馬車の中の戦い
休憩小屋で、カロルが手洗いの扉を開いた時のことだった。
「……? えっ!?!?」
カロルの目に異様な光景が飛び込んできた。
三人がけの立派なシートが両側に備えられた、品の良い装飾の施された広い空間。
正面には、緑色の絵の具が自らの意志で動いている奇妙な絵画のような、冗談めいた非現実的な光景を切り取っている大窓が一つ。
足もとの、長年の人の通行ですり減りきってざらざらに色あせた床板とはまるで隔絶している、艶のある黒色をした、みるからに丈夫で、新品のようにピカピカな、立派な床板。
明らかにそこは手洗いなどでは無かった。
カロルの予想していた小汚い便器などはどこにも見当たらず、不気味なほどに瀟洒な空間が、無言のままにカロルを迎えていた。
自分は未だ夢の中だったのか?
そんな疑惑に、今一度カロルが目蓋をぐしぐしと擦っていると。
扉の横からぬるりと男の手が伸びてきて、カロルの腕を掴んだ。
「きゃっ!」
背筋に戦慄が走り、思わず悲鳴を上げたカロルを、その正体不明の腕がぐいっと引き込んだ。
乱暴に床へと放られたカロルの耳に、扉がバタンと勢いよく閉まる音が聞こえた。
一瞬気が遠くなった。ぼやけた意識を持ち直し、しっかりと視界を定めると。
後ろ手に扉を閉めた格好のルメールが、そこに立っていた。
小刻みに、時に大きく跳ねるように、絶え間なく続く地震のような床の振動。
緑色の濁流と化して素早く流れ去ってしまう窓の外の景色。
地響きのような馬の蹄の音に、木箱を掴んで思いっきり揺さぶっているような耐え難い雑音。
カロルはいつのまにか、さきほどまで乗っていた馬車の中へと再び放り込まれていた――。
「一体……どういうことなのかを説明してください、ルメール警部!」
カロルがルメールへと強く迫ったが、しかしルメールはだんまりを決め込み、カロルを静観する。
「これはどういう事かと聞いています!」
強い語気で更に食い下がろうとするカロル。
するとルメールはわずかに面倒くさそうな顔をしながら、無言でポケットをまさぐりだし、一本の長い釘のような物を取り出した。この状況で取り出されたそれはあまりにも禍々しい輝きを放っており、カロルの背筋が思わずゾクリと震える。
ルメールは唐突に、その釘を思い切り扉に打ち付けた。強い衝撃音がカロルの耳朶を打つ。
驚きと恐怖で、思わずカロルの身体がビクリと跳ねる。
「……こういうふうにね」
ルメールが静かに口を開いた。
「『繋げたい扉』にそれぞれ、一本ずつ釘を打っておくのだよ」
ルメールの拳がゆっくりと開きながら、徐々に扉から離れる。そこには先程の釘がしっかりと扉に立っていた。
「すると、その扉同士が『繋がる』。閉じられた空間から閉じられた空間へ……」
「あなたは何を言っているのです?」
カロルが緊張に身を固くしながら、ルメールの言葉に無理やり割り込む。
「何って」
ルメールが嘲笑を口の端に浮かべる。
「あなたは先程言ったじゃないか。『どういうことなのか、説明しろ』と。なので説明をしているのだよ。あなたをここへと連れてきた、私の『ギフト』についてね」
「私はそんな事を聞いているのではありません」
カロルが苛立ちを込めた言葉をルメールにぶつける。
「あなたは一体どういうおつもりでこのように私を拉致したのかと聞いているのです」
チャキリと拳銃が音を立てて、思わずカロルは身を固くする。ルメールは沈黙で返した。
「あなたの目的は?」
馬車の轟々という走行音が、無言の車内に響きわたる。
「この馬車の行き先はリュテですか?」
ルメールはその言葉を歯牙にもかけない。
「……再びだんまりですか」
カロルはあまりにも無礼なルメールの態度に怒りをつのらせた。
「ジャン=クリストフ・ド・シャロンが第一子、不肖なるこのカロル」
唐突に前口上を述べ始めたカロルに、それでも無感情の瞳を向けるルメール。
「先程、あなたに無理やり馬車へと引きずり込まれ邪魔されてから、ずっと催しっぱなしなのです」
ルメールの眉が顰められる。
「盛大に漏らしますよ。いまここで」
ルメールがぎゅっと顔をしかめる。
