ヴェルグとエマの邂逅
エマがその笑顔に、思わずたじろぐ。
「ん? どうかされました?」
その声にハッとすると、ヴェルグが人当たりの良いニコリとした笑顔を浮かべていた。
……なんとなく嫌な感じを受けたが、気のせいだったか?
いずれにせよ、今の自分の態度は少しばかり礼儀を欠いていたように思う。
エマが慌てて取り繕う。
「いえ、なんでもありませんわ。……寝不足で、少々頭がぼんやりしていたもので……」
「そうですか? ……大分お疲れのようだ」
ヴェルグはそう言うと、何を思ってか、辺りをキョロキョロと見回した。
「ここは人の邪魔になる。あそこの噴水まで移動しましょう」
そう言ってヴェルグが噴水のあるちょっとした広場を指差して、そのままエマの返事も聞かずにさっさと歩き出した。
「いえ、お気持ちは嬉しいのですが、私はこれで失礼を……」
そう言って踵を返そうとしたエマだったが、先程ヴェルグに渡されたハンカチを手に握りしめたままだったことに、その時ようやく気がついた。
「あ、あの! このハンカチ……」
そう言って彼に返そうとしたが、ヴェルグは労働者の人波を縫うようにして、既にはるか先を歩いていた。
「……もうっ!」
エマは強引なヴェルグに少しばかりのいらだちを感じながらも、人波をかき分けて彼を追いかけ始めた。
「ここ、どうぞ」
そう言って、ヴェルグが指し示したのは噴水の縁石だ。
昼の休憩時などは人の尻で埋め尽くされそうな居心地の良さそうな場所だが、今は朝の忙しい時間帯だからだろうか、噴水の周りでたむろするような人影は殆どいない。
労働者の間を抜けてきたエマは、僅かに息が上がっている。パニエで膨らませたスカートでこの人混みを抜けるには少しばかり労力が掛かった。
とっととこのハンカチを突き返して、さっさと帰ってしまおう。
エマは息を整えつつ、握りしめたハンカチをおずおずと差し出しながら口を開いた。
「あの、ハンカチ、貸して頂きありがとう存じ……」
「そう言えば、名前」
「え?」
エマが感謝の言葉を言い切る前に、ヴェルグが出し抜けに質問をしてきた。
「僕は名前名乗ったけど、お嬢さんは?」
「あ……すみません、名乗りもせず……私はウェルゲッセン共和連邦の地方領主ノイラート家が次女、エマ・シャルロッテ・フォン・ノイラートと申します」
「そう……。エマ、どうぞこちらへ」
エマの名乗りを聞くとヴェルグはさっさと噴水の縁に座りこんで、隣の場所をポンポンと手のひらで叩いた。
……先程からどうにも調子を狂わされっぱなしだ。このままでは良くない。
そう考えたエマは息を大きく吸い込むと、僅かに声を大きくして言った。
「あの、先程はハンカチをありがとうございました。せっかくのお誘いなのに恐縮ですが、私はこれで宿に戻ろうと思います」
そう言ってハンカチを突き出すと、ヴェルグは少しばかりキョトンとした顔でエマを見つめ、そしてハンカチへと目線を移した。
しばしじっとそれを見つめていたが、何を考えているのか、突然フフッと笑った。
「そうですか…………実は僕、ちょっと前に職を得たばかりなんですけどね」
ヴェルグが唐突に語り始めた。
ハンカチを差し出したままのエマが何事かと目線で困惑を訴えるが、彼はそれに構わず、つらつらと言葉を連ねる。
「デパルトの出身なんですけど、それまでずっと外国をふらふらと歩く根無し草でね。そんな自分にしてはかなり良い条件の職を得られて。それは良かったんですけど、なんかどうにも同僚とは上手くコミュニケーション取れませんで」
そう言ってヴェルグは恥ずかしげに後頭部を掻いた。
「本当は旅先で見かけたいろんなことを語ってみたいんですけど、どうにも仲間たちはそういうお話には興味無いようで。……まぁ、いろんな国から集まって来た人たちだから、そういう話はもう慣れっこなんですかね。しゃべることと言えば仕事の事務連絡みたいなのばかり。ちょっと乾いてるっていうか……。もっと皆が何を考えてるか知りたいな、と思うんだけど、なんだか上手くいかなくてね」
「あ、あの……何を」
差し出したハンカチの行方に困り、エマが戸惑うように言葉を挟むと、ヴェルグはフッと寂しげな表情を浮かべた。
