事件の全容3
「……確かに血がついておりますね」
客室のドアについた血痕を検め、確かにエマの言うとおりであるとマリーが同意した。
「ジェーン、確かにここも拭いたのよね?」
振り返りながら問いかけてきたマリーに、ジェーンが頷きながら答えた。
「はい。客室の準備をする時に、確かにこのドアも拭き掃除しました。その時にこのような血痕が無かったのは確実です」
エマがその答えを受けて、追加で質問した。
「ジェーンさん、掃除をしたというのは、正確にはいつの話になりますか?」
「シャロン様方をお迎えすることが決まった後のことなので……事件の日の14時とか、15時くらいの話です」
「その後は誰もこちらには近づいていないと思っていいですか?」
「はい、鍵を閉めておりましたので。夕食後にマクマジェルさんがお部屋に入られるまでは、どなたもドアを開けていないはずです」
そこまで聞くとエマはククに顔を向けた。
「マクマジェルさん、こちらの血痕に見覚えは?」
「いえ……無いです」
「マクマジェルさん自身が怪我をなされたとかは?」
「それも無いです。必要なら確認して頂ければ」
そう言うと、ククは異常のないことをアピールするように、両腕の内側をその場に晒す。晒した両腕はもちろんのこと、いずれの場所にも傷などは見当たらない。
エマがそれを受けて、話を続ける。
「そういうわけで、この血痕は最初から付いていたものでも、マクマジェルさんが付けたものでもありません。しかも、事件の後は現場の保全ということで、この部屋には誰も近づけなかったのですから、警察が来た後に血が付く機会もありませんでした。したがって、このドアの血痕はマクマジェルさんがこの部屋を出た後から、警察がこの屋敷に到着するまでの間に付いたことになります」
「だったら、俺とジェーンはその血痕とは関係ないはずだな」
アンドレが腕を組みふんぞり返りながら発言した。
「ジェーンは書斎に来るなりフェルディナンに命令されてすぐさま警察に行っちまったし、俺はロープを取ってきて戻った後はずっと書斎に居た。物置のある一階と書斎の往復しかしてねぇ。俺たち二人は客室にすら近づいてないわけだからな」
「……それは確かなのかね?」
事の成り行きを見守っていたルメールが口を開いた。
「あ? まだ疑うのかよルメール?」
「念の為の確認だ」
「マリー。お前、俺達の動き見てたよなぁ? 俺もジェーンも、客室なんかにゃ近づいてなかったはずだな?」
アンドレがマリーに確認すると、マリーが同意する。
「ええ……お二人ともすぐさま階段を駆け下りてましたし、こちらの部屋に近づいた気配もありませんでした」
「おら、これで満足かよルメール。もっとも俺とジェーンはそこの女の言う通り、事件の時は外に居たんだから殺人にゃ一切無関係だがな」
アンドレの言葉に、ルメールが頭痛を押さえるかのように、こめかみを指で揉み眉間に皺を寄せる。
「では、一体誰がこの血を付けたというのかねノイラート嬢?」
「それは勿論、そこのフェルディナンさんですわ」
エマの言葉に、皆が一斉にフェルディナンに視線を注ぐ。フェルディナンは恨みがましい目つきでエマを睨んだ。フェルディナンが口を開いた。
「私だってその部屋になど近づいておらぬよ。よく思い返してくれ。私は旦那様の悲鳴を聞いた後、書斎に入ってから警察が来るまで、一度も部屋の外に出ていないんだ。それなのに、私はどうやって客室のドアに血を付けるというのだね? むしろマリーこそ怪しいのではないか? 彼女は書斎を出た後、全館の明かりを点けて回っていた。その間、マリーが私達に隠れてこっそりと何かをしていたとしても、それは我々には知りようのない事実。そう考えれば、私などよりよっぽどマリーの方が可能性がある。それを差し置いて私を真っ先に糾弾するなどおかしな話ではないか」
内面の興奮を表すように忙しない手振りを交えながらフェルディナンがまくしたてる。フェルディナンが荒い息を付いて話し終わるのを待ってから、エマが静かに口を開いた。
「フェルディナンさん、お忘れですか? あなたとマリーさんはハンカチで手についた血を拭っているはずです、書斎を出る前に。よしんばマリーさんが書斎を出てから客室のドアに触れたからと言って、血痕を残すことができますでしょうか? それに実際、マリーさんがマクマジェルさんの部屋に入る理由はあるでしょうか? ルメール警部、事件の後この部屋を検めた際、部屋の中を荒らされていたり、何か物が失くなっていたりした形跡はありましたか?」
