっと以前にいくらでも実行できましたし、今こんな状況下になるのを待って実行する理由はありません。カロル嬢を救出したいという気持ちは、本当です。信じてくれとしか言えませんが」
夢男が穏やかな声で諭すように言う。
「カロル嬢を始め、アレンさんボリスさん……それと今どこに居るかわかりませんがククさんも……エマ嬢も。皆揃ってこのリュテを脱出するのが、私の今の目的ですよ。それを今は一旦信じてもらえませんか」
その言葉を聞いて、エマは再びうつむく。両手で不安そうにナイフを握り込む。そうやって少し悩んでから、エマは口を開いた。
「……約束してください。この事態が収拾したら、必ず真実を話すと」
「……いいでしょう。救出した後に話せることを話しましょう」
夢男はエマに頷きかけると、そこでロベールの方へと振り向いた。
「ロベールさん、エマ嬢を連れてできるだけ遠くまで逃げてくださいませんか」
「あ、ああ……それはいいけどよ。今、一体何が起きてるんだよ。俺にはさっぱりわからねぇ」
「それも話せる時に話しましょう」
夢男はそれだけ言うと、風の力を使ってふわりと浮かび上がった。
「だいぶ時間を使ってしまった……急がなければ」
建物の壁をとん、と蹴ると、夢男は上空へと空高く舞い上がった。
「……あそこですね」
遠くの路地の間からわずかに馬車の砂煙が舞い上がってるのが見えた。それを見ると夢男はひゅるひゅると風を操りながら、慎重に追いかけ始めた。
エマは口元をきゅっと結んで、何かをこらえるような表情でそれを地上から見上げていた。
「……夢男」
内容を覚えていない悪夢のような、漠然とした不安感を掻き立てる男。
あのような輩に敬愛するカロルを任せなければいけない無力感を噛みしめるエマ。
その心のうちのゆらぎを映すように、エマのスカートの裾がはたはたと風に揺れていた。