第八話
22
郁弥は半ば手出しを諦めてただひたすらクーガを追走し続けた。もしかエミリオの装備が暴走するようなことがあれば翔子がターゲットになる以上、もう迂闊な動きはできなかった。ただ郁弥のマシン、このエミリオが本当の殺人マシンの同族だと証明できたことは不幸中の幸いだったと思う。エミリオはどこにも具体的なダメージを被っていなかった。ボディは勿論だが、それにしても信じられないのはそのタイヤだ。ウエイト・コントロールの影響下で走行する車と路面を結びつける唯一の接点であるタイヤが、どんな状態でグリップし、どんなにして自分自身を護っているのか。それは想像もつかないほど高度に煮詰められた技術の結晶だといって良かった。
デバイスの作用しない状態から支えなければならない重い車体に抗し得るだけの強さと、ウエイト・コントロールによって機械的なロスを最小限に抑え込まれたエンジンの強大なパワーを有効に費やすパフォーマンスとを兼ね備えることが要求されたタイヤには、コンマミリ単位で詰められたデバイスのセッティングと、エアとウレタンチューブを併用するクッションに支えられた強いトレッドが与えられていた。リベラライザーに体当たりを許容する戦闘力と安定性、ライダーのコントロールを可能にする軽快感、そして俊敏且つ節度のある足まわりの実現のために、マシンの状態に応じてアナログ的に進行するデバイスを中心としたシステムが構築されていたのだ。各車輪から路面に伝えられる荷重、バネ下、そしてホイール、タイヤ自身のウエイト、細かく分けてコントロールされるデバイスの作用範囲は、時には接した路面にまで及ぶ。妥協をゆるさない最強のバイクへの情熱がそこにあった。正しく、リベラライザーは今、夜の東京で最強のマシンだったのだ。
郁弥の前を走り続けているバイクは、郁弥がおとなしくなったのを見てとって緊張を幾分和らげていた。郁弥にはそれが酌に障ってならない。ただそれは同時に捕らわれの状態にある翔子の身の安全を意味することに近かった。郁弥はずっと黙っていた。沈黙することが精神のバランスを保つために必要だったのかもしれない。クーガは淡々と走り続ける。意味のない攻撃的な走りは見せなかった。郁弥は彼が目的をもって翔子をさらったことを確信していたがそれが何であるのかまではとても考え及びそうになかった。高峰が自分にこのバトルマシンを与えた理由も理解できなかったが、彼のすることを理解しようなどという気は郁弥にはなかった。郁弥にとって高峰は違う種類の人間だった。だが翔子に危害を加えようというのならば別だ。理解などいらない。地の果てまでも追いかけて全力で戦うまでだ。
クーガは新宿から首都高に乗った。夜間の料金所の突破など雑作もないことだ。そこに引っかかっていた車の列の横を強引に突っ込んでいったバイクは狭い隙間で柱と車を諸共に抉り、押し潰した。郁弥の心臓は轟音を上げて縮み上がったが、どうやら翔子は無事だった。ライダーが抱え込んで身を引き寄せたからだ。なす術のなかった郁弥は苛立ちに喚きながらその後を追う。エミリオは荒々しく障害を踏み潰し、スクラップになりながら伸し掛かっていた車の向こうで、料金所のボックスが情けない悲鳴を上げた。
