駆け引き
アレンは気がつくと、宿のベッドで寝ていた。
石油ランプが薄暗い部屋をぼんやりと照らし出していたが、窓の鎧戸の隙間から朝の光が漏れ出している。少しだけ肌寒さを感じる。
夢うつつのまま辺りを見渡すと、カロルが毛布に包まれたまま椅子でぐっすりと眠っていた。
アレンは顔を擦りながら、昨晩のことを思い出す。
「そっか、酒場から帰った後、そのまんますぐ眠っちまったのか」
昨晩、カルロスの話でなんとも言えぬ空気に包まれ、自然とその場で皆が解散となった。
宿に帰ろうとしたアレンに、エリクとヤッカが肩を貸そうと言ってきた。
「これくらいの手伝いはさせてくれ」
とエリクが言い、
「まだ俺は体力残ってますから。ダントンは腰にきちまったようだけど」
とヤッカが言う。アレンは一人で歩けると断ったのだが、
「ここはお言葉に甘えましょう。なんといってもアレンは重傷なのですから……」
とカロルが説得してきた。
カロルが言うほど重傷ではないとアレンは思っていたが、思ったよりダメージが根深く残っており、足元が覚束ないことは事実だった。アレンは素直に言に従った。
二人に抱えられながら宿に戻ると、カロルが「今日はアレンがベッドを使って下さい」と申し出た。アレンが慌てて断ろうとするより先に、エリクとヤッカがアレンをベッドに放り込んだ。
「お嬢様、もう一つの部屋はどこですかい? 荷物はこっちの部屋にまとめやしょう」
とエリクが言うと、カロルが首を横に振った。
「ご心配には及びません。アレンと私で一つの部屋しか取っていませんから」
とカロルが言うと、エリクとヤッカが目をまん丸に見開いて驚いていた。アレンは「しまったな……」と頭を抱えたい気分だった。
「えーと……つまり、お二人とも一緒の部屋に寝泊まりしてるってことですか?」
ヤッカがそう問うと、カロルが首を縦に振った。
「ええ、そのとおりです。もう慣れたものですよ」
カロルがそう言うのを聞いていて、アレンは「俺は未だに慣れてないぞ!」と声を大にして主張したかった。カロルのこの図太さはなんなんだろう? 貴族ってこういうものなのかな?
「うわぁ……なんかすごいっすね。身分違いのなんたらって本当にあるんだなぁ……」
とヤッカが幾分上気した顔で呟いた。動揺しているのか、幾分、挙動不審だ。
「あ……俺、その……本当に空気の読めないこと言っちまったようで……。本当に申し訳ねぇ……」
とエリクがバツの悪そうに体を小さくし、畏まるようにカロルに謝罪する。「空気の読めないこと」というのはおそらく、カロルとアレンが逢引したと揶揄していたことだろう。誤解なのだが、先のカロルの言でもはや取り返しのつかない誤解となってしまった。
「いや、待てお前ら……」
「先の事ですか? 気にしていませんから、ご安心下さい、エリクさん」
言いかけるアレンに被せて、カロルはエリクを安心させるようにカラカラと笑った。そして口を開いた。
「でも私、夜は大声を上げてひどく乱れる、とメイドからよくお叱りを受けていましたし、きっとアレンにも負担を掛けているでしょうから、今日は優しくしてあげないといけませんね」
ほら、またすーぐそういう言い方する。アレンは今度こそ頭を抱えた。
カロルが言っているのは、二人一部屋のため、寝言と寝相の激しさでアレンを困らせているということを気にして言ったのだろう。しかし二人は当然、別の意味で捉えた。
エリクは「そ……」と何かを言いかけてから絶句した。ヤッカは何か理解できないものを見たかのように怯えながら、腕をまごまごとさせて後ずさる。
「あ……その、俺ら邪魔したくねぇから……もう行くな?」
「いや待ってくれ、エリク。これは」
「いいんだ。いいんだゴードンさん。本当に俺、あんたたちに酷いこと言っちまって。この非礼の詫びは、後で必ず」
「違うんだ、本当に」
「シャロンお嬢様。今晩はその、なんと言ったらいいか……あまりゴードンさんに無理をさせないでやってくれ、な?」
なんだその含みのある言い方は!!