「もし私が今すぐ殺されないとしたら、後で思いきり吹聴してやりますよ。『ルメール警部は、清廉なる百合が如く高潔たる、極めて見目麗しいこのシャロン家令嬢の純心を、その汚くて臭い土足で踏みにじり、死にすら値する恥辱を与えた卑劣漢、恥知らずのド畜生変態おしっこマニア冤罪無能ジジイだ』と」
「なんという下品な女だ……。このような輩があの誇り高きシャロン卿の娘とは……」
ルメールは不快そうに顔を歪ませ、チッと舌打ちした。
再び奴の口を開かせことに成功したと、カロルは内心ほくそ笑んだ。白くなるほど握り込んだ拳を太ももへと強く押し付け、震える腕と脚を無理やり押さえつける。
「驚きましたか? 清純派に見えるでしょうが、実は意外と庶民派なのです」
「貴様のそれは低俗というものだ」
「私にとっては、褒め言葉ですね」
……自分で言っておいてなんだが、低俗が褒め言葉ってなんだ? と思わず心の中で自問自答してしまう。
舌戦で優位を取るべく、とにかくなんでもいいから言い返そうと頭をフル回転させる。背中が滝のような汗にまみれてジットリと肌に張り付く。顔に冷や汗が垂れなければ儲けものだ。
「貴様、気でも違えたか?」
「仮にそうだとして、このキチガイ女を一体どうするおつもりだったのでしょう? まさか見世物小屋に売り飛ばすとは言わないでしょうね?」
「今となっては、その方がデパルトのためかも知れんな」
ルメールが隙を見せた。カロルの目が細められる。
「おや? では先程までの私は、デパルトにとって有益な存在だったと。そのために警部は私を確保したということですね。それはつまり、警部が私を確保することはデパルトの国益にかなうと、そう仰る? まあ、それはそれは! そのような大役にこのような小娘を抜擢頂き、大変光栄に存じます。それでは一体、私にはどのような利用価値があったのでしょうか? その良く回るようになった舌でお教え願えませんか? ルメール警部」
ルメールの目が眇められ、こめかみがピクピクと痙攣する。自らの失言に気づき、顔に薄っすらと朱が差す。内心の動揺を無理やり押し隠すため、威嚇するようにカロルに銃口を向け直す。
「いい加減にしたまえ、今の状況を理解しているのか!? 貴様の生殺与奪の権はこの私が握っているのだぞ!」
ルメールのその恫喝を受けると、カロルは素直に押し黙った。
しばらく二人は視線をぶつけ合ったが、カロルのおとなしくなった様子を見て取ると、ルメールは少し落ち着きを取り戻し、銃の持ち手を変えながら座席へとドカッと座り込んだ。
「そうやって最初からおとなしくしていれば良いものを。貴様が何もしなければこちらも手を出しはしない。そのままじっとしていてもらおうか」
ルメールのその言葉で、二人の口論は停戦となった。
車内に沈黙が下りる。
しばらくそうやっていると、ルメールが少しだけ緊張を解いたのか、少し深く座席へと座り直した。
そこでカロルが静かな口調で話し始める。
「流石にずっとこのままは息が詰まりますね」
気が緩んだ隙を突かれ、ルメールが不意に動きを止める。
「警部が私の生殺与奪の権を握っているのですよね? それでは独り言を喋るくらいは大目に見てください。武器を振りかざして無理に抵抗するならいざしらず、独り言ほど無力で意味の無い行為は無いのですから……」
カロルがそう言ってぼそぼそと喋り始めた。ルメールはカロルを止めるタイミングを掴み損ねてしまい、カロルの自由にさせてしまう。
「あなたの正体には、なんとなく察しがついていますよ」
カロルの言葉を無表情になりながら聞き始めるルメール。
「先程の言葉の中で、私の父への敬意が見え隠れしました。にも関わらず、私をこのように拉致し、あまつさえそれを国益と思っているフシがある。これだけ証拠が集まれば充分でしょう」
カロルが無闇に刺激しないよう注意しつつ、ルメールへとそっと顔を向ける。
「あなたは『デパルトの旗を立てる者たち』の一員ですね」
ルメールは無言を貫く。
「今こうなってから色々考え直すと、不自然な点はありました」
再びルメールから目をそむける。
「私とアレンを殺人の共謀罪で逮捕した時点では、そもそもあなたは、私とアレン、ククの関係性すら知らなかったはずです。なんらかの理由で一緒になっただけの、無関係の赤の他人だったかも知れないのに、です」
「昼間お前たちが三人一緒になって行動していることが報告の中にあった」
