特務機関・廃工場2
「……誰だ、というのはこちらの方だな。お前は誰だ?」
タチヤーナが冷静にそう言うと、ボリスは慌てた。
「あ、いや、俺は怪しいもんじゃない!」
「怪しいものじゃない? 血まみれの姿で言われてもにわかには納得し難いな」
タチヤーナが鼻をスンと鳴らす。ボリスの全身から鉄臭い血の匂いが漂ってくる。
「こ、れは……その、ちょっとした事情で殴り合いになっちまってだな……」
「なんでもいいが、ここは私有地だ」
ボリスの言葉にかぶせるようにタチヤーナが言った。
「無関係の者はこの敷地から出ていってもらいたい」
返す言葉もなくぐっと喉を詰まらせるボリス。タチヤーナは興味なさそうな顔つきで、出入り口へと近づいた。
(この声は……ボリスさん!?)
一方、木箱の中に閉じ込められたカロルは、外から聞こえてくる声がよく聞き知った声であることに驚いていた。狭い箱の中でもぞりと身じろいで、二人の会話をよく聞こうとする。
(……やっぱりボリスさんだ。なんで彼がここに? 私を助けに来てくれた?)
くぐもって聞き取りづらいが、確かにボリスのものだと確信した。カロルの心中が安堵感で満たされていく。
(アレン、アレンもここに居るのかしら?)
思わずアレンの声や気配を探ってしまう。しかし、今はそんな場合じゃないと思い直し、頭を振る。
(とにかく、自分がここにいることを伝えなくては!)
カロルがそう思い至ったと同時に、ガタガタと木箱を揺らしながら台車が動き始めた――。
「さぁそこをどいてくれ」
「……」
タチヤーナが出入り口に立ちふさがるボリスにそう声をかけた。無言で道を空けようとするボリスを見て、タチヤーナが台車を押そうとした瞬間――。
木箱の中からガコンという盛大な音がした。
ボリスは最初、木箱が床の段差で跳ねた音かと思った。しかし、二度三度と同じように大きな音を立てながら木箱がガタガタと揺れるのを見て、幾分不審げな表情を浮かべた。
「な、なあ、あんた。その木箱の中はなんだ?」
「お前には関係ないだろう」
タチヤーナが無表情で冷たく返すが、その間も木箱はガタンと大きく揺れた。ボリスが耳をすませると、その木箱からは――。
「……うめき声のような物が聞こえなかったか」
「知らん、私にはそんなものは聞こえなかった。さぁ道を空けてくれ」
「……ちょいと待ってくれ」
ボリスがタチヤーナの前に再び立ちふさがった。
「あんたここの関係者か?」
「だからなんだ? 私は忙しい。早くそこをどいてくれ」
「ここ、見るからに廃工場だよな? 何の荷物を運んでるんだ?」
タチヤーナが苛立たしげに舌打ちをした。
「……部外者には関係ないとさっきから言っている」
「実は俺がこんなざまになっているのは、ある一人のお嬢さんを探しているからなんだがね」
ボリスは木箱をバンと叩いた。
「この木箱の中、ちょっと見せてくれないか」
「見せる義理はない。この箱の中は単なる資材が入っているだけだ。お前が考えているようなものは何もない」
「その資材っていうのは生き物なのか? 生き物を扱う工場ってなんの工場だよ?」
二人の会話の間も、木箱はガンガンと音を立て、中からはくぐもったうめき声のような物が漏れ出ていた。明らかに無生物などではなかった。
タチヤーナは僅かな怒りを込めながら、静かに言い放った。
「お前に教える義理はない」
「お前カタギじゃないな? 身体の重心がきちんと腹に落ちてる。咄嗟の時にいつでも動けるような足運びだ。キビキビとした動作は軍人のそれを思わせる」
ボリスがタチヤーナの足を指差しながらそう言った。
「……もしかしてだけどよぉ……」
ボリスの眼光が鋭く光った。
「お前、特務機関の人間じゃないのか?」
ボリスが疑問を放った瞬間、タチヤーナが台車を思い切り後ろへ引いた。
彼女はそのままハンドルを乗り越えるように跳躍すると、ボリスへと蹴りを放った。
「うおっ!?」
ボリスはそれをかろうじて腕でガードする。タチヤーナは木箱を踏み台に、空中へと跳躍すると、「シッ!」という鋭い呼気とともに、『ギフト』の糸を繰り出した。放射状に伸びた糸がボリスを襲う。
「くっ!」
ボリスが横へと転がりながら避ける。
床へ着地したタチヤーナが腕を引くと、いつの間にか巻き付いた糸が、台車を彼女の元へと引き寄せる。彼女はハンドルを掴むと、台車ごと木箱を自分の背に隠した。
「野郎っ!」
ボリスがタチヤーナに向かっていく。
タチヤーナは横に腕を伸ばしたかと思うと、身体ごとひねるようにその腕を払う。
ボリスが何事かと思った瞬間。
突然飛んできた椅子が、ボリスの側頭部を強打する。
「ぐっ……がっ……!」
たまらずボリスはよろめき、倒れる寸前で地面に足を踏みしめる。
椅子に絡みついたタチヤーナの糸が、プツリ、という音を立ててちぎれ、けたたましい音を立てながら椅子が地面へと落ちた。
(糸……こいつの『ギフト』は糸を自在に出して操る能力か……!)