「勿論です! いつもアレンには任せっきりですから、今日はたっぷりと奉仕いたします!」
「カロルゥ!!」
「お、おう。あまり無茶しねぇように……おらっ、もう退散すんぞヤッカ!」
そのセリフを聞くか聞かないかのうちに、ヤッカはまさに猫の如く素早くドアの外へと消えていった。エリクは部屋を出る際、「お大事に」と、複雑な笑みを浮かべながらドアを閉めた。
パタンとドアが優しく音を立て、部屋の中は静まり返った。
「エリクさんは第一印象こそ悪かったですが……根はいい人ですね。とてもアレンのことを気遣ってくれていました」
と言いながら、カロルはアレンに微笑みかけた。
アレはそういう気遣いじゃないんだよなぁ。
「……あんな馬鹿空間なんか思い出さなきゃよかった」
アレンは朝のベッドの上、手で顔を覆った。
「……そしてこいつは……」
そういうとアレンはカロルを呆れた顔で見つめた。
カロルは椅子の座面に顔を伏せるようにして、床にだらしなく下半身を投げ出して寝ていた。
どうやったらそんな寝相になるんだと、アレンは再び顔を覆った。
「……とは思っても」
顔を上げて、部屋を見渡しながらアレンは独りごちる。
「きっと徹夜で看病してくれてたんだろうな、カロルは」
昨夜の喜劇のような悲劇の後、アレンはいつの間にかストンと眠っていたようだ。こんなに長く眠ったのは久しく無かったことだ。
部屋の石油ランプが、ジリリッ、と音を立てる。カロルはランプを消す間もなく眠ってしまったようだ。寝落ちしてしまったのだろう。
傍らには水を張った木桶がある。アレンが後ろに目をやると、枕の側に少し湿った布が落ちていた。
「顔の腫れを冷やしてくれてたのか」
そういえば、少し腫れが引いている気がする。何度も水に布を浸すカロルの姿を想像すると、昨日の馬鹿騒ぎのことがどうでも良くなった。
「……ありがとうな、カロル」
アレンは身を起こしベッドから降りると、カロルを両腕に抱えベッドにそっと横たわらせた。きっと昨日は一晩中水で冷やした布をアレンの腫れた顔にあてて、いつの間にか気絶するように椅子の上で眠ってしまったのだろう。……そうだよな? まさか床で寝てあの寝相にはならないよな? 確信は持てなかった。
アレンは身体の調子を一つ一つ確かめるように筋肉を伸ばすと、石油ランプの火を落とした。
そして窓の鎧戸を開いた。朝の爽やかで少しひんやりとした空気が、部屋になだれ込んだ。
「昨晩考えていたことがあるのですが」
アレンはのっそりと起き出したカロルに朝の身支度を整えさせ、宿のすぐ横にある食堂で朝食を取っていた。
「私、ボードリヤールさんに会って話をしてみようかと思うのです」
「なんだって?」
アレンは、レンズ豆のトマト煮をつつく手を止め、カロルをまじまじと見つめた。
「マティアスに直接会うのは難しそうですし、そもそも『鍵』のことを質問したところで、正直な答えが返ってくるとは思いません。それに比べたらボードリヤールさんに会うのは容易です。私の家はそれなりに歴史のある家柄ですからね。会って話をしたいというだけならば、断る理由はないでしょう」
「そうなのか。シャロンさんも……王室侍従長、だっけか。偉い立場に居たみたいだし、薄々思っていたが、やっぱり凄いんだな。カロルの家は」
アレンのその言葉に、カロルは曖昧な微笑みで返した。カロルはそのまま続ける。
「お父様の話によれば、なにやらボードリヤールさんは中央政界入りをしたがっているらしいとのこと。であれば多分私のことは邪険にはしないでしょう」
「むしろ喜んで迎え入れる……か。シャロンさんの娘ということで、もしかしたら政界にコネを作れるチャンスかも知れないもんな」
「そういうことです。悪くない策かと。そして、流石に直接『鍵』のことは尋ねられませんが、マティアス一味や彼らに盗まれた盗品の行方について、何かヒントとなる情報が得られれば」
「……フム。確かに悪くない考えかも。多分ボードリヤールはカロルには協力的だろうし、危険に晒されることもなさそうだ」
アレンにはその手段が最良に思えた。朝になってから、アレンはどうやってマティアスのところへ乗り込み、その口を割らせるかばかり考えていた。結局その答えは出ず、悶々と悩んでいるばかりだったが、それに比べたらカロルの策は安全そうに思えるし、分の悪くない賭けに思えた。
「……うん。良いと思う。それでいってみよう」
