『世界樹の本』
警察署から出た時には夕刻だった。見上げる空全てが灰青色の雲に覆われ、石畳や赤レンガでさえ薄暗い青色に沈んでいるのを見るのは、アレンを陰鬱な気持ちにさせた。
シャロン氏は警察署を出ても険しい顔を崩すことなく、アレンが警察署の正門までまわした馬車に黙々と乗り込んだ。
「では、屋敷へと向かいます」
「……いや、少し待ってくれ」
アレンが馬車を発車させようとすると、シャロン氏は沈黙を破り、アレンに制止をかけた。
「帰る前に少し寄り道したい」
「承知しました。どちらまでお連れしますか?」
「西2番通りのラ=ガルディエンヌ教会まで……」
アレンは手綱を握ると、言われた通りに西2番通りに向けて馬を走らせた。
夕刻の街路は家に帰る人々や馬車で混雑していた。今日は曇りで常よりも暗かったため、早々にガス燈が灯されており、その下を通る人々の顔を照らし出していた。今日という日を無事に終わらせた人々はみな楽しげに見えた。その人々とは対照的に、言いしれぬ不安に包まれた二人の顔には、より暗い影が落ちていた。
アレンは馬を走らせながら、先程の警部とのやり取りを思い出していた。
もし警部の推論が正しいならば、今回の事件の裏には巨大な陰謀が隠れているのだろうということはアレンにも分かった。ただ、アレンは政治に詳しいわけでもなく、ましてや異国の社会事情などまるきり分からない。その辺り、シャロン氏に色々と聞いてみたかったが、とてもそれを聞ける空気ではないし、一護衛ごときにそのような国の大事をほいほいと話すわけはないと思い、何も聞かずにいた。
あのエルフの男は『本』を渡せと言っていた。そしてシャロン氏は後生大事に小箱を脇に抱えていた。きっとあの小箱の中に『本』とやらが入っていたのだろうことは察した。
しかし、『本』? あの箱の大きさから言って、よほど小さい本でもなければ一冊入ったらそれでいっぱいになるだろう。たかが一冊の『本』がそんなに大事なのだろうか?
だが実際にシャロン氏は刺客に襲われ、その刺客は口封じされ、警察は疑問の残る決着をつけようとしている。さらには先程のシャロン氏の発言である。
『ことは国家を揺るがす……いや、場合によっては……世界をも揺るがしかねないものなのだ』
クレマンソー警部は最初はなにかの冗談かと思ったらしく、大きく腕を広げ困惑のジェスチャーをした。しかし、シャロン氏が本気で発言していると察すると、なんとかそれを聞き出そうとしつこく食い下がった。
気持ちは分かる。クレマンソー警部には今、ジャックとシャロン氏の発言以外には手がかりになるものは無いのだ。しかし、シャロン氏は頑として話さなかった。
「上層部が怪しい動きを見せているとあれば」
と、シャロン氏は無念そうにかぶりを振った。
「ますます話すわけにはいかない。どこでその情報が漏れるか分からぬ。それが君のためでもあるのだよ、クレマンソー警部」
しばらく固まっていたが、そのうち前のめりになっていた身体をソファに沈め、警部は無念そうにため息をついた。
「シャロンさん、気が変わって、お話頂く気になったらいつでも仰って下さい。また、何か危険が迫っていることを察したらいつでもご連絡を。警備をお送りしましょう。我々……いや、少なくとも私はあなたの味方です」
シャロン氏は頷きながら「その時はそうしよう」とだけ言った。
アレンは警部とのやり取りを思い返しているうちに、自然とカロルの事を考えていた。
今回の事件はカロルとは無関係と考えていいのだろうか? だが、とアレンは否定するように頭を振った。今後もこのような敵が襲ってくるとしたら、関係のあるなしに関わらず、カロルを人質として利用されることは十分考えられた。いや、むしろ積極的に狙ってくるだろう。自分はシャロン氏を護衛するべきなのだろうか? それともカロルを護衛するべきなのだろうか?
自分は本当に、雇われの護衛として、その役割だけ全うしているだけでいいのだろうか?
