不穏な影
カロルは悪戯の成功した子供のように無邪気にくすくすと笑った。しかし、アレンにとっては笑い事ではなかった。ミレイユは二人を後ろから眺めていたが、これ以上は見ていられないと言ったように頭を振った。
「カロル様、少しやりすぎですよ。アレンさんが石像になってしまいました」
「あれ? おーい。あれ?」
カロルがアレンの目の前で手を振り始めた辺りでようやくアレンが口を開いた。
「今のは……」
「だから、私の『ギフト』ですよ」
カロルは楽しそうに言う。
「触れた後に、その人の名前を呼びながら何かをお願いすると、名前を呼ばれた者はそのとおりに行動してくれるのです」
それを聞いて、アレンは素直に恐ろしいと思った。相手に命令できる? 強制的に?
それはこの世界の王と言っても過言ではないのでは?
「制限が結構ありますけどね」
カロルはアレンから少し離れ、人差し指を立てながら語った。
「まず、相手の本名を知る必要があります。姓だけじゃだめ、名だけでもだめ、偽名の場合も無効です。それに、その人の力を超えるようなお願いは無効になりますね。『岩を素手で砕け』とか。私の声が届かないほど遠く離れている場合も無理です」
カロルは教師のような真似事をしながら語る。
「それに一回お願いを聞いてもらったらそれでリセットです。またその人に触れなければなりません。それともう一つ……相手にしてもらえる行動は『具体的な一動作』だけです。『走って壁を飛び越えろ』は二動作なのでだめですね。『水を汲んでこい』も複数の動作を含むのでだめです。また抽象的なお願いもだめです。例えば」
カロルはふっと寂しげな表情を浮かべた。
「『私と仲良くしてください』……とか」
悪戯の過ぎた子犬のような目をして、カロルは言った。
ふわりと柔らかい風が二人の間を通り過ぎた。アレンがそれまでカロルに感じていた恐れが、ふっ、と和らいだ。先程までなにか恐ろしい存在に見えたカロルが、今は年相応の少女に見える。そうしてその時になって、カロルの長い睫毛が不安げに震えているのを見て取った。カロルは風にはためくスカートを抑える。スカートの握られた部分は、放射状にしわが寄っている。その時に感じた気持ちをアレンは上手く言葉にできなかった。しかし、何かを言わなければならなかった。とてもちっぽけで寂しげに見えるこの少女に。
「シャロン嬢……カロル、さん」
アレンは自分に感じられた気持ちを、不器用ながら言葉にしようとした。
「俺は今日、シャロン氏と……カロルさん、の護衛になりました。これは、俺が果たすべき……仕事です。仕事ですけど」
上手く口の回らぬ自分がもどかしい。この気持を上手く言葉にできない自分がもどかしい。カロルの……この子の寂しさを取り除いてあげられない情けない自分がもどかしくて。
アレンはカロルに近づいた。自分から距離を取ったカロル、そんなカロルに自分から近づかなければならない、そう直感した。カロルの白魚のような手を取り、アレンは言った。
「それでも、カロルさんを……守ります。そんな『ギフト』を使わなくても済むように」
カロルはアレンに取られた手をじっと見つめた。まるで諦めていたプレゼントを突然もらえた子供のように、ぽかんとした表情で。そしてアレンの瞳を覗き込んだ。アレンも見つめ返した。
……ああ、この子の瞳はなぜこんなにも美しいのだろう。
「アレン……」
カロルの睫毛はもう震えていなかった。カロルは花が開くようにふわりと笑って……こう言った。
「三回廻ってわんと言いなさい」
アレンはその場でどたどたどたと三回廻ると、
「わん!! このど畜生があああああああああああああっ!!!」
叫んだ。
もうその時点でカロルは、あははは、あはははは、と笑いながら遠くへ逃げていた。アレンは無言で黒玉をいくつも生成すると、何も考えずとにかく投げまくった。はしゃいだ子供のようにきゃいきゃいと笑いながら、カロルはそれらを踊るように避けて家の曲がり角の方へ消えていった。楽しそうな笑い声がだんだん遠ざかり、その場には呆れた表情のミレイユと、肩で息をするアレンが取り残された。
「……ご心中お察ししますよ、アレンさん」
「これから毎日あんな感じなんですか!?」
「ええ、毎日です。もう一度言いますが、ご心中、本当にお察ししますよ」
ミレイユは眉根を寄せてため息をついた。
「でもまぁ、あれほど楽しそうなカロル様を見るのも珍しいですよ」
「嘘だぁ! どう考えてもあれがカロルさんの素でしょう!?」
「そうです。あれがカロル様の素顔です。……素、なんだと思います」
ミレイユは少し目を伏せて、優しい表情になりながら言った。
「嘘じゃないんです。確かにカロル様は悪戯好きで手に負えないこともしばしば……いや、大いにありますが、いつもはちょっとした悪戯をしてくすくすと笑うだけ。その後はすぐにお嬢様然とした態度で『申し訳ありません、少し悪ふざけがすぎました』とお謝りになられる。たとえ使用人に対しても。……あれほどはしゃいだご様子なのは、もしかしたら初めて見るかもしれません」
「……そうなんですか? こちらにお邪魔してこのかた、あんな感じしか見たこと無いんですけど」
アレンはなおも疑問だったが、ミレイユはかぶりを振った。
「カロル様には親しくお付き合いができる方がこれまでできませんでした。勿論私達シャロン家の使用人は、カロル様のお優しい心根を知っていますから、カロル様の『ギフト』を知ってなお、日々一心にお仕えさせていただいています。ですが、そんな人間ばかりではありません。カロル様から距離を取られる方も多く、結果的には旦那様と私達使用人以外のかたのご友人は皆無でした。きっとその方たちは怖かったのでしょうね……触れられたらそれだけでカロル様の言いなりになってしまうのですから」