「アレンが賛同してくれて嬉しいです。……それで、ちょっと悩んでいることがあるのですが」
「どうした?」
アレンがそう問うと、カロルはもじもじとして、少し言いにくそうな素振りを見せていたが、意を決するかのように口を開いた。
「アレンのことをどうしようかと……」
「というと?」
「アレンは表向き護衛という身分ではないですか」
「表向きも何も護衛じゃないのか?」
アレンが不思議そうにそう言うと、カロルは幾分拗ねた顔をしながら少し頬を染めた。
「私達は……お友達では無いのですか」
アレンは、ウッ……と言葉に詰まった。
「……違うのですか?」
そういうとカロルは少し悲しげに目を曇らせた。アレンにとっては家格の高い、それも多分最上級に値する貴族の娘に対し、友達だと言い切ることは勇気のいることだった。しかし言わねばならないだろうと、腹をくくった。
「そうだ、俺達は友達だ」
アレンのその言葉にほっとするように一息つくと、それまで硬かった表情を和らげた。
「アレンもそう思ってくれてて良かったです!」
カロルはそう言って、子供のように笑った。アレンは苦笑した。
「それで、話を戻しますが……アレンが護衛だとすると、ボードリヤールさんの家に入るのはちょっと無理です。護衛を連れて入るとなると、相手を信用してないということですから、無礼にあたってしまいます。それではボードリヤールさんも胸襟を開くことは無いでしょう」
「なるほどな」
「かと言って、私の世話役と言うのも少し……年が近く、まして男性となると少し不自然なもので」
「うーん、確かに……。それならば、俺はボードリヤールの家の近くで待機することにするよ」
「いえ、できれば」
カロルは真っ直ぐ見つめる。
「私がボードリヤールと話している間、マティアス一味のことについて調べて頂けませんか?」
「それは……俺とカロルが単独行動するということか?」
「ええ……まずいですか」
カロルが少し上目がちに言う。
「そりゃ、まずいだろう。ボードリヤールは良いとして、依然、カロルは特務機関に狙われる身なんだ。そのことを忘れちゃいけない」
アレンの言葉にカロルは黙り込む。
「できればボードリヤールの屋敷内まで入りたいくらいだが……それは叶わないようだからな」
「でも、私はあの扉を作るパーシーという少年ならば、『ギフト』が使えます」
「他の奴は? 例えば、あの黒ずくめの女は『ノーラ』という呼び名しか知らない。他の奴が来たらなおさらだ。他の奴じゃなくても、口を塞がれたらもうどうしようも無いだろう? ……前にもカロルが話していたとおり、奴らが襲ってこないことにどんな理由があるのか、俺達は知らない。でも、奴らが王の手先である以上、カロルの確保は絶対条件だ。いつか必ず襲ってくる。それで、その……俺たちが友達であるとしても……それと同時に俺は護衛なんだ。カロルを守らなきゃいけない以上、できる限り側に居なければいけない」
カロルは顔を俯けながら「そう……ですね」と一言呟いた。
「……俺もボードリヤールの屋敷から離れないようにして、マティアスのことに関して聞き込みしてみるから、それで良しとしてくれないか」
「……わかりました。お願いしますね、アレン」
カロルは力なく笑った。
その場所を知っていたカロルの先導で、ボードリヤールの屋敷までやってきたアレンは、カロルがボードリヤールへの取次を願い、程なく門扉の中へと消えていくのを見守った後、一人溜息をついた。
「……言い過ぎたかな」
カロルは屋敷へ向かう道中、なるべく平静を装っていたようだった。しかし、カロルとアレンが出会ってからそれなりに日数も経った。カロルが少し元気を失くしていたのがアレンにもなんとなく察せた。
しかし、アレンの言葉も本音だ。危険は、去っていない。カロルを守るという一種の使命感のようなものが今のアレンの原動力だ。
だが、同時にアレンは本音の部分で無力感も感じている。あの二人の襲撃も然り、昨日のクロヴィスとの戦闘然り……いずれもかなりギリギリのところで退けたといったところだ。
俺はあんな偉そうなことをカロルに言ったが、実際カロルを守りきれるのだろうか? あの夜、ノーラとパーシーのコンビネーションによってアレンは手ひどくやられた。あの最後の攻撃、あれが球体による打撃ではなく、あの棘や刃の攻撃だったら……俺の命はその場で尽きていただろう。
俺は本当にカロルの役に立っているのだろうか?
