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第七話




18


郁弥は何時間も繁華街をさ迷うように歩き続けた。当てはなかった。夜は更けていくが人の波は一向に絶えない。別世界のような喧騒の中、何度も行きすぎた通りには、毒の匂いのする活気が溢れていた。しかしどんなに湛えられていても、それで郁弥の心が満たさるということはなかった。虚ろな瞳で徘徊するように歩き続ける郁弥は何を求めていたのか。彼自身にも確たるものがあるわけではなかったが、ただ何かがここにあるような気がしてならなかった。郁弥はまだこの街から離れられない。派手なネオンも眩しくなかった。コンパ明けの大学生達の笑い声が聞こえる。道端に俯いて嘔吐しているものがいる。空き缶や吸い殻やチラシの屑なんかが散らばった掃きだめのような街。時折大きな車が入って来て人の垣を押し分ける。

自分の影がいろいろな方向に揺れ動くのを見ながら歩いていた郁弥の腕を、いきなり無遠慮に捕まえるものがあった。立ち止まらずに郁弥は振り向いた。郁弥の親父のような年の男が彼の袖をしっかりつまんで放さなかった。

素面のようだった。客引きだ。判断したのかしないのか、顔を戻した郁弥はとどめようとする男を引き摺るようにして歩を緩めなかった。目を見ずにしきりに話しかけるのをどうするでもなく無視している。その掴まれた袖にぐいと力が入った。反射的に郁弥はびくりと身を震わす。男が何を話していようと関係なかった。ただ凄んでいるそれに変わっている雰囲気は郁弥にも分かった。

気がついていなかった。

囲まれていた。

郁弥は額に手を当ててゆっくり左右に振った。再び開いた目にはいくらか光が戻っているようだった。顔を上げ気味にした郁弥は少し口の端を持ちあげて薄笑いを浮かべていた。つくった笑いではなかった。

これだ、彼はそう思ったのだ。郁弥はこれを求めていた。

展開は速かった。

御託はない。拳が飛んだ。

頼りない足の上でよろけた郁弥は頬を押さえる。あっけなく切れた口の中はぬるりと血の味がした。味わった痛みは彼をびしりと鞭打ち、ハートを揺さぶった。これは現実だった。彼がどこかで望んだ通り。男達がたたみかけてこなかったのは郁弥に抵抗の素振りがなかったからだろう。

だが郁弥には意志があった。

立て続けに飛んだ郁弥の正拳は正確だった。

悲鳴が上がった。

怒りとも驚きともつかない唸り。

後ろから組みかかる腕が郁弥に触れたか触れぬか。素早く両腕を跳ね上げてこれを切った郁弥の目にも留まらぬ肘打ちが鳩尾にまともに入った。内臓の割れた感触がはっきりと分かる。

訓練された身体は備えた技術を忘れてはいなかった。気合いの回し蹴りにポロシャツが吹っ飛ぶ。無節操に飛んで来る拳を跳ねて懐に飛び込む郁弥に、さっきまでふらふらと正体もなく歩いていた少年の面影はない。脇腹にめり込んだのは拳に中指の第二関節を突き出した一本拳だ。道場では禁じ手とされていた。肋骨が音を立てて折れた。のめって来る相手の顎を掌底で跳ね上げると、郁弥は最初の男に正対した。

男は声もなく腰を引いた。総毛立った顔に張り付いた恐れ。暴力のプロの自負は消し飛んでいる。

郁弥はまったくためらわなかった。

一気に距離を詰めて放った蹴りには人を震撼させる気迫があった。

その手応えを全身で受け止めながら、求めていた結論はこれだったのかと郁弥は思っていた。それはこの世でもっとも単純で嫌悪すべき許されざる力。暴力だった。

そして郁弥は強かったのだ。


郁弥は口の中に溜った唾液を血と一緒に吐き捨てた。高揚した身体に力が漲っていた。大きく見開いた目にあるのは、ためらいと強引な決別を果たした波を秘める海だ。海原はどこまでも果てしなく広がり、そして深かった。光を遥か彼方に置き去りにするほどに。

