悪夢から起きた朝
むせ返るような血の匂いが充満する中、一人の男が叫んでいる。
そこは書斎だろうか。外の月夜よりも暗い部屋の中、高価そうな調度品の数々が赤黒い血の色で台無しになっている。
豪奢な品々の合間には数人の男が倒れ伏しており、既に事切れているようだ。
部屋の中央では一人の黒髪の男が、女を胸の内に抱きしめながら慟哭している。
女はその肢体を力なくだらりと床に落として寸毫も動かない。手先を伝い滴り落ちる血液が、赤い絨毯をより暗い色に染め上げている。月明かりの仄明るい青色が、女のまるで白磁で出来たかのような白く滑らかな肌に落ち、その整った顔立ちをより一層美しく際立たせている。
その口から赤い血が溢れる様ですら、その女の美を飾り立てる化粧かの如き様相である。
「こんなことは、あってはならない……」
男は呻くように呟く。「俺は、必ず君を――」
月の光を映し輝く女の銀髪が、赤い絨毯の上にはらりとこぼれ落ちた――。
ハッとした様子で少女がベッドから飛び起きた。
どうやら悪夢を見たらしく、過呼吸のように荒く乱れた吐息を繰り返している。
穏やかな陽光の差す部屋の中、額に手をやり、どうにか気持ちを落ち着かせようと、深呼吸を繰り返す。気持ちが落ち着いた頃になってようやく、額にやった手が冷や汗にまみれていることに気付いた。桶で水をかぶったかのように全身がぐっしょりと濡れていることを確認すると、汗まみれの体に少しでも空気を通すべく、這うようにしてベッドから抜け出した。
その時、木製の立派な扉がノックされた。少女はどうぞと声をかけた。失礼いたしますと一声かけて、一人の若いメイドの女が入ってきた。
「おはようございます、カロルお嬢様。本日も良いお天気ですね」
と、すぐさま少女の様子に気づく。
「あら……カロル様如何なされましたか? とても具合の悪いご様子ですが……」
「いいえ、ミレイユ。体調は問題ありません。ただ、少し夢見が悪かったもので……」
「そのままではお風邪を召されますわ。少々お待ち下さいね」
メイドの女はすぐさま引き返すと、しばらくしてから水を張った陶器の桶とタオルを持ってやってきた。
カロルと呼ばれる少女の寝巻を手慣れた様子で脱がせると、固く絞ったタオルで丁寧に少女の体を拭いてやった。
「……こんなものでしょうか。拭き足りず具合の悪いところはありませんか? カロルお嬢様」
「いつもありがとう、ミレイユ。さっぱりとしてとても良い気分です」
「それはようございました。……それではこのままお召し物の準備をさせていただきますね。」
ミレイユは朗らかな笑みを浮かべながら、カロルに服を着せる準備を始めた。
「そういえばカロル様、本日早朝よりお客人が訪れになっており、しばらくお屋敷に滞在なさるそうです」
カロルに服を着せながら、ミレイユが言った。
「客人ですか?」
「はい。何でもその御仁は、昨日不遜な輩が旦那様を襲いかかったところに出くわされ、旦那様をその暴漢からお守りになったとか。旦那様はその御仁にいたく感謝なされて、おもてなしされるためにその御仁をお屋敷までお連れになられたそうです」
「暴漢ですって!? 」
まさに寝耳に水といった感じで、驚いた様子でカロルが問うた。
「それで、お父様にお怪我はありませんでしたか!?」
「いえ、その御仁のお陰で旦那様にお怪我はございませんでした。……大変失礼いたしました。まずなによりも旦那様の件を最初にご報告申し上げるべきでした。考えが至らず真に申し訳ありません」
ミレイユが恐縮した様子で頭を垂れると、カロルは気に病むなといわんばかりにかぶりを振った。
「いえ、お父様にお怪我がなければそれでよいのです。それで、その暴漢はその後……?」
「その御仁が暴漢を叩きのめし、警察へお運びになられたとのことです。旦那様はお疲れのためか、ひどく顔色が悪うございましたが、これで一安心だと笑われておりました」
ミレイユはやや緊張した面持ちで事の次第を述べた。暴漢に襲われてしまったことは気がかりだが、父が無事であったことは不幸中の幸いであった。カロルは安堵するかのようにそっと息を吐いた。
「それでは私もその御仁に謝意を述べねばなりませんね」
カロルは朝の悪夢を頭から払うかのように頭を振ると、メイドが開けた窓から入る空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。
カロルは白を基調とした気品を感じさせるドレスに身を包まれると、まずは広間へと向かった。今の時間は父も広間で新聞を読んでいるはず。まずは昨晩の件について話を聞かねば。
広間の扉をミレイユとは別のメイドが開くと、果たしてカロルの父がソファに深々と身を預けながら、パイプの煙をゆったりとくゆらせていた。
「おおカロルや、おはよう」
「おはようございます、お父様」
ソファから身を起こしながら、カロルの父は朝の挨拶の言葉を口にした。カロルの父は確かに広間にはいたが、いつものように新聞を読んでいる様子ではなかった。
「お父様、昨日のことをミレイユから教えてもらいました」
「そうか、心配をかけてしまったようだな。なに、この通りピンピンしておるよ。そこの若者のおかげでな」
そういうとカロルの父はソファから立ち上がり、大きく胸を開くようにして手でその男を指し示した。
そこに居たのは精悍な顔つきをした黒髪の青年で――。
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