「おしゃべりに飢えてるんですよ。なんの気負いも無い、気楽できままなおしゃべりにね」
その表情が意外にも悲しげで儚げに見え、エマは思わずドキッとする。
「だから、さっきエマが僕にぶつかってきて、僕がハンカチを貸した時、これも一つの、人生の中のかけがえのない出会いなのかなって、そう思ってね。……ちょっとだけ、5分とか10分とかだけでも、エマとお話したいなって、そうできれば良いな、って思ったんだけど……」
そう言ってヴェルグが上目遣いでエマを見やる。
裏路地の影でひっそりと横たわっている、やせ細った犬のようにさみしげな目だ。
「……やっぱり迷惑でしたかね?」
そんな目でそんな言葉を吐かれると、思わず居たたまれないという気持ちになってしまう。
これではなんだか私が意地悪しているようだ。……いや、人の話をあまり聞かないこの人に問題があるのだが。
無理につっぱねようとしても余計に話が長引きそうな空気を感じた。
……仕方ない、少し話せばこの人の気も収まるだろう。
そう思い、エマは深い溜め息を吐いた。
「…………わかりました。ちょっとだけでしたら……」
「本当かい? ありがとうエマ!」
遂に根負けしてエマが了承すると、ヴェルグが子供のように破顔して喜んだ。
その顔を見て、思わずエマも口元が緩んだ。こうなったら乗りかかった船だった。
ヴェルグの隣に座りながらエマはハンカチを彼に渡した。
「連れのものを宿に置いてきているので、本当にちょっとだけですよ?」
「勿論、時間はそう取らせません」
そう言って、ヴェルグはニコニコしながらハンカチを受け取った。
その顔を見ていると、意外とこの人は良い人なのかな、という気持ちが湧いてくる。
さきほど感じた妙な気分の悪さは、やはり気のせいだったのだろうか。
そう思うとヴェルグに対する申し訳無さがむくむくと湧き上がってきて、エマは少しだけ居心地の悪い気持ちがした。
「その……それで、どんなお話をしたらよいのでしょう?」
とにかく相手に話をさせて、さっさと満足させてしまおうと考え、話を振った。
ヴェルグは顎に手を当てて、ううんと悩み始めた。
「そうですねぇ………………では、とある村の奇妙なお祭りの話なんてどうです?」
「奇妙なお祭り……ですか?」
思わぬ言葉にエマがぽかんとする。
「ええ。これは僕が外国に行った時の話なんですけどね。その村ではお祭りの時に、等身大の藁人形を作って、その人形の尻を一晩中村の皆で叩くんですよ――」
その後、ヴェルグはいろんな話をエマに語り聞かせた。
エマは最初こそ身を固くしながら聞いていたが、ヴェルグの外国を旅した時の話が意外と面白く、いつのまにかすっかり聞き入っていた。
「――と、その偏屈爺さんはすっかり好々爺になってねぇ。今では自分で紙芝居を作って、毎日子どもたちに語って聞かせているそうですよ」
「まぁ、そうなんですの!」
エマがころころと笑った。ヴェルグはその様子を見て微笑む。
「と、どうです? 僕のお話。楽しめていますか?」
ヴェルグのその言葉に、エマは笑顔で返した。
「ええ、とても楽しく拝聴させて頂きました。ヴェルグさんはいろんなお話を知ってらっしゃるのですね」
「なに、外国を旅していると、様々な生き方をする人たちと沢山出会うのでね。『一人の作家より、百人の凡人』とはよく言ったもので、世の中はこんなにも面白い人生に満ち溢れてるのだな、と日々目を開かされる思いですよ」
そう言ってヴェルグはカラカラと笑った。エマも思わずつられて笑う。
「ヴェルグさんは……思ったよりも気さくなお方なのですね」
「へぇ……それはどういう?」
エマの言葉に、ヴェルグが少し不思議そうな顔になる。
「その、失礼な話かとは思いますが……最初言葉を交わした時は、その、少々……責められているのかと思ってしまって」
「僕がエマを責めて?」
エマの顔を覗き込みながらヴェルグが問う。
エマがバツの悪そうな表情を浮かべて、首を引っ込める。
「ヴェルグさんが、いろいろと追及なさるので……てっきり怒っているのかと」
「まさか! 単にエマに興味があっただけですよ」
そう言って屈託なく笑うヴェルグ。
エマはヴェルグの『エマに興味があった』という言葉に反応して、顔を赤らめる。
「え、いや、その……」