郁弥が腹の底におさめた闘志はまさに純粋な本能とも呼べる感性だった。

遠巻きになった観客の合間に制服が見えた。郁弥は急いで踵を返した。



19


様子を見てくると飛び出していった息子が帰ってこない…。陽子はじっと頬杖をつき、いつまでも終わらないTVのニュースを不安な思いに呑み込まれそうになりながら見守っていた。夫を押えつけてでも本当は自分が行きたいところだった。事件は収束とか終焉とかいう言葉を知らなかった。今や東京中を脅かす驚異にまでエスカレートしている。ごく近所で起こったらしい事故はもう数えきれないほどになった現場の一つに埋もれてしまった。救急車の走り回る音がほんの一時も止まない。手元に引き寄せた電話は鳴らなかった。もし、などという言葉では考えたくなかった。自分がしっかりしているためには余計な仮定は考えないことが必要だった。

表情を押し殺していた彼女は出し抜けにソファーから跳ね起きた。玄関でチャイムが鳴ったからだ。チェーンはかけていなかった。裸足で駆け降りて飛びつくようにして押し開けたドアの向こうにいたのは、しかし彼女には覚えのない顔だった。

「こんばんは。夜分恐れ入ります」

ブルージーンに白いスニーカーを履き、黒のショートジャケットをはおった少女は慌てながらも礼儀正しくそう言った。


家から洩れ出した光が二人の姿を包んでいる。周囲の夜が一層深くなっていくようだ。

その光景を一〇〇メートルも離れた闇の中から窺っているものがいようなどと、彼女たちには考えも及ばなかったとしてもまったく不思議ではなかっただろう。それは塀の上を越えて道路の際まで張り出した垣根と街路灯が作り出す闇だった。レンズを少し振った彼は画面から顔を上げ、確かめるような仕草の後、こらえきれぬとでも言うようにニタリと笑った。決断したのだ。


「それがね、郁弥はちょっと見て来るって出てったきり、まだ戻ってこないのよ」

「いないんですか? 」

翔子は動揺したようだった。

「そうなの。今日は変な事故ばかりでしょう? もう心配で」

「そんな… そんな気になさらないで。多騎君はきっと大丈夫…。あの、… 」

「何? 」

「あの、あのオートバイはあります? 」

「オートバイ? 」

「あのすごく大きい奴です」

こんな時にこの娘は何を言うんだろうと思いながらも、陽子はこの訪問をむしろ歓迎していたから自ら車庫へ行く気になった。どうせ目と鼻の先だったのだ。鍵は傍らの下駄箱の上にあった。

「走って行ったみたいだから、あると思うわ。多分、… 」

持っては出たが、鍵は掛っていなかった。いつもの通りだ。

バイクはあった。

翔子はため息を吐いた。

「何て日なの、今日は… 」郁弥の母は上の空だった。どうしたというのだろう、その動揺を翔子は不安な気持ちでいぶかしむ。電話ボックスから真っ直ぐここへ来た彼女は、まだ事故のニュースを知らなかった。

「知らないで来たの、あなたは! TV見なかった? 」

よく分からなかったが翔子は真剣な面持ちでうなづいた。

「家に電話しなさい、今日は泊まってっていいから、ご両親に連絡して 」

手を引かれながら翔子は目をくるくるさせた。

「あ、でも大丈夫です、両親、いませんから… 」

え?、というように、他に何も見えないようだった陽子の動作がぴたりと止まった。どういう意味だろう、この娘は。

「もうずっと前に、死にましたから」

こういうと大抵の大人はしまったという顔をする。翔子が目を逸らした瞬間に、ぐいと引き寄せられ郁弥の母の手は肩に回されていた。

「今日は私が保護者。中に入りなさい」

 翔子が戸惑い、陽子がさらになにか口にしようとした、そのとき。

 ドーン……

夜空に爆発音が響き返り、翔子ははっと顔を上げた。

「いやだわ、まだ近くに暴走族がいるのかしら… 」

不安そうにぽつりとこぼした陽子の言葉は確実に翔子の耳の奥まで届いた。翔子は唖然としていた。何を考えた…? それは今日に限らずこれまでずっと彼女が恐れていたことだった。そして非現実的なことだった。それが遂に実現してしまったのだろうか。翔子はこの女の大きな不安の意味を悟った。嘘であって欲しい、と思った。

