日常が崩壊した夜
シャロン氏が宮殿から出てきた。その重苦しい表情が、王との対話が思わしくなかった事を雄弁に語っていた。
「……例の墓地まで行ってもらえるか」
シャロン氏は開口一番、アレンに告げた。アレンは「承知しました」とだけ言い、馬車を出した。
ラ=ガルディエンヌ教会の墓地で、再びシャロン夫人の墓参りをすると、シャロン氏は馬車に座り込み、無言で地面を見つめていた。
「芳しいものではありませんでしたか」
アレンは馬車の横に控えながら、何をとも言わずにシャロン氏に問いかけた。
「ああ……アレンくんも察しているとは思うが」
シャロン氏は地面を見つめたまま語る。
「陛下に『本』の返却を迫られた」
アレンの危惧したとおりだった。シャロン氏は辺りを見回して、周りに人が居ないことを確かめたあと、両手で顔をこすりつつ話した。
「例の刺客は、やはり陛下が差し向けたものだった」
「そうでしたか……」
ある程度予期していたことだったので、アレンも大きくは驚かったものの、重たい気分になることは避けられなかった。
「陛下は口では国家の利益のためと言っていたが……無礼を承知でいうが、あの男はそのような殊勝な心がけなど持ち合わせぬ人間だ」
シャロン氏の口ぶりには王に対する微かな侮蔑の感情が入り混じっていた。
「返却を迫られたとは言ったが、その実は脅迫だった。暗に、カロルのことも確保するという旨の話もされた」
「カロルさんも!?」
その言葉を聞き、アレンは胸の動悸を抑えられない。
「私は……それでも抗ってしまった……娘を引き合いに出されてもなお……」
シャロン氏は沈痛な面持ちで頭を抱え込んだ。
「あの男は国王だ。しかし性根が腐ってる。そんな男に万が一でも『世界樹の本』と娘が渡ってしまえば、この国はどうなるか分からない……いや、『本』の記述が正しければ、この世界すら……」
アレンはシャロン氏の痛みを分かち合いながら、静かに聞いている。
「仮に『本』を渡したとしても、カロルのことも見逃しはすまい。しかし……これで本当に正しかったのだろうか……」
力なく俯くシャロン氏からは平素の威厳はなりを潜め、その大柄な身体は哀れにも小さく見えた。
アレンは夢男の言葉を思い出していた。癪にさわる思いはあるが……。
「全てを持ち出し、逃げてしまいませんか? シャロンさん」
アレンはシャロン氏を見上げながらそう提案した。
「確かここ数日のお話の中に、シャロンさんの別宅の話があったかと思われます」
アレンは記憶を探りながら話した。
「それでもいずれ追手はやってくるとは思いますが……今のように首都の近くに居るよりかは幾分ましかと思います」
シャロン氏は重たい疲労に頭をたれながら、沈思黙考した。
「そうだな……それもいいかもしれん。どちらにせよ、王室侍従長としての仕事は最早務まらん。首都から遠く離れてしまうのも良いのかもしれない」
シャロン氏は力なく同意した。
「今日、王と対話した際、『特務機関』とやらに引き合わされた」
「特務機関!!??」
アレンは背筋に怖気が走った。夢男との会話が思い起こされる。
『特務機関という特殊工作員の組織なんですけどね、それがシャロン邸を狙っているようですよ』
アレンに差し向けられた手のひら。
『そんな有象無象とは一線を画す、特殊部隊ですよ』
チッチッチッ。
『守ってくださいね。私はそれを望んでいます。カロル嬢もね』
燕尾服の裾が翻る。
『いい夢見れるかな?』
後には夢男の笑みが残る。
――――。
アレンの沈黙には気付かず、シャロン氏は話を続ける。
「特務機関とは王直々に創設された特殊部隊らしい。今後はそいつらからも狙われるだろう」
アレンはその言葉に一人震えを抑えることが出来ない。
夢男のことをシャロン氏に告げるべきだろうか? しかし、それを喋ったところでどうなるのだろう? 夢男からの情報は既にシャロン氏も知っていることだった。むしろシャロン氏の精神的負担を増やすばかりではないだろうか?