「だってエマ、君のようなひと目見て貴族のご令嬢だとわかるような女の子が、労働者の群れに紛れてしょんぼりと歩いているんだもの。気にならないと言う方が嘘になる」
そう言ってヴェルグがニヤニヤと笑う。
エマは、多感な時期の女子にありがちな、浮ついた勘違いが一瞬心をよぎったことを恥じて、ますます顔を赤らめた。
「ん? なんだかお顔がいやに赤いですが、どうかされました? ご気分が優れないとか」
「いえいえいえ! 気分は大丈夫ですの! どうぞお気になさらず!」
エマがブンブンと手を振りながら必死に答えるのを見て、ヴェルグがさも愉快そうにクスクスと笑った。
「では今はお元気だということで?」
「ええ! 何の問題もありませんわ!」
「そうですか、それは良かった」
ヴェルグは含み笑いを止め、柔和な顔つきでエマに向き合った。
「だって、最初会った時は随分元気なかったですからね」
そうして、じっとエマの顔を見つめ始めた。
ヴェルグは中性的で整った顔立ちの男だ。
そのような男に黙って見つめられると、ドギマギとしてどうにも心が落ち着かない。
エマは慌てて話題を探した。
「あ、えー、その、それは、連れの者とちょっと喧嘩をしてしまいましたの」
そう言って照れ隠しのように笑うと、ヴェルグがこくりと頷きながら相槌をうつ。
「そうだったんですか」
「それでその、ちょっと顔を合わせづらかったので、宿を飛び出してしまいまして」
「気持ち、分かるなぁ」
ヴェルグがうんうんと頷く。
「喧嘩した後は、何を話していいか分からないですよね」
「そう! そうなのですわ!」
エマが勢いこんでヴェルグに同意する。
「連れの者……ボリスという従者なのですけど、彼も私の事を色々と考えた上での行動ということは分かっていますの。でも、私もおいそれとは割り切れないし、引けない、引きたくないという気持ちもあって」
ヴェルグが首肯しながらエマの話を受け止める。
「つまり、エマにはどうしても大事にしたい思いがあったけど、ボリスさんには止められた、みたいなことなのかな?」
「ええ……そうなんですの。……もう私はどうしたら良いか分からなくて」
喋っている内にカロルの顔が心の内をチラついて、段々と気分が沈み始めた。
「エマさえ良ければ」
ヴェルグがそっとエマの手をとった。エマは突然の事に思わずドキリとした。
「何があったか、僕に話してみないかい? ……きっと、話すだけでも気持ちが楽になるはずだよ」
そう言ってヴェルグはニコリと笑った。
その笑顔があまりにも眩しくて、エマは首元まで真っ赤になってしまい、いよいよ気が動転してしまう。
「あ、え、いや、その」
「おっと、ごめん、つい」
ヴェルグが気がついたように手を離した。
先程までの手のぬくもりがパッと失くなってしまい、その消えた温度がなんだか寂しい。
ヴェルグがエマの瞳を真剣に覗き込んできた。
「何があったんだい?」
……ああ、ヴェルグの神秘的な瞳を見ているとなんだか、その中に吸い込まれてしまいそうな感覚がする。
エマは思わずうつむいて、地面へと目線を落とす。
何をどう言っていいか分からず黙ってしまうが、ヴェルグはエマの言葉を辛抱強く待っているようだ。
エマは観念したとばかりに、自分の身に起きたことをぽつりぽつりと話し始めた。
カロルのことは、初めて会ったときから好感を抱いた。
デパルトとウェルゲッセンは国内の爵位制度が廃止されて久しい。
だが旧制度上で言えば、シャロン家は侯爵の血筋、それに対してノイラート家は子爵の血筋だ。格が二つは違う。
それでも、カロルは気安く接してくれた。あまつさえお友達にならないかとまで言われてしまった。
シャイで口下手で少々気難しいところがある格下の娘にもそのように接して、それでいて気負うところが無いあたりが天真爛漫といった感じで、エマにはとてもまぶしく見えた。
気軽に呼び捨てしてくれと言われた時には流石に固辞したものの、カロルのことは心の中でひっそりと親しい気持ちを抱いていた。
だからこそ、カロルが攫われたと聞いた時は、目の前が真っ暗になるような心地がした。
そうして、どうしてもカロルを助け出したいという気持ちを持った。