エマが問いかけると、ルメール警部が難しい顔をして、「いや、そういう様子は無かった」とだけ答えた。フェルディナンが絶望と疲労感の滲む目つきでそのやりとりを眺める。
「このように物取りの形跡も無かった。それではマリーさんがこの部屋に近づく理由などあるでしょうか?」
「それを言ったら私だってこの部屋に近づく理由などないだろう! このわけのわからない確認は一体何のためなんだ!?」
「ところがフェルディナンさん、あなたなら事情は違う。これからそれを説明するわけですが、その前にこの血がいつ付いたかをもう少し詳しく確認する必要があります」
思わずと言った様子でフェルディナンが頬を紅潮させながら激昂する。それを冷めた目で流しながらエマが答える。
ずっと黙って成り行きを見守っていたカロルが、本日初めて口を開いた。
「これまでの話からすると、それはククが部屋を飛び出してから、フェルディナンさん達が書斎に駆けつけるまでの間、ということになりますか?」
「カロル様、仰るとおりです。私もそのように考えますわ」
エマがカロルの言葉に首肯する。
「そのタイミングで何故ドアに血が付いたのか。それはずばり、突然現れた人の気配に慌てて身を隠したからじゃありませんか? フェルディナンさん」
エマが問いかけるが彼は口を噤んで答えない。夢男が代わりに口を開く。
「それはつまり、どういうことなのかね?」
「フェルディナンさんがマクマジェルさんの目を盗んで、書斎から脱出したことを思い出して下さい、クレマンソー警部」
エマが夢男の援護に内心感謝しながら説明する。
「彼は書斎の扉を閉めてマクマジェルさんを閉じ込めることで、密室を完成させた。これはマクマジェルさんに罪をなすりつけ、彼女以外に犯行が可能な者は居ないということを印象づけるための咄嗟の行動だった。しかし、ここであなたはハタと気付いたのではありませんか? 仮にフェルディナンさん自身がドアを叩いて鍵が閉まっていたと証言しても、鍵束を持っているあなたなら鍵を閉めることは可能だと彼女に反論されてしまう可能性に。最悪の場合、あなたが犯人ではと勘ぐられて、『ギフト』を使って上手く部屋の外へ脱出したことまで気づかれかねない。そうなっては一気に不利な立場になってしまうのは火を見るより明らか」
エマの説明に、一同は想像力をたくましくさせながら黙って聞きいる。
「できれば他の誰かに、書斎の鍵が閉まっていることを確認して欲しい。そう思っていた所、ふとこちらに近づいてくる人の気配があった。そう、マリーさんです」
エマに目線を送られたマリーが、少しの緊張と驚きに目を見開く。
「あなたはこれをチャンスと捉えた。マリーさんが鍵が閉まっていることを確認してくれれば、マクマジェルさんが犯人であるということの説得力が増す。是非ともそうして貰うためにはあなたは一時彼女から身を隠す必要があった。そこで目を付けたのが、この客室です」
エマが客室のドアに手を添える。
「マクマジェルさん。あなたは慌ててこの部屋を出たため、きっとドアは開けっ放しで書斎に向かったのかと思われますが、いかがでしょう?」
「開け閉めどころか、そもそも意識の外でした」
ククの答えに、エマが頷く。
「フェルディナンさん、あなたはこの部屋が開け放しになっていることに気づき、急いで逃げ込みドアを閉めた。そうやってマリーさんから身を隠した際に手袋の血が付着してしまったのでは? ついでに言えば、手袋が血で汚れていることに気付いて外したのも、このタイミングかと思われます。天井の血から言っても書斎を出る時には手袋をしたままだったと思われますし、その後マリーさんと書斎に入った時には既に手袋を外していたわけですから。その時にドアノブに血が付着しているのに気付いて、それを拭ったのかもしれませんね。もっとも、ドアのラッチ部分にまでは気が回らなかったようですが」
エマが血痕を改めて指差す。
「ところで、そこで意外にもマリーさんは書斎に直接向かわず、村長の寝室へと向かった。ちょうど書斎を挟んで、この客室とは反対の部屋ですね」
マリーの発言を思い出す。
――「ええ。ただ、正確に言うと私はまず旦那様の寝室へと向かいました。扉の外から呼びかけても返事が無かったため、ダメ元でドアノブを回すと意外にも扉が開きました。それで中を覗いたのですが旦那様のお姿は見えず、次に旦那様の居そうな書斎へと向かいました」――
