小屋の中の戦い3
「うおおおおッ!!」
ボリスが拳銃を抜き隊長の男に向けた。隊長の男が舌打ちをして壁の向こうへと姿を消す。
一歩遅れてボリスの拳銃が火を吹き、壁に虚しく銃痕を残した。
「アレン、カバーしてくれ!」
「分かってる!!」
アレンが急ぎボリス達の下へと駆け寄り、男の襲撃に備えナイフを構えた。横目でちらと、三人の様子を窺う。
エマは気絶しているようだ。紫色の服が流れ出る血を受けて不吉な黒色に染まっていく。
顔面は血の気が引いて蒼白になっており、首を少しかしげるように床へと落ちている。その目は閉じられ、息は荒い。
銃弾は右肺を貫いたようで、エマの口からは血が垂れている。一刻の猶予もならない状態は明らかだ。
老人はもっと深刻な状態に見える。
老人は胸部と腹部に一発ずつ銃弾を受けてしまった。今にも消え入りそうなうめき声を上げて、芋虫のように身を捩り苦しんでいる。
老人の白シャツに赤い血が少しずつ領土を広げながら滲んでいく。銃弾が貫いた跡がより濃く赤黒い。
老人の年齢を考えると、その出血は致命傷に思えた。
「ボリス、じいさんも危ないぞ!」
アレンがそういうが、ボリスはそれを無視する。淡々と、無言でエマの傷の治療を始めた。
アレンはボリスの立場からすれば仕方ないか……、とボリスの心情を推し量った。自分はこの二人を治療するすべなど持たない。全てはボリスの判断に任せるしか無い。
アレンは神経を研ぎ澄まして、男の襲撃に備えた。先程、男はまるで地面の穴から鎌首をもたげた蛇のように、壁から上半身を出して銃撃をしてきた。
男の『ギフト』だろうか? アレンは男がどういう能力を持っているか分からない。しかし、それ以外考えられない。まず間違いなく男の『ギフト』だろう。
この小屋の中でその能力は厄介と言えた。四面を壁に囲まれたこの小屋の中、次に男がどこから顔を出してくるか分からない。
さらにエマが戦闘不能になってしまったのは、この状況においてはかなりの痛手だ。男がボリスよりも先にエマを狙ったのは冷静で的確な判断と言わざるを得ない。おそらく戦闘のプロだろう。厳しい戦いになりそうだ。
アレンは目をギョロギョロと動かす。
この壁の向こうか?
あの壁の向こうか?
ジリ……と無意識に四方の壁から後ずさる。
「エマっ!」
「う……ボリス……?」
ボリスの治療が完了した。エマの傷口が塞がれ、とりあえず出血を止めることはできた。
意識がはっきりとしてきたエマが、ボリスの顔をぐったりとした表情で見返す。
「大丈夫か!? 他に痛むところは!?」
「だ、大丈夫……」
そう言って体を起こそうとするエマを、「無理するな」と言いながらボリスが支える。
「あの男は?」
「壁の向こうで俺たちを狙ってる。お嬢、目覚めてすぐで悪いが壁を張ってくれ」
ボリスは拳銃を構えて、辺りを見回しつつ返事をする。
「わ、分かった」
エマが右手を天に向けて高く掲げると、薄い青色をした半透明のドーム状の壁が現れ、アレンも含めたボリス達を覆った。先程、うかつにも壁を一枚しか張らずにこのようなピンチを迎えた。今度は油断せず二重に壁を張る。突然壁に覆われたアレンが、驚いたように自分の周りを見回している。
「エマ、ありがたいが、俺はいい!」
アレンがエマにそう叫ぶと、エマが動揺しながら返事を返す。
「え、でも」
「いい! 俺は奴を排除する! 危なくなったら、ボリスと交代させてくれ!!」
アレンが周りを警戒しながらそう言うと、「~~~~! もうっ!!」と、エマがためらいつつ、アレンだけを壁の外側へと出す。
「……そう言えばおじいさんは…………えっ!?」
その時、皆の状況を確認しようと周りを見渡したエマが、血溜まりに沈む老人の姿を見つけた。
「ボリス! おじいさんが!!」
「そのじいさんはほっとけ」