東京からは離れない。空いた本線を都心へ進路を取る。防音壁に囲まれた谷間で照明の映り込みがあとからあとからシールドの上を滑っていく。一五〇を超えようとしていたスピードがすっと落ちた。気が気ではなかった郁弥は慌ててブレーキを握りながらも安堵を覚えた。それはマシンへの信頼だ。リベラライザーは激しいブレーキングでも殆ど前屈しない。スイングアーム式のステアリングシステムと優れたアライメント・コントロール機構のためだ。慣れきっていない郁弥は若干速度を落としすぎた。間隔が開いた先で、クーガが前に見えていた大きなトレーラーに近付くのを見てとった郁弥は何が起こるか分からない不安に駆られる。待ちに待った筈のクーガの動きだった。
トレーラーを破壊するつもりではない。翔子の髪が走行風にあおられて激しく散るのが見えた。急なスロットルの開閉でちょっとギクシャクしてしまったエミリオを、クーガを挟んでトレーラーの側方へ進めたとき、意識を取り戻して力なくも抵抗しようとする彼女をクーガのライダーが両腕で差し上げ、開かれたトレーラーの運転席に放り込むのを認めた。肝心のシーンに間に合わなかった郁弥は力一杯舌打ちをした。
「畜生っ! 」
クーガをはね飛ばしてでもトレーラーに接触しようとする郁弥の前で化け物は立ちはだかった。郁弥の気迫は衰えはしない。郁弥はエミリオを横様にぶつけた。
物凄い衝撃だった。速度差が殆どないというのにだ…。 ぶっ飛んだエミリオは道路のセンターを分ける分厚いガードレールを突き破って反対車線に飛び出し、再び戻るまでに来あわせた二台の対向車線の乗用車を血祭りに上げた。クーガはブレーキを踏んだトレーラーを辛うじて躱して防音壁に接触しけたたましい音を上げる。クーガを追うように走り過ぎたトレーラーの後ろで、台座を失った照明のポールが次々と道路に身を投げ出した。
弾きあった二台のリベラライザーはまたもとの位置に戻って互いに相手を見つめた。トレーラーは追走している。郁弥は手をそっとボディに当てた。信じられないほどの衝撃にマシンを覆う鋼板がまだ細かく震えている。あきらめるわけがない。
少し後ろへ下がった郁弥は加速度をもって斜め後ろからアタックをかけた。今度はクーガそのものがターゲットだ。接触したボディの間で火花が飛んだ。クーガはまだ沈まない。郁弥は繰り返し仕掛けていく。何度目かの体当たりを敢行しようとしたときだ。激しい風音に混じって頭の上から聞き覚えのある大声が降ってきた。
「はっはっはあ! 流石だ、多騎君! 」
虚をつかれて郁弥のアタックは中途半端になり、衝撃負けしたエミリオははね飛ばされるかたちになった。再び中央線の向こう側を見てしまう。ガードレールの土台になるコンクリート・ブロックに車体を沿わせて阻止しようとしたがあまり意味がなかった。
少し距離を置いて郁弥は運転台を見上げた。ハンドルを握ってワイルドに気取った高峰がそこにいた。ことの起こりの張本人だった。
「彼女を返せ! 」
「いいとも、ただその前にショーを見せてくれよ」
「何だと! 」
郁弥はあまりの怒りに歯を食いしばった。
「ショーだよ、ショー。クラスメート同士の対決だ」
クラスメートだって?