「これは、村長が寝室にいるとマリーさんが思い込んでいたからですが、ともかく、その隙を見計らってあなたは階下へと降りた。律儀に階段から降りたのか、それとも『ギフト』を使って直接降りたのかは私には分かりませんが。そうして、マリーさんが書斎のドアを叩き始めたタイミングを見計らって、何食わぬ顔で彼女に合流し、鍵を開けた。これがあの晩に起こった事の真相かと思われます」
「くだらないことを」
エマの説明が一段落した所でフェルディナンが吐き捨てるように言った。
「さも目の前で見たかのように、それらしい空言を作り上げる腕前は確かに一級品だ、称賛に値しますよ。是非とも小説家にお成りなさい。探偵の真似事なんかより余程大成するでしょう。しかし結局、あなたがこれまでに話した『事件の真相』とやらは、全て想像の産物に過ぎない。私はあの夜、極めて単純な行動しか取っていない。すなわち、旦那様の悲鳴を聞いて、鍵を手に取り寝室へと向かった、そしてそこでマリーと合流した。単にそれだけの、極めて当たり前な話です。この世はシンプルな出来事の積み重なった結果として、複雑に見える事象を引き起こすだけです。あなたの仰る三流小説のような、迂遠で手の込んだ行動を私が起こしたと信じるのは、あまりにも馬鹿馬鹿しいことだ。夢見がちな妄想で無辜の私を陥れるような真似はあまりに罪深い行いですぞ、ノイラート嬢」
「大成できると言ったり、三流小説と言ったり、支離滅裂なのは相変わらずですね、フェルディナンさん。あなたの仰る『単純な出来事』とやらですが……私には到底単純には思われませんよ、フェルディナンさん」
「何を言いたいのだね」
「お聞きしますがフェルディナンさん」
憎悪のこもる目で睨むフェルディナンに追撃を加える。
「なぜ、マリーさんよりも後にあなたは到着されたのでしょう?」
「? それがなんだと言うのか? 単に私よりマリーが先に到着しただけのことだろう?」
「それはおかしいでしょう、フェルディナンさん」
エマが困惑するフェルディナンを更に糾弾していく。
「マリーさんはあの時、キッチンにいたと聞きました。この屋敷で、書斎から一番遠くに位置するのは、実はボイラー室とキッチンです。その二つの部屋は玄関ホールに通じるドアも無く、一階の各部屋を裏側でつなぐ通用廊下をぐるりと回らなければ、玄関ホールへ出ることができません。それに対して、フェルディナンさん、あなたが居たはずの管理人室は、玄関ホールに通じるドアがありますね?」
――「ところで、そちらの扉は?」
エマが部屋の奥に見える扉を指差す。
「こちらは玄関ホールへ通じる扉です」
そう言ってジェーンが扉を開くと、その向こうには玄関ホールが見えた。階段の手すりと、真正面に位置する応接室の扉が見える――
「あなたは事件の夜、明らかにマリーさんよりも書斎に早く駆けつけることの出来る場所にいました。それなのに何故、よりにもよって書斎から一番遠くにいたマリーさんよりも遅れて到着したのか。何か言い訳はありますか?」
「そ、それは……」
思わぬ指摘にしどろもどろとなるフェルディナンを、その場の皆が見つめる。様々の、主には嫌悪と軽蔑の目を向けられたフェルディナンが、大量の汗をかきながらなんとか言い訳を探す。
「じ、実は鍵がすぐには見当たらず、結局は机の下に落ちていたのだが、それを見つけ出すのに手間取ったため、遅くなって……」
「真っ暗な管理人室でですか?」
エマが鋭く言い返すと、フェルディナンは「へ?」と幾分間抜けた声をあげる。
「こちらのボリスが当日の夜、偶然にも屋敷を見ていたのですが」
エマに視線を向けられ、ボリスが頷く。
「俺が23時頃この屋敷を見ていた時には、管理人室も含めて、屋敷の正面側の部屋は全て真っ暗だったぜ。見えたのは書斎で揺れるランプか何かの明かりだけで、他に灯は見えなかった」
ボリスが証言する。
――「そう。カンテラかな? 館の正面の二階の窓。ええと……あれかな」
そう言ってボリスが指差したのは、二階にある窓の右から二番目の窓だった。警部はそれをメモする。
「他に明かりが無かったから良く覚えてるよ。なんだありゃ? 風で何かが揺れてんのか? ってね。俺が気づいたことはこれで全部かな」――
