八時三十分
おはよう。それか「こんにちは」かな? もしかすると「こんばんは」かもしれない。
平成二十九年、十一月二十日、まだ曙光の射してもいない未明、五時過ぎに私はこれを書いている。だから冒頭は「おはよう」で始めさせて頂いた。最近は寒さも増し、つい先程まで、私は、暖房もつけずにカーペットの上に横たわってパソコンで『耳をすませば』を観ていたものだから、指先が悴んでしまっている。この前書きは指先に熱を取り戻し、これからの作業――作業と言い表したが、しかしそう呼ぶには余りにも軽薄である事柄だということは重々承知であるが――を滞りなく進めるための前準備といっても過言ではないだろう。
冬はその足音を確かなものとして私の住むこの街に近づいてきている。そのせいか近頃はグンと寒くなったような気がする。それは空調の働いているこの宿舎にいても感じる事の出来る物で、私は昨夜風呂から上がった後、寝間着に使用している半袖のシャツの上から一枚薄手の緑色のパーカーを羽織ったのだが、洗濯が終了する三十分と短い間にその寒さとやらは私の体から湯上りの温度をゆっくり、だが確かに奪いつつあり、その事に遅れながら気が付いた私は、急いで生地の厚いパーカーに取り換えた。
そうすることで多少退けた寒さは、けれど刻々と夜が更けていくにつれてじりじりとにじり寄ってきて、遂に私は暖房のつまみを一つ回した。外は寒くても、宿舎においては空調のしたたかな働きのおかげで私は暖房を今日までいれてはいなかったのだが、明日からはつけることになるかもしれない。
地元を離れてから暫くして書き始めた『トワイライト』は話が進むにつれまとまりを徐々に欠き、しまいには読み物としては勿論、私の自己満足としての体裁すら失いつつあった。いや、きっと失ってしまったのだろう。それ故に私はあの作品から今距離を置いている。表向きには、一度プロットを練り直し最初から最後まで必ず書ききってみせるということにしてある。だが、私はあの作品を完成させないかもしれない。そんな予感がしている。もし万が一にでもあの『トワイライト』を再び書き始めたとしても、きっとそれは今まで書いてきた『トワイライト』とは少し違うものになっているだろう。私にとってあの作品を書くということは、浅慮に過去を形付け、そしてこれからの未来を縁取るということに気が付いたのだ。誰しも過去を持ち、そして未来を夢想するものだろう。未来を考えることは、今現在の――十九歳の――私にとって恐怖とイコールの意味を持っている。あてもなく大海原に舵をきりだすようなものだ。一寸先の様子さえ見えない闇の中を手探りで進んでいくようなものでもあり、私は、恥も外聞もなく惨めに腰を折り、幼子のように無防備な両手を地に着き、誰か誰かと助けを求めながら、涙と鼻水に顔を汚して遂には両膝もついて四つん這いでどうにかやっとの思いで進んでいくのだろう。そして耳元で誰かが囁くのだ。その言霊は私の胸中を不安に駆りだたせるはずだ。お前はまともではない。甘ったれのくそやろうめ。堕落の中で生きるのなら、これ以上恥を重ねる前に死んでしまえ、と。ハスキーボイスであるために非常に耳障りなそのどこか聞き覚えのある声は、暗闇の中でひっくり返って死を待つしかない虫の様な私の元に時折訪れては、私の未来により一層の恐怖を見せようとしてくる。
が、結局のところ、未来に対する恐怖とは言ってしまえばその程度の物である。未来を物語るということは誰でも簡単にやってみせることの出来るものであるだろうと私は思っている。少なくとも私の周囲にいる人間は誰もがやってのけた。それが夢物語であるかどうかは問わない。とにかく明日以降の事である。明確である必要はない。寧ろ漠然としている方が自然であるようにも思えてくる。明日買い物に行こうとか。バスに乗って片道三十分程度の道程を本を読むか携帯を弄るか、もしくは音楽プレーヤーにさしたイヤホンの一方を耳にさしておきに入りの曲でも聴きながら無難に過ごし、バスを降りてからは通りから一本外れた道を歩いていつものラーメン屋に行こうとか。その様にありふれた未来でいい。誰にだって明日はある。その中には一年や二年、それ以上先の明日だってある。そうなってくると当然恐怖がつきまとってくる。その場合の恐怖は、恐怖と呼ぶより理性的で保身的な自己と呼んだ方がしっくりくるものだ。誰だって将来に不安を持って当然なのだ。
だが過去を形作るとなると訳が違う。こればかりは誰かと不特定多数を引用することを避けなければならない。過去とは、今現在の私を構成しているそのものであり、私が、私の名前を捨ててしまわない限り、どこまでもいつまでもしがみついて離れないものなのだ。そこに他者が介在する余地はない。誰が何と言おうと私の過去は私だけの物であり、それに意味を与え、私の存在の深淵に並べること事が出来るのは、ただ私一人だけなのである。過去への恐怖はイコール死につながる。満足や後悔と思い出達に名前を与えることはあっても、恐怖、即ち否定は現在の私への否定へと直結する。それだけは避けなければならない。私は『トワイライト』にて過去をどう意味づけようとしていた? 辛いことや嫌なことや後悔だってあったけど、満足はしているよね、と安易に終わらせようとしていなかったか? これは過去の私の否定につながる恐ろしい考え方だ。
最近、実家に冬物を取りに戻る際、使用したエナメルバックの中から小説を一つ発見した。『ヤマハハコの花は今日も咲く』。高校二年生の私が書いた小説だ。内容は至ってシンプル。家族と単純に喧嘩とは言い難い一方的な衝突を起こし家を飛び出した少年、花が恋人である遥と初日の出を見に山を登るその道中と山頂で起きた出来事から、家族と再び向き合うことを決意するという物語だ。