「電話、…電話貸してください! 」

翔子は叫ぶように言って郁弥の母にすがった。もう一度濱野に連絡してみようと思った。

あるいは自分の考えは戯言に終わるだろう。反対に陽子の手を引くようにして翔子は玄関へ急いだ。

そのときだ。

出し抜けだった。

タイミングも何もなかった。男は痺れを切らしていた。仕事の美しさなどどうでもよくなっていた。ブロック塀が吹っ飛び、埋め込まれた鋼線が千切れ飛んだ。まるで音のない一瞬だった。僅かだったが衝撃で侵入コースを外しガレージに突っ込んだリベラライザーはマーク2のボディを抉り、ターゲットの女に切迫しだ。驚きと恐怖に見開かれた大きな瞳が彼を見つめていた。

殺す気はなかった。

ブレーキに土と砂利が舞い散り、巨大なマシンはテールを滑らせて九〇度転回する。黒い革に包まれた腕が女の細い胴を捕まえた。悲鳴は爆音にかき消された。

 そしてライダーは高らかに笑った。怒りの叫びをあげながら一直線に突進して来る人影をヘルメットのシールドに映して。

 郁弥だった。男は彼に向かってアクセルを捻る。エンジンは一瞬のタイムラグなくレスポンスし、後輪のスリップは極めて少なかった。その巨体からは想像もつかない鋭さを持った発進加速だ。

 郁弥にはその腕に抱えられているのが母でなく翔子だということがもう分かっていたが、どうすることもできなかった。リベラライザーの突進を危うく転がって逃れた郁弥は、家までの残りの距離を全力で走った。陽子が倒れていたが郁弥に気付くとすぐに起き上がってやや錯乱気味にすがりつき、翔子を助けなければいけないと繰り返した。

云われなくたって分かっている。どうすればいいかは限られていた。道々考えていたが、

もう迷うことはないのだ。キーはポケットにあった。昼間津々木たちにエンジンをかけて見せるつもりでそこに入れたままになっていたのだ。帰る道すがら、郁弥はそれをチャラチャラと弄んでいた。

母親を突き放した郁弥は目の前で滅茶滅茶に潰れたガレージの通用口のドアをこじ開ける。ガソリンの臭いが強烈だった。郁弥は表の陽子に向かって爆発するかもしれないから避けていろと叫びながらバイクに辿り着く。マシンは倒れてはいなかった。郁弥はカバーを力任せに剥ぎ取り、キーを差し込む。セルを回す。ドアの方を向いていたバイクを発進させる。ボディが狭い出口に嫌な不平をあげた。どっちが壊れたのかは分からない。ただバイクは走れば良かった。

それは今の今までずっと考えていたことだったが、このバイクがあれと同類だとはやはり考えにくかった。高峰がつくったものだと郁弥は直感して、それは今でも間違いないと思っていたが、これにはあんな暴力的な力はなかったのだから。何故自分にはあれをくれなかったのかと自嘲しながらも思う気持ちとあんな化け物でなくて良かったと思う安堵が共にあったが、今はこのバイクがあれと同じでないことを恨む気持ちだけが郁弥をはち切りそうだった。こんなデカ物よりもVΓの方がずっと速いのだ。しかし、まっすぐだけなら、… 郁弥は歯を食いしばりながら、翔子をさらったリベラライザーの後を追ってマシンにフルスロットルを与えた。




