特務機関・廃工場3
「ゲホッ! ……すまねぇ……ゴホッ……助かった……アレン」
床に這いつくばって空気を喘ぎ求めるボリスを尻目に、タチヤーナが舌を打つ。
「アレン……シャロンの娘の護衛とかいう輩か」
その言葉に、箱の中のカロルが反応した。
(アレンですって!? ああアレン! 来てくれたんですね……)
カロルの脳裏にアレンの顔が浮かぶ。冬の夜に暖炉の火にあたるような安心感が湧き出る。猿ぐつわされた口元が思わずほころんだ。
(早く、なんとかここから脱出しなければ!)
喜びの感情もつかの間、一転気持ちを引き締めると、拘束を切る作業を進めた。後ろ手で、しかも食事用のナイフでははなかなか思うように糸を切り進められないが、ようやく肘から先が動かしやすくなってきたところだ。
(早く……早く……!)
お世辞にも切れ味の良いとは言えないナイフだが、今はこれだけが唯一の頼りだ。
ぷつりぷつりと、慎重に糸を切断していく。ようやく三分の一ほどにまでナイフが届いた。
「俺のことを知っているということは、お前も特務か」
アレンが警戒感を表情に出したところで、ボリスが叫んだ。
「青年! お嬢ちゃんは多分その箱の中だ!」
そういってボリスが木箱を指差す。
「なに!?」
「中に誰か入ってるんだ! この女はそれを外へと運ぼうとしていた!」
アレンは木箱を見て、タチヤーナを見て、そしてぐっと腰を落とすと身構えた。
「ボリス、立てるか!?」
「ああ……まだ大丈夫だ!」
ボリスがふらふらの体で立ち上がる。
タチヤーナは無言で『ギフト』の糸を繰り出すと、その糸は強固に撚り合わされ、一本の白いワイヤーになった。彼女がそれを軽く振るうと、ピュウンと鋭く空気を切り裂く音がした。
アレンはタチヤーナを睨みつけながら声を上げた。
「カロルを返してもらうぞ」
ボリスも拳を構えながら言い放った。
「二対一だ。悪く思うなよ」
その言葉を受けてタチヤーナが嘆息する。
「何も問題はない」
タチヤーナがワイヤーを振りかぶり、前傾の姿勢をとった。
「二対一じゃないからな」
その瞬間、ボリスの後頭部に衝撃が走った。
「お……ぐぁ……?」
突然の衝撃によろめくボリス。その肩に何者かが足をかけた。そして飛び跳ねると同時に、ボリスの顔面へ後ろ回し蹴りを叩き込んだ。
「ぶごぉっ!!」
「ボリス!?」
突然の出来事に慌てるアレン。その者はタチヤーナのそばへと軽やかに着地した。
「ターちゃん、大丈夫!?」
ギヨルパが声を上げた。
「問題ない。それより私の本名を呼ばないよう気をつけろ」
タチヤーナが冷静な声で告げると、ギヨルパはしまったという顔をして慌てて口を噤んだ。
「お前はその男の相手をしてくれ。私は……」
タチヤーナのブーツの底からギュギュッという音が鳴った。
「あの男を排除する!!」
瞬間、タチヤーナがアレンに向かって猛烈な勢いで突っ込んだ。
(……よし、これで!)
カロルの身体の拘束は半分以上が断ち切られていた。ようやく上腕が動かせるようになったので、マントを脱ぐように手で掴み上げて、糸束の拘束を外す。
その次は脚の拘束を解いた。こちらは手が自由に動くようになったので割とすばやく切り離すことができた。
最後に口を塞ぐ糸を切断すると、ようやく呼吸が楽になった。大きく深呼吸すると木材の匂いが肺いっぱいに広がる。
「アレン? アレン!!」
精一杯声を上げてみるが、返事は帰ってこなかった。家屋を解体工事でもしているのかと思われるほどの激しい音と、誰かが発する鋭い咆哮のような声が外から聞こえてくる。おそらく外は戦闘になっているのだろう。
「……それなら!」
カロルは真上の蓋を見上げた。それならそれで好都合、白蜘蛛の気は逸れたままだということだ。脱出するなら今しかない。
カロルは蓋を押し上げてみようと力を込めたが、開く気配は全く無かった。おそらくこの箱もあの糸の能力で縛り上げられているのだろう。次に、箱の中で逆さになって何度も蹴り上げてみたが、やはりというか、びくともしない。
「外の糸を切るしか……」
そう思って、蓋の縁をぐるりと見回してみたが、ピッタリとはまっていて少しの隙間もない。ナイフを差し込んでみようとしても跳ね返されてしまう。
(どこか隙間は……)
そう思って箱の中をぐるりと見回していると、蓋の中ほどに少しだけ板が歪んでる場所があった。目を近づけてよく見てみると、爪の先くらいは入りそうな溝の向こうに、ほんの髪の毛一本分ほどの細長い外の光が見えた。
(ここなら……)
カロルはそこにナイフを突き立ててグリグリと差し込んだ。なかなか奥まで進まず難儀したが、根気よく押し込んでいると、あるところまで進んだ所で突然つっかえが取れたようにズボリとナイフが飲み込まれた。力を込めてナイフを前後に動かすと、少しずつ溝に沿ってナイフを動かすことができた。そうやってナイフを動かしていると、やがて、あるところでぐいっとナイフを押し返してくるような感触に当たった。
(これ、この箱を縛り付けている糸に当たってるのかしら?)
