酒場での激闘
「何の話ですかねぇ?」
金髪の男は短鞭をもう片方の手のひらに打ち付けながら、アレンを嘲るような調子でシラを切った。
「とぼけるな。シャロン邸から金品を強奪したのはお前らマティアス一味の仕業だろう」
アレンがそうカマをかけると、騒ぎが始まってからアレン達を遠巻きに眺めていた酒場の客たちの間で、ざわめきが広がり始めた。
「あのお嬢様のお付き、シャロン邸って言ったか?」
「シャロンってあのシャロンか?」
「お前は分かったフリしてるだけだろ、この酔いどれ馬鹿」
「シャロンっていやぁ、中央政界にも顔の効く、この辺りの名士だぜ!」
「じゃあ、シャロン卿のお屋敷をマティアスの野郎が襲ったのか」
金髪の男は周りの野次馬達の言葉を鼻で笑い、聞き流した。
「何の根拠があってそのように決めつけるのですかねぇ」
こめかみを指でトントンと叩きながら、金髪の男がアレンを挑発する。
「この辺りで名の知られた強盗団と言えばお前たちだろう」
「これはとんだ濡れ衣を着せられたものだ! 私達マティアス一味はこの街の安寧を願い、横暴なよそ者たちからこの街の人間を守る、いわば自警団のようなものですよ」
金髪の男がさも可笑しそうに笑いながら返答すると、突然アレン達の後ろから大声が上がった。
「ふざけんなっ!!」
金髪の男目掛けて酒瓶が投げつけられた。あわや金髪の男の頭に当たるかというところで、横から伸びた犬獣人の手が酒瓶を掴む。エリクが酒瓶を投擲したままの格好で、大声で言葉を継ぐ。
「なぁにが自警団だ!! ショバ代強要して、払わなければ廃業まで追い詰める、払ったところで何もしやしねえ、マフィアの真似事したドぐされ三下野郎どもがよ!! てめぇらのせいでおやっさんの食堂も閉めざるを得なくなっちまった!! おかげで俺も職なしだ!! どうしてくれんだこのクソ野郎!!」
エリクがそう言うと、周りの客たちも、そうだそうだ! とエリクに同意し、マティアス一味をやかましく非難し始めた。
金髪の男はため息をつく。
その時、ヒュッという鋭い呼吸音と共に突然エリクがカウンターまで吹き飛ばされ、ジャリリッ、という鎖の音と共に周りで騒ぎ立ててた数人の客たちが昏倒した。
「エリク!!」
カルロスが大声を張り上げる目の前には拳を振り抜いた格好の犬獣人が。
「うわああああああっ!!」
突然の凶事に冷静さを失う客たちの前には、鎖で繋がった二対の錘を振り回す細目の男が、それぞれ不敵な笑みを浮かべ立っていた。
エリクと昏倒した数名の客達はそれぞれ失神しているようだった。
「よお、俺らに楯突くとはいい度胸してんじゃね―か、気に入ったぜぇ」
周囲を舐めるように睥睨しながら、犬獣人が楽しげに笑い、拳を鳴らす。
「お前達、うるさい。関係ない奴、静かにするのがいいヨ」
木製の錘を身体の周りで振り回しながら、細目の男が片言の共通語で周囲に警告を与える。
マティアス一味の蛮行を見て、周囲の客たちは半狂乱となり、我先にとその場から逃走し始めた。椅子がやかましく床に倒れ、ジョッキが床で割れる音が鳴り響き、倒れ込んだ者が盛大にテーブルをひっくり返す。店内は客達の怒号で埋め尽くされた。
「お、お前ら! とうとう、手、手を出しやがったな!! 警察に訴えてやる!!」
逃げ遅れたカウンター周りの客たちが、店の壁にへばりつきながらマティアス一味を糾弾する。
「勘違いするなよ。これは酒瓶をぶつけられたことに対する正当な自己防衛だっ!」
「周りの客も、ワタシ達に襲いかかる素振りを見せたから、追い払っただけネ」
犬獣人がバシンと拳をうち、細目の男もピシリと鎖の動きを止めると、口の端を歪めながらとぼけたセリフを吐いた。