アレンがそんな自問自答をしていると馬車はラ=ガルディエンヌ教会にたどり着いていた。このタイミングで教会になんの用があるのかと考えていると、シャロン氏より教会脇の小路に入るよう指示があった。その小路を走らせると、教会の裏手側にある墓地の入り口にすぐたどり着いた。
墓地の入り口に馬車を留めると、シャロン氏はアレンを伴って墓地の奥まで歩きだした。日も沈みかけているのか、辺りは宵闇に包まれており、風が吹くたびにざわざわと鳴りだす木の葉擦れの音がはなはだ不気味だ。歩いているとやがて、墓地の外れ、森に半ば埋もれるように存在する墓の所まで辿り着いた。
「すまんが、ここで待っていてくれるか」
シャロン氏はそう言うと、アレンを近くに残し、一人墓の前へ向かった。その墓は一般の墓とは違い石垣で囲まれており、その中に人の高さほどもある立派な墓石が鎮座していた。
シャロン氏はそこで墓を眺めながら立ち尽くした。時折墓石を撫で、何かを呟いているようだった。アレンは、多分奥さんの墓なんだろうな、となんとなく察した。
しばらくそうしていると「待たせたね」とシャロン氏がやってきた。最早夜と言っていい時刻の墓地を、アレンとシャロン氏は入り口目指して歩いていった。
「気になっているだろうね」
シャロン氏は前を見て歩きながら唐突に喋った。
「何がです?」
「今回の事件の……いや」
シャロン氏は一拍置いた。
「私が狙われた理由さ」
アレンは少しの緊張を感じた。
「気にならないと言えば嘘になりますね」
シャロン氏が脚を止めたため、アレンも歩みを止めた。
「何か質問はあるかね?」
アレンはそう問われて、少し考えた後、結局は先程からずっと思い悩んでいたことを口にした。
「今後私はカロルさんを守るべきでしょうか? 今日と同じようにシャロンさんを守れば良いでしょうか?」
シャロン氏はその質問に驚いたようで、アレンの方に顔を向けた。警察署を出てから、久しぶりにまともに顔を合わせた気がする。
「てっきり『本』のことを聞かれるかと思ったよ」
「それも気にはなるのですが」
アレンは自分の考えを率直に伝えた。
「今日の話を聞くかぎり、その『本』とやらを巡って、とても大きな事件になっていると感じました。警察も巻き込まれていると言うなら、恐らく政治絡みだろうということも。私にはそういうのは良くわかりません。ましてや外国のことならなおさらです」
シャロン氏は黙って聞いている。
「シャロンさんはそのことは喋りたくないだろうということは、警部との話を通じて良くわかりました。そうであれば私のできることは、護衛としての役目をきっちりと果たすことだと考えました。そしてそれを思うと、カロルさんを一人にしておくのは危険かと思います。万が一敵に囚われ人質にでもなったら……。それで先の質問になりました」
「そうか……」
シャロン氏は何かを感じ入るように、墓地の入り口の方を見やった。
「アレンくんには少しだけ、話そう」
シャロン氏と二人、馬車のところまで戻り座席に座った。最初アレンは御者台の方に座るつもりだったが、シャロン氏がこちらで良いと言うので、シャロン氏の隣に座ることになった。
「私が『本』を手に入れたのはもう、15、6年前になるか」
シャロン氏はゆっくり話しだした。
「一時期親しくしていた男がいてね。その男が海外のデパルト領を訪問した時にとある本を手に入れたと言うのだ……」
「珍しい本でございましょう? シャロン卿」
そこはシャロン邸の客間。その男は鷲鼻をひくつかせながら、得意気に胸を張って言った。
シャロン氏はその男から受け取った本をひっくり返したり戻したりしながら眺めた。
「ふーむ……確かにこのような意匠の本は珍しいですかな。特にこの……」
「表紙に埋め込まれた金属製の紋章ですな」
男は我が意を得たりと、上機嫌な顔で語った。
その本に嵌め込まれた紋章は真鍮に似た金属製の円形で、その中に5本の線が下から上へと行くに従って枝分かれするように扇形に広がるような意匠をしていた。その紋章自体は厚めに出来ており、本の表紙に嵌ってはいるが、厚みの半分ほどは外に飛び出している。本の方にもその紋章のデザインとつながるように線が浮き出ており、それは全体的に言って……
「木が枝を広げているように見えますな」
「シャロン卿もそうお思いですか」
その男は前のめりになりながら言った。
「しかしこれだけ凝った造りにしては、中身が真っ白なのはどうしてだろう?」
シャロン氏は中身を開きながら言った。
「ふーむ……本の外見だけ作っておき後から書き込むつもりだったのですかねぇ……」
「あるいは見せかけだけなのかもしれませんな。インテリアとして使われる用途で」
「きっとそうに違いありませんよ、シャロン卿」
男は同意するとソファに深く身を沈めた。
「いかがです、シャロン卿。たまにはこのような小洒落た物でも土産としてみるのもいいかと思いましてな」
「うーむ」
シャロン氏はあまり関心がもてず、持て余しそうだなと思ったが、男とはそれなりに親しくしている仲である。男の思いを無碍にするのも心苦しい。
「私の殺風景な書斎にはピッタリですな」
「また御冗談を仰る。しかし、私の土産がシャロン卿の書斎に華を添えるというのであれば、まことに光栄ですな」
シャロン氏はその本を受け取ることにした。
「まぁ正直欲しいとは思わなかったんだがね」