はっとした郁弥はクーガに視線を投げた。ライダーはガツンとヘルメットを投げ捨てた。風の中で汗に塗れた短髪が波打った。
有坂だった。
敵意のこもった目だった。
ちっくしょう… 郁弥は納得した。こいつなら何だってやりかねない、何をやったって知ったこっちゃない。だが今度ばかりは踏み殺してやる。貴様はもう許さない。郁弥の目は燃え上がった。
トレーラーは後ろへ下がった。有坂は身構えた。
「上等じゃねぇか」
腹を決めるまでもなかった。郁弥は生まれて初めて明確な殺意を持った。
翔子は二台のオートバイが激突を繰り返すのを高いトレーラーの窓から見ていた。見たかった筈もない。それは目を背けたくとも背けられない恐ろしい光景だった。
「素晴らしいパフォーマンスじゃないか、君は幸せものだよ、嬢ちゃん」
運転席の男は心から嬉しそうに笑っていた。その顔がコックピットに所狭しと並んだモニター画面に照らし出されてどこか偏執的な、不気味な印象を与え、翔子は生理的嫌悪を覚えた。
だがどんなにあがいても自分を拘束具のシートに縛り付けるベルトから逃れられなかった。両手は手首を革バンドで繋がれている。彼女は自分の非力をどんなにか悔しいと思っただろうか。逞しい男は言った。さも楽しそうに。
「賭けようか、この勝負、有坂が負けるよ」
二の句が告げなかった。
「よ、…よっくそんなことが! …いけしゃあしゃあと! 」
ふふんと高峰は鼻先で笑った。
「あの多騎ってのは凄い奴だ。基本的に臆病なのが玉に傷だがな。だからこそあいつにあのマシンを預けた。不足はない筈だ。癖は強いが戦闘力は申し分ない」
翔子は穴のあくほど高峰の顔をじっと見ていた。男は喋り続ける。よほど上機嫌なのだろう。
「あいつが本当にエミリオを乗りこなしたら、そうだな、勝てるのはリッキぐらいかな。ほらっ! 見たかい? 素晴らしいアタックだ。スピードの乗りが良くなければウエイト・コントロールの本当の破壊力は引き出せないんだ。奴はよく分かってる。あれこそ本能だな。有坂の形相が目に見えるようだよ。そうだ、嬢ちゃん、終わったら君に頼みたいことがあるんだよ。
多騎君のためになることだ。やってくれるね?」
翔子は返事をしなかったが、高峰はもともと憑かれたように激突を繰り返すリベラライザー同士の戦いに夢中でそんなことにはおかまいなしだった。
郁弥はマシンをコントロールすることなどもう考えてはいなかった。
ただ「クーガを撃墜する」。
頭にあるのはそれだけだった。それが有坂を殺すことになることは承知の上だった。有坂をターゲットに、右から、左から、翻弄するようにアタックをかけ続けた。
首都高は何故かクリーンだった。正確に言えば道路のセンターに一本道が通っていた。それなりの交通量だった筈の時間帯だ。大型車も乗用車もスクラップとなって道の脇に千切れ飛んでいた。まるで誰かが抉り取って行ったかのように。
リベラライザー同士の体当たりは気迫に劣った方のライダーの身体に強いダメージを与えた。有坂はかなり参ってきている筈だった。郁弥は容赦なかった。狭いトンネルの中だろうが高い橋の上だろうが、翔子を奪った腕をもぎ取るまで攻撃を敢行した。エミリオはまるで郁弥の意志に賛同するかのようにアクセルワーク一つで身を躍らせる。切り返しのタイミングなんて考えなかった。グリップというその言葉の定義を考え直さなければならないほど従前と異なる関係を生むために本質的にタイヤの置かれている状態をつかみにくいシステム構成には、その思いきりの良さが大きく走りの限界を高める足がかりになった。経験が無い分、勘で走っていたといえよう。それぐらい、郁弥は乗れていたのだ。蝶のように舞い、蜂のように刺す。実際はもっと過激なものだったが文字通りそんな感じだ。
一方クーガの上の有坂は唇の端から赤い血を流していた。拭うことも忘れた彼の目にはともすれば恐怖が強く映っているようにみえた。彼を支えていたのは何だったろうか。それは未来への希望だった。彼の志す未来。衝撃を受ける度に次第に砕けそうになる意識の中で有坂良司は必死の反撃を試みる。最初から、多騎の方がバイクの扱いに秀でていることは分かっていた。有坂だって本当は彼を引っ張り込みたくはなかったのだ。だが多騎を望んだのは高峰の意志であり、彼はそれに逆らうことができなかった。リベラライザーが欲しかったからだ。リベラライザーある限り、彼は最強になれる筈だった。設定次第でウエイト・コントロールはライダーの身体にまで影響を及ぼす。軽いとはいえ片手でいいように翔子を扱えたのもそのためだ。走ってさえいれば、どんな史上にも自分らより強いものはいない筈だったのだ。
だがこのパワーの差はなんだ!