その場でナイフを上下してみると、やはり板に挟まれる摩擦とは違う弾力的な抵抗を手に感じる。四苦八苦しながらナイフを動かしていると、やがてプツリとした感触とともに、その抵抗が消え失せたのを感じた。
(やっぱりそうだ! よし、このまま続ければ箱の拘束が解けるはず……!)
額に汗が滲むほどに大変な作業だったが、そこにわずかな希望が見いだせた。カロルの心中に気力が湧き上がり、黙々とナイフを動かす作業に集中しはじめた。
気合の雄叫びとともに、ボリスが豪腕を振るう。
しかしギヨルパはそれを軽々と避ける。ボリスは軽やかに飛び跳ねるギヨルパを目で追うことで精一杯に近い。
「しゃああああああ!!」
「うぐっ!」
ギヨルパの爪がボリスの腕を浅く切り裂く。ぶんと腕を振り回すが、その先にギヨルパはもういない。一瞬のうちに距離をとられる。
ボリスの全身はすでに細かい切り傷だらけだ。『ギフト』で治す暇すらない。
(くそっ! こいつとはあまり相性が良くねぇ!)
ボリスにとってギヨルパの素早さは捉えがたいものだった。攻撃の威力はあまりないが、ヒットアンドアウェーの動きに追いつくことができない。さらに、ボリスには少し前から問題が発生していた。
(目が……霞みやがる……)
度重なる戦闘による疲労と、戦闘の流血による貧血に悩まされていた。ボリスの全身を軽い痺れが襲い、素早く動くたびにめまいを覚える。指先は先程から凍えっぱなしだ。拳を振るうたびに視界が暗転しそうになる。限界が近かった。
ギヨルパは肉食獣のような唸り声を口から漏らすと、左右に稲妻のごとく跳ね、ボリスの喉元へと爪を振り下ろす。
鮮血が広がった。
「う……ぐ……ぐ……」
ボリスは遂に膝から崩れ落ちた。喉の裂傷はすぐに治した。しかし、脚に力が入らない。
ほぼ暗転した世界の中で、立ち上がらなければ、という言葉だけが脳内を駆け巡る。しかし身体が動かない。手足の感覚がない。床の硬い感触すら感じることができない。
「ち……く……しょう……」
上体がゆらりと揺れて、そのまま床へと落ちた。
アレンとタチヤーナは工場内を飛び回りながら戦闘を続けていた。
タチヤーナが手の内のワイヤーを振るう。甲高い風切り音とともに、蛇のようにくねるワイヤーがアレンへと襲いかかった。
「くっ!」
アレンは後方へと飛び跳ねてそれを避ける。バチンと木材が爆ぜるような音を立てて、ワイヤーがアレンの居た場所の床を削った。
タチヤーナがもう片方の腕を横へ薙ぐと、蜘蛛の巣状の網がアレンを囲い込むように飛んできた。それを避けるように机に手をかけ飛び乗ると、そこへ再びワイヤーの攻撃が来る。体勢が整わず、咄嗟に動けない。
「白玉!」
自身と机に白玉を吸わせると、反発力で空中へと緊急回避した。つま先をワイヤーがかすめていく。
空中できりもみしつつ、黒玉をタチヤーナめがけ投げつける。その黒玉はタチヤーナへと吸い込まれる。
アレンは床へと着地すると、椅子を手に取り、黒玉を吸わせた。
「おらぁっ!」
気合とともにそれを投げつけると、椅子は猛烈な速度でタチヤーナへと向かう。
しかしその間にタチヤーナは目の前に網目状の壁を張っていた。椅子はその網に捕らえられ、タチヤーナの眼前で勢いを失った。
さらにタチヤーナが糸を繰り出す。アレンのすぐ脇を通り、壁の端から端へ、まるで金網のような糸の壁ができた。
(くそ、まただ!)