20


急激なスロットル操作にエンジンが喘いだ。気持ちが先行しすぎた。シフトアップしながら意識してアクセルを操作する右手の動きをエンジンの回転に合わせようとしながら郁弥は叫んだ。

「畜生! 彼女に手を出してみろ、ぶち殺してやる! 」

郁弥は逃げ去った相手を捜してアクセルを緩められない。胸が高まり、ついついオーバーアクセルになってしまう。通りへ出ると痕跡を求めてぐるりを見回した。すぐ分かった。破壊の跡がある方向へ行けば良いのだ。あちこちで車やガードレールや植樹がバリバリと悲鳴をあげている。郁弥の見たあれと同じ奴だということはすぐ分かった。違っても外れてはいない。そのポテンシャルは文字通り、戦闘力というに相応しいものだった。あの程度の速度差では四輪同士が体当たりしたってあんなことは起こりえない。これは直感だ。物理的にありえないことだ。郁弥にだってそれは分かる。

「つまりは、運動エネルギーにそれ相応の差があるのだ」

郁弥は教科書から引っ張り出した言葉で理解を試みようとしたが、それが極々シンプルに形式化された事象の外では役に立たないことも良く承知していた。ガードレールが引き千切られ、信号機のポールがへし折られていても、あのバイクにはほんの掠り傷程度のダメージしかないだろう。警察車両を弾き飛ばしたあいつは殆ど走行ラインを外しもしなかったのだ。

 彼女に怪我はないだろうか。激しやすいが冷却も速い郁弥は呪いの言葉を叫ぶことによって幾分冷静さを取り戻していたが、考えると気が気ではない。郁弥の脈拍はエンジンの吹け上がりに応えて再び高揚していく。

邪魔のない国道一本なら郁弥の車は暴れる翔子を押えつけながら走るリベラライザーより速かったかもしれない。永劫の先かと思われた一瞬だった。ターゲットを視界に捕らえた郁弥はシートの上で飛び上がる。一二〇は出ているバイクの上で彼女は恐れなどないかのように暴れていた。彼女が恐れているのはその先なのだったが、そんなことは知りもしない郁弥だった。

追いついて来る郁弥に気付いた男は振り向くと、翔子の身体にまわした左の腕をぐいと振った。腰を取られながらも腕を伸ばしてライダーにつかみ掛ろうとしていた翔子の身体はのめってバイクの上から滑り落ちた。たまらず悲鳴をあげる彼女をすんでのところで支え、男は弄ぶように腕を乱暴に上下させた。ボディに頭をぶつけて翔子は呷いた。

郁弥は滾った血管が今にも吹っ飛びそうになった脳天から罵声を投げつけた。リベラライザーは意に介さない。左コーナーだった。道なりにいける緩いコーナーだったが、そいつはわざ

とクリッピングポイントを深くとってマシンを大きくバンクさせた。翔子の髪が路面を擦った。

もう彼女に意識はなかった。郁弥にはなす術がない。反対に何かされれば終わりだった。

「といって見てられるかっ 」

その通りだ。郁弥は左にリーンさせないよう、マシンを並べた。翔子の風にはためく黒いジャケットが手の届くところに来た。そこまでは簡単だった。男が片手のマシン操作に不自由を感じていたからだ。だが伸ばしたい郁弥の右手はスロットルで塞がっている。郁弥は右のグリップを左手に持ち替えた。長いホイールベースによる直進安定性が助けた。右手の指の先がぐったりした翔子に触れるか触れないか、突然、疾風のように二台の間に割り込んで来た気迫に郁弥のバイクは揺れ、咄嗟に彼はその手を引っ込めざるをえなかった。罵声を上げながら安定を取り戻した郁弥の右側を接触せんばかりの勢いでバイクが駆け抜けていった。2台目のリベラライザーだ。