ミレイユは悲しげな表情で語った。
「カロル様は賢いお方ですから、子供の頃よりそのような雰囲気を察し、自ら他人と距離を置かれるようになりました。それは他者を嫌いになったとか、信じられなくなったというようなことではなく……他者が不安にならないように、他者を怖がらせないように。カロル様は……あんな感じで時折悪ふざけもされますが……本当はとてもお優しい方なのです」
ミレイユは訥々と語る。アレンに向き直ってこう言った。
「アレンさん、お嬢様を悪く思わないでくださいね。あれだけはしゃぐのは、きっとあなたが気に入った証拠なんだと思います。カロル様を……あの子を守ってあげて下さいね」
ああ、これだけ使用人に好かれるカロルは本当に優しい子なんだろうな、とミレイユの笑顔を見て思った。
……俺には優しくないけどな!
「とは言え、昼間のあれはやりすぎですよ、カロル様」
夕刻が過ぎ、夜の帳がようやく下りた頃、カロルに夜着を着させながらミレイユはたしなめた。
「だってアレンったら真面目くさった顔であんなこっ恥ずかしいこと言うんですもの。私本当に可笑しくって! ……アレンの可愛いところが見たくて、ついついやっちまいました」
ミレイユは深く長い溜息を吐いた。
「本当に今日はどうなされたのですか? カロル様。悪戯好きとは言え、いつもはあれほどおふざけが過ぎることはなかったように思いますが。折角雇われた護衛を失ってしまいますよ」
ミレイユがそういうと、カロルは少し考えるような表情をした。
「うーん……そうなんですよねぇ。なぜかアレンのことは他人のような気がしなくって。自分でも不思議なんです。どうしてかしら?」
「まさか」
とミレイユは少しそわそわしながら言った。
「カロル様、もしかしてアレンさんに恋をなされたとか……!」
「それはないです」
素気なく否定した。
「でも、本当に他人のような気がしないんですよねぇ。それでついついやりすぎてしまったのだけれど……でもきっとアレンも許してくださるわ」
カロルは柔和な笑顔を浮かべた。
「昼間の『三回廻ってわんと言え』、覚えていますか?」
「覚えているも何も、今まさにその話をしているのですが……」
「『三回廻って』までは私ができるお願いですけど」
カロルはくすくすと笑った。
「『わんと言え』は二つ目のお願いなので無効だったんですけどね。アレンはやってくれましたよ」
カロルは本当にうきうきするような表情を浮かべた。
「アレンが来てくれてとても嬉しいわ、ミレイユ。お父様を救っていただいたことも勿論感謝していますが」
カロルは軽やかにくるりと廻った。
「それ以上に『お友達』になれそうな方が来て、私今とても楽しいの! ……みてなさい、ミレイユ。いつかアレンに『ギフト』を使わないで、『カロル』と呼ばせてみせますわ!」
あーあ、アレンさんも大変だこれは、と大はしゃぎする子供を眺めるような表情でミレイユは思った。
その日はシャロン家の晩餐に呼ばれることとなった。本来なら使用人であるアレンは、主人と一緒のテーブルを囲むことは無いはずだが、なんといってもシャロン氏の命の恩人である。その御礼を兼ねて今日は特別に一緒の夕餉を頂くこととなった。
「亡くなった妻はとても美しい人でね」
夕餉を頂きながら歓談していると、いつかシャロン氏の妻、つまりはカロルの母親の話になった。
アレンはシャロン夫人を見かけないことを不思議に思っていた。しかし、聞くタイミングを逃してしまい、また、こちらから聞くのも憚れるような気がし、なんとなくそのまま宙ぶらりんにしていた。そうか、亡くなっていたのか。
「細かいところまで本当によく気がつく人でね。まるで人の心を読んでいるかのようだった。もしや『ギフト』持ちかと思って聞いてみたこともあったなぁ。まぁ、妻は否定していたが」
『心を読むギフトではないか』というくだりで少しギクリとした。気付かれないよう横目でカロルを見てみたが、特に興味なさそうにメインの白身魚をフォークで突いている。
「カロルは妻似だな。妻も銀色の髪に空色の瞳をしていてね。そうだ、白黒でよければ写真があるんだった。見てみるかね?」
「そうですね。それでは別の機会に見せていただきましょう。シャロン氏のご婦人ともなれば、さぞお美しい方かと存じます」
「口が上手いね、アレンくん」
シャロン氏は満更でもない様子で笑った。
「ところで、明日から私の仕事が始まるかと思いますが、明日はどういう予定になりますか?」
「そうだね、明日は国民議会での予算案の書類に目を通しておかねばならないから、オーヴェルニュ宮殿へ行く。アレンくんに馬を出してもらうつもりだ。その後、事件の捜査協力でまた昨日の警察へ、だな。今日夕方くらいに例の警部がやってきてね。あの悪漢は顎を砕かれたせいで喋ることが出来ないということで、より詳しく話を聞きたいそうだ」
ああ、そういえば確かにあの男の顎を砕いたな。あの場はそんなことを気遣う余裕が無かったため仕方ないが、結果的にはシャロン氏に手数をかけることになった。アレンはシャロン氏に対して申し訳無さを感じた。
「お父様は明日は一日お留守ですか?」
カロルはこれまで言葉少なだったが、シャロン氏の言葉を聞いて質問をした。
「そうだな、帰ってくるのは夜遅くなるだろう」
「まぁ、それはとても寂しいことですわ」
カロルはそう言いながら、アレンのことをじっと見つめた。
「……何か?」
「いーえ、別に」
……? なにか都合の悪いことがあったのだろうか?