「アレンくん」
シャロン氏は地面に向けていた視線をようやく上げた。
「君はどうしたいね?」
話を振られたアレンは、その苦悩の泥沼から意識を引き上げ、シャロン氏の質問に対峙した。
「どうしたい、とは?」
「これからも護衛を続けるか、否か」
シャロン氏は淀んだ瞳をアレンに向けた。
「君は突然大事に巻き込まれた外国人だ。このような外国の、しかも王族が絡んでくるいざこざの渦中に引き込まれるのは不本意だろう。……それでも、私としては」
シャロン氏は再び目を伏せた。まるでアレンの答えを恐れるかのように。
「君に護衛を続けてほしい。そして『本』を……いや『本』よりも……カロルを守って欲しい……」
シャロン氏の切実な願いを聞き、アレンには否やもなかった。
「勿論、シャロンさんもカロルさんも守りますよ。乗りかかった船ですからね。テルミナ人は約束を最後まで果たします。親父仕込みのテルミナ魂をとくとご覧に入れましょう」
「……ありがとう、アレンくん。君を護衛にできて本当に良かった」
その日初めて見せるシャロン氏の笑顔だった。
その後邸宅に帰ると、シャロン氏は即座に別宅への移住の手配を行った。屋敷の者は困惑したようだが、シャロン氏の指示に迅速に行動した。
忙しそうに奔走する使用人たちの間でカロルは泣きそうな顔で狼狽えていた。
「お父様。これは一体何事なのでしょう?」
シャロン氏の服を掴みながら問うカロル。シャロン氏は最早隠しきれぬことを悟り、カロルに全てを話した。
『世界樹の本』を得たこと。
世界樹という存在について。
『適合者』と言われる者の存在。
メモの記述、『災い』の起こりうる可能性。
調べても結局、詳細は分からなかったこと。
シャロン氏が王城から『本』を持ち出したこと。
そのためにシャロン氏が狙われることになったこと。
そして……。
「私が……『世界樹の適合者』……」
カロルは、あまりの話の壮大さに目が眩んだかのように膝を折った。アレンはカロルを気遣い背中に手を添えてその身を支えた。
「今まで話してやれずにすまなかった。お前を不安にはさせまいと奮闘していたのだが……」
結果的には最悪のタイミングでの告白となってしまった。カロルは極度の不安と恐怖による震えが止まらなかった。
「カロルさん、気をしっかり……」
アレンがそう声をかけると、カロルは肩越しにアレンの顔を見た。純白の真珠のような美しい肌は、今は青白く血の気が引いたような色をしている。
「アレンさんはこのことを知っていたのですか?」
「私もつい最近知ったばかりです」
カロルの怯えるような瞳を見て、アレンはつい少しばかりズルい返答をしてしまった。
あの墓地でシャロン氏から告げられた時から数日は経っている。カロルに隠し事をしていたことについて、結局はアレンもシャロン氏の共犯者であることは変わりなかった。
「そうですか……」
カロルはアレンから目を背けると、常より小さいその背をさらに小さくした。
「それで……アレンは今後どうするのです?」
アレンは、こういうとこも含めて親子は似るものなのだな、と場違いな感想を抱いた。
「私はこれからも護衛としてお二人にお供しますよ」
「だけど、アレンは巻き込まれただけじゃない。恐ろしくないのですか? 私は……」
カロルはぶるりと身体を震わせると、自分の身を掻き抱いた。
「こんなにも恐ろしいと言うのに……」
シャロン氏は悲痛な思いにもはや堪えられぬかのように目を閉じる。
アレンはカロルを勇気づけねばならなかった。
「カロルさん。私も荒ごとには多少慣れています。確かに今回の件は大事ですが、結局は誰かを何かを守ることには変わりありません。ましてや、シャロン氏のような尊敬すべき紳士や」
アレンは勇気を振り絞る。
「カロルさんのような純真で美しいお嬢様を守るのは男冥利に尽きるというものです。どうか私の一世一代の男の見せ場を奪わないで下さい。誓ってお二人を守り通して見せます」