ボリスが感情を押し殺すように声を低くする。その眉根にぐぐっと力が入り、怒りを滲ませている。
「なんで!?」
エマが困惑していると、ボリスが口を開いた。
「そのじいさんは奴らの仲間だ」
「えっ」
ボリスの答えに、エマは思わず素っ頓狂な声を上げる。
「な、なんでそんなこと」
「あの男が襲撃してきた時」
そう言って、ボリスが天井の一点をみつめた。そこは、襲撃者たちが唐突に姿を現した場所だ。
「じいさんは、奴らが現れる前に『上だ』と言った。俺も青年も奴らの現れる前触れなんか全く感じなかった状況で、だ」
ボリスはもう一度周りを警戒するように小屋の中を睥睨する。
「奴らが上から襲撃するのを事前に知っていたとしか考えられない。それはなんでだ? 奴らの仲間だから以外に答えなんかない」
「で、でも」
エマが信じられぬと言った目でボリスを見つめる。
「上からの物音がおじいさんにだけ聞こえたとか」
「だからといって、普通上から襲撃するって思うか? せいぜい『上で物音がする』って俺らに伝えるだけだろ。じいさんは明らかにあの男の『ギフト』を知っていて、上からの襲撃を予測していた」
「…………」
エマが色を失くしながら、錆びついた風見鶏のようなぎこちない動きで老人を見た。
老人の顔面は蒼白を通り越して土気色になり、傷口と口元から大量の血液を流していた。
全身が脂汗に塗れ、もはやうめき声さえ上げず、か細い息がヒューヒューと口から漏れ出るだけだ。たまに空気の入り込んだ水道管のようにゴボリゴボリと水っ気のある咳が出て、その度に赤い色をした血の泡が老人の口に膨らんで弾ける。
エマが少しの逡巡の後、腹をくくってボリスに提案する。
「ボリス……おじいさんを治しましょう」
「その必要はない」
エマの言葉に、硬くて鋭い声音で返す。
「じいさんは奴らの仲間だ。そのままそこで死んでもらう」
「ボリス、良く考えてみて」
頑ななボリスに言葉を返す。
「おじいさんはなぜ私達にわざわざ奴らの襲撃を教えたの? そんなことしなければ、油断した私達を楽に排除できたはずよ」
その言葉にボリスがちらりとエマに目線をやる。エマが続ける。
「その意味は何? おじいさんを……どうにかするのは、その後でも良いはずよ」
「…………」
ボリスが再び前を向く。その横顔には依然怒りの色が浮かんでいるが、何かを迷い始めているようにも見える。
「ボリス」
「……ああ、分かった! 分かったよ! 治せば良いんだろう!!」
ボリスが苛立ち紛れに大声を上げながら、老人の下に近寄る。
「くそっ!! お嬢、これだけ血を流してたら、どっちみちじいさんは助からねぇぞ!」
「良いの。少しでも話ができれば……」
ボリスが老人の傷口それぞれに、両方の手の平を当てる。老人がくぐもったうめき声を上げる。
ボリスの『ギフト』による、老人の治療が始まった。
隊長の男が手で合図すると、男の部下達が警戒しながら厩舎の陰から飛び出し、小屋の傍へと近づいてきた。
「隊長」
厩舎の奥からやってきた男たちが隊長の男へと声を掛けると、隊長は口を噤むようにジェスチャーで答えた。そうして囁くような低い声で男たちに指示を飛ばした。
「奴らの『壁』は潰した。一人厩舎に戻って、俺が合図したら奴らを銃撃しろ。そのタイミングで残り二人は俺と一緒に中へ突入する」
男たちが隊長の指示にコクリと頷く。
「お前が厩舎にいけ」
中折帽の男に隊長が顎でしゃくりながら指示を出すと、男は足音を忍ばせながら、すぐに厩舎へと引き返していった。
「俺たちは突入すると同時に奴らを銃撃する。今なら『壁』は無い。先に撃ちまくった方の勝ちだ」
残り二人の男はその指示に頷く。「よし」と言って、隊長が拳銃の撃鉄を起こす。
「この突入で奴らを処理しきる。撃ち漏らすなよ」
隊長の男の目が鋭く細められた。
