火曜日の妖精
夏休み、俺は妖精がいるという森に足を運んだ。
場所は国内で冬が厳しいところとだけ記しておく。あまり詳細なことを書くと、あの妖精に呪いをかけられるからである。
そう、俺はその森で、伝説とされていた妖精に出会ったのだ。
これから話すのは、俺が決して忘れることのできない、ひと夏の不思議な体験の記録である。
まず、最初に説明しなければならないのは、動機だろう。なぜ、俺が妖精の森なる場所を目指したのか。
その理由は簡単である。俺は、不思議な場所が大好きなのだ。
小さいころから、好きだった。小学校低学年では、みながかい〇つゾロリを読んでる中、教室のど真んなかで、学校の七不思議的な本を熟読していた。
中学年のころは、みながハリー〇ッターを読む中、ナル〇ア国物語を嗜み、
高学年のときには、みなが中学受験の準備をするなか、ハリー〇ッターを楽しんだ。
ちなみに、中学受験は補欠で合格した。
しかし本の虫にはなったものの、もやしっ子な俺はあこがれの物語のなかに出てくれるような森にはいくことをせず、中学、高校、と虫を見ることなく育ってしまった。
そんななか、転機が訪れた。
なんと、とある金融会社から借金をしていたところ、返済のあてがないといったら、全裸でからだにはちみつを塗られて、地図にない森に放置されたのである。
俺を置いていった山〇孝之顔のおとこは、去る前に、こう言い残した。
「妖精さんが現れるのでも待ってな」
なるほど、どうやらこの森は妖精が出るようだ。いい情報を得た。俺は男に感謝した。男は振り向くことなく、黒塗りの車にエンジンをかけた。排気ガスが顔中に降り注いだ。
目の前に広がるタイヤ痕と、その淵を彩る天然の街路樹を見て、俺は願いがかなった幸せをかみしめた。同時に、口に入り込んだ羽虫をかみつぶしそうになり、吐き気を催した。
さて、どうしたものか、と空を見上げる。木々に覆われ、雲も青空もうかがえない。晴れなのか、曇りなのかもわからない。ひとまず、俺のこころは雨模様である。
昔から読んでいる童話のなかでは、このくらいピンチな状況に主人公が陥ったのなら、救いの手のひとつも伸びるのが定石だったのだが、今回は、異常なことに、なかなか幸福への分岐点が現れなかった。ひとつ前か、もっと前かにあったのを、見逃してしまったのだろうか。
かといって後ろへ戻ることができないのが絵本とは違うところ。顧みるには記憶を当てにするしかない。反省点を記憶の渦から引っ張り出そうとする。しかし、芋づる式に原因が現れてきたので、埋めなおす。
ぶぶぶぶぶぶ。
カブトムシが頭頂部に泊る。
気持ち悪い節の感覚が頭皮を蠢く。これだから虫は嫌なんだ。
夢も目標もない俺だが、早急に手を打って、社会に復帰したい。この状況は、虫嫌いにはよろしくない。帰って、銭湯に入りたい。
銭湯、というワードから、下宿先のアパートを思い浮かべる。
俺が住んでいるのは、ボロい木造アパートの一室である。大家は本業の収入がうまくいっているらしく、家賃回収に頓着がない。そのため、俺は滞納を重ねながらも、日々優雅な生活を送れていた。
そんな楽園に、この春、一人の女学生が引っ越してきた。名は、アサヒ、という。表札でみた。
彼女の姿を見たころはないが、その生活スタイルはおおよそ把握している。なぜなら、彼女は俺の部屋の隣に住み着いたからである。生活音が駄々洩れで、いつ家にいるのかがはっきりと察せてしまう。壁に耳を当てるまでもない。
俺のなかで、彼女は、黒髪の乙女である。ぼろのアパートに身を置いているが、ほんとうは清純な女性なのである。
真相は、いずれわかるだろう。それまで、彼女には俺の妄想のおもちゃになってもらおう。
「…………」
のどが渇いた。
人をおもちゃにして遊んでいる場合ではない。からだが、死に瀕している。
はちみつは顔まわりにもべっとりと塗られたのだが、粘着性のある液体のため、なかなか口に垂れてこない。たまにデロロン、と口の隙間から入り込んでも、その味は甘すぎて好みではない。
最底辺な位置にいて、このような贅沢は抜かすあたり、俺には危機感というのが足りない。昔は宿題をやってなければ、焦りに焦り、しまいには泣いて親にしがみついたものだが、いつしか八月三十一日の日めくりカレンダーが、ただの紙切れになってしまった。
失敗しても、いいか。そんな考えの根底には、欠落した自己愛がある。
俺が大変なことになっても、別に、いい。どうせ、自分事。他人以上に興味がない。
最近では、夜中に部屋の鍵をあけっぱなしにして眠るほど不用心で、自分がどうなってもいいと思っている。
ひねくれた性格に育ってしまい、俺に大学進学の資金を提供してくれた亡き母に、申し訳なく思う。身を粉にしてはたらき、こんなぼんくらダメ息子を世に放ってしまうとは、彼女は何と憐れなのだろう。これはもう、三大悲劇に匹敵するものが書けてしまう。
さて、いまは何時だろう。森の薄暗さは、時間がいくらたっても変動しない。太陽の位置や日差しがあてにならないここでは、時刻を知るすべがない。