アレンは最後にもう一度「必ず」と付け加えて、口を噤んだ。そしてカロルの反応を待った。
カロルはしばらく動かなかったが、やがてゆっくりと身体をひねるようにしてアレンの手をとった。
「アレンが居てくれて……私は本当に頼もしく……本当に嬉しく思います」
カロルは握った手に顔を埋めるかのように、祈るかのように顔を伏せた。
「まことにありがとう存じます……父と私を、何卒お守り下さい……」
銀髪がレースカーテンのようにカロルの顔を隠してしまう。その小さな背中は微かに震えている。
アレンの手には熱い何かがポタポタと垂れている。
アレンはもう一度、「必ずお守りします」と、カロルの背中に手を添えた。
別宅への移住の準備には丸一日要した。とは言え、持っていく荷物は最小限に留めたため、荷馬車一台分くらいで済んだ。
「不足したら買い足せばいい」
シャロン氏は口ひげをさすりながらそう言った。
連れて行く使用人も最小限に抑え、連れて行かない者に関しては少し多めの退職金を渡し、暇を与えた。また、これまで警備を担ってくれた警官にも「状況が変わったため」と告げ、移住することを伝えた。警官達はどうすべきか自分では判断できず、警部に指示を仰ぐべく全員警察署まで戻ることになった。今や、シャロン邸の人間を守れるものはアレン一人になってしまった。
連れて行く使用人の中にミレイユもいたのが、アレンとカロルのせめてもの心の慰めとなった。
「私もシャロン家に幼少のころからお仕えしておりますからね。移住後もお仕えできるのはとても嬉しいです」
言葉とは裏腹にその手が震えていたことを、アレンは見て見ぬ振りをした。誰だって怖いのだ。アレン自身だって、気を張らなければ思わず叫びそうになる。
皆が皆、自分で自分を奮い立たせながら、これからの生活に立ち向かっていく。
別宅までの道のりは遠く、途中の街で一泊しながら2日ばかりを要した。
別宅は本邸よりも小さめだが、砂色の柔らかい色味を帯びたレンガ造りの邸宅だった。しばらく利用していないはずだが、芝は綺麗に刈り込まれ、玄関への道も枯れ葉一枚無いほど綺麗に整えられていた。広さはそれほどないが、住み心地のよさそうな邸宅だった。
別宅でそれぞれの部屋を割り当てた後、これからの生活に必要な準備を皆で黙々と進めた。
アレンも本宅の時と同じく、邸宅の外部を隅々まで観察した。そして今回は邸宅の内部も充分に調べた。
「とは言え、どこでも出入りできる『ギフト』持ちが居たとしたら、あまり意味がないかもな」
アレンは邸宅の裏庭を調べながら独り言を呟いた。
別宅に移住して3日目の夜。
アレン達は全員中央の食堂に集まり、夕食を食べていた。通常なら主人と使用人の食卓は分けられるのだが、今は全員が同じテーブルを囲んでいる。少数に分散するより多人数が常に固まっていたほうが襲撃者もやり辛かろうというシャロン氏の判断だが、カロルと二人ぽつんと食事を取るのが心細いのだろうとアレンは察した。使用人たちも何も言わなかった。
会話の無い静かな夕食が済んだ後、アレンはカロルの部屋近くの自分の部屋に戻った。何かあった場合にカロルを守れるようシャロン氏が手配したためである。シャロン氏の部屋もほど近い場所にあるが、今シャロン氏はカロルの部屋から少し離れた書斎にこもっていた。
アレンは部屋に戻った後は椅子に座り静かに時を待つ。やがてカロルが寝静まる頃になったらそっと部屋を抜け出して、カロルの部屋の前で一晩中座り込んで番をとった。朝になって日が差す頃になって自分の部屋に戻り短い睡眠をとるという生活をこの3日間繰り返していた。
今夜もアレンはそうしていた。
シャロン氏はこの3日間、夕食後は必ず書斎にこもる。恐らく今回の事件に関して一人思い悩んでいるに違いない。しかし、アレンからすれば出来れば部屋で悩んでほしいというのが率直な思いである。
「何かあってもすぐに気付け無いから困るな……」