あたりを見渡すとこの場を取り囲むようにいくつもの蜘蛛の巣状の網が張られている。おそらくアレンの行動範囲を狭めるためのものだろう。実際、動きづらいことこの上ない。
手にしたナイフで切り裂いて脱出したいところだ。しかし、その前にワイヤーの攻撃が飛んでくる。アレンはその攻撃を避けると机に飛び乗った。
「うおおおっ!」
そのまま机の上を走って一気にタチヤーナへと迫る。ようはムチに対処するのと同じだ。懐に飛び込んでナイフの間合いにしてしまえばいい。
しかし、タチヤーナは手から糸を伸ばすと、天井へと一気に飛び上がった。アレンも逃すまじと黒玉を天井に放って後を追うが、天井へとたどり着いたタチヤーナは一転、天井を蹴ると一気に床めがけ飛んでいった。アレンを包囲していた網の一つに飛び込み、衝撃を殺して着地する。そうして再び蛇のようにしなるワイヤーを振るった。
「くそっ!」
床上へと降りてそれを逃れる。破裂音にも似た音を立てながら、天井の梁をワイヤーが叩いた。
(あの能力、相当厄介だぞ!)
アレンの行動範囲を狭めつつ、自身の移動手段にも利用する。そうしてアレンから距離をとり、ワイヤーで攻撃してくる。アレンを自身の間合いから徹底的に排除する戦術だ。
アレンも手近なものを投げて応戦するが、それは糸の壁で防がれてしまう。ナイフは残り数が少ないため、あまりほいほいと投げられないし、彼女なら簡単に避けてしまいそうだ。
今の所膠着状態ではあるが、あきらかにアレンに分が悪い。
(なにか打開策は無いか……!)
アレンは戦い続けながら考える。このままではじり貧になるのは目に見えている。
そうこうしているうちに、タチヤーナが再びワイヤーを振るってきた――。
「や、やった……?」
ギヨルパが肩で息をつきながら呟いた。目の前の床にはボリスがうつ伏せに倒れている。
「ふ、ふへへ……仇はとったよ、ノル……」
顎を伝う汗を拭って一息をつく。横へ向くと、タチヤーナがアレンと戦っている姿が見えた。周りが糸の壁で囲まれているため、手助けに行こうとしても難しいし、どうやらタチヤーナの方が優勢のようだ。あちらは彼女に任せておこう。
「そうだ、カロルちゃん、カロルちゃん」
振り返って、カロルを閉じ込めているはずの木箱へと向かう。タチヤーナはカロルを別の場所へと移すために動いていた。しかし彼女は今、アレンと戦うことで精一杯だ。今は自分がそれをやった方がいいだろう。
木箱のそばへと近づいた時に、ふと気になることがあった。
「あれ? なんかここの糸、切れてる?」
タチヤーナの糸がぐるりと木箱を取り巻いているのだが、なぜか蓋の上の一箇所でその糸が断ち切られている。なんでだろう?
「これじゃあ、意味が――」
無い、と言おうとした瞬間だった。
木箱からカロルが飛び出してきた。
「とりゃあっ!」
「ぎゃんっ!」
あまりに突然の出来事でギヨルパも反応ができなかった。カロルが木箱ごと倒れるようにして、ギヨルパへと覆いかぶさる。
「は、離して!」
「そうはさせませんよ!」
ギヨルパは逃れようともがくが、カロルが彼女の首を腕でしっかりと抱え込む。
「ぐえっ……くるし……」
「ギヨルパ」
カロルがギヨルパの耳に口を寄せる。
「あの女の本名を教えなさい」
カロルの『ギフト』が発動した。
「タチヤーナ・ゲオルギエブナ・グルカロヴァ…………あーーっ!」
カロルが顔を上げてアレンへと叫んだ。
「アレン! 黒玉の用意をして!!」
「カロル!?」
アレンがカロルの姿に思わず驚く。
「シャロンの娘の声!? どうなってるギヨルパ!?」
タチヤーナが驚愕に叫ぶ。
「タチヤーナ!! その場に留まりなさい!!」
カロルが絶叫した。
「なっ……!?」
タチヤーナの身体が意思とは無関係にぴたりと動きを止めた。それと同時に、タチヤーナの身体へと黒玉が吸い込まれる。
「うおおおおおおおっ!!」
アレンが机の端に手をかけ、ひっくり返すかのように力を込めた。
「黒玉ぁぁあっ!!」
その瞬間、黒玉を吸い込んだ机がタチヤーナの元へと猛烈なスピードで飛んでいった。
「…………!!」
机がタチヤーナを巻き込んで、盛大に壁へとぶち当たった。