「どうです? ごらんになったとおり、私達は暴行を働こうとした不遜な輩たちを取り除いて差し上げました。売上のほんのちょっとの部分を私達に納めて頂ければ、暴漢が自由に出入り出来ないよう、今後も守ってさしあげますよ?」
金髪の男が人を馬鹿にしたセリフを吐くのを見て、カルロスは激昂した。
「ふざけたこと抜かしやがって!! 暴漢はてめぇらの方だっ!!」
カルロスが拳を振りかぶって金髪の男に迫ると、筋肉で盛り上がるカルロスの太い腕を犬獣人が掴んだ。そして気合一閃、犬獣人はカルロスを振り回し、遠心力で投げ放った。
「ぐおっ!!!」
テーブルや椅子を巻き込みながら、カルロスが床に叩きつけられた。さきほど店内から避難した客たちが、入り口近くにごった返しながら悲鳴をあげる。「熊野郎!!」「カルロス!!」と、誰かの叫び声が聞こえる。また、逃走せず店内に残っていた少しばかりの客たちからもマティアス一味に対して怒声があがる。
「おやおやこれはこれは! いきなり殴りかかるとは、まさかの貴方も暴漢でしたか!」
金髪の男が眉頭を引き上げながら、カルロスを見下すように嘲笑う。
「これは『この街の自警団』として、仕事をせねばなりませんねぇ……ヴォルカ」
「分かってるぜ、クロヴィス。……こいつは俺がシメる」
金髪の男が犬獣人の名を呼ぶと、ヴォルカと呼ばれた犬獣人はニイッと笑いながら呼応した。カルロスが周囲の机や椅子を吹き飛ばすようにして立ち上がる。
「このクソネズミども、全員ノシてやるから覚悟しろっ!!」
カルロスが額から血を流しながら犬獣人に向かっていき、ヴォルカがそれに対峙した。
「なるほど、とんだクソ野郎どもだ。窃盗の件は別にしても、こいつらは牢屋にブチ込むべきだな」
アレンはそういうと逆手に握ったナイフを強く握り込む。クロヴィスと呼ばれた金髪の男がふざけるような調子でアレンを煽り立てる。
「おお、怖い怖い。証拠もなしに強盗犯と決めつけ、今もまた正義を代行する私達に暴行を働こうとするとは。これは凶悪な犯罪者ですねぇ、間違いない……チャン」
クロヴィスが声をかけると、チャンと呼ばれた細目の男がこちらに振り向いた。
「そいつの相手はワタシが……」
チャンがそう言いながらアレンの下へ向かおうとした時、不意にクロヴィスが叫んだ。
「!! チャン、後ろ!!」
ハッとしたチャンが後ろを振り向くと、猫獣人の青年がチャンに向かって跳躍していた。
「おおおおっ!!」
「ぬっ!?」
猫獣人が気合とともにその手を振り下ろすが、チャンが両手でピンと張った鎖によって防がれてしまう。猫獣人はそのまま鎖を握り、その下を潜るようにしてチャンに向かって蹴りを放つ。猫獣人の蹴りがチャンの胴体を打つ。
「うぐっ!! ……ハイイヤァッ!!」
チャンは一瞬怯むが、瞬時に鎖をたわめて猫獣人の体勢を崩すと、気合の声とともに鞭のようにしなる蹴りを放った。猫獣人は蹴りによって薙ぎ払われ横っ飛びにすっ飛ぶが、身軽に身体をしならせ床に両足で着地した。
「邪魔すると痛い目見るヨ」
チャンが錘を振り回しながら警告すると、猫獣人の青年は横腹を押さえながら叫んだ。
「黙れクソネズミども! さっきから見ていて胸糞悪いんだよ! お前らマティアス一味には恨みがあるぜ! ここでその恨みを晴らさせてもらおうじゃねぇか!!」
「お前、馬鹿ネ。ワタシ達に向かってくる奴、皆ワタシの流星錘の前に倒れる運命ヨ」
チャンがそう言って鎖を振りかぶろうとした時、その視界の端に何かが飛来してくるのを瞬時に捉え、咄嗟に身体を後ろに反らした。目の前を半透明な何かが高速で通り過ぎ、カウンター奥の酒の並ぶ棚にぶち当たる。幾つかの酒瓶が破砕音を立て、棚から酒が溢れていく。