その問はアレンにとって恐ろしい質問であった。その答えは夜の霧に包まれるが如く、なんら見通すことができない。アレンの心は不安と無力感の泥沼に引きずり込まれそうになる。
突然、アレンは両手で頬を叩いた。辺りに響くほどの音に、通行人が振り返る。アレンはグッと腹に力を込めると、答えの無い自問自答を頭から振り払い、マティアス一味の聞き込みを開始した。
ボードリヤール邸に通されたカロルは客間にてボードリヤールを待つことになった。
マホガニーの木組みに真っ赤な布張りで拵えたソファに座り、部屋の中を見回すと、そこには実に高価そうな調度品がいくつも並んでいた。足首まで沈みそうなフカフカの絨毯。壁際にある見事な装飾の施された大きなチェスト。おそらく200年前くらいのアンティークものだろうか。目の前のどっしりとしたテーブルには意匠を凝らした象嵌が入っている。壁に飾られた絵も見事だし、異国情緒を感じさせる銀製、磁器製の香炉がいくつも並んでいる。
しかし、カロルから見ると少々雑然とした印象も抱いた。チェストの横にある南国風の観葉植物は、優美で繊細な装飾の施されているアンティーク物とあまりマッチしているようには思えない。絵は様々な時代のものが集められているが、王の戴冠の場面を描いたものや、預言者による奇跡の場面を表したもの、はたまたデパルトの市民革命時の民衆の勝利の場面など、とにかく荘厳で派手な絵画ばかりを集めており、少々胃もたれのしそうなラインナップだ。磁器製の香炉は何らかの恐ろしげな動物を象っているらしく、造りは見事ではあるが、少々不気味で妖しげな印象を受ける。
言葉は悪いが、インテリアの見世物小屋といった印象だ。なるほど、有力資本家と言えど、ここ最近で金を持ったということが部屋の内装から透けて見える。一言で言って成金趣味だ。
そのうち、ドスドスという重たい足音を立てながら、モーニングコートを着た大柄な男が客間に入ってきた。
「これはこれは! ようこそおいで下さいました! 私が今代のボードリヤール家の当主、ジルベール・ウスターシュ・ボードリヤールでございます。高貴で麗しいシャロン家のご令嬢を当屋敷に迎えること、誠に恐悦至極でございます。以後お見知りおきを」
そう言ってボードリヤールはトップハットを脱ぐと胸に当て、少々大仰な程に左腕を広げながらゆっくりとお辞儀をした。
ボードリヤールは濃いブラウンの髪と口髭を蓄えた、鳶色の目をした男だった。歳は40を超えているように思われる。指にはめられた金銀に彩られた高価そうな指輪の品々は、この実利家らしい貼り付けたような笑みの男には、少々不釣り合いな気がした。
「ジャン=クリストフ・ド・シャロンが第一子、カロル・エレオノール・ド・ラ・シャロンです。本日は急な訪問にも関わらず快くお受け頂き、ありがとう存じます。旅の途中とは言え、このようなお見苦しい旅装での訪問となってしまったこと、心よりお詫び申し上げます」
カロルがカーテシーを返しながらそう述べると、ボードリヤールは「まさか、とんでもない!」と当惑するように腕を開いた。
「繊細な白百合のように美しいシャロン嬢には、どのような花瓶でもその美しさに変わりはないというものです。……ささ、どうぞソファへ」
象嵌の入った猫脚テーブルを挟んで、カロルの対面の椅子にボードリヤールが腰を下ろした。座る際に、キザな仕草でモーニングコートの裾を両手でサッと払った。
「貴方の父君、シャロン氏の訃報は新聞で知りました。まこと、ご心痛お察し致します」
「ありがとう存じます。ですが、父の受けた苦痛に比べたら、私の心痛など如何ばかりのものでしょうか。今私がこうして生きていることを、天に坐す偉大なる主に感謝し、父の名に恥じぬよう、私のできることを精一杯努めていく所存です」