隊長と一緒に突入する二人の男が、隊長の肩に手を添える。
厩舎の男が位置に着き、隊長へと合図を送ってきた。
隊長の男は片手を上げて…………一気に振り下ろした。
中折れ帽の男が小屋の窓辺へと銃撃を始める。
隊長は片手を軽く上げて、カウントダウンを始めた。部下の二人がごくりと喉を鳴らす。
「3……2……1……」
隊長が片手を前に突き出し、一気に駆け出した。
「突入!!」
隊長と部下たちが一気に駆け出した。
部下二人は『ギフト』を持たないはずだが……隊長の男ともども、小屋の壁をすり抜けた。
それは隊長の男の『ギフト』が、『身に触れたものと一緒に壁抜けができる』能力のためだ。
三人が小屋内を急襲した。
「撃てぇっ!!」
先手必勝。
何も考えず、とにかく人影に向けて引き金を引いた。小屋の中をけたたましい銃撃音が埋め尽くす。
しかし、それはエマの『ギフト』に阻まれる。跳弾が虚しく小屋の壁へと着弾する。
「!!」
「残念だったな」
ボリスが感情の映らない顔で、隊長の男を睨みつけた。
その横では先程倒したはずの少女が何事も無かったかのように体を起こし、光の壁を展開させている。
突入した男たちは驚きと困惑に目を白黒させる。
「……ばかな!!」
「隊長、これは」
「撤退しろ!!」
想定外の出来事にも関わらず、隊長の判断は早かった。部下二人とともに、今突入してきた場所へと戻ろうとしたところへ。
どこからともなく黒い玉が飛んできて、壁へと吸い込まれていった。
それを視界の端に捉えた隊長が、警戒してわずかに足を止めると。
突然、テーブルが男たちへと突っ込んできた。
テーブルは盛大な音を立てて、壁へと突っ込んだ。
テーブルは勢いそのまま壁に張り付いた後、重力に従って床へと重たい音を立てながら脚をつける。
テーブルと壁に挟まれて部下の男が二人気絶していた。そのままずるずると床へと沈んでいく。
小屋の奥の方、黒玉を投擲した格好でアレンが立っていた。
「アレン!!」
ボリスが叫んだ。ボリスは見ていた。
『テーブルをすり抜けた』隊長の男が、一目散にアレンの下へと飛び込んでいくのを。
「……!!」
アレンがナイフを抜いて、隊長の男を迎撃する。
男がアレンの首を狙って突き出したナイフを、自分のナイフで受けながす。
しかし男が放った膝蹴りをモロに食らって、後ろの壁へと吹っ飛ぶ。
「がっは!!」
アレンがたまらず苦悶の声を上げると、ナイフの切っ先がアレンを再び襲った。
アレンは無我夢中でそのナイフの外側へと避けるが。
運悪く、窓を塞ぐために立て掛けておいたテーブルの脚に引っかかり、倒れてしまう。
男の凶刃が振り下ろされんとする時。
ボリスが長銃で男を狙撃する。
男は目端でボリスが銃を構えるのを目撃していたため、アレンへの追撃を咄嗟に止める。
アレンと男の間の壁が、激しい音を立てて弾ける。
「ちっ!」
男は再び小屋の外へとすり抜けていった。
「クソっ!!」
二発目を構えていたボリスが舌打ちして悔しげに口の端を歪める。
「……っ!」
アレンがそのまま横へと転がって壁から離れると。
窓の向こうから男の手だけが飛び出し、ナイフが床へと打ち付けられる。
硬い床を打ち付けた感触に、すぐさまその腕は引っ込められる。
危なかった……!
アレンの背筋に寒気が走る。痛みに悲鳴を上げる体を無理矢理に起こしてナイフを構える。
……そのまま男の攻撃が止んだ。
警戒してあたりを窺うが何も起こらず、空白の時間が刻一刻と過ぎていく。
「嫌な手を使いやがる……!」
ボリスがキョロキョロと周りを見回しながら独り言を呟く。
時間が立てば立つほど、男の行動範囲がどこまでも広がっていく。
それによって、アレン達の対応しなければならない選択肢も増えていく。
次は何処からか?
正面か?
横からか?
それとも逃走したか?