チャンが飛来物のやって来た店の入口の方に目を向けると、タンクトップに作業用ズボンを履いた一目で労働者と分かる中年の男が、ジョッキの口をこちらに向けて足腰を踏ん張るようにして立っていた。
「俺もてめぇらにゃ、ちょいと個人的な恨みがあるぜ。俺も付き合うぜ、ヤッカ」
労働者風の男が猫獣人をヤッカと呼びながら参戦を申し出た。
「百人力だ、ダントン!!」
ヤッカが労働者の男をダントンと呼び、その意気に呼応する。周りの客達も、行けぇ! やっちまえぇっ! と口々に声を上げる。
「ヤレヤレ……この国の人間は馬鹿ばかり」
チャンと呼ばれる細目の男が、頭上で二つの錘を振り回すと、空気を薙ぎ払うような風切り音が鳴り響き始めた。
「どうやら俺の相手はお前一人のようだな」
アレンがそう言うと、クロヴィスと呼ばれる金髪の男が額に手をやりながら頭を振った。
「この店はどこもかしこも暴漢ばかり。いやはや仕事に精が出るってもんです」
「いい加減取り繕うのをやめたらどうだ? どこをどうみてもお前らはチンピラそのものだ」
アレンの言葉を、クロヴィスが一笑に付した。
「尖ったナイフを人に向けておいて、何を偉そうに」
「その言葉、暴れまわるお前らにそっくりそのまま返すぜ。……カロル、少し離れていてくれ」
アレンがそう声をかけると、口出しができず、まごまごしていたカロルが「でもアレン……」と、不安げな声を上げる。
「あいつらを倒してふん縛ったら、マティアス一味のことを聞き出せるかも知れない。カロルの『ギフト』は今回は活躍できなさそうだ。なるべく物陰とかに隠れていてくれ」
それでもカロルは足をさ迷わせたが、やがて心配そうな表情を浮かべながらも、アレンから離れていった。クロヴィスはアレン達の会話を聞き終えると、鼻白むような表情を浮かべた。
「しけた茶番ですねぇ。恋人との別れは済ませましたか?」
「お生憎さま、恋人でもなければ別れもしねぇな。お前には、酒の染み込んだこの店の床の味を知ってもらう」
「詩人ですねぇ」
クロヴィスが短鞭をヒュンッと振ると、アレンはクロヴィスに向かって駆け出した。
「フフッ……!」
クロヴィスは未だアレンには手の届かぬ距離だというのに、それに構うことなく羽虫を打ち払うかのように短鞭を振るった。
アレンの横っ面が見えない鞭によって打擲され、辺りに鞭特有の乾いた打撃音が響き渡る。
「ふっ……ぐっ……」
その視界に一瞬火花が散り、慮外の出来事にアレンは思わずたたらを踏んだ。
「躾のなってない犬にはやはり鞭が一番……ってね!!」
クロヴィスが複数回短鞭を振るうと、その度に皮膚が破裂するかのような痛みがアレンを襲う。
「アレン!!」
「来るなカロル!!」
思わずアレンに駆け寄りそうになるカロルをアレンが制する。
「大丈夫だ! 一発一発は重くないっ!!」
ひどい痛みではあるが、この程度であれば堪えきれると判断したアレンが、鞭打たれる痛みを無視して強引に前へ出る。
「うぉぉおおおおおっ!!!!」
アレンが自分を叱咤するかのように咆哮しながら、クロヴィスの下へ進んでいく。
「がんばりますねぇ、これならどうです?」
クロヴィスが余裕の笑みで鞭をヒュパッと一回振るう。
すると、アレンの全身があらゆる方向から鞭打たれた。複数の打擲音と共に、全身に激痛が襲いかかる。アレンの足が止まった。
一回振っただけで、複数回打撃!? しかも遠隔攻撃までついている!! アレンは痛みに朦朧とする思考の中で、クロヴィスの『ギフト』について理解した。
「まだまだ」
そう言うとクロヴィスは鞭をヒュヒュンッと二回振った。先よりも多い打撃が襲いかかり、アレンはその場に膝を屈してしまう。