巨体を無視した運動性。郁弥は引きつけられて目で追った。巨大なテールカウルに垣間見えたそのライディングフォームに見覚えがあった。彼が先を行く車に追い抜き様バイクをぶつけたとき、ヘッドギアからはらりと光が流れ、夜の街路灯を受け流すそのヘルメットの曲面を向こうに舞い散った。郁弥は確信を持った。そうだ。あいつだ、リッキ。車は紙屑のように滑って街渠にぶつかって跳ね、大破して滑走した。あっという間に引火し熱風を吹き出す横を翔子を抱えたリベラライザーと郁弥が並んで走り抜ける。

 リッキはもう遥か先だ。郁弥の背を寒けが走り抜けた。また一気に熱が出たようだ。胃が裏返る。いけない。郁弥は先行しようとする翔子を追いかける。

なかなか並べなかった。近付こうとすると奴はマシンを寄せて来る。その度にずるずると下がっていく翔子の頭が一〇〇キロで滑っていくアスファルトに擦り付けられそうになるのだ。右左どっちからかぶせてもそれは同じだった。左側へ追いつめようにもリベラライザーに障害はないのだ。砕けて飛ぶのは翔子の身体だけだっただろう。郁弥は怒りの叫びをあげた。

「てめぇっ! その子をどうする気だ! 」

男は郁弥の方を見もしなかった。ヘルメットのシールドの奥で彼が注目していたのは大きなカウルの中、煩雑に並んだ計器の中でもっとも単純だったかもしれない一つ、クロノメーターだった。早く言えば時計だ。秒を刻む円状に配列されたダイオードの点滅が速まっていた。色がグリーンからレッドに変わっている。設定された時刻に近付いていることを示す機械のパフォーマンスだった。男はいささか疲れた左腕に力を入れ、もう一度少女の身体をバイクの上に引き戻した。郁弥はそれを見てほっとため息を吐く。だがまだ早かった。そのとき、時計が設定時刻に達したのだった。

アラームが鳴った。ありきたりの音だったが、郁弥は飛び上がらんばかりに驚いた。腕ががくりと引っ張られたのだ。ステップも動いている。目の前でカウルの継ぎ目が外れて跳ね上がった。何かが起こったのは郁弥のバイクの方だった。

グリップを握ったままだったので上体ががくがくと引き摺られた。ハンドルが複雑に動き回ったのはその周りにさまざまなインターフェイス・システムを導き入れるためだった。結局もとの位置とそう変わらないところに落ち着いた両手のまわりからウインドシールドまで、スピードとタコと水温計の三つしかなかったコックピットは最先端の航空機顔負けの賑やかな仕事場に一変した。液晶スクリーンの揃った手前ではスティックまで突き出している。郁弥の瞳の中に照り返った透過光が万華鏡のように揺れた。

彼はその胸の高鳴りをどう意識しただろうか。左手にいてこっちを見ているリベラライザーのコックピットはどうなっていたか。郁弥は熱をもってジンジンと痺れている身体の下で巨大なバイクがどうなったのか、…それは信じ難いと思っていた。いや、考えて見ればいくら大きくても、そしていくら速度差があっても、バイクが四輪をあんなふうにはね飛ばすなんてこと自体嘘の話なのだ。できるというならただ信じるしかない。

現にこの軽さはどうだというのだ。でかいボデイがまるであのTZのようだ。ポジションこそ大柄で当然それなりに違ってはいたが、こうして走っているマシンの挙動の本質、フィーリングはあの高峰のTZにそっくりだった。やはりこれは彼の造った車なのだ。さっきまでのマシンの姿はカムフラージュだったのか。こいつはやはりあれと同種のモンスター・バイクなのか。

たとえばマシンの質量を相対的にコントロールする、そんな夢のようなデバイスがあればリベラライザーは確かに実現しうる。いや、現に実在しているそれらは少なくともそれに近いものの存在なくしてはありえないだろう。