「あなたは可憐であるだけでなく」
ボードリヤールは感嘆するようにゆっくりと頭を振った。
「とても心のお強いお人だ」
「ありがとう存じます。そう言って頂けるのはとても光栄です」
カロルは微笑みながら返答した。
「それでボードリヤールさん。本日急な訪問をしたのは、お願いしたいことがあってのことなのです」
「勿論、私が助力できることならなんなりと!」
ボードリヤールは胸襟を開くように背筋を伸ばした。
「実は、カド・ドゥ・パッセにあるシャロン家本邸に強盗が入ったようなのです」
カロルがそう言うと、ボードリヤールは神妙な顔でカロルを見つめた。
「強盗ですか」
「ええ。……父が亡くなったとき、私達は別の街にある別邸に滞在していたのですが、その間に押し入られたようです。家財の一切合財が奪われ、小さく美しい庭園は踏みにじられ、思い出の残る館は荒れ果ててしまったのです……」
カロルは声を震わせながら、苦しむかのように胸を押さえた。ボードリヤールはカロルのその悲嘆にくれる様子を見て、悲しみに堪えないという表情で頭を振った。
「シャロン嬢の胸を苦しめるとは、なんと悪辣非道な奴らでしょう! どうか、気を落とさず、私に出来ることがあればなんなりとお申しつけください」
「ボードリヤールさんのお優しいお心遣いに深く感謝致します」
カロルはそう言って、ボードリヤールに潤んだ瞳を向けた。
「警察には勿論このことを相談し、今は捜査の結果を待つばかりなのですが……、実のところ、奪われてしまった家財道具については惜しいとは思っていません。ただの調度品ですし、旅に出た身としては無用の物でさえあります。ですが、一つ、どうしても取り返さねばならない物があるのです」
「……その、取り返さねばならぬというものは?」
ボードリヤールが真剣な面持ちでカロルに質問した。カロルは一回深呼吸をしてから答えた。
「先代の王、アンリ4世陛下からご下賜頂いた特別な紋章があるのです。それは父の粉骨砕身の奉仕に対する労いの証として、陛下から恐れ多くも特別に賜った貴重な品なのです。我がシャロン家としては子々孫々まで受け継ぐべき宝として大事にしていたのですが……とても情けないことに、家財道具と一緒にその宝までも盗られてしまったのかも知れないのです。それはちょうどこのくらいの大きさで……」
と、カロルは『鍵』の特徴をボードリヤールに伝えた。
カロルはハッタリをかました。勿論、『鍵』であるエンブレムはアンリ4世からの下賜品ではない。しかしそのような比類の無き価値あるものを、もしかしたらマティアス一味が盗み出し所持しているかもしれないと知って、この男はどういう行動に出るのか。
「そのため、警察の捜査とは別に、私の方でもその行方を探して独自に調べるために旅に出ているのです。しかし、物が物のため、おいそれと誰かに聞き込みをすることもできません。そこで、父が常々ボードリヤールさんという方がこの辺りで広く顔の効く、有徳の紳士であるという話を思い出したのです。右も左も分からぬ小娘の身、こうしてボードリヤールさんにお頼りしたく思い、こちらへと参らせて頂きました。紋章について、何か思いあたる物や、それらしい噂話などを耳にしたことはありませんでしょうか?」
カロルが虚実を交えた話を語り切ると、身じろぎ一つせず聞き入っていたボードリヤールは、顎をさすり出し、深く考え込んでからようやく口を開いた。
「なんということだ……マティアスの逆賊共はシャロン邸に手を出すだけではなく、そのような宝まで奪い去ってしまうとは……シャロン嬢の心の痛みは如何ばかりか……」
ボードリヤールはカロルを憐れむような目で見つめた。