「アレンッッ!!!!」
カロルが最早悲鳴のような声をあげながら、アレンの下へ駆け寄ってきた。
「あ……あ……」
アレンはあまりの激痛に暗転しかける視界を根性でつなぎとめた。その全身からは早くも血が滲み出してきている。
「鞭っていうのは良いもんですよねぇ……。しなる時の手の重さ。振るった時の風切り音。相手の身体を打つ時の手の痺れ。そして……相手の苦悶の表情。全てが愛おしい……」
クロヴィスが恍惚とした表情でアレンを見下ろしながら、その身をぶるりと震わせた。カロルはその表情の気色悪さに思わず吐き気を催す。
「なんと醜悪な……」
「なんとでも」
クロヴィスは木で鼻をくくったような態度でカロルを眺める。
「貴女もそこに転がる恋人に、今晩にでも一振るいしてみてはどうです? 意外と癖になるかも」
「この人は恋人ではなく、私の護衛です。私はジャン=クリストフ・ド・シャロンが第一子、カロル・エレオノール・ド・ラ・シャロンです。貴方の名は?」
カロルがそう問うとクロヴィスは肩をすくめた。
「私の名はクロヴィスですよ、お嬢さん」
「私は家名も含めて名乗りましたよ。フルネームで名乗りなさい、無礼者」
「私は貴族出身ではないのでねぇ。上流階級のマナーにいちいち付き合う義理はありませんよ、シャロン姫」
そう上手くはいかないか……。カロルは内心で舌打ちをした。
「カロル……俺は無事だ……下がって……」
アレンが脂汗を流しながら、カロルに後ろへ退くように促す。
「アレン! 無茶をしないで!」
「しかし……引いたところでどうなるわけでもない」
ハラハラしながらアレンの顔を覗き込むカロルに、アレンは苦痛を堪えるような表情で答えた。
「また茶番ですか……私は男女の機微に横槍を刺すような無粋な人間ではありませんが、こう同じ事が続いてはあくびも出てしまいますねぇ」
クロヴィスが興ざめだと言わんばかりに二人を鼻で笑う。
「どうしてもそういう目線で眺めたいようだな、ゲス野郎め」
「私はこう見えて恋愛小説が大好きでねぇ……特に主人の拷問に真実の愛を見出し、その苦痛に満たされた精神の内に、永遠で真なる天上の喜びを見出していく……、そんな『恋愛小説』がね……」
「ゲス野郎め」
アレンはそう吐き捨てると、カロルに何事かを密かに耳打ちした。カロルはアレンの言葉を聞いて、「え!? そんなこと私には……」と躊躇する。
「頼む」
アレンは一言そういうと、熱く燃えるような痛みに悲鳴を上げる身体を無理矢理に起こし、カロルを腕で後ろに追いやった。
「次はてめぇをぶん殴る」
「やれるものなら」
クロヴィスは一振り、ヒュパッと短鞭を鳴かせた。
「やってごらんなさい」
アレンがクロヴィスと闘っている一方、大柄なカルロスと、それに負けず劣らず体格の良い犬獣人が、重戦士同士の闘いのような、激しい打撃の応酬を繰り広げていた。
「ぬぅぅぅぅぅううんんっ!!」
カルロスがその大柄な身体で重い拳の一撃を放つと、ヴォルカと呼ばれた犬獣人が腕を十字にしてこれをガードする。猛牛同士がぶつかり合うような衝撃音が辺りに響く。
「おお~、痛ぇ痛ぇ!!」
言葉とは裏腹に楽しげな笑みを浮かべるヴォルカは、フンッと短い呼気に気合を乗せ、その丸太のような脚でカルロスを横蹴りする。
カルロスはそれを左腕でガードするが、その重い一撃にたたらを踏む。ヴォルカはそのまま左の拳でカルロスに殴りかかった。
「ぅおらっ!!」
「ぶぐぉっ……!」
顔面を強打されたカルロスが後ろにすっ飛ぶ。机や椅子を巻き込みながら飛んできたカルロスを、壁際の客たちがなんとか受け止めた。