アレンは今晩もカロルの部屋の前で不寝番をしながら、そう独りごちた。
深夜。月の明かりが斜めに差す頃。
赤い絨毯の上に人が倒れた。
湿っぽい音が静かな別邸の廊下に響く。赤い絨毯はじわじわと黒いシミで覆われていく。
何者かがその横を通り過ぎる。
後ろには数人の使用人が同じように倒れている。
全く動かない。
窓の格子が影となって床に落ちている。
倒れた使用人はそばかすの浮いた赤毛の女である。
シャロン氏は書斎で苦悩の叫びを堪えるかのように一人背中を丸めていた。
その手には『世界樹の本』が握られていた。握り込む手に自然と力が入ってしまい、指先が白く変色している。
いっそこの『本』を何処かに投棄してしまえばよかっただろうか。
しかし、そんなことをしてもカロルを人質にとられ、『本』を再び取り戻した上で渡せと脅迫されるのは目に見えていた。
「私は……一体どうすれば……」
シャロン氏がそう呟いた時。
書斎の扉が、きーぃ……、と軋む音を立てながら開いた。
その時、アレンは何かしらの異変を感じとった。特に根拠はないが、何かぞくぞくするような不愉快な気配を感じる。館の空気は張り詰めていた。
アレンは咄嗟に書斎へ向かおうかと思ったが、カロルをどうすべきかと、はたと脚を止めて悩んだ。
カロルを危険に晒すかもしれないが、自分がそばに居ないために危害を加えられる方がよっぽど厄介な事態となるため、最終的にはカロルを起こして書斎に向かうことにした。
「カロルさん、起きて下さい」
アレンはカロルの部屋の鍵を開け、ベッドの上で休んでいるカロルに声をかけた。
何度か声をかけた後、カロルは夢うつつと言った状態だったが起き上がった。
「アレンさん? 一体何が……」
「何か館の様子が変です。カロルさんを一人にはできませんので、すみませんが一緒に書斎の方へ向かっていただけますか?」
「!! ……わかりました。お供します」
そういうとカロルはケープを肩に掛け、アレンの後ろに付いてきた。
アレンとカロルは慎重に館の廊下を進み、一階を目指して階段を降りた。館は不気味な程に静まり返っており、昼間の穏やかな空気はいささかも感じられない。
アレンとカロルが書斎へと通じる廊下へ向かうべく、曲がり角を曲がった時。
「っ!!」
カロルが声にならない叫びを発した。
そこには数人の使用人が死体となって転げていた。辺りには濃厚な血の匂いが漂っており、壁一面に血がぶちまけられている。
「カロルさん! 目を塞いで……」
アレンはカロルに自分の手で顔を覆わせると、その手を引きながら書斎の前まで進んでいった。書斎の扉は開いており、部屋の明かりが廊下へとこぼれている。
書斎の扉までたどり着いた時、ふと指の隙間から見えた景色に、カロルは悲鳴を上げた。
「ミレイユ!!」
カロルは信じられぬと言った風にミレイユのそばに膝をつき,ミレイユの身体を起こそうとした。
ミレイユにはほんの少しばかりの温もりが残っていた。
しかしその手足に力はなく、人形のように落ちるに任せている。
瞳は光を失って久しい。
既に死んでいた。
「うあああああああああああミレイユううううう!!」
カロルが悲鳴を上げて泣き崩れたその時。
「ん? 誰か居るのかな?」
部屋の中から声がした。
アレンは素早く動くとナイフを抜きながら書斎に入った。
そこには。
血溜まりに沈むシャロン氏と。
「まだ生きてる人が居たんだね」
「……誰?」
薄い笑みを浮かべる金髪・青目の少年と、黒髪・灰色の瞳をした魔女のような女が、シャロン氏の横に立っていた。
『本』と墓地の話は
https://ncode.syosetu.com/n9717fz/9/
最後に現れた二人に関しては
https://ncode.syosetu.com/n9717fz/7/
も参照ください。
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