「私は貴族ですらない、唯の卑しい一資本家ですが、シャロン氏からの身に余る評価を頂き、また、麗しきシャロン嬢から頼りにされるというのは大変光栄なことです」
ボードリヤールは抜け目なく感謝の気持ちを言葉にした。
「そのような栄誉を頂いておきながらまことに申し上げにくいのですが、そのような紋章なるものの存在は私の耳には届いておりません。しかし、唯の庶民とは言え、市議の席も得ているこの身、幸いにも色々と融通の聞く立場であります。是非ご協力致しましょう」
ボードリヤールは背筋を正して、ドンと胸を張った。
「ありがとう存じます。……しかし、大変心苦しいことに、今の無力な私では、もし紋章が見つかったとしても、ボードリヤールさんに充分な御礼をできないかと思います。……それで、代わりと言ってはなんですが、もし紋章が見つかったら、私の方で今代の陛下にボードリヤールさんに多大な貢献をして頂いた旨をご奏上申し上げたいと思います」
「なんですって」
予想外の言葉にボードリヤールが食いついた。
「先代からボードリヤール家はヴィース市に対して、多大なる貢献をなさっていると聞き及んでおります。ボードリヤールさんほどの紳士の方に爵位が無いというのはとても不公平なことと私には思われます。もし紋章が見つかった暁には、微力ながら私の方から陛下に対し推薦状をしたためましょう。父の娘である私の言葉なら、きっと陛下も邪険にはなさらないでしょう」
一晩中考えてひねり出した展開とは言え、自分でもこうスラスラと嘘を並べ立てられるのが不思議な気持ちだった。しかし、その甲斐あってボードリヤールは俄然興味が湧いたようだ。その瞳はにわかに湧き上がった出世欲で爛々と輝いている。
「まさか私の下へ、そのような名誉ある身分を頂ける機会が巡ってくるとは。このボードリヤール、シャロン家の名誉を守るため、必ずや紋章の在り処をマティアス一味から絞り出してみせましょう」
ギラギラと油っぽい顔を笑顔に歪めながら、ボードリヤールは自信満々にカロルの依頼を請け負った。
「ありがとう存じます」
カロルは軽く微笑みながら返した。
カロルはボードリヤール家の門扉をくぐり抜け外へ出ると、振り返ってボードリヤール邸を仰いだ。
ボードリヤールは明らかにマティアス一味がシャロン邸に押し入ったことを知っている。
現に、私は一言も『マティアス一味』とは言っていないのに、ボードリヤールはマティアス一味が規定路線かのように語っていたのだ。恐らく盗品の行方を知っているのでは無いのだろうか。もしそうだとしたら、それは誰から聞いたか? ……それは当然マティアスからなのではないだろうか。
そして、疑惑のボードリヤールに対し、『貴族への推薦』という餌をちらつかせた。中央政界入りを目指しているボードリヤールにとって無視することのできない餌だ。喰い付かないはずが無い。であれば十中八九、紋章――実際はエンブレムだが――を所持しているかもしれないマティアスと接触するはずだ。
全ては推測の域を出ないが、カロルはボードリヤールと直接対話する中で確信していた。後はボードリヤールがどういう行動にでるか、注視しなければならない。
「結構勝手やっちゃいましたけど……またアレンに叱られちゃうのかなぁ……」
カロルの最大の気がかりはそれだった。アレンにもこのことは話さねばなるまい。
カロルは目線を元に戻すと、アレンと合流するべく歩きだした。向かい風が銀髪を後ろへたなびかせるが、その足取りは力強かった。
シャロン邸が強盗に襲われた話は
https://ncode.syosetu.com/n9717fz/20/
『鍵』の話は
https://ncode.syosetu.com/n9717fz/17/
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