有坂の困惑は感情の激流と戦っている。エミリオは強い車だったが、クーガだってけっして引けは取らない。訓練を積んだ自分の方が圧倒的に有利な筈だった。悪夢だった。多騎に対する恐れが、力関係に拍車をかけていたのかもしれない。
しかし、多騎はリベラライザーの力をまだ知らないのだ。
幻惑の意識から、はっと正気を取り戻した一瞬を逃さず、有坂はトリガーを引いた。
テールに積まれた投的弾だった。続けざまに三発。
郁弥の心臓は目の前の爆弾に大きく収縮した。
カシリと音を立てて路面に跳ねた爆弾は立て続けに光に変わって鉄片と硝煙を巻き上げた。
高峰は慌ててハンドルを切ったが、破片を咬む音がタイヤの軋みの中に混じったのに気付いて舌を鳴らす。だが視線は逸らさなかった。彼は満足している。エミリオは走っていた。
距離が詰まっていたのが幸いだったかもしれない。ウエイト・コントロールの恩恵を離れた爆弾は郁弥の背後で炸裂し、テールの辺りに小石が跳ね返ったような音がしたきりだった。郁弥は振り返ってカウルを見たが、黒いボディの上を滑っていく光の映り込みを僅かな痕跡が歪めただけだった。
大したもんだ、郁弥は薄笑いを浮かべるが少しクーガに近付きにくくなったのは事実だった。
体当たりの止まった間に安定を取り戻したクーガは、ウインドシールドの中で身を低くした有坂を乗せて全開の加速に移ったところだ。バックモニターに注目する有坂は射角に入ったらばすぐに仕掛けて来るつもりだろう。そのために速度を上げるのだ。エミリオを捉え易くするために。
郁弥はクーガの動きに気を払いながら丁寧にアクセルを開けていく。体当たりを敢行するべく三速まで落ちていた変速器を六万回転を目安につなぎ変えていった。多少シフトがラフであっても、超高回転のビッグエンジンはそれを難なく受け入れた。僅か二五〇CCのTZでは不可能だったことだ。郁弥は何リッターあるのかも知らなかったが、エミリオの心臓は多少回転が落ちてしまってもパワーの出方が安定しているためにギクシャクしにくかった上、車重のコントロール機能と相まって余力のあるトルキーなエンジンが、五〇〇〇回転も回っていれば俊敏な立ち上がりを見せたからだ。
単純な計算式では、エンジンの出力は回転数に比例する。早い話普通のバイクに比べてざっと一〇倍近いパワーが出ている筈だった。仮に排気量を一リッターとすると、現代のスポーツバイクは二〇〇馬力をクリアする。ざっと二〇〇〇馬力というわけだ。冗談じゃない。後ろを見ると高峰のトレーラーはすでに豆粒ほどに小さくなっていた。あまり離してしまいたくはなかった。あれには翔子が乗っている。
高峰とあえて合流した有坂だって同じだった筈だが、彼は今なりふりかまっていなかった。文字通り死に物狂いだったのだ。
クーガの真後ろに位置しないよう、郁弥はラインを慎重にずらしていく。後輪のステアリングが有効に働いて全開走行中の進路変更にも抵抗はない。今の目で大きなカウルの形状を見れば一目瞭然だったように、体当たりを考慮して設計されているリベラライザーには当然装甲車並のシャーシが与えられていた。それはリッタークラスのビッグエンジンの一〇倍という大パワーをもってしてもまだパワー負けする程のものだった。郁弥が初めて経験する異次元のマシンの暴力的な加速にも怖けることのなかったのはこのシャーシの強度の助力があったことが大きい。お陰でエミリオに対して予想外に走らない印象を郁弥は持っていた。しかしセンサーは感性を持たない。速度計はいとも簡単に二〇〇キロに達する。そこへ来てようやっとマシンの手応えはかつての愛車VГ程度になった。郁弥は火のような目でクーガのボディに垣間見える有坂の屈んだ背を見つめている。