「そのような些末な報告、いつ受けたのですか? 昼間の業務中に? そんなに暇な仕事なんでしょうか、警察の仕事は」
「詭弁だ。とにかく逮捕時点で、貴様たちの関係は知っていた」
「正直言って最初からずっと疑問だったのです。まず私達を逮捕して、それから館の方達に事情聴取を始めましたよね? あまりにも拙速に過ぎませんか? たとえ疑いの色濃厚と言えど、普通ある程度の事情を聞いてから逮捕に踏み切りませんか? 自分で言うのもなんですが、私、最上流の貴族の一人ですよ? 誤認逮捕した際のリスクを考えれば、もう少し慎重に判断すべきだったのでは?」
「それは私の不徳の致すところだ」
「今、その不徳をバターのように二度塗りしようとしていますけどね」
ルメールは、カロルのチクリと刺すような嫌味を鼻であしらう。
「他にもあります。あなた、そんな便利な『ギフト』がありながら、なぜわざわざこうやって馬車で何時間も揺られてリュテまで行くのです? リュテの何処かの扉にでも、その釘を仕込めばよろしいのに」
「一組の扉にしか仕込めないからだ。咄嗟の事態に繋ぎ先を固定していては不便ではないか」
「私達を送検しようとした時、特別な護送車を用意しようとしていたと聞き及んでいます。なんでも私を移送しているところ見られないよう、窓を全面布張りにしようとしたとか。そんな面倒なことをせずに、その『ギフト』で拘置所まで送れば一番効率がよろしかったのに。それこそ重要度の高い『咄嗟の事態』だったのでは?」
「……」
「先程の休憩小屋で聞き及びましたが、あなたはリュテまで行く時、必ずあそこで一旦停車するとか。もしかして、あの手洗いの扉に仕込んだ釘は、送検する時に『私だけ』何処かへ送ろうと事前に仕込んでいたものなのでは?」
「……」
「しかしそれは事件が思わぬ形で解決されてしまい、無駄になるかに思われた。しかしあなたは最後まで諦めなかった」
「……」
「あなたが誤認逮捕の詫びにと、私達をリュテまで送るとお申し出になりましたね? 私達はそれを丁重にお断りしたわけですが、それでもあなたは護衛だ中央への報告だと、なんだかんだ理由をあげつらって、こうやって私達と同道した。今このように客観的な立場から振り返っているからそう思うのでしょうか、少し執着が過ぎますよね」
「だからどうした?」
「あなたはあの小屋に仕込んだ『釘』を利用して私を確保する最後のチャンスだと見て、必死だったのでは? そうして実際、このようにまんまと私を拉致し、その努力は実を結んだわけです。あなたの粘り強さには頭が下がる思いがします」
「お前の勝手な思い込みだ」
「そもそもが私の勝手な独り言なので。このように手も足も出ない状況に気が狂って、『一縷の望みをかけて、馬車の外へと身投げしてしまわぬよう』、精一杯正気を保つための他愛もない戯言です」
カロルが意味深な目線を投げかける。
「貴様……! それは脅しのつもりか……!」
銃を握る手に力が入る。
「ただの独り言です」
カロルが再び、ふいっと目線を外す。
「そして、これが一番、私が疑問に思ったことです」
カロルが吸った息を腹に溜めた。
「なぜフェルディナンさんを射殺したのですか?」
「……」
「フェルディナンさんはあの時点で、ボリスさんの銃撃を受けて、もはや抵抗できる状態ではありませんでしたよね?」
「……」
「とどめの銃弾を放つ意味など無かったはずです」
「……」
「もしや口封じですか?」
「……」
「それとも例の派閥争い?」
「……」
「言い訳しないのですか?」
「……」
「私は口封じの線を疑ってますね」
「……」
「フェルディナンさんの殺人自体、あまりに無計画すぎる。私達がベルナールに確保されそうだったから咄嗟に殺した? その後はどうするつもりだったのでしょう? 自分が逮捕されるとは思わなかったのでしょうか? それで私達をまんまと逃して自分は檻の中……としたら、あまりに無能がすぎますよね」
「……」