そしてタイマーと連動した郁弥のマシンのデバイスはたった今、本起動したのだ。

リベラライザーは文字通り力を象徴するものだった。郁弥は歓喜していた。それは何のためか。彼は目的を忘れはしない。そうだ。郁弥は溢れ出しそうな笑みが、裏返った不安のためだと認識していた。これで互角に渡り合える、郁弥は翔子を取り戻すのだ。郁弥の跨がった戦闘兵器、「エミリオ」は一気に牙を剥き出して吼えた。発散するのは充実した気迫だ。空気がビリビリと震えた。

翔子を抱えたライダーは、前輪を高々と持ち上げて威嚇するエミリオを横目にスピードをあげた。片手で握るアクセルに焦燥が感じられた。彼は確かに焦りを覚えていた。追手の乗ったマシンがどんな変化を遂げたのか、その乗り手自身よりもよく知っている彼だった。恐れはしなくとも、女の身体を抱えたままでは戸惑うのも無理からぬところだっただろう。だが今少し、粘る必要があった。郁弥はまだマシンの扱い方を知らない。それは十分に可能な相談だった。速度計はスッと一四〇をカウントした。

郁弥はどうやったら翔子を救えるのかを考えていたが、それ以前にまずマシンの動きを手中にしなければ話にならなかった。基本的な動きのセッティングはTZに模してあったとしても、そこへ至るまでの各部の可変パーツの過渡特性がエミリオに独特の個性を与えていた。いや、同じだと郁弥が思ったのは質量コントロールのデバイスの生む、あくの強い感性だけだといった方が本当のところ正しかったかもしれない。桁違いに太いタイヤや何倍もあるような車体が同じ走りをするわけがなかったからだ。現に郁弥はその走りに同調できずに悪戦苦闘している。ただそれだけ、信じられない軽さとどこまでも回るエンジンのパワーがデバイスの与えるパフォーマンスとして強いインパクトで郁弥に挑戦して来ているのだ。

実際、全体の重量配分を見たときにウエイトデバイスがマシン自身に対して作用しているのはフロントの操舵系とエンジンまわりだけに留まり、あとは各部の可動パーツによってアライメントの設定を状況に応じて随時変更しているに過ぎないのだった。過ぎないと言ったが、実はそれこそが高い技術の結晶なのだ。通常のバイク二台分もあるような軸間距離がTZ並に縮まるわけがない。そもそもバイクの動きを決める基本になる両輪の位置関係なんてものはどんなビッグバイクでも人間が操る限りそんなに変わるものではないのだ。それはマジックと呼んでこそ相応しいものだ。ハブ・ステアのもたらす終始安定した旋回力の寄与は勿論だが、ストレスのない転回は前だけでなく前後両輪に設けられたステアリング機構によるところが大きい。

 そのセッティングの基本思想では確かにTZのノウハウがよりどころとされていたが、たとえば後輪に与えられる舵角の問題ひとつにしてもそれが従前と同じトラクションを感じさせるとは考えにくかろう。ポテンシャルとして旋回性能は高まっていても、それを引き出そうとするアプローチが従前の後輪ステア走法では、返って扱いにくい印象しか与えかねないのがこの両輪操舵の特徴だった。

TZに乗ったときにリッキのライディングから前輪の旋回を生かした走り方を学んだものの、基本的には後輪主体のスタイルしか知らない郁弥が、このまったく違う操舵システムを持った車に四苦八苦したとしてもそれは当然なのだ。救いがあるとすれば、ごく僅かな時間であったにせよ彼がこのデバイスを大幅に抑制した状態のこのマシンに、乗ったことがあるということだけだった。もっとも文字通りの重量車だったその状態のマシンに対してこのシステムがした働きは単なる旋回運動の補助というに過ぎないもので、その占める重要性には勿論大きな差があった。

 実際のところ、そのために後輪の動きは大きく制限されていたのだ。だからこそ郁弥も気付かなかった。

つまりデバイスの稼働前後でこのマシンは何から何まで違うものなのであり、あくまでも別の車なのだ。ウエイトデバイスあってこそなせる技だが、そうしてみると高峰が郁弥に渡した状態の車はリベラライザーの入門車では決してなかったことになる。入門車といえるのはむしろTZの方だった。高峰は郁弥には乗れると判断したからこそ、マシンを彼に託したのだった。しかし何故だったのだろうか。乗ることを拒否した郁弥に強引に押しつけまでして何故、この兵器といってよい車を与えたのか。郁弥には考え及ぶところではなかったが、今目の前に目的を持って彼は高峰に感謝していた。