シャロン氏は手先を揉みしだきながら話した。
「しばらくは書斎の机の上に放置していた。まぁ……持て余してしまってね。書棚にも入れずにそのままにしてしまったのだが……些細なきっかけでその本がとてつもないものであることを知ることになった……」
ある日シャロン氏が書斎にいると、扉が開かれた。
「あなた」
入ってきたのは幼子を腕に抱いたシャロン夫人だった。シャロン夫人は長い銀髪を後ろにシニョンにまとめて、優しげな目元と微かに浮かべた微笑が相まって、一枚の絵画のような落ち着いた美しさを湛えていた。
「アナか。どうかしたかね?」
「カロルが、お父様がいないとむずがってしまいまして」
そう言うとシャロン夫人は、その胸に抱いたカロルをシャロン氏へと近づけた。
「パーパ! パーパ!」
「おうおう、そうかそうか。お前のパパはこっちさ。おーよしよし」
まだまだ上手ではない言葉を懸命に繰り出して父親を求めるカロルを、シャロン氏は夫人の胸元から抱き上げた。
「あー、うぁー」
「む? どうしたんだ、カロル?」
カロルはシャロン氏に抱きかかえられても、何かを求めるかのように空中に腕をかいている。不思議に思ったシャロン氏がカロルの目線を追うと、そこにはあの本があった。
「これが気になるのか」
何気なくシャロン氏がその本を手に取り、カロルの方へ寄せると……。
「!? あなた……!」
「ムッ!? い、一体、これは……!?」
カロルがその本に手を触れた途端。
「ぼんやりと……紋章が輝いている……」
いや、紋章だけではなかった。紋章も含めた、表紙に描かれた木の意匠全体が、まるで息づくかのように明滅を繰り返していた。
シャロン氏はカロルを夫人に再度預け、その本を開いてみると。
「も、文字が浮かび上がっている……!」
以前は真っ白だったページに、青白く輝く文字がクッキリと浮かび上がっていた。
「アナ。すまんが席を外してくれるか」
「え、ええ……その、それはなんなの?」
「私にも分からぬのだ。確かめたい」
そう言って、シャロン夫人を退室させた後、シャロン氏は中身を読み進めていった。
「私はその中身を読んで……正直後悔したよ」
シャロン氏は脚に肘を突き、前方へと身体を傾けながら、しみじみと言った。
「アレンくんは『世界樹』を知っているかね」
「『世界樹』ですか」
アレンは人差し指をこめかみにあてながら考えた。
「なにかそんな昔ばなしがあったような……神話とかの……」
「まぁ、そんなもんだな」
シャロン氏は口を開く。
「昔の異国の神話に『世界樹』というものがあったのだよ。その『世界樹』というのは大きな木で、その神話によると世界を支えるほどの巨大なものらしい……」
シャロン氏がそう語るのを聞くと、アレンの心がざわついた。
大きな木。
『世界樹』。
『大きな木じゃよ』
不意に占い婆の言葉が頭に浮かんだ。
『お前さんの未来には大きな、本当に大きな木の像が見えた。それはこの世の全てを覆い尽くさんとするばかりに巨大な木じゃ。』
記憶の中の婆さんが、アレンの精神を射抜くかのようにこちらを見据えた。
『その巨大な木の根に絡みつかれ、呻こうにも呻けず、足掻こうにも足掻けず。ただただ縦横無尽に伸ばされた木の根にその身を絡みつかれ、無力感に身も心も沈めているお前さんが見えた……』
不吉な言葉がアレンを絡め取る。
周りの真っ黒い木どもがざわりざわりと蠢いている。
アレンの足元にはそれらの根っこがミミズのようにのたうち回り、やがてアレンの脚を……。
「アレンくん?」
アレンはそれまで詰めていた息をはっとさせて、現実に戻ってきた。思わず足元を見るが、馬車の座席の足置きが見えるばかりで、先程までとなんら変わりない風景が見える。
「どうしたかね?」
「あ、いや……なんでもありません。そんな話があったなと考えていただけで……どうぞ、続けて下さい」
「ふむ、そうかね」
シャロン氏は気分を害することもなくそのまま続けた。
「つまり、その本にはこのようなことが書かれていた。」
「この世界には『世界樹』と呼ばれるものが実在する」
「『世界樹』はこの世界を目に見えぬ形で支えており、万物の存在・活動を司っている」
「ゆえに、『世界樹』と繋がれるものは、万物を支配する力を得る」
「『世界樹』と繋がれるものはただ一人の『適合者』と呼ばれるものである」
「そして……」
シャロン氏はぐっと唇を引き結んだあと、意を決するかの如く告げた。
「この『本』は『世界樹の適合者』に対して開かれるだろう……」
そう語るとシャロン氏は口を閉じた。『世界樹の適合者』に対して、『本』が開かれる……。
「それはつまり……」
「アレンくんの思っているとおりだよ」
シャロン氏はアレンの言葉を引き継いでこう言った。
「私の娘、カロルが『世界樹の適合者』なのだ」
占い婆に関しては
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シャロン氏の『本』に関しては
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https://ncode.syosetu.com/n9717fz/4/
も参照ください。
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