「実はフェルディナンさんとあなたは密かに通じ合っていたのでは? そう考えればフェルディナンさんの行動にも理解ができます。だってそうですよね? 警部が味方なら、決定的な証拠さえ残さなければ自分が逮捕されることはまずありえない。上手いこと言い訳さえ立てば私達を重要参考人とか称して、警部の下に確保できるかもしれない。しかし、それどころか! 実際はその場の咄嗟の思いつきでまんまとククを殺人犯に仕立て上げ、私達を逮捕するそれらしい口実を作り上げるという、極めて破格の働きをしたわけです。フェルディナンさんは無能どころか、素晴らしく優秀なパートナーだったというわけです」
「……」
「しかし、エマとボリスさんのお二人が、そのような二重三重にどうしようもない状況を打破し、私達の無実と、真犯人がフェルディナンさんであることを証明してくださいました。私達にとってはまさに天からの救いとも言うべき出来事でしたが、あなた達にとってはさぞや苦々しい出来事だったでしょう」
「……」
「そうして最後の最後に悪あがきをし始めたフェルディナンさんをあなたは射殺したわけですが、少し不自然さは残りましたね。というよりも、フェルディナンさんの最後の悪あがきからして少しおかしいです。あの場面で無理をしたところでどうにもならないことは誰の目にも明らかでしたし、そもそもあなたが共犯なら大人しく捕まってしまったほうが、いろいろ都合が良かったはずです。フェルディナンさんがそこまで考えていなかったとは、ちょっと信じづらいですね」
「……」
「もしかしたら、あの悪あがきはむしろ、あなたからの口封じを期待して故意にやったことなのかもしれませんね。それが事前の取り決めだったのか、彼のあの場の思いつきだったのかは分かりませんが」
「フッ」
ルメールがなげやりな笑みを浮かべる。
「どうにも恐れ入ったね。あの小娘と言い貴様と言い、良くもそこまで頭が回る」
銃をカチャリと鳴らす。
「あなたの推測通り、フェルディナンと私は共犯者だよ。あの村へはベルナールら立憲派への牽制及び監視としてフェルディナンとともに送られていた」
「……」
「よくもまぁ、少ない手がかりからそれだけの結論を引き出せたものだ。恐れ入ったよ。私はノイラート嬢とシャロン嬢、あなた方の評価を改めねばならんようだ」
「……」
「しかし、それがどうした?」
「……」
「あなたの洞察力がどれだけ優れていて、あなたが私をどれだけ糾弾したところで、この状況を覆すことは不可能だ」
「……」
「まさに無為な行為。壁に向かって雄弁にぶつ演説は、さぞや気分が良かったろうね? あなたの無聊はこれで慰められただろうか?」
「ええ、だいぶ私の溜飲も下がりましたわ」
ルメールが小馬鹿にするような態度で笑う。
「それは良かった! あなたの独り言は、無意味ではなかったというわけだ」
「ええ、全くもって、無意味ではありませんでした」
不敵な笑みを浮かべ始めたカロルを見て、ルメールが不審げな表情になる。
「何しろあなたの目線を、私に釘付けにすることができましたからね」
「一体何を……」
「レイモン・ルメール。『銃床で、思いっきり右のガラスを割りなさい』」
その瞬間、ルメールが右手に持った銃で、馬車後部の窓ガラスを思いっきり叩き割った。
ガラスが細かく割れ飛び、ルメールの右手にも破片がいくつも刺さった。
「っ!? 貴様、一体、これは……!」
一体何が起きたのか理解できないルメールは、極度の混乱のためまともな思考が働かない。
「これは勿論」
カロルが答える。
「あなたを倒すための準備です」
割れた窓から飛び込んできたククが、ルメールの顔面に蹴りを叩き込んだ。
「ぶげらっ!!」
ルメールは激しい物音を立てて、反対側の座席に顔面から突っ込んだ。
「カロル、無事ですか!?」
「はい! 無事です!! ありがとうございます!!」
「奴の気を引いてくれていたようですね! 助かりましたよ、カロル!」
短く声を掛け合うと二人は、床に肘を突きながらなんとか身体を起こそうとしているルメールを見下ろした。
「レイモン・ルメール。あなたの目的を洗いざらい吐いてもらいますよ」
出血で真っ赤に染まった歯をむき出しにしながら、ルメールが怒りの形相を浮かべた。
【作者Twitter】https://twitter.com/hiro_utamaru2
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