壁の向こうで男は何を考えているか。それによって自らの生死が左右される状況に、アレンの神経はゴリゴリとすり減らされていく。
アレンがたまらずボリスに振り向いて声をかける。
「ボリス、奴らが逃走していないかを確認して――」
「声を上げるなッ!!」
ボリスが大声で叫んだ。
アレンが咄嗟に上半身をひねり後ろを向くと、そこにニヤケ面を浮かべた男が銃口を向けていた。
二発の銃声が響く。
「ぐあっ!!」
アレンの体から血が吹き出す。
ボリスが慌てて銃を構える。
「かかった!」
アレンが何を思ったか唐突に叫ぶ。男が眉根を寄せて怪訝な表情を浮かべると。
男の体が不可視の力で、小屋の中へと引きずり込まれる。
「な、なっ!?」
混乱する男が、『黒球』の力でアレンの下へと『吸い寄せられる』。
激痛に顔をしかめながら、アレンは男の胸元を掴むと。
「おおおらあああああっ!!!!」
後ろへと転がるようにしながら、男を空中高く蹴り上げた。
「っ……!!」
男の顔が驚愕に染まる。そのまま宙を舞って、床に強く身体を打ち付ける。
「ぐっは!!」
男が苦痛に顔をしかめる。背中を強打し、上手く呼吸ができない。
このままでは不味い。そう思い、無理に体を起こそうとしたところで。
ボリスが視界に入ってきて、男を見下ろしてきた。
男は咄嗟に拳銃をボリスに向けようとしたが。
ボリスがそれよりも早く男へと銃弾を放った。
「……!」
アレンが痛みに悶えながら、なんとか立ち上がる。
無理に腕を上げてナイフを構える。
「終わったぜ青年。よくやった」
ボリスが男の傍で棒立ちになりながら、アレンへと声を掛けてきた。
アレンが傍へと近づいて、男を見る。
男の額に銃痕が一つ。心臓の辺りに銃痕がもう一つ。
ボリスの拳銃が紫煙に煙る。
男は目を驚愕に見開きながら、息絶えていた。
「痛た……」
「とりあえずお嬢の近くへ」
ボリスとアレンが小走りにエマの下へと駆けつける。
「大丈夫ですか、ゴードンさん」
「大丈夫だお嬢。すぐ治せる」
そう言ってアレンの傷口へとボリスが手を当てる。
すると、アレンの傷口がざわつくような感覚に襲われた。何かが蠢くような、何か泡が弾けているような、そんな慣れない感触に思わず顔をしかめる。
と、突然鋭い痛みが走った。
「いっっつ……!!」
「治ったぜ」
ボリスがそう言って手を離す。アレンは直前の痛みの余韻を感じながら、銃撃を受けた箇所を恐る恐る触ってみる。いつもどおりの皮膚の感触が返ってきた。少しばかりの疼痛は残っているが、それ以外に大きな痛みはない。
「助かったボリス」
「気にすんな」
アレンとボリスが声を掛け合っている所に、エマが不安げな顔で言葉を挟む。
「あ、あの……残りの敵はどうするの? というか、いるの?」
「残りの敵については心配するなお嬢」
ボリスが幾分険のとれた目でエマへと返事を返す。
「俺達は十人倒した。また、そこに転がってる男は仲間から隊長と呼ばれていた。相手は大損害を受けた上に隊長を失った格好だ。もう後は退散しか選択肢はねぇはずだ」
そう言ってボリスは顎でしゃくって、床の上で冷たく転がっている隊長の男を指した。
「さて、奴らにそのことを伝えてやるか。お嬢、念の為窓の外まで覆うように壁を作ってくれるか?」
ボリスは立ち上がって窓の外へと近づいていく。エマが自身の『ギフト』を発動した。
「おい、襲撃者どもォ!!」
ボリスが窓際に立ちながら、半身を覗かせて厩舎へと叫ぶ。
二発ほど銃弾が打ち込まれたが、それがエマの『ギフト』によって防がれたと知るとすぐに止んだ。
「お前らの隊長は死んだ!!」
ボリスが声を張る。
「その上、半数以上の人間が戦闘不能のはずだ!! 大人しく降伏するか、さもなくばここから消えろ!!」
厩舎の向こうで動揺する気配があった。厩舎の壁から、ちらちらと男の顔が覗く。
「繰り返すが、お前たちの隊長は死んだ!! こうやって誰にも邪魔されず、お前らに降伏勧告してるのがなによりの証拠だ!! 分かったら降伏しろ!!」
しばらく逡巡するかのように中折れ帽が壁からチラチラと見え隠れしていたが、そのうち男は帽子を脱ぎ捨てて厩舎の向こうへと引っ込んだ。
そしてそれきり、誰の気配もしなくなった。
「……? 一人だけか?」
ボリスが怪訝な表情で外を睨む。
「思ったより人数が少なかったようだな……だが、人の気配は消えた」
ボリスがそう言って窓辺から離れて、アレンとエマの下へやってくる。
「ボリス」
アレンが深刻な顔をしながらボリスへと声をかける。
「エマから聞いたが、このじいさんが奴らの仲間だって?」
そういってアレンが老人へと目を向ける。