女心というか、じゃじゃ馬娘の心はよく分からない……と、アレンは密かに嘆息を洩らした。
同じ日の夜中、警察病院のベッドの上で、エルフの男は顎の痛みに苛まれ眠れずにいた。
畜生、ババを引いちまった、なんでこんなことに……、と、男は強い疼痛に朦朧とする意識を、益体もない自問自答で埋め尽くした。
男はデパルト国の愛国主義者達が集まる秘密組織『デパルトの旗を立てる者たち』のメンバーだった。男はその中で汚れ仕事を請負い、それに対して報酬を貰うという契約を交わし参画しているだけであり、特段、組織への忠誠などは誓っていなかった。上役からの命令で、シャロン氏が持つ『本』を奪ってこいとのお達しがあり、それに従ったまでである。
「シャロン氏は国宝となる、とある『本』を王の許可を得ずに持ち出した」
男の上役はそう言った。
「これはデパルト王を、ひいてはデパルト王国を脅かす大罪である」
上役の熱弁を、男は冷めた心で受け流していた。
「要するに『本』とやらをジャン=クリストフ・ド・シャロン氏から奪えばいいんだな?」
とだけ確認し仕事を引き受けた。
簡単な仕事だと思い引き受けたが、結果的には目的を果たせず、顎の骨折というおまけつきで、手錠をかけられる羽目になった。
狂おしい怒りに苛まれ、一人寝返りをうっていると、突然靴音がした。
驚いて部屋を見回すと、部屋の中にいつの間にか男と女が居た。顔は月の逆光に隠れて、よく見えなかった。
「やぁ、いたいた」
男の侵入者の方がやけに甲高い声を上げた。背丈も男にしては随分小さい。子供だろうか?
「……もう少し静かにしよ? ……部屋の外に監視がいるよ」
女の侵入者がもう一方の男をたしなめる声が聞こえる。男は叫びたいが、顎の固定器具のせいで声が出せない。
「そうだね……ごめんごめん」
男の侵入者は女に謝ると、エルフの男に向かって口を開いた。
「さて……君が『本』を奪うよう命令されたエルフだね?」
男は落ち着いた声で話す。
「申し訳ないけど、『本』の存在を警察に話されるのは困るんだ」
エルフの男は何かを察し、ガタガタと震える。
「顎を砕かれては喋れないだろうけど、もしかしたらそのうち回復するかもしれないからね」
エルフの男は顎の痛みも忘れて叫ぼうとするが、少し大きなうめき声が出るばかり。
侵入者の男は決定的な言葉を放った。
「じゃあ、後はお願いするね」
男がそういうと女がエルフの男に近づいた。女の影が男の顔に落ちる。男は必死に呻く。
「……ごめんね」
女の声がエルフの男の耳朶をうった。
「おい、もがもがもがもが、うるせぇぞ!! 痛ぇのぐらい我慢しろ、大罪人が!!」
部屋の物音で、監視員がまどろみから覚めた。怒りを拳に乗せてドアをドンと叩く。
その内に男のうめき声が聞こえなくなった。
……ったく、冗談じゃねぇよ、男に張り付くなんてよ。若い姉ちゃんに張り付きてぇもんだぜ……。そんなことを考えていたのかは分からないが、監視員はやがて眠りに落ちた。
エルフの男が病室の中で死んでいるのが発見されたのは翌朝のことである。
エルフの男とアレンの能力に関しては
https://ncode.syosetu.com/n9717fz/3/
カロルの能力に関しては
https://ncode.syosetu.com/n9717fz/6/
も参照ください。
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