あんなに心根の優しいご令嬢を放ってはおけないと。
だが、ボリスにそれを反対されてしまった。
単にエマの身を案じてのことだったら、何を言われようと反発して、なりふりかまわずカロルを救出しようとしただろう。
しかし、ノイラート家の事を持ち出されるとエマも弱かった。
エマはノイラート家の養子である。つまりは、今の父、母は本当の親ではない。
だが、本当の親子のように接してくれた、大切な家族でもある。
だから、エマの軽率な行動で、もしノイラート家お取り潰しなどという事態になったら、今まで育ててくれた恩を仇で返すことになってしまう。
それだけは絶対に避けなければならなかった。
それを指摘してくれたボリスには、そういう意味では感謝しなければならなかった。
しかし、カロルのことを思うと、素直にそういう気持ちにもなれない。
板挟みだった。
昨日はそのことを考えると悶々として眠れなかった。
朝になっても気持ちは整理できず、思わず宿を飛び出してしまった。
そのようなことを、ヴェルグに訥々と語って聞かせた。
流石にカロルが特務機関に攫われた、とは言えなかったので、その部分は故あって別れたとぼかした。
ヴェルグは相槌を打ったり、必要なところで質問したりしながら、親身になってエマの話を聞いた。
エマが全てを語り終えると、心からの同情を示すように、深く感じ入る様子でエマのことを見つめた。
「それは本当に苦しい出来事だったね……。エマの辛さを思うと、僕の胸まで痛むようだ」
そういうヴェルグに、エマも微笑みを返した。
「そう言って頂けて、本当にありがたく存じますわ。……苦しい心中を吐き出せたことで、気持ちも少しだけ楽になれました」
「僕のようなしがないエルフが、エマの苦しみを少しでも取り除けたのだとしたら、とても光栄に思うよ」
そう言ってヴェルグも微笑んだ。
「エマ。きっと君のそのお友達にも、いつかまた会える日が来るよ」
「ええ……そうなれば、本当に良いことですわ」
エマのその言葉を聞くと、ヴェルグがある提案をしてきた。
「エマ。よければ、そのお友達の名前や特徴を教えてくれないか」
その言葉にエマが「特徴ですか?」と、キョトンとした顔をする。ヴェルグが頷く。
「もし僕が君のお友達を見かけるようなことがあれば、その人に『エマがとても貴女を恋しがっていた』と伝えよう」
ヴェルグのその言葉に、エマはどうしたものかと考える。
ヴェルグがカロルと出会うことは、恐らくないだろう。
なにしろ、カロルは本当は誘拐されたのだから。
だけど……とエマはそこでハタと考え直した。
もしかしたら昨日今日でカロルの姿をどこかで見ている可能性だけはある。
ほとんどありえない可能性だが、万が一ということもある。
話してみて損はないのかも……とエマは思った。
「……わかりました。そうしたら、もし見かけていたら教えてほしいのですが――」
そう言って、エマはカロルの特徴を伝えた。
エマの話す『友達の特徴』を聞いて、ヴェルグが考え込む。
「……銀髪の娘で、名前がカロル?」
「ええ、そうですわ。昨日あたりからもし見かけていれば、と思ったのですが……」
エマのその言葉を聞きながら、ヴェルグが口元を手で覆い隠して沈思黙考する。
「…………もしかしたら、その娘、昨日見かけたかも知れない」
「……えっ!? それは本当ですの!?」
エマがヴェルグの思わぬ言葉に驚く。まさか、本当に知っているとは。
「そ、それはどこで見かけましたか!?」
ヴェルグはなおも考え込むように口元に手を当てながら立ち上がった。
「……よければ、僕がその場所まで案内しようか?」
ヴェルグの言葉に、エマが藁にもすがる思いで飛びついた。
「ええ、ぜひ!!」
ヴェルグは横目で、エマのその様子を眺めていた。
手元で覆い隠した口元が、ニタリと釣り上がる。
「わかった」
ヴェルグは不意に、好青年の笑顔をエマに向けた。
「それじゃこれから、一緒に行こうか」
次回更新は 2020/12/14 朝6時更新予定です。
【作者Twitter】https://twitter.com/hiro_utamaru2
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