老人の傷は既に癒やされていた。しかし、血を流しすぎてしまっていた。老人の顔からは色がなくなり、弱々しい呼吸が繰り返されるばかりだ。
「ああ、そうだ……そうだろ、じいさん?」
ボリスが傍にしゃがみながら老人へと声をかける。老人が「ううう……」と唸る。
「言え。お前はルメール警部と、俺達が倒した襲撃者の仲間だな? 事前にこの襲撃を知っていたな?」
ボリスがそう問うと、老人は今にも光が消えそうな瞳で見返しながら、微かに頷いた。
「知って……いた。……あんたがたには……本当に……すまないことをした……」
「……本当にな」
ボリスがその場に響くほどの大きな歯ぎしりをした。
「なんでこんなことをした?」
「わ……わしは……デパルトの……旗を立てる者たちの……一員だ……それで……ルメール警部に協力を…………」
ぜいぜいと喘ぎながら老人が告白する。ボリスが追求する。
「どうやってシャロンのお嬢さんを拉致した?」
「…………ルメール警部の『ギフト』で……『部屋と部屋を扉でつなぐ』……そういう能力なんだ……」
「なるほどな……」
アレンが得心する。手洗いと、多分、馬車の中をその『ギフト』でつないだのだろうと推測した。
であれば、ククが馬車においつけば、そこにカロルが居るはずだ。
「その……おじいさん……」
そのとき、エマが不意に老人へと声をかけた。
「……襲撃者に後ろを突かれそうになった時、それを教えてくれましたよね? ……それは一体なぜですか? あなたは私達と敵対する立場だったはず。私達にそれを教える必要は無かったはずです」
エマがそう問いながら、何の気無しに触れた老人の手はあまりにも冷たく、思わずぎょっとしてしまう。
「ワシは…………五十年前の……二回目の共和紛争の最中…………妻と子供を……一どきに亡くした……」
老人の目が少し見開かれた。その目線の先は天井ではなく……どこか遠いところを見つめているようだった。
「王制派だったワシらは……共和派に目を付けられとった…………折しも……リュテ市内で王制派と共和派の……小競り合いが起こり…………それが拡大し……リュテ市内全てを巻き込む、内乱に発展した……その中で…………妻と子供は――――」
老人の目に薄っすらと光るものがあった。その震える唇は、失血による症状か、それとも――。
「そのとき……『デパルトの旗を立てる者たち』の…………一員となった……親政派として……共和派連中を憎む者として…………そうしてこの歳まで……やってきた」
三人は静かに老人の言葉に耳を傾ける。
「しかしこの歳にしてようやく……『旗持ち』のやっていることに……疑問を持つようになった…………今回のこともそうだ……なぜ、偉大なるシャロン氏の…………ご令嬢を誘拐することが……この国のためになると言うんだ……」
すこしずつ、老人の声が小さくなっていく。
「それは……ご令嬢と直に話して……ますますその疑問が強くなった…………あんなに心根のお優しい方を……どうしてワシは…………」
老人の手の力が弱まってきて、エマの手からずり落ちてしまいそうになる。エマはそれをしっかりと握り直す。
「すまなかった……アンタがた、すまなかった…………ワシは……卑怯な臆病者だ……お嬢様が……誘拐されると知っていながら…………黙って見過ごした……その罪に…………もはや耐えきれなんだ…………それで、最後の最後に……彼奴らを裏切った…………」
「だからといって、許せるわけがない……!!」
アレンが歯を食いしばって、その迸る怒気をなんとか抑え込んでいた。本当はもっと大声で叫んで、なんなら老人を滅多打ちに殴りたかったのだろう、ということをエマは感じ取った。
しかし、今にも死にそうな老人の咎を責めたところで何の意味もなさない、それに気づいているのだろう。そのやり場のない怒りをぶつけるあてもないアレンの心情を思うと、思わずエマの涙腺が緩んだ。
「すまぬ……すまぬ…………ワシは……愚か者だった…………死の際の……最後まで…………」
そういうと、老人の胸が大きく動いて、フゥー……、と長い息が漏れた。
そうして、それきり老人の呼吸は戻らなかった。
ボリスが老人の脈を取る。
「……死んだ」
老人の手がボリスの手から離れて床へと落ちた。コツンという軽くて乾いた音がその場に響く。
「…………」
アレンは怒りか、悔しさか、悲しみか、どんな感情を抱いて良いのか分からなかった。
小屋の中は重苦しい空気に包まれた。
【作者Twitter】https://twitter.com/hiro_utamaru2
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