先行するマシンが右に折れた。唐突だ。ブレーキランプが点灯しなかった。郁弥は反射的にレバーを握り締める。ドン! ブレーキングの衝撃を前傾してこらえようとした郁弥はそのまま前に投げ出されそうになって大いに慌てた。予想を裏切る挙動だった。暴力的に激しい制動エネルギーはそのまま前後方向にマシンを押し戻す。知っていた筈だった。ただあまりのエネルギーに郁弥は翻弄されたのだ。長いホイールベースのためもあったが、フロント・スイングアームの最大の特徴であり、狙いでもあるのが、このノーズダイブ(マシンの前屈)による不安定要素の発生の抑制なのだった。その理論を理解するには制動時に掛るエネルギーの系を描かなければならないが、ステアリング・ヘッド(ハンドル取り付け位置)とフロント・アクスル(前輪の回転軸)を直線で結ぶ従来のテレスコピック・フォークを用いたステアリング機構がブレーキング時にどういう動きをするかを考えるのは容易だろう。その特性に慣れた向きには信じられないかもしれないが、ハブ・ステアは大地をしっかり踏み締めたまま滑走するまで制動力を路面に叩きつけることを可能にする。

 リベラライザーの上下方向への挙動は殆どなかった。そしてそこからの力強い旋回。キャスター角もトレール量もステアリング位置も設定値のままだ。勿論サスのたわみもない。常にアライメントを正常な状態に保ったままコーナーに侵入して行けるために、計算され身体が覚えた通りのコーナリングフォースがいきなり最初から得られるのだ。さらに後輪がそれに付いてステアする。通常の感覚ではうっかりするとどこにあるのかさえ分からなくなりかねないリア・タイヤはそれでもけっして裏切らない。横合いから突き飛ばすようなトラクションでぐいぐいマシンを曲げていくのだ。ハング・オフなんか要らない。新しい気持ちでなければ乗れない。自分のライディングに革命を与えなければ何をしていいのかさえも分からなかった。

 落ち着くんだと真っ青になりながら郁弥は自分に言い聞かせる。落ち着かなければせっかく手に入れたチャンスさえ失ってしまいかねなかった。でも何からトライすればいいんだ、彼の顎を冷たい汗が濡らした。

一朝単に乗りこなせるものではない、そう感じた郁弥は注意をコンソールに移した。引き離される心配はなかった。少なくとも奴が片手でマシンを操っている限りにおいては。彼女を殺す意志があるのならとうにそうしているだろう。どうしようというのか分からないが、対等の武器を得たにちがいない郁弥には多少のゆとりが生まれていた。そうして改めてみても、彼が少しでもそのマシンのことを知らない限り、それなりに乗り込んだ筈の敵に対してまだ十分に対等とは言えないのだった。彼女を救うのは賭けであってはならなかった。無理でも何でもアドバンテージが欲しい。郁弥ははらはらしながら端から順にパネルを舐めていった。

書いてある小さな文字だけでは郁弥には分からないものが殆どだったが、ノクトビジョンとバックモニター、そして「GUN」と書かれたスティックのトリガーぐらいは理解できた。こいつは本物の戦闘兵器だ、郁弥は手が震えるのを覚えたが、それはけっして戦慄という言葉だけで片付けられるものではなかった。もしリベラライザーが人をゴミのように殺すのを目撃していなければ、彼は飛び上がらんばかりに興奮したかもしれない。そして目の前に翔子を抱えた敵の姿がなかったならばだ。