「おい、熊野郎! 無事かっ!?」
うめき声をあげるカルロスに周りの人間が声をかける。
「大丈夫だ……おい、おめぇらは下がってろ」
「下がるも何も、もう壁際だよ! これ以上、下がりようなんか無ぇっ!!」
客の言葉にカルロスは辺りを見回すと、今初めて自分がどこまで飛ばされたかに気づいたようだった。
「そうかい……とにかく下がれお前ら……」
「おい無茶だカルロス! もう止めろ!!」
「やめてどうなる馬鹿野郎! あいつらを倒すしか、もう道は無ぇ……」
カルロスが客たちの手や肩を借り、なんとか立ち上がると拳を構えた。しかし、カルロスは全身に打撲を負い、顔面はヴォルカの打撃によって赤く腫れ上がってる。その口からは一筋の血が流れ出ていた。
ヴォルカもカルロスと負けず劣らず、全身に傷を負っていた。二人の実力は拮抗していた。
「よくやるねぇ、お前さん。カルロスっていったか? 久しぶりに骨のある奴とやりあえて、俺ぁ嬉しいぜ」
「黙れ、マティアス一味の犬っころが! てめぇの骨は俺がぶち折ってやるから覚悟しろ!」
カルロスの燃え上がるような闘志に、ヴォルカはいよいよその笑みを深くした。
「ところでカルロスさんよ。お前さっきから熊、熊と呼ばれているが、お前は熊獣人なのか? ……そんな風には見えんが」
「なわけ無ぇだろ。店の奴らが勝手に呼んでるだけだ」
「そうか。お前の強さは熊獣人って言われても俺は納得だがな」
「だからそれがなんだってんだ!!」
カルロスは満身創痍の身体に喝を入れ、テーブルを逆さに持つと、それを前に向けてヴォルカに向かって突進していった。
「うおおおおおおおおおおっ!!」
そのままヴォルカに体当りする。馬車の突進のようなそれを受け、さしものヴォルカも視界が明滅するような衝撃を受けた。カルロスはそのままテーブルの天板をドガンッと蹴りつけ、その後ろのヴォルカごとふっとばした。
「ぐぉっ……!!」
床に背中をひどく打ち付け、一瞬意識が途切れたヴォルカに、カルロスは全身をバネのようにしならせ、木製の椅子を振り下ろした。
「おらぁぁぁぁぁぁっ!!!」
椅子の一撃がヴォルカの胴体を激しく打ち付けた。
「うぐぁあああっっ!!」
椅子の砕ける音と共に、ヴォルカが苦痛の叫び声を上げる。カルロスはその手に残った椅子の脚を振り上げて、ヴォルカの頭を打擲しようと気合の声を上げる。
「んぬぅうううううううんっ!!!」
カルロスが振り下ろした椅子の脚がまさにヴォルカに当たるかに思われた時。
ヴォルカは猛烈な速さでカルロスの一撃を避け、横合いからカルロスの肩付近に噛み付いた。
「ぐぉおおっ!?」
カルロスがその痛みにうめき声をあげ、ヴォルカはうるるるる、と獣のような唸り声を上げた。
「お、おい! あれ!」
「ほ、本物の獣じゃねぇか……!!」
周りで見ていた客たちが、信じられぬ物を見たかのように頭を抱えてざわつく。
カルロスに噛み付くヴォルカは、最早その顔面からヒトの面影は跡形もなく消え失せ、獰猛な野犬のような顔つきに変わっていた。その鋭い牙の合間から唸り声にも思われる荒々しい呼吸が繰り返される。
「こ、こいつぁ……!!」
カルロスが驚愕しつつも、ヴォルカの頭を掴みなんとか引き剥がそうとする。
ヴォルカはカルロスに掴みかかり力を込めると、カルロスに噛み付いている顎を思いっきり後ろに引いた。ブチブチという恐ろしい音を立て、カルロスの肩から肉を食いちぎる。
「ぐぅああああああああああああああああああああああああっっっ!!!!!!」
周りの客たちはその恐ろしい音に耳を塞ぐ。カルロスは苦痛のあまりその場に倒れ伏した。ヴォルカの口からは食いちぎった肉片がぶら下がっている。