ボリスがタチヤーナの能力を分析する。その瞬きほどの間にもタチヤーナは次々と糸を繰りだす。
いくつもの椅子がボリスめがけて飛んできた。
「くっ!」
ボリスは手近な椅子を手に取ると、飛来してきた椅子を一つ一つ叩き落とす。
椅子と椅子がぶつかる音、椅子が地面を転がり跳ねる音、そういったものが広い空間にこだまし大音響を立てる。
最後の一つが地面へと落ちると、後はぜいぜいというボリスの荒い呼吸の音が残った。
(うう……一体何が……)
木箱の中で翻弄されるがまま、強かに打った頭の痛みをジンジンと感じつつ、カロルは呻く。外で戦闘が始まったらしい、とまでは察せたが、木箱の中からは外の様子は窺えない。断続的に響く物と物のぶつかる騒々しい音だけが耳に届く。
(よくわからないけど……彼女の意識が逸れてる今なら……!)
カロルはそう心中でつぶやくと、木箱の中で体勢を整え、帯状の糸の拘束の下でもぞもぞと腕を動かした。
やがて、糸の下から金属の先端が飛び出した。
(さきほどかっぱらってきたこれで!)
それは一本のナイフであった。
カロルは地下の部屋で白蜘蛛に拘束される間際、地面へと倒されたどさくさに紛れて、食事についてきたナイフを密かに手の内に隠していたのだった。これがあれば白蜘蛛の糸を断ち切ることができるはず。そして、戦闘で彼女の気が逸れてる今が、その絶好の機会だった。
(少しずつ……少しずつ……)
糸の縛りはきつく、手先一つ動かすのに難儀する様だが、ナイフを取り落とさないよう慎重に、少しずつ糸を切り始めた。
「お前は誰だ?」
タチヤーナが問いかけた。ボリスが目の端をかすめるように流れ出した血をぐいと拭った。
「誰でも良いだろ。お前に関係あるのか?」
さきほどの意趣返しのような答えを返すと、タチヤーナは横に顔を向けて肺の空気を抜くようなため息をついた。
「……お前が襲撃者だな。何故我々を襲った?」
「やっぱりお前は特務機関の人間か。そんなこと分かりきってるだろ? お嬢さんを返してもらおうか」
そう言って構えをとるボリスに対して、タチヤーナはやれやれといった様子で頭を振った。
「はいそうですか、と言って我々がシャロンの娘を返すとでも?」
「思わねぇなぁ!!」
そう怒鳴るとボリスは猛烈な勢いでタチヤーナに向かった。
しかし、突然ボリスの身体が後ろへと引っ張られるように止まった。
「ぐぇっ……」
「お前の言う通り、お前が何者かはどうでもいい。シャロンを取り返しにきた敵だと分かれば十分だ」
ボリスが苦しそうに喘ぎながら、首元をひっかくかのようにまさぐる。タチヤーナは近くを走る蒸気機関のパイプを下から担ぎあげるかのごとく、しっかりと掴んだ。片方の手からは糸の束が天井へと伸びている。
「直情的な男め、自分の首元を這う糸に気づかなかったか?」
苦しむボリスの首には細い糸束が食い込んでいる。タチヤーナがパイプで自分を支えつつ、思い切り手の内の糸を引き下げた。
ボリスの身体が空中へと持ち上げられた。
「ぐっ……げぇっ!」
絞り出すような苦悶の声がボリスの口から漏れる。
(しまった……! いつのまに首に糸を……!)
ボリスはもがくように身体をよじり、首にかかる糸をつかもうとする。糸は血が滲み出すほどに皮膚に食い込んで、血管が今にも破裂しそうなほど膨らんでいる。その口からは塞がれた気道を無理矢理に空気が通るゲッ、ゲッという音が漏れ、口角にはよだれが泡のように吹き出す。
(この女、片手で俺を支えるとか、なんて力だよ!!)
タチヤーナはボリスの全身を釣り上げる糸を腕一本で支えていた。鉄製のパイプで身体を固定し、歯を食いしばり懸命の表情を浮かべてはいるが、その細腕に満身の力を込めいささかも緩む気配がない。驚異的な膂力だった。
(ま、ずい……窒息は…………俺の『ギフト』じゃ……どうにもならねぇ……!)
自身を釣り上げる糸を探るように空中を必死に掻く。指先に何度か感触は感じるが、上手くつかめない。
(やばい……意識が……)
視界の端からじわじわと暗転し、真正面の景色を認識することも覚束なくなってきた。血管がボコリボコリと顔の表面を痛いほどに脈打ち、それとは対象的に指先が痺れて冷たく感じる。
意識が遠のき、すべての思考が消え去りそうになった、その瞬間だった。
どこからともなく飛んできたナイフが、ボリスを釣り上げる糸を切断した。
「…………っ!?」
突然重みの消失した糸に、タチヤーナが姿勢を崩した。ボリスは重力にしたがって床の上へとドサリと落下した。
「ゲッホ、ゲホ、ゲェッホ!! ゴホッ!!」
「おい、大丈夫か、ボリス!?」
タチヤーナが工場内を見渡すと、ナイフを投擲した姿勢のままのアレンがそこに居た。