分からなければやってみるしかない。郁弥は手近なところからスイッチを立て続けにオンにしていった。スクリーンに映像が入った。ソナーが鳴り出した。スピーカーから雑音が流れ出した。LEDのレベルメーターがいっぱいまで振れた。ヘッドライトのパイロットランプが点った。ウインドシールドに投光器が情報を浴びせた。そして、・・・・・・・ 。

エミリオに小さな振動が走った。雲の上を滑っているような走行フィーリングしか与えない車だった。それはボディから起こった動きだ。マシンの両脇が窓を開け、郁弥の足の下を火柱が突っ走っていく。その先に、翔子を乗せた銀色のリベラライザー、「クーガ」がいた。

「しまった! ・・・・・ 」

郁弥はエミリオの上で今度こそ飛び上がった。郁弥の心臓をよそにミサイルがクーガの横腹を滑っていったのは偶然だっただろうか。吐き出した白い煙が視界を奪った。郁弥は罵声を吐いてカウルの中に潜り込む。爆発音は聞こえなかった。郁弥の鋭い動態視力の捕らえた結果だ。

 クーガは沈んではいない。一メートル先も見えない煙幕だった。

「畜生、… 」

スイッチを戻しながら郁弥が呪いの言葉を呟いたのは設計思想の奢りのようなものを感じたからだった。

 視界がゼロでも地面がありさえすれば、リベラライザーに恐れるものはないのだという、…。

 郁弥はただ翔子を乗せたバイクにぶつかることを恐れさえすればそれでいい筈だった。ヘッドライトに反射する煙の粒子がシールドの上を流れていく。ナトリウムランプもまるで役に立たない。

煙幕はなかなか晴れなかった。郁弥は視界が開けたとき、そこにクーガがいないのではないかと心配になる。それはあることかもしれない。郁弥の心臓は騒ぎ始めるが、今アクセルを開けて増速した場合、…リベラライザー同士の衝突はやはり常識から推測する速度差以上の破壊力があるのだろうか。スロットルに張り付いた右手のひらの皮がじとじとと汗ばむのが分かる。開けることもできない、緩めることもできなかった。スピードメーターの上下に合わせて、パーシャルのまま僅かに動かすのが精一杯だ。フルスケール一〇万回転のタコメーターは寝起きが悪そうに揺れている。まだか…、郁弥は焦れた。煙幕はきな臭い匂いがした。

ガシッと一瞬音がして、足下を背後へ消えていった。次だった。ゴバッ!、キンッツッ!

 マシンが頭を上げた。なに? 慌てた郁弥の頭の上を白いものが唸りを上げて薙いでいった。

 あ… 反射的に切り返しながら察知した。コーナーなのだ。直進した郁弥は車線を突っ切ってガードレールに飛び込んだ。

スピードは九〇を若干切ったくらいだった。咄嗟に思い切って倒し込んだ身体の動きに後輪が流れて向きを変えるのが分かるが、ここからが後輪ステアの難所だった。スリップの量が分かりにくいうえ、どこまで滑れば目的の方向へマシンを進められるのかが不明なままだった。ただこのままスピードを殺してしまうわけにはいかなかった。リベラライザーの破壊力が、もてるエネルギーによるものだとすれば、スピードこそがウエイトコントロールをパワーに結びつける鍵だと郁弥は考えていたからだ。そしてそれは同時にライダーを護るエネルギーでもあるはずだった。郁弥はアクセルを開けた。テールを振りながらエミリオは脱出加速をかける。再度ガードレールをはね飛ばした。ギシリと音がした。見当をつけて頭を振ろうとした郁弥の前で、出し抜けに霧が割れた。

「! ・・・・・ 」

息を呑んだ。

郁弥が切り返すのが後一瞬遅れていたら、クーガは千切れ飛んでいただろうか。

目の前に翔子を乗せたリベラライザーがいた。必死に車体を起こしながらブレーキを握り込んだ郁弥を掠めてクーガは再発進する。どこまでも憎い奴、郁弥はギアを叩き込みながら正拳を握り締めた。




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