「獣化するのは久しぶりだぜ……」
ヴォルカの身体はほんの一瞬の間に驚くべき変貌を遂げていた。
その身体はヒトの身体と同じ作りだが、少し前まで素肌だった部分は獣の体毛に覆われていた。また、その手先には爪が伸び、人間の柔らかい肉など容易く引き裂けるような鋭さを宿している。極めつけはその顔面で、最早ヒトとしての面影は完全に消え去り、狼と言っても過言ではない獰猛そうな犬面へと変わり果てていた。
ヴォルカは犬の目でカルロスを見下ろすと、肩から引きちぎった肉片をそのまま咀嚼し、飲み込んだ。床に倒れるカルロスは、脂汗を流しながら苦悶の表情を浮かべる。
「じゅ、獣化ってなんだ……!?」
「お、俺は知らねえっ!!」
「俺は少し知ってるぞ!!」
壁にへばりつく客たちが口々に言い合っていると、その中の一人が「獣化」について語った。
「最近はできる奴は少ないらしいけどよぉ! 獣人の中には『獣化』って言って、あんな風に好きな時に自由に先祖返りできる奴がいるらしいんだ……!!」
その言葉を聞いて、周りの人間もやかましく騒ぎ立てる。
「そ、そうなのか? そんなの見たことも聞いたこともねぇや!!」
「待て、あっちにいるヤッカもそんな感じのこと確かできなかったか!? あいつ怒るとたまにちょっと毛深くなって、爪も伸びたような……」
「いや、だけどよ! そこの奴みたいに獣っぽくはならなかったぜ!」
その会話を聞いて、ヴォルカはフンと鼻を鳴らした。
「今の獣人の大半は『獣化』の能力を失くしちまったんだよ。出来たとしても、そのヤッカって奴みたいに中途半端な獣化しかできねぇ。俺みたいに『完全獣化』が出来る奴は一握りだろうよ」
ヴォルカがそう言って睨むと、壁際の客たちはその恐ろしさに震え、黙りこくった。
「さて……と」
ヴォルカは足元で悶え苦しむカルロスを見下ろした。
「カルロスさんよぉ。お前さんとやり合うのが楽しくてつい獣化しちまったぜ。しかし、こうなっちまったからにゃあ、もう対等な殴り合いはできねぇ。一方的な、獣の蹂躙だ」
ヴォルカは口の端を吊り上げ、獰猛な笑みを浮かべる。
「寂しくなるが……そろそろ終いにしようや」
「アイイイイイッ……ヤッッッ!!!!」
チャンと呼ばれる細目の男が鎖を振るうと、猫獣人のヤッカと中年労働者のダントンそれぞれ目掛け、木製の錘が精確に襲いかかる。
「うわっ!!」
「おおおおおおっとぉっ!?」
ヤッカがしなやかな跳躍でこれを避ける一方、ダントンは反射的に屈んで辛うじて錘を避ける。
「ダントン、無理すんな! 『ギフト』持ってても荒ごとには慣れてないだろ!! こいつは俺一人でなんとかするから!!」
「しゃらくせぇっ! 俺が勝手に無理してんだ! 若造は黙ってろ!!」
チャンは二人の会話を聞いて鼻で笑った。その頭上で棒でも回すかのように、二つの錘を回転させている。錘が空気を切り裂く音が周りに撒き散らされる。
「素人が。生兵法で反抗するナ。お前達、ワタシには勝てない」
「やってみなきゃ……」
ヤッカの手先に鋭い爪が生え、その素肌が薄い獣の体毛でざわざわと覆われていく。
「わかんねぇだろうがっ!!」
まさに猫の動きのような素早い跳躍で、ヤッカがチャンに迫る。
「イヤァアッ!!」
チャンは短く叫びながら、遠心力に乗せた錘をヤッカに向けて飛ばす。ヤッカは咄嗟に跳躍して避け、頭上からチャンに飛びかかる。
「フンッ!!」
チャンはそれを予測し、もう一方の錘を空中にいるヤッカに向けて飛ばす。当たるかに思われた瞬間。
ヤッカは何もない空中で、透明な何かを蹴ったかのようにして軌道を変え、チャンの攻撃を避けた。チャンの後ろに回り込み、その爪を振り下ろす。