それを読んで、私は、傲慢なことに、今の私が筆を加えるともっと良いものになるのではないのかと考えたのだ。だがそんなことは到底出来はしなかった。
何故か。そんなことは考えるまでもない。
その作品は既に完成していたからだ。
勿論、人様にお見せする読み物としては、てんでダメであるということは言うまでもないだろう。けれど私にはあの作品が、まるで夜空に燦然と輝く一等星の様にさえ思えてしまったのだ。名のない作品だ。きっと誰かが手に取るということは決してないだろう。天地がひっくり返ってこれを書籍化しましょうとなっても、全世界の全ての意志を持った存在がそれを見せてくれと言ったとしても、私は絶対にあの作品を誰かに見せることはしないだろう。あれは私の過去そのものであった。凄惨で残酷なリアルに希望を見出そうと必死にもがいた若い私の一縷の望みだ。それは何よりも尊く、また孤高でなければならない。誰かに上辺だけであったとしても理解を示されてはいけない私だけの秘密なのだ。どれだけの月日が経ち、私が今になっても依然として尾を引き続ける過去に決着をつけることが出来たとしても、あの作品を手に取って読み返せば、私は当時の悪感情のその全容を、その仔細を具に思い出すことが出来るだろう。
過去を意味づけるということ、言葉にしようということはそういうことだ。熟考し、何かの結論を得ることはよくある。その中には過去も含まれている。だが後に残るものとしてきちんと言葉にしたのは、あの『ヤマハハコの花は今日も咲く』が初めてだった。
当時の私がどういった環境の中であれを作ったのかも、また同時に思い出した。毎日パソコンの前に座って、寝食も忘れ、何かに憑りつかれたかのように連日連夜私は作品を作っていた。夜は部屋の電気を消して作業に没頭していた。親にバレないための工夫だった。
完成してからは、家に印刷が出来る環境が無かったため友人に頼んで刷ってもらい、一枚一枚を丁寧に重ねて右端に開けた穴に濃い青色の太い紐を通して、私はそれをレターパックに入れ、郵便局に向かい、局員に手渡した。
思い出す。新学期に入ったばかりのどこか浮ついた放課後、学校に近いデパートでコピー用紙とインクを買い、一緒にきていた友人にUSBと共にそれを渡したのだ。刷り上がった原稿に父の書斎から見つけてきたパンチを持ってきたが、重ねると穴を開けることが出来ないので、二、三枚を重ねて慎重に穴を開けた。全てに穴を開けた後は、百均で購入した紐を丸く綺麗に貫通した穴に通し、高揚感か何かわからないが震える指先でどうにか結んだ。それから急いで郵便局に私は向かった。私はその作品を賞に応募したのだ。
知ってほしかったのだと、私は思う。彼は、当時底抜けの孤独の中にいた。だから誰か他人に助けを求めたのだろう。知ってくれ、わかってくれ、助けてくれ。アレは望みという体のいい意味を与えられたモノであり、その実非力な私が無意識のうちに選んだ現状からの唯一の離脱方法だったのだ。今、私はその孤独から逃れることが出来ているのだろうか。それはわからない。そう容易く結論を出してはいけない。どうにか誤魔化しがきいているだけであって、今にも吹き出そうな悪感情は、まだ私の心の奥深くにあるかもしれないのだ。
先程の底抜けの孤独という表現、これに私は理解を求めない。他人の理解など求めない。その感情に共感するのも、寄り添うことが出来るのも、今となっては私一人なのだ。どこにいても彼は孤独だった。何をしても彼は孤独だった。この事実だけは絶対に変わらないし、変えてはいけない。変わることはない。『ヤマハハコの花は今日も咲く』は、私の過去をそう結論付けた。だから私が忘れない限り、忘れたとしてもまた読み直すことによって、半永久的に当時の苦しみを味わい続けることが私には出来るし、幼い私の逃げ場のない苦痛を慰めることが出来るのだ。名のない一等星は、私だけの名前、そして意味を持っている。どれだけ距離が離れていようと、私にはその輝きを視界の中にはっきりと収めることが可能なのだ。私という存在のその延長線上に確かな質量をもって鎮座しているのだ。
過去を目に見える形で残すということは、そういうことだ。『トワイライト』は間違っている。過去の私が作り出した花という少年が、これ以上間違いを重ね続けることを許さない。愚直で幼い私が手を下さないから、彼の生き写しであり理想であり、そして今の私の過去となった彼が、これ以上過ちを重ねようとすると、しっかりと私の首を締めあげてくる。
花は容赦なく私に告げる。
死んでしまえと。
だから私は『トワイライト』ではない別の作品をここに一つ生み出そうと思う。安直に過去を結論付けるのではない。寧ろ誠実であろうと思えばこそである。もうそろそろで一年が経つのだ。私は、私の中で徐々に薄れつつある過去を消さないために新たに過去を一つ切り取るのだ。
愛犬、弟の死を、私は形にするのだ。
勘違いはして頂きたくないので先に述べておこう。これは私にとって幸せな過去である。だから忘れたくないという思いがある。途中、もしかすると何度か泣いてしまうかもしれない。それでも私は書き続けるし、書き遂げなければならない。一等星の近くに違う星を一つ書きだすのだ。そうすることによって、私は私の延長線上に過去をまた一つ置いて、そして弟とこの命が尽きるまで共にいることを誓おう。
愛する弟をこの手で棺の中に横たわらせ、ごみ処理場の職員に預けるまでの一か月。そしてそれからの一年間。私は君との思い出をここに記そう。
日が昇りきった八時過ぎ。私は私の中に弟の面影を探す。