「管理人室は、屋敷の外から見て玄関の左隣の部屋です。屋敷の正面に位置する部屋ですから、この部屋が明るければボリスも当然気がつくはずです。しかし実際は、ボリスは書斎の小さなランプの明かり以外は真っ暗だったと言っています。つまり、事件の起こった前後で、管理人室に明かりは灯されていなかったということになります。……フェルディナンさんは、確かその時日誌を書いていたと仰っていましたね?」
――「私は昨日の夜、事件が起こった時は管理人室におりました」
応接室のソファに座ったフェルディナンが、不安げな表情で、両手を揉みしだきながら話し始めた。
「日誌を書いていたのですが、それも終わって、最後に館の施錠確認をしようとしていた時に、旦那さまの悲鳴が響き渡ったのです」――
「明かりも付けない管理人室で日誌を記して、暗闇の中で鍵の在り処を探していたのですか? よほど夜目が効くと見えます」
エマがわなわなと震えるフェルディナンに皮肉をぶつける。エマが歩み寄る。
「明かりも点けず管理人室で日誌を書いて鍵を探し、書斎に近い場所に居ながらマリーさんよりも遅く到着する。血で汚れた手袋を一旦外して、わざわざ村長に素手で直接触れてまた手を汚す。そうして今宵、皆が寝静まった頃合いを見計らって書斎に姿を現す。こそこそと足音を忍ばせながら。あなたはこれらのことを、とてもシンプルで当たり前のことだと仰る。はっきりいいますが、そのような戯言は到底聞くに堪えません。この場に居る皆さんも同じように感じていると確信しておりますわ」
フェルディナンは顔を上げて、その場に居る人間の顔を見渡した。
小さなランタンの明かりを受けて、皆の顔が橙色に暗闇に浮かび上がっている。
皆の目は、まっすぐフェルディナンに向けられている。
もはや不信の念しかこもらない目、目、目。たくさんの目ども。
それらが微かに揺れるランタンの火に呼応して、硬い光をゆらゆらと反射している。
もはやこの場にフェルディナンに信を置くものは誰も居なかった。
「……最後に一つ、どうしても私には分からなかった、しかし一番肝心な事があります。それは、あなたが犯行に及んだ動機です」
エマはそう言って、懐から何かを取り出すと、それを皆に良く見えるように差し出した。
「それは?」
アレンが疑問を口にすると、エマが答える。
「これは焼却処分される予定だったフェルディナンさんの衣服から見つけたカフスボタンです」
エマの手のひらに置かれたカフスボタンがキラリと光る。
「このボタンに彫り込まれた紋章を良く見て下さい。アンドレさん、この紋章の事はご存知ですか?」
「はぁ? 何だって言うんだ……」
そう愚痴を零しながら目を眇めてカフスボタンを検めたアンドレが、急に驚いた表情を見せた。
「こ、これは……『三つ旗獅子紋』!」
その言葉にエマが頷く。
「これは何を意味する紋章でしょう?」
「そんなの決まってる!」
興奮するかのように腕を振り回してアンドレが大声をあげる。
「『デパルトの旗を立てる者たち』が使う紋章だ!! つまり、こいつは!」
アンドレが怒るかのように顔を歪めながら、フェルディナンを指差す。
「あの卑しい下卑た野良犬ども、『旗持ち』の一員ってこった!」
アンドレの叫びに、その場に居たものが一様に驚く。エマがカフスボタンをフェルディナンの目の前の床に放り投げる。
「聞けば、村長も旗持ちの一員だったとか。同じ旗持ちの一員だったあなたは村長の仲間だったはずですが……あなたの犯行の動機に、それが何か関係があるのでしょうか?」
エマがさらに一歩を踏み出すと、フェルディナンが怯むように一歩後ずさる。ボリスがそれ以上踏み込むなとばかりに、エマの前に片腕を割り込ませる。
フェルディナンの顔は土気色に染まり、尋常ではない汗の量にも関わらず、皮膚がカラカラに乾ききっていた。
フェルディナンの目が痙攣するように細かく揺れ動き、大きく見開いた目は瞳孔が開ききっている。
生きながらにして朽ちていくかのような様相を見せるフェルディナンに、エマがこの事件最大にして最重要の質問を放った。
「フェルディナンさん、話して下さい。あなたは何故村長を殺したのですか?」
【作者Twitter】https://twitter.com/hiro_utamaru2
【質問箱】https://peing.net/ja/hiro_utamaru2?event=0
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