「クォッ!?」
チャンは咄嗟に、後ろ手に鎖を張り、辛うじてヤッカの攻撃を防ぐ。
「ちっ!?」
ヤッカは爪の攻撃が不首尾に終わると、すぐさま飛び退りチャンから距離をとる。
「お前、面倒そうな『ギフト』、持ってる」
「おおっとぉ! 俺を忘れんなや!!」
ダントンはその辺に残っていたジョッキを片手で掴むと、勢いよくその中身をぶち撒けた。
すると、中に残っていたエールがビュルンと鞭の様にしなり、チャンに襲いかかる。
「クッ!?」
チャンはそれを屈んで避けた。壁に当たったエールの鞭が、大きな破裂音をたてて爆ぜる。
「おいダントンッ!? 今のは俺にも当たる所だったぞ!!」
「うるせぇヤッカ!! てめぇなら避けられるだろ!! 黙って避けろや!!」
大声を上げながらダントンはコップを掴む。
すると中に入っていた水が空中に浮かび上がり、弾丸のような速さでチャンに向かって飛んでいく。
チャンはそれを横に避けながら錘をダントン目掛けて振るった。
「うおおおおっ!!」
ダントンは頭を抱えながら床に這いつくばる。その頭上を薙ぐように錘が高速で通り過ぎ、近くにあったテーブルを破壊する。店の入口に退避していた客たちが、すぐ側で起こった破壊に悲鳴を上げる。
「『空中跳躍』に『液体操作』ネ。覚えたヨ」
チャンは酷薄な笑みを浮かべながら、ヤッカの方を向いた。
「知ったからどうした!!」
ヤッカが攻撃せんとし、チャンに猛烈な勢いで迫った。
ヤッカの爪攻撃をすんでのところでチャンが避ける。さらに追撃を加えようとするヤッカを、チャンは頭上に大きく跳躍してかわす。
ヤッカはこれを好機と見て、チャンに飛び込んでいった。チャンは「シッ!」と短い呼気を吐きながら錘を飛ばしてきたが、ヤッカは空中で跳躍してこれを避ける。チャンは空中ではもがきようが無いはず。
「おおおおおっ!!」
ヤッカが気合の雄叫びを放ちながらチャンに迫り、その爪を振り下ろした。
チャンはフッと笑うと、まるで鉄の棒を掴んだかのようにくるりと回転し、ヤッカの爪攻撃を避けた。そして攻撃が空振ったヤッカにその背後から強烈な蹴りを放つ。
「うぎゃあっ!!」
ヤッカは悲鳴を上げながら墜落し、下にあったテーブルにしたたかに身体を打ち付ける。テーブルはその衝撃に耐えられず、激しい音を立てて壊れた。
「ちくしょうっ、なんてこった!!」
ダントンが歯ぎしりするような表情で床を拳で叩く。周りに転がった皿やジョッキが軽く音を立てて跳ねる。
「奴も『ギフト』持ちか!!」
ダントンの視線の先には、投擲された軌道のまま固く固定された鎖に掴まるチャンが居た。その鎖はまるでぐにゃぐにゃに曲げられた一本の鉄の棒かのように、揺らぎ無くしっかりとチャンを支えている。
「お前達、馬鹿か? 大勢に囲まれるの分かってて、ノコノコやってくる弱い奴がいるわけ、無いネ」
ヤッカが痛む身体を、近くのテーブルで支えながら立ち上がる。
チャンは鎖の固定を解除し、床に降り立つ。鎖の先の錘が、まるで鎌首をもたげる蛇のようにヤッカに向けられる。
「……鎖を自由に動かせるってところかね……」
ダントンが床から身体を起こし、身構える。
「ワタシ、自分の居た国でも戦闘のプロ。お前達、勝ち目ないネ」
チャンは凄惨な笑顔を浮かべる。その手からジャラリという鎖の音が鳴り、双頭の蛇がヤッカとダントンを睨んだ。
アレン達とマティアス一味の因縁の始まりは
https://ncode.syosetu.com/n9717fz/20/
をご参照ください。
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