せめて、一筋でも光が届いていれば、朝なのか夜なのかくらいはわかるのだが、望めない。暗いものは暗い。日陰者は一生日陰者。俺はこのまま、ここで虫さんとともに朽ちるのか。
羽音のうるささには慣れてきた。世の中の喧騒と比べれば、大したことはない。
隣の女学生が夜使かうドライヤーの音が、唯一許せる騒音である。そのほかは無音の世界であってほしい。
去年か、もしかしたらもっと前かもしれないが、アパートの近くに保育園ができた。子どもの声は大声だが、癇に障らない。ただし、そのお出迎えウーマン、ことママ友合唱団の音域が俺の耳には合わないのだ。
趣味でもない音楽鑑賞をはじめ、そこそこいい値段のイヤホンを買い、俺は耳をふさいだ。グッバイ、素人合唱団。
先日、イヤホンをしたまま、コンビニに向かっていると、車に轢かれそうになった。危ないので、歩きスマホとイヤホン移動は、控えるようにここに警告しておく。使うべきは就寝前の数時間、もしくは眠りながらだ。
ざわわ、と葉の揺れる音が鳴り渡る。風が吹いただけだが、この舞台では、妖精の一匹も出てきそうだ。
妖精の数えかたが一匹でいいかの議論は置いておいて、寒気がしてきた。
それはそうだ。俺は、はちみち全身コーティングとはいえ、薄着、もとい全裸なのだ。風が吹けば風邪になる。寒さは全裸の一番の敵である。
北風の野郎。悪態をつく。太陽はもっと頑張れよ。北風になぞ手間取っていてはいかんぞ。北風は四方向のなかで最弱。南、東、西がバックで悠々と控えているのだ。
と、ここで、違和感に気づく。前腕の、手首の上あたりがひと際あったかい。
「……ここってそんなに温かくなるんだっけ?」
独り言をつぶやくと、虫が飛んで火に入ってきたので、吐き出す。
……あまり、気にしなくていいか。温かいのはいいことだ。
小さな幸福に包まれ、俺は目をつぶる。
「起きてください」
死ぬかと思った。
人から話しかけられるのはいつぶりだ。驚かすんじゃない。さらにこちとら寝起きだ。耳元にそんな声量は、似合わない。
ぱちぱちと目を開け閉めしながら、意識を現実に引き戻す。
舞台、森。暗い。甘い。べとべと。はちみつ。虫。カサコソ。
で、目の前には、少女。
ひとつ、増えている。
クルリとした目で、少女は俺を見つめる。
「どなた、です……?」
自分よりはるかに年下であろう少女に敬語で話しかける。なにしろ、眠りから覚めたら、突然現れた謎の人物だ。怖い。下手に出るほかない。
少女の外見は、幼さと凛々しさの中間くらいであった。大学生といったところか。まだ大人にはなりかけで、親しくなった虫さんたちの表現でいうならば、羽化直前、か。
森ガール。そんな言葉が頭に浮かぶ。少女の服装は、森ガールのファッションと酷似していた。レースにまみれつつも、落ち着いた印象を与える服。ただし、そんな軽装でこの森の深部まで来たというのは信じられないので、何らかの機能がついた、アウトドアファッションであると推測する。
いや、もしかしたら。彼女は妖精、なのではないだろうか。森ガールが純正森ガールである可能性、あるのではないだろうか。
軽装に見えるあの服、実際軽装であるが、彼女にとっては問題ない。なぜなら妖精だから。彼女が歩けば、森の主が気を使い、枝を動かし、道を作る。ゆえに、彼女の肌には擦り傷ひとつつかず、森のなかを散歩できるのだ。
なんて、な。そんなことはないのはわかっている。人だ。どうせ。だが、人だとしても。どうしてこんなところにいるのか、その疑問は湧く。
一体、この少女は何者なのだ。
少女はがざこそと、スカートのレースの間をまさぐる。
「はい」
取り出したのは、小型の機械あった。
「……あなたは、妖精さんですか?」
ハイテク妖精な可能性に俺は賭ける。ファンタジー世界の住人が、機械に頼ってはいけない道理はない。奴らだって、弓矢とか、剣とか道具は使っている。その延長線上にあると思えば、不思議はない。
少女は俺の質問に首を傾げる。
「妖精?……ある意味、そうかもしれませんね」
絶対に妖精ではない奴がいうことを言い出した。
なにものなのか。不思議ちゃんでも、こんな深い森には出現しない。度を越えたヤバいやつか?
探る目つきをしていたせいか、少女にいさめられる。
「そんな怖い顔をしないでください。私はあなたを助けに来たのですよ。これで探したんです」
少女は機械を掲げる。よく見ると、マイク?のような穴が開いている。
「…………」
俺は手首を見る。
あたたかい。
まさか、これは。
……いつ?夜?部屋の鍵は開いていた。イヤホンしたまま寝ていれば、音に気が付くことはない?つまり、これは……。この、少女は……。俺の腕の中に……発信機のようなものを、埋め込んだ?
「あなたは、私のストーカーですか?」
「……あなたを見守る、妖精です」
にこり、と笑う少女。
少女は俺を解放してくれた。俺たちは、安全な道を通り、森を出た。
そして、アパートへ着き、俺たちは別々の部屋に帰る。
この一連の出来事、警察には話していない。
妖精に呪いをかけられるのは、ごめんだからだ。
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