兜町で高速一号線に入ってからだった。暫く二人の他に誰もいなかった道路上に車の姿が見え出した。幸い有坂はそれらに手を出さない。手を出す余裕もないのかもしれないが、もしかしたらもっと人間の多くなるのを待っているのかもしれない。潮時だ、郁弥はそう思った。高峰の車もとうに見えない。
郁弥はトリガーの付いたスティックをじっと見つめたが、結局グリップから手は離さなかった。使うんならもっと前にやってみるべきだった。郁弥はどこにガンがあるのかさえ知らなかった。
「結構じゃないか、」
呟くと郁弥は肩の筋肉をぐるりと回した。
「俺にできるのは肉弾戦だけさ。」
23
二台の巨大なバイクは影のように、白く輝く夜の首都高を駆け抜けていく。形はおろか色さえも読み取れない。リベラライザーはそれ自体が弾丸だった。前を塞ぐ車があれば容赦なく弾き飛ばした。
街角のように障害も曲率の小さいコーナーもないコースではマシンのポテンシャルがそのままものを言った。どちらかといえばクーガの方が基本設定時のパワーウエイトレシオに勝った分速かったかもしれないが、それは有坂良司にとって薄氷を踏むような超高速の世界だった。コースサイドに目をやった有坂はそこに色彩がないのを知ってぞっとした。世界でも僅か一握りのレーサーだけが経験することを許されるオーバー三〇〇キロの処女域だ。彼が一瞬戻しかけたアクセルをなんとかホールドしたのは意地でしかなかった。コーナーが恐ろしい勢いで迫って来る。多騎はぴったりついて来ている。有坂には逃げ場がなかった。
兎に角、多騎を射角に入れねばならない。弾幕を張るのだ。それは同時に自分がエミリオの攻撃域に入ることでもあったが、もうためらってはいられなかった。一瞬が勝負だ。そう思った。甘い動きだったら多騎はあっという間に安全圏へ逃れてしまうだろう。そうなったら泥沼だった。有坂はタイミングも測らなかった。自分の判断力に自信がなかったからかも知れない。一気にマシンを振るとテールの投的弾の残りを全て路面へ叩き落とした。同時に立て続けのシフトダウン、クラッチレバーとアクセルで必要以上に失速しないようコントロールするつもりだった。
郁弥は不意にクーガの背中から発散していた緊張が揺れた隙を逃さなかった。ついて行くことはできても今一つ追いつくまでの決め手に欠けたエミリオが待ちに待ったタイミングで、郁弥はクーガとの距離を詰めた。
「有坂の奴、これが限界か…? 」
郁弥は哀れとも蔑みともつかない感情を覚え、それがちょっとした油断を生んだ。唐突だったクーガの動きを追いきれなかったのだ。はっと目を見開いたときにはもう辺りはばらまかれた爆弾だらけのように見えた。またかよ! 舌打ちをした郁弥はエミリオにすがって鞭を振るう。もう彼はこういった場合の後輪ステアリングシステムの効用を良く理解していた。
爆発の黒煙の中をエミリオは突っ切る。そしてそのままコーナーに飛び込んでいくのだ。炸裂した投的弾の鉄片が郁弥の剥き出しの腕を弾いて行ったが、郁弥には小石が当たったぐらいにしか感じられなかった。痛いには違いないが腕がなくなるようなことはない。脇腹を打った破片についても同じことだった。普通なら骨が砕けるどころではすまないところだが、必死だった郁弥にはそんなことまで考えている余裕はなかった。ただ重大なポイントだったのは、弾幕を抜けたとき、クーガがそこにいなかったことだ。
郁弥は自分を叱責した。敵から目を離したのは油断だった。憎んでも憎みきれないと思っていた相手だというのに!
郁弥は歪みのないシールド越しに先の方まで白い路面を睨みつけた。曲芸のような旋回中にも郁弥は殆どアクセルを緩めなかった。安定したコーナーリングのためにはそれが必要だったのだ。エミリオは信頼の置ける車だった。郁弥は回避を殆どステアリングだけで行った。逃げられる筈はなかった。それともクーガにはそんなにもまだパワーが残されていたのだろうか。
「馬鹿な、…有坂にそんな賭けができるもんか。前にいなければ… 」
郁弥はざざっと血の引くような寒けを覚えた。
「後ろだ! 」
轟音は郁弥を襲った。
原形は東側各国で多数生産されているAKMアサルトライフルだったが、ボディに固定され、ウエイトコントロールの支配下に置かれたガンシステムはバルカン砲のような雄叫びをあげた。
超高速弾の着弾を受け、エミリオのボディはかまびすしい悲鳴をあげる。白に近い橙赤色の火花が郁弥の目の前で踊るように跳ねた。
郁弥は逃れようと無我夢中でマシンを振ったがエミリオをガンガン叩く音はつきまとって止まない。ディスクの軋むようなブレーキングをくれたのは本能の与えた判断だったと言えたかもしれない。
捨て身の策だった。翻弄する立場になって勝利に酔った有坂は避けることができなかった。
あっという間の衝撃。二人の身体は実に時速三〇〇キロというハイスピードで走行するマシンの上で爆弾のような激しいエネルギーを受けた。郁弥は歯を食いしばる。真後ろから食らったショックは内臓を腹膜に叩き付け、吐き気に彼の顔はさっと蒼白になった。腰が浮いてしまう。フェアリングのガードから飛び出した部分がマシンの周りで乱れた空気の流れに引っ張られるのを覚える。衝撃を受けた手首の先で一瞬握り直したアクセルグリップがぐるりと回った。
ドンッ! ・・・・・・・・・
どんなレシプロ機関にも成し得なかった超高回転を許容するラグジュアリー四輪並のビッグエンジンは一瞬のもたつきを覚えたものの、気も狂わんばかりのエネルギーの解放を身上としたスピリットはすぐさま爆発的に燃え上がる。激しい荷重移動をデバイスを駆使した足まわりがそれを支えた。顎が上がった郁弥を引っ張り、振り落とす勢いでエミリオは再び猛加速にかかる。今度は後輪が悲鳴をあげた。彼が持ちこたえたのは多分、強靭な握力と、なんとか消え去らなかった意志のお陰だ。
郁弥は後ろを振り返った。
クーガがどんどんスピードを失ってコースを逸れて行くのが見えた。
郁弥は肩で深いため息を吐く。
クーガの上に有坂の姿はなかった。
Uターンしたエミリオを路肩に止め、郁弥は暫く呆然としていた。何も考えたくなかった。翔子のことですら。
彼が頭をあげたのは、暫く経って追いついてきたトレーラーに気がついてからだ。やけに静かな首都高の上で、トレーラーのライトは横たわったクーガの手前で止まった。
夜は静かだった。高架の上を吹き抜ける風の音だけが妙に空しさをかきたてる。火照った肌が夜の中でしんと孤独だった。郁弥はバイクに跨がったままじっと見ていたが、高峰は降りてこなかった。ゆっくり発進したトレーラーはクーガの脇でまた止まった。よく見るとそのリベラライザーが死ぬ直前まで犯し続けた破壊の痕跡が道路の全面にわたって生々しかった。
運転台のドアが開いた。飛び降りて一心な様子でこちらへ走って来るのは、折れた電灯に替わったやわらかい月の光に照らし出されて優しい、ショートカットの少女だった。
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二台のリベラライザーが並走してアクセルを振り絞っていた。ブラウンの高貴な塗色のマシンと、金色に輝く目玉のようなライトが印象的な黒い車だった。ワーミイ・ハウとテンパー・ドッグ。そう名づけられた二台の突き進む前には居並ぶ警官隊の固いバリケードがあった。
しかし二人は気にもとめていない。これまでにも何度突破したか知れない障害の一つに過ぎなかったからだ。路面が光っていた。オイルを撒いたらしい。くだらないことを 、彼らはそう言って笑う。かまわずに二〇〇キロ近いスピードで飛び込んだ。
鉄柵を苦もなく引きちぎり、交通機動隊の装甲パトカーをおもちゃのように弾き飛ばす。火花が飛んで路面を濡らしたガソリンに引火した。轟音とともに。一瞬にして辺りは火の海だ。しかし二台はスピードを殆ど維持したまま渡り切り、駆け抜けた。まるで空気の中を通り抜けるように。
二〇〇メートルに渡って敷かれた爆発的に燃えるガスの絨緞も、走り抜けるのに僅か三・五秒余り。
居合わせた警官は憤怒を込めて足下のアスファルトを激しく蹴りつけた。
道を塞ぐ車が目に見えて減り、残骸は更に飛ばされて道路はますますクリアな状態に近くなる。スピードが乗りやすい。次第にリベラライザーのペースは上がっていく。ジェット機のような排気音を吐き散らしながら突っ走る彼らの前に立ち塞がるものはなかった。居並んだ銃口の壁をもものともしない。スピードというエネルギーを得た彼らには強力なガードがあったのだ。銃撃で死んだのは既に何時間も前に、スナイパーの超音速ライフル弾を側頭部に受けて転倒、大破した一台のみ。いまや彼らは厚さ数十センチの鋼板すらぶち破った。その無茶苦茶な戦闘力の高さは何なのか、震え上がった人々はこぞって彼らを悪魔と呼んだ。
空気を切り裂いて疾走していくマシンが一台。すぐ後を巨大なリベラライザーが猛追して行った。掻き乱された空気が激しく渦を巻いて不気味な呻りを上げた。異様な殺気がざわざわと肌を薙ぐ。触れるもの全てを叩き潰さずにはおかない、撒き散らすのはそんな気迫だった。リベラライザーは逃げにかかっていた。後ろに付こうとする巨大なバイクからだ。その引き締まった筋肉質の体躯を捻って、前を行くマシンは身を翻す。信じられないような軽やかさで、スムーズだった。だが後続のバイクにはまだ余裕が見られた。
彼は知った。逃れようがなかったということを。マシンの能力の差は装備の差となって歴然と表れていたのだ。追ってきているのはリッキだった。バイクはマッハスコルピオだ。
畜生! 、そう呷いた彼の顔がひきつる。人知れない洞窟の奥に沸く地下水のごとく澄みきったアメジストのような追手のボディが、どうあがいてもバックモニターの画面から消えなかったのも呑み込めた。ソニック・リベラライザーの最高峰モデルと比べれば彼の金色のジャクリーヌは、リベラライザーがバトルマシンであるだけに緋盆に月ほども差があったのだ。残された手段は奇襲しかなかった。彼は出し抜けに後方射撃のトリガーを備えたスティックに手を伸ばす。勿論これでマッハスコルピオが沈むとは思えなかったが、レベルは違っても同じ環境下にあるリベラライザー同士ならばあるいは、何かのきっかけになるかもしれなかった。
だがリッキは彼にそれを試すチャンスすら与えようとはしなかった。追走に既に見切りをつけていたリッキは、相手がスティックに手を伸ばしかけたのを見て一瞬の躊躇もなく引き金を引いた。
連続した発射音が街中に轟き、ジャクリーヌのいかめしいながらも優美なボディはバラバラに分解して吹っ飛んだ。
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不穏な物音が時折こだましていた。それは生まれてこの方激しい緊張を伴う身の危険というものを、髪の先程も認識したことのない少女にとってただ不可思議な興味の対象にしか過ぎなかった。 慌ただしい緊迫 をブラウン管の中でレポーターが演出していた、どこか遠い国の戦争のような、曖昧模糊とした白い霧の向こうのできごとだった。
安古は外へ出た。いささかむっとするべとついた大気がまとわりついたが、好奇心旺盛な思春期の少女にそれはちょっとした不快を覚えさせただけだった。手をかけた黒いスチールの扉の付いた小さな門の脇で丸い装飾灯が点っているので足もとはかなり明るい。家の前の坂道へ出る階段を降りると、少し離れた向い側の家の大きな楡の木が立派なシルエットを夜に浮き上がらせて彼女を見ていた。音のする方向を見定めようと安古は長く巻いた黒髪を揺らせてじっと耳を澄ませる。赤い木綿のバッシュを這い上がって来る道路の熱気が丈の短いスカートの膝に達する頃、ようやっとかなりはっきりした情報が彼女の神経を震わせた。やはりバス通りまで出た方がいいらしいと少女は判断した。
ちょっと見て来る、そう言って娘が出て行ったときも神崎美也は無関心に近かった。テレビの前にじっと座って、崩れ落ちた橋架の現場からの実況に見入っていたのだ。だが彼女は今、突然の神経の高ぶりを覚えていた。それは彼女の脳裏を鋭い爪で引っ掻くような地鳴りだった美也は立ち上がった。知らずに握った白い拳が出て行った娘を探して揺れていた。確かめずにはおれない、娘の名を呼びながら表へ出た彼女は、その風景にどこか奇異な感じをもった。何故だろう 。彼女は無意識にその原因を探した。空が変だった。そこに、見上げることに慣れた楡の木の影がなかった。もうもうと立ち込めて来る土煙に混じって、いくつもの小石が飛んできては堅いアスファルトを音を立てて叩いた。手をかざすとちらちらと火の手が見えた。
「安古 … 」
娘はどこへ行ったのだろう、サンダルをつっかけた美也は黒い煙の空へ噴きあがる通りへ走った。火のパチパチとはぜる音が何かを思い起こさせるように煩わしい。ガソリンの臭いがした。黒いものが、 車が、折り重なって燃えている。幾人もの人が何かしら叫びながら右に左にばらばらと走り回っていた。呻き声と悲鳴が彼女の耳を貫き、美也はぎくりと足を止めた。
抱き起こされているのは娘ではなかった。ドーン 大きな音がした。ガラガラと音を立てて吹き飛んだ鉄板が降って来る。新たな火柱が夜を灼き焦がそうと伸び上がっていくところだった。美也は目を留めた。安古 。眩い炎に縁取られて立つ巻き毛の少女の影が陽炎のように揺れていた。
「安古っ!」
美也が呼ぶと少女は呆然とした表情で振り返った。降り注ぐ火の粉を浴びながら安古は美也を見ていた。降り注ぐ熱い金属片の中をつまづきながら駆け寄った美也は、その手を慌ただしく引いて道路縁の暗がりへ急いだ。兎に角炎から安古を遠ざけたかった。塀際で美也はまだ呆然としている安古の名を何度も呼び、揺すぶった。安古の目には光が戻ってきたようだった。
よほど恐ろしいものを見たのだろう、安古は長い間震えながら母にすがった。
もう帰ろう、家へ帰ろう…、さあ…、ゆっくり宥めながら安古の肩を抱いて歩き始めた美也が路地に入ろうとしたときだった。
二人はあっと言って目を閉じた。猛々しく炸裂した閃光だった。暗い空の低みを青白い電光が縫い、空気がバリバリと震えた。電柱を薙倒し家々の壁を抉りながら稲妻となって突進して来るギラギラと光る蜘蛛の目のようなヘッドライトの羅列が二人の眼底を灼いた。安古がけたたましい悲鳴を上げた。彼女にはそれが何であるかもう分かっていたのだ。しがみつかれた美也には咄嗟にどうすることもできなかっただろう。
バシャッ ---------- 。
-------------------- 。
バケツの水をぶちまけたような水音がしたきり、リベラライザーの走り去った道にひとときの静寂が訪れる。
ひととき。
